2020年08月17日

“ひとり”は悪か?・3

「己の影を抱きしめて」(清水真砂子インタビュー)より

この中で、魔女狩りの話が出てきた。
魔女とされた人を火あぶりの刑場に追い立てていく群衆の中に、たったひとりでも、足を止めて逆方向に歩きだす人はいなかったのだろうか。
自分は足を止めて逆方向に歩きだせる人間になりたいと思った....というお話だった。


この“ひとり”は命がけだ。
もしその場でそうした人がいたら、おそらく魔女の仲間として捕らえられ、いっしょに刑場送りになったのではないか。
それでも敢えて群衆から離れる勇気があるか?という話だろうが、それは簡単じゃない...

これは現代にも通じる話で、魔女狩りは、ある特定の時代、特定の地域のものではなく、時代を変え場所を変え形を変えて、繰り返し現れる。
大勢に同調しない“ひとり”が、悪と見なされてしまう可能性はいつもある。

学生たちに、ひとりでいることは悪いことだと思い込ませる力は、足を止めて逆方向に歩きだすひとりの人間を存在させないためのものかもしれないと思う。

己の影に怯える人々の恐怖が、狩るべき魔女を必要とする動機になり、そのようなことは現実世界でも頻繁に現れる。

言っていることの内容や主張が真逆に見えても、まるで互いが鏡像のように、放射しているエネルギーの質が同じだということはよくある。

魔女狩りの列に加わらないのは、“己の影を抱きしめる”ことのできる人々だろう。

時代の大きな変わり目に、ほんとうに必要なことだと思うので、以前紹介したアーシュラ・K・ル=グウィンのエッセイの中にあった、ユングの言葉をもう一度...

「自分自身の影をうまく扱うことを学びさえすれば、この世界のためになにか真に役立つことをしたことになる。
その人は今日われわれの抱えている膨大な未解決の社会問題を、ごく微小な部分ではあっても自分の肩に背負うという責をはたしたのである。」

このインタビューはもう少し保存しておくことにした。
   
posted by Sachiko at 22:14 | Comment(2) | 未分類
2020年08月15日

一番の思い出は

「己の影を抱きしめて」(清水真砂子インタビュー)より

清水さんが学生たちに、子ども時代の一番の思い出を書くようにと課題を出したら、そのほとんどが、「どこかに連れていってもらった話」と「何かを買ってもらった話」だった、というエピソードがあった。


振り返ると私の場合、イベントはなぜかほとんど憶えていない。そのことを昔から不思議に思っていた。

確かに子どもの日には必ずどこかに連れていってもらった。
毎年新しい場所を探して計画してくれていた父には申し訳ないが、これもあまり記憶には残っていない。
写真があるので「行ったんだな...」と思うだけだ。

「これは思い出になるからね」と先生が言っていた、運動会や遠足、大イベントだったはずの修学旅行や卒業式さえ、ほとんど印象に残っていない。

それよりも、なぜこんなことを憶えているのか?と思うような、何ということのない日常の断片が、妙に鮮やかに記憶されていたりする。

ある時、理科でジャガイモを植えた。
何日か経って、数人の男の子たちが、ジャガイモが芽を出したかどうか確かめに行くというので、ついて行って土をそっと掘った。

「あっ、芽らしいもの発見!」
「おお!」

誰かがその様子を見ていたらしい。
帰りの会で先生が、「ジャガイモ畑を掘り返しに行った連中がいるようだが、そういうことはしないように」と言った。
別にこんなしょうもないことが一番の思い出というわけではないが....

記憶の海からキラリと泡のように浮かび上がってくるものは、誰かとの些細な会話だったり、それ自体「できごと」ですらない情景の一片だったりする。
あの杏の木の下の空気感のように、それらが織り合わされて思い出をかたち作る。


・・・清水さんは質問の仕方を変え、「イベントと買い物の話は除く」としたら、おもしろい話が次々と出てきたという。
そしてやはり、それ自体が出来事とも言えないようなことが、学生のその後の人生にずっと寄り添っていたりするのだ。

子ども時代の特別な感覚は、大人が「良かれ」と思って用意してくれたあれこれをすり抜けて、思いもよらないものを拾い上げていくようだ。
子どもの「宝もの」が、大人のそれとは異なるように。
  
posted by Sachiko at 21:48 | Comment(2) | 未分類
2020年08月13日

アビシニア種パラドゥルラ

グリーン・ノウ物語第3巻「グリーン・ノウの川」より。

この夏グリーン・ノウ屋敷を借りたモード・ビギン博士は、先史時代には巨人がいたと信じている科学者グループのひとりで、巨人オグリュー族についての本を書いている。

ある日博士のところに、巨人たちの主食だったと考えられる『アビシニア種巨大パラドゥルラ・アンドリューシ』という草の実が届いた。

ビギン博士は草の実の効果を調べるため、アイダに食べさせることにした。アイダはとても小柄でちっとも大きくならないからだ。


巨人伝説は世界中にあり、各地の神話や旧約聖書にも登場する。
サハラだかどこだかの古い壁画には、巨大な人間のような姿が描かれているものがあるという。


グリーン・ノウでは、発掘委員会が開かれることになった。
アビシニア種パラドゥルラによってアイダが大きくなれば、博士の研究の証拠になるし、アイダのためにもなる。もしも伸び盛りのオスカーで実験すれば、とんでもないことになるかもしれない...

土砂降りの雨が上がった翌朝、子どもたちはカヌーでできるだけ遠くまで行こうとしていた。
川は水かさを増し、水門が開け放たれていることにも気づかない子どもたちを乗せて、カヌーは急スピードで進んだ。

無事に本流を抜けて静かな場所にたどり着いた三人は、風車小屋のそばで不思議なものを見た。横たわった枯れ木に見えたものは・・・巨人だったのだ。

「どうやら、きみたちはごまかされなかったんだな」

見つかることはめったにない、人間はみんな自分より大きいものは見えないんじゃないかと思う、と巨人は言った。
人間は彼に気づかないので、四つん這いになっていれば馬だと思い、立っていれば広告塔か木だと思うのだ。

「それ、あの世捨て人が言ってたことだ。気がつかなきゃあ、存在しないのと同じだって。」オスカーが言った。


人間は自分が知っている(と思っている)ものしか見ないというのは、多くの場合そのとおりだ。確かな証拠(化石など)が発見されると、ようやく「知っていること」の仲間に加える。

なぜ巨人伝説は世界中にあるのだろう。
シュタイナーは、アトランティス時代には人間の体は遥かに可塑性が高く、魂の状態によって姿が変わり、ある種の状態は巨大な身長として表されたと言っている。

北欧神話はアトランティスの記憶の残照を響かせていると言われるが、そのように世界各地で、古い夢のようになった巨人の記憶が語り伝えられたのだろうか。

巨人の話はもう少し続く。
この子どもたちは、知っているものしか見ない大人よりも多くを見ることができる。
ともかくアイダは、ミス・シビラが作るアビシニア種パラドゥルラのホットケーキを必ず食べることを約束させられていた。
  
posted by Sachiko at 21:52 | Comment(3) | ルーシー・M・ボストン
2020年08月11日

ルリシジミ

数年ぶりに見たルリシジミ。
表翅はきれいな水色なのだが、裏はこのように白っぽい。
小型の蝶は動きが素早く、うまく写真を撮れなかった。

ruri.jpg

青い蝶といえば、南米のモルフォが代表格だ。モルフォのような華やかさはないけれど、この小さなルリシジミはいかにも清楚で美しい。

青い生きものは少ない。
以前、山林に近い場所で、青いグラデーションの小さなトカゲを見たことがある。調べたら、ニホントカゲの子どもは尻尾が青いそうだ。

一面の青があるところには神の力が働いているという。
その一片のように青い色を与えられている生きものは、地球生物界において、人の知らない密かな使命を持っているのではなかろうか、などと思う。
それが何か、背後にいるディーバたちは知っているのだろう.....
   
posted by Sachiko at 21:56 | Comment(2) | 自然