2020年09月26日

聖なる親密さ

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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我々の文化の中では、つながりということへの関心が過剰に集まっている。人々は何かと言えばつながりについて語る。

それはテレビや映画、その他のメディアにおいてももっぱらのテーマである。テクノロジーとメディアは、世界をひとつに結びつけてはいない。

それらはインターネットサービスによって世界が繋がっているかのように見せかけているが、実のところ、それらが配信しているのは仮想された影の世界なのだ。

ゆえに、それらは人間の世界をますます匿名性がはびこる孤独なものにする。
コンピューターが人間の出会いに取って代わり、心理学が宗教に取って代わる世界では、人々が取りつかれたようにつながりを求めても不思議ではない。

残念ながら、「つながり」は今や、人々の孤独な飢えが、温かさと帰属を漁ろうとしてうろつく空虚な中心となっている。

親密さを語る人々の言葉のほとんどは空疎で、果てしなく繰り返されるそれらの言葉は、親密さの全き欠如を明らかにするだけなのだ。

本物の親密さは、神聖な体験である。

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まさに現代の状況が語られているのだが、この本が書かれた頃には、まだインターネットの一般普及率は低かったはずだ。

つまり、ここで書かれている空疎な状況はさらに増幅しているのだが、同時にそれらに対する幻想も、その幻想へのしがみつきも、メディアに煽られて増幅しているように見える。

時々初対面の人から、「SNS(FBやLINEなど)をやっていたらつながりましょう」と言われることがある(私はLINEはやっていない)。
初対面が悪いわけではない。初対面で強く惹かれることもある。

ただ多くは、別に私とつながりたいわけではなく、友だち登録数を増やしたいだけだということが明らかなのだ。
ZOOMの会合も、遠くにいる人とでも顔を見ながら言葉を交わせるのは便利に違いないが、私は消耗してしまう。

決定的な違いはやはり、生身でそばにいることによる「エーテル的交感」の欠如だ。
たった一度でも生身で会ったことのある人は、まったく違う。私はその人を知っている。

ますます空疎に薄らいでいく幻想世界の中で、心底ではアナム・カラを求めていることさえ、人々は忘れてしまわないだろうか。
か細い蜘蛛の糸に触れるような微かなものだったとしても、深奥の聖性から離れてしまわないように。それが帰り道だ。

もっとも、こんなことを書いてWeb上で公開しているのも、時代の共犯にはちがいない。
  
posted by Sachiko at 22:31 | Comment(6) | ケルト
2020年09月24日

「みずうみにきえた村」

「みずうみにきえた村」
「グレイリング」と同じジェーン・ヨーレンによるお話と、おなじみのバーバラ・クーニーの絵による絵本。

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「6つのころのわたしは、この世にはこわいものなんか、なんにもないとおもっていました...」

お話はこのように始まる。
学校までの道のりには、古い粉ひき場や教会があり、夏の昼下がりには川でマスを釣った。

夏の夜には庭のカエデの木の下で眠ったり、ホタルをつかまえたりした。
冬、パパは湖の氷を切り出し、ママはストーブを燃やしつづけた。
3月にはカエデの幹に取り付けたバケツから、あまい樹液をなめた。


そのうちに、村のようすが変わってきた。
村の人たちは何度も会館に集まり、ボストンから来た人の話を聞いた。

大都会ボストンの人々が、大量の水を必要としているそうだ。
この谷間のきれいな水を、お金と、新しい家と、もっといい暮らしと交換できるのだという。


「・・・ボストンの人たちが水がのめるように、
わたしたちの村を水のそこにしずめることになったのです...」


まずお墓の引っ越しが行われ、次には木という木が切り倒され、家々が壊され、トンネルが掘られ、堤防が造られた。


「しっかりおぼえておおき、サリー・ジェーン」パパはいいました。
「わたしらの村をおぼえておくんだよ」
でも、もうちっともわたしたちの村のようにはみえませんでした。


せき止められていた川の水はゆっくりと流れ込み、小さな町や村を水底に沈め、すっかり沈むまで7年の歳月がかかった。

“わたし”が大きくなったあと、パパとボートで貯水池に漕ぎ出した。
パパは水底を指さした。
教会が建っていた場所、学校、組合会館、粉ひき場....
「・・もう二度とみることはないだろう」

なにもかも、すっかり水の底に消え去ってしまった....


作者による前書きにはこのように書かれている。

・・・おなじようなことが、大量に水を必要とする大都会を近くにかかえた、世界中のあちこちでおこっています。
そういうところにできた貯水池は、取引の結果生まれたものですが、取引の例外にもれず、すんなりと成立したものはひとつもなく、文句なしの条件で成立したものはひとつもありませんでした。

このようなことは、今も起こり続けている。ダムとは限らない。
大都会に大量の電気を送るための取引、その廃棄物を埋めるための取引。
小さな町や村のきれいな水、きれいな土地を、お金やもっといい暮らしと交換するための取引....
取引の例外にもれず、すんなりと成立するものはひとつもないだろう。
  
posted by Sachiko at 21:34 | Comment(0) | 絵本
2020年09月22日

ANAM CARA

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

英語版が届いたので、もう一度仕切りなおして....

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ケルトの伝統においては、愛と友情について美しい理解がなされている。特に感慨深いのは、魂の愛についての理念である。

古いゲール語では、これをアナム・カラという。
アナムはゲール語で魂、カラは友人を意味する言葉だ。
つまりアナム・カラは、ケルト世界で「魂の友」を指す。

元々は、人生に秘められた大切なものごとを打ち明けられる特別な友のことだった。
アナム・カラは、最も真実な内なる自己、その思いと心情とを共に分かちあうことができる相手である。

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その語り口は、1940年代に書かれたマックス・ピカートの「沈黙の世界」にどこか似ている気がする。

「沈黙しあえるだけに愛しあっている友は幸福である」(「沈黙の世界」より)

ピカートはラジオによる騒音の害を説いていたが、現代の騒音はラジオの比ではない。今ではラジオはむしろゆったりとした過去のメディアのように感じられる。
「アナム・カラ」では、コンピュータ時代の人間関係についても触れられている。

折しも世界的騒動によってオンライン○○というものが盛んになっている。
互いのあいだにある空間に耳を傾け沈黙しあうことは、オンラインでは難しい。こんな時代が来ることを想像していたかどうか....

この本はピカートよりずっと新しい1990年代に書かれているのだが、残念ながら著者ジョン・オドノヒューは、2008年に40代で世を去ってしまったそうだ。

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ケルト的理解では、魂に空間と時間の制限を設けない。
魂を閉じこめる檻はない。
魂は友人同士の内に流れ込む神の光である。

アナム・カラの体験は、まさにこの豊かで不透明な内面の風景を認識し探求することによって、神の奥義と慈愛とを照らし出すのである。

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posted by Sachiko at 22:22 | Comment(0) | ケルト
2020年09月20日

帰ってきたヒメアカタテハ

今年もヒメアカタテハが姿を見せた。
去年より一か月以上遅い。

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世代交代しながら長い距離を渡る蝶で、ヨーロッパとアフリカ大陸のあいだを移動することが知られている。
旅の途中で生まれた次の世代は、自分たちがどこへ行くのかを知っている。

この継続性は謎とされているが....
動物は人間のように、各個体の中に自我を持っているのではない。(※ペットとして飼われている犬は、疑似自我のようなものを持つという。)
蝶はあのケシ粒のような小さな脳で考えて行動しているなどと思うと見誤る。

昆虫の自我は高次元にあって、種全体を見渡しながら個体の生態を司っている。言うところのディーバの領域だ。

アリやミツバチの生態が人間の知性をはるかに超えているように見えるのはそういうことなのだ。

そのヒメアカタテハのディーバが、一部の個体に「今年もあの庭に行くといいよ〜♪」と言ってくれたのなら嬉しい。
  
posted by Sachiko at 21:35 | Comment(2) | 自然