薄い文庫本で、しかもとても古いのでとっくに絶版になっている、エトヴィン・フィッシャーの「音楽を愛する友へ」。
今では音楽よりも自然音のほうが好ましいと思っている私は、到底音楽を愛する人とは言えないのだけれど、美しい文章のこれは別格だ。
モーツァルトの章はこのように始まる。
「誰かに対して、なにか特別の好意を示してあげたいと思うときにはいつも、わたくしは、ピアノに向ってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのがつねである。」
昔ある音楽関係者が、「造形美術では作品が残る。残るっていうのはすごいことだ!」と言ったことがある。
私は、演奏するそばから消えて行く音楽というものが、不思議に純粋な気がしていた。
演奏会なら、たいていは録音されている。でも個人的に贈られた特別な演奏は、記録されることもなく、ただ思い出の中だけで響き続けるのだろう。
特別な演奏といえば、ヘルマン・ヘッセのひとつのエピソードを思い出す。何に載っていたのか憶えていないので、かなりざっくりした話になってしまうが....
ヘッセはスイス(だったかな?)のホテルに滞在中、心身共に消耗した状態だった。
たまたまその時パブロ・カザルスも同じホテルに滞在していて、ヘッセのために一曲演奏することを申し出た。
ヘッセは頭痛がして不調だったのだが、その申し出を受け入れた。
カザルスの演奏はすばらしく、ヘッセの状態を一変させた....
と、このような話だったと思う(記憶あいまい...)。
「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」と言ったのは誰だったか、その本当の意味がどういうことなのかわからないけれど、感覚的に思うのはやはり、物質的な軌跡を残さないということなのだ。
現れた端から消えていく音は、どこへ行くのだろう。
最も物質性から自由な芸術だという音楽は、物質界ではないところからやってきて、つかの間この世界に響いてはまたどこかへ還っていく。
そういえばシュタイナーは、楽器は霊界から取ってこられたものだと言っていた。
私は、人間が作った道具の中で最も美しいものは楽器だと思っている(特にバイオリン属)。あれほど完成された美しいかたちはない。
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宇宙におけるいっさいの現象は変化であり、永遠の生成と消滅とである。
それでも大自然はこの久遠の輪廻の輪からのがれようとするものであるらしく、つねに新たな世代と、より高度に形成された新しい様式とを創造することにより、死を克服しようと努めてやまない。
・・・
魂は、はるかなる失われた故郷へのかすかな追憶を、なおもいだきつづけているかのごとく、精神が起ち上がり、生死の彼方になにものかを求めるのである。(「芸術と人生」の章より)
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フィッシャーの演奏は、昔FMでたまたま流れたのを聴いて、あのエトヴィン・フィッシャーだ!と耳を澄ませたことがある。
中古CDならまだ手に入るかもしれない。
posted by Sachiko at 22:23
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