2022年10月15日

庭を少しだけ

隣家のおばあちゃんが老人ホーム(介護付高齢者マンションのようなものかな)に入ってしまい、たまにしか戻ってこない。

「まだここに住みたいんだけど、子供たちがダメっていうの」

と言っている。まあ子供たちとしては一人暮らしをさせておくのは心配ということだろう。

手入れをされなくなったアスパラ畑はあっという間に雑草に覆われ、どこにアスパラがあるのかわからなくなった。

それで、アスパラが植えられていないスペースを少し借りることにした。通りから見てきれいになるなら、花を植えてもいいと言ってくれている。

というわけでほんの少しばかり増えた庭。
雑草の根が絡まりあって大変なことになっていたのを何とか耕して、今日、株分けした苗を植えた。

それにしても雑草の威力はすごい。人の手が入らない土地だとパワーが増すようで、他の場所よりもずっと背が高くなるのだ。

もしも人間がいなくなったら、どれほどの巨大植物が地球を覆い尽くすのだろう。それともやはり人間の意識がなければ、地球はバランスを失ってしまうのか。

いや、まさにその人間がおかしくなったせいで地球は瀕死になっているのだけれど。

杏の木の幹も、すっかりヒルガオに覆われてしまった。

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posted by Sachiko at 22:22 | Comment(2) |
2022年10月06日

「音楽を愛する友へ」

薄い文庫本で、しかもとても古いのでとっくに絶版になっている、エトヴィン・フィッシャーの「音楽を愛する友へ」。

今では音楽よりも自然音のほうが好ましいと思っている私は、到底音楽を愛する人とは言えないのだけれど、美しい文章のこれは別格だ。

モーツァルトの章はこのように始まる。

「誰かに対して、なにか特別の好意を示してあげたいと思うときにはいつも、わたくしは、ピアノに向ってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのがつねである。」


昔ある音楽関係者が、「造形美術では作品が残る。残るっていうのはすごいことだ!」と言ったことがある。
私は、演奏するそばから消えて行く音楽というものが、不思議に純粋な気がしていた。

演奏会なら、たいていは録音されている。でも個人的に贈られた特別な演奏は、記録されることもなく、ただ思い出の中だけで響き続けるのだろう。


特別な演奏といえば、ヘルマン・ヘッセのひとつのエピソードを思い出す。何に載っていたのか憶えていないので、かなりざっくりした話になってしまうが....

ヘッセはスイス(だったかな?)のホテルに滞在中、心身共に消耗した状態だった。
たまたまその時パブロ・カザルスも同じホテルに滞在していて、ヘッセのために一曲演奏することを申し出た。

ヘッセは頭痛がして不調だったのだが、その申し出を受け入れた。
カザルスの演奏はすばらしく、ヘッセの状態を一変させた....
と、このような話だったと思う(記憶あいまい...)。


「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」と言ったのは誰だったか、その本当の意味がどういうことなのかわからないけれど、感覚的に思うのはやはり、物質的な軌跡を残さないということなのだ。

現れた端から消えていく音は、どこへ行くのだろう。
最も物質性から自由な芸術だという音楽は、物質界ではないところからやってきて、つかの間この世界に響いてはまたどこかへ還っていく。

そういえばシュタイナーは、楽器は霊界から取ってこられたものだと言っていた。
私は、人間が作った道具の中で最も美しいものは楽器だと思っている(特にバイオリン属)。あれほど完成された美しいかたちはない。

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宇宙におけるいっさいの現象は変化であり、永遠の生成と消滅とである。
それでも大自然はこの久遠の輪廻の輪からのがれようとするものであるらしく、つねに新たな世代と、より高度に形成された新しい様式とを創造することにより、死を克服しようと努めてやまない。
・・・
魂は、はるかなる失われた故郷へのかすかな追憶を、なおもいだきつづけているかのごとく、精神が起ち上がり、生死の彼方になにものかを求めるのである。(「芸術と人生」の章より)

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フィッシャーの演奏は、昔FMでたまたま流れたのを聴いて、あのエトヴィン・フィッシャーだ!と耳を澄ませたことがある。
中古CDならまだ手に入るかもしれない。
  
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(4) | 未分類
2022年09月27日

絵のある物語

物語と挿絵が緊密に結びついている場合がある。
例えば『不思議の国のアリス』のジョン・テニエルの挿絵。

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アリスと言えばこの絵、というくらいおなじみなのだが、私は子供の頃この絵はどこか怖くて苦手だった。

『不思議の国のアリス』の物語そのものは大好きだった。当時は挿絵はさほど気にしていなかった。

アリスにはアーサー・ラッカムも挿絵を描いている。
アリスに触発された画家は多く、物語全編の挿絵ではなくても、単品で描かれているものは多数ある。

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「素人の絵にはかなわない」と言ったのは、故・安野光雅氏だったと思う。
この場合の素人はほんとのド素人ではなく、例えばトールキンの絵、手元にはないがゲーテの絵、ミヒャエル・エンデの『モモ』も、作家本人が絵も描いている。(ちなみにミヒャエルの父エトガー・エンデは画家だった)

本業が画家ではないけれど、本業の人にはない“何か”があって、それは本業の人がどうやっても敵わないものだ、と。


中でも、一見素人の絵に見えるのにほんとうに誰も敵わないケースとして、『星の王子さま』の絵が挙げられている。
あの“ウワバミに呑まれた象”の絵など、誰があれ以上のものを描けるだろう。

アリスをテーマにした絵はたくさん描かれていて、それらはほとんどの場合原作を損なうことはない。

でも星の王子さまの絵を新しく描き直そうというのは、物語を半分書き換えるようなものだ。
絵と物語が不可分の一体になっている幸せなケースなのだ。

「大人のひとたちは、外がわをかこうと、内がわをかこうと、ウワバミの絵なんかはやめにして、地理と歴史と算数と文法に精をだしなさい、といいました。
ぼくが、六つのときに、絵かきになることを思いきったのは、そういうわけからでした。」

・・・と、思わず読みふけってしまいそうになった。
サン=テグジュペリが絵描きをあきらめて飛行機乗りになったおかげで、この物語は生まれた。
そして、この絵にはやっぱり誰もかなわない。

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posted by Sachiko at 22:40 | Comment(2) | アート
2022年09月17日

秋の灯

「ムーミンパパ海へ行く」より。

北国ではもう秋の気配がする8月末の夕暮れ時、パパは水晶玉をのぞき込む。パパの水晶玉は、庭の中心であり、ムーミン谷の中心であり、全世界の中心なのだ。

水晶玉の深い深い内側に、家族の姿が映りはじめる。
それは小さく、頼りなく見えて、守ってやらなければならないとパパは思う。

夏と秋の“あいだ”、昼と夜の“あいだ”。
どこか心もとない季節の、揺らいでいる時間。

しだいに闇が濃くなってくる。
ママがランプを灯したことで、水晶玉の中に見えるものはランプの光だけになった。


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ランプは、すべてのものを身近に、安全に感じさせ、小さな家族のみんなを、おたがいによく知りあい、信じあうようにさせます。
光の輪の外は、知らない、こわいものだらけで、暗やみは高く高く、遠く遠く世界の終わりまでもとどいているように思われました。
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こうした翳る気分を象徴するように、暗い存在、モランがやってくる。
モランがすわっていた場所は凍りついている。
ランプの近くまでやってくると、火は消えてしまう。

これは、ムーミン一家が島に移り住む少し前のことだ。
短い章の中に、島暮らしで家族それぞれに起こる危うい変化を予感させる。

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9月の夕刻、まだあまり暗くなりすぎない頃にろうそくに火を灯すと、この季節だけの独特の気分が満ちる。
言葉でうまく表せないけれど、灯火とそれを囲む薄闇が、たしかにある意識を持った空間を創りだしているようなのだ。

日が沈んだあとの少しの時間、外の空気は青インクを溶かし込んだような色に染まる。

やがて暗闇の中心、深い内側で灯火だけが輝きはじめる。
ムーミンパパの水晶玉の中のように。
  
posted by Sachiko at 22:28 | Comment(2) | ムーミン谷