2020年10月19日

アナベルのドライフラワー

アナベルは、咲きはじめの淡い緑色が美しく、咲き切ると真っ白になり、枯れてくると再び緑色になる。

白く咲いているときはまだ水分が多いので、うまくドライにならず萎れてしまう。
ドライフラワーにするには、枯れて緑色になった頃がいい。

annabelledry.jpg

こうして、アナベルは長く楽しめる。
秋には、枯れてなお美しいものたちが、澄んで淡くなった光を浴びている。

窓から見える山もすっかり紅葉になり、先日は初冠雪が観測された。
もうチューリップの球根を植え付ける時期になり、気がつけばフワフワと雪虫が飛んでいる。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(2) |
2020年10月17日

見えなくなった少女

「ムーミン谷の仲間たち」より

ある雨の夕方、トゥティッキがムーミン家を訪ねてきた。
ニンニという名前の少女を連れてきたようなのだが、そこには誰の姿も見えない。

ニンニはおばさんからひどくいじめられすぎて、姿が見えなくなってしまったのだとトゥティッキは言った。
ニンニの首に付けた小さな鈴だけが、少女がそこにいることを知らせていた。

トゥティッキが最初に登場した「ムーミン谷の冬」でも、彼女は、あまりに恥ずかしがり屋のため目に見えなくなったトンガリネズミたちと暮らしていた。
姿が見えなくなったものたちの“存在”が、彼女には見えているようなのだ。

トゥティッキが帰ってしまったあと、ムーミン家の人々は、姿の見えない少女を戸惑いながらも受け入れる。

-------------

ママは階段をおりて自分のへやにいくと、「家庭にかくことのできない常備薬」と書いたおばあさまのふるい手帳をひっぱりだして、目をとおしはじめました。

すると、とうとう手帳のおわりちかくに、ずっとお年よりになってから書かれたものなのでしょう、ふるえぎみの字で、「人々がきりのようになって、すがたが見えなくなってきたときの手あて」としてあって、二、三行書きくわえてあるのをみつけたのです。

-------------

薬が効いてきたのか、ニンニの手足の先が少しずつ見えはじめた。
みんなが寝たあと、ムーミンママはピンクのショールで、ニンニの服とリボンを縫う。翌朝その服を着たニンニは、首のところまで見えるようになった。

ムーミンとミイはニンニを遊びに誘ったが、ニンニは遊びを何一つ知らないようだった。

-------------

「この子はあそぶことができないんだ」
と、ムーミントロールはつぶやきました。
「この人はおこることもできないんだわ」
と、ちびのミイはいいました。

「それがあんたのわるいとこよ。たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」

-------------

ママはおばあちゃんの薬をずっと飲ませていたが、顔が見えるようにはならなかった。

ある日みんなは海岸へ出かけた。
パパは子どもたちを面白がらせるために、桟橋にいるママを突き落とすまねをしようと、後ろから忍びよる。
その時、叫び声を上げて、ニンニが桟橋を走りぬけ、ムーミンパパのしっぽに噛みついた。

「おばさんを、こんな大きいこわい海につきおとしたら、きかないから!」

赤毛の下に、ニンニの怒った顔が現れた。
大好きなママのために怒りを表に出し、顔を取り戻したニンニはもう、遊ぶこともできない怯えた少女ではなかった。

人が「その人である」ことの象徴である「顔」を失うとき、そしてそれを取り戻すとき....
現代社会で、自分のほんとうの顔をはっきりと持っている人はどのくらいいるだろう?と、ふと思う。

何を感じているのか、どうしたいのか、何が好きで何がきらいで何が大切なのか。それらが曖昧になるとき、その人の姿は霧のようにぼやけていく気がする。
見えなくなった少女ニンニの物語は、ムーミンシリーズの中でも深い。

それにしても、「人々がきりのようになって、すがたが見えなくなってきたときの手あて」....と、ムーミンママのおばあさんの処方箋にはこんなことまで書かれているとは。
   
posted by Sachiko at 22:34 | Comment(2) | ムーミン谷
2020年10月11日

円環

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

--------------------------

ケルト人の意識はけっして直線に惹かれることはなく、確実さの中に満足を求める在り方やものの見方を避けていた。

ケルトの精神は、円と螺旋の神秘に深い敬意をはらっていた。
円は最も古く、最も強力なシンボルの1つである。

世界は円であり、太陽と月も然りである。
時間そのものも、円を描く性質を持っていて、一日や一年は円環を作っている。

最も身近なところでは、個々の人生もまた環を描く。
円は人の目や精神の前に、けっしてその全貌をすっかり明かすことはないが、複雑かつ神秘的なものを真摯に迎え入れ、深さと高さとを共に包み込む。

円はけっして、神秘を直線的な一方向に還元したり序列をつけることはない。この懐の大きさは、ケルトの精神の奥深いところに認められるもののひとつである。

魂の世界は深く秘められている。その秘密と神聖は姉妹である。秘められたものが尊重されないとき、神聖は消え去ってしまう。

ゆえに魂の世界は、あまりに苛烈な強すぎる光で照らすべきではない。
ケルト人の意識の光は、明暗の境界に映る半影である。

--------------------------

「ANAM CARA」の中の、この文章の描くところは何とも美しく、わが意を得たり、という思いを強くする。まさに、これなのだ。

円環上には中心がなく、起点も終点もない。同時に、任意のどの点もそうなり得る。
これは直線上の序列やピラミッド型構造とは本質的に違っている。

そこから古代の叡智に基づく世界がどのような姿をしていたかを見てとれる。
円と螺旋は、多くの古代文明の中に、また少数民族となってしまった各地の先住民の文化にも象徴的に見られる。

直線的な文明は、円を駆逐するのでなく、正しく結びあったなら、聖なる形である螺旋に上昇することができたのだ。
螺旋は、未来においてその実現を示唆する形のように思える。

「強すぎる光は、光本来の役目を果たすことができない」とどこかで聞いた。
明暗のあわいにある半影は、強すぎる光を当てたときには見えない神秘をそっと映し出すだろう。
次に来る文明は、この優しいあわいの光のもとに立ちあげられることを願う。
  
posted by Sachiko at 22:02 | Comment(2) | ケルト
2020年10月09日

家路

ついに最低気温が一ケタになり、来週には一気に寒くなりそうだ。
秋の夕刻にキャンドルを灯したときの独特の気分に、ふと、しばらく離れていたあの場所に思いを馳せる。
帰りたいと思う場所、ムーミン谷へ。

スナフキンが旅立ち、ムーミンたちが冬眠の準備をする時期も近づいてきた。
特にどの物語を追うのでもなく、ムーミン谷をさまよってみる。

森を抜け、川べりを歩き、橋を渡って、ムーミン屋敷が見えるところまで。
やはり、冬眠から覚めた春は外へ飛び出す季節であり、夕刻の灯りが誘う秋は、家に帰る季節なのだ。


“ほんとうの家”とは、ほんものの暮らしが営まれている場所だ。
ムーミン屋敷やグリーン・ノウ屋敷、ホビットの家...特に、すべてを見届けて家路についたサム・ギャムジーを迎えた小さな家は、何と家らしかったことだろう。

ほんとうの家は生きものだ。
生きた自然の風が通り、生きた火が燃えている家。
生きた水、生きた土の香り...

つまり、現代の、特に都市では、ほんものの家を持つのは難しい(私は、得体のしれない機械に話しかけてカーテンを開けてもらうような生活はまっぴらだ)。

けれど帰りたいほんとうの家は、この世界の家ですらないのかもしれない。
家という名で象徴的に呼ばれる、この次元を超えたある“状態”のような....


「ムーミン谷の十一月」の後書きにはこのように書かれている。

『・・・ムーミン谷は、けっしてユートピアでもないし、おとぎの国でもありません。
私たちが生きている生々しい現実世界と共通することがたくさんあるのです。それにもかかわらず、ムーミン谷には、どんな強烈な個性の持ち主であっても、だれもが、自分らしく、自由に生きられる世界があります・・・』

それだからだろうか。生活に興味があるとは思えず、自由と孤独と旅を愛するスナフキンでさえ、必ずムーミン谷に帰ってくる。
    
posted by Sachiko at 22:32 | Comment(2) | ムーミン谷