2021年03月16日

春の夕刻

季節の気分というものが確かにあり、それは季節ごとにはっきりと違う。

特に、夕刻の気分には特別なものがある。
西日がまだ柔らかい春の晴れた夕刻は、なぜか幼い頃の情景を思い起こさせる。


幼い頃、向かいの家に住んでいたひとつ年上のEちゃんは、私がその場所に引っ越してきて最初の友だちだった。
(以前書いた、杏の木のある家の兄妹を最初に紹介してくれたのもEちゃんだ)

西側の部屋で遊ぶとき、日が傾くにつれて光の当たる場所が長くなり、光がここまで来たらこの遊び、もっとここまで来たら別の遊び、などと決めごとをしたりしていた。

あるとき、Eちゃんが「わたしのハートが燃えちゃった♪」と歌いながらぐるぐると走り回りはじめた。
何かの流行歌だったのだろうか。

私は「ハートが燃える」の意味がわからず、「鳩」のことかと思った。
なにか可愛い小動物がもえちゃった歌らしい....
何にしよう....うさぎかな。

それで私は、「わたしのうさぎがもえちゃった♪」と歌いながらいっしょに走り回った。
Eちゃんが何も言わなかったところを見ると、Eちゃんもハートの意味がわかっていなかったのかもしれない。
ふと思いだして「あっ!」と思ったのは、ずっと後のことだ。

私が小学校に入る前に、Eちゃんは遠くの町へ引っ越して行った。私の家でささやかなお別れ会をした時の写真が残っている。

その少し前、Eちゃんといっしょに、切手ほどの小さな花をたくさん並べた絵を色鉛筆で描いて遊んだ。
ある夜、眠る前にその絵のことを思いだした。
Eちゃん、行っちゃうんだ....

とても悲しくなった。
思えばこれが、人生で最初に意識した別れだった。
それから三年ほど手紙のやり取りをしていたが、いつの間にかとだえてしまった。


近年、時間の感覚が変化しているように感じる。
時間は直線的に進んでいるわけではない。
時間はある状態で空間となり、空間内を移動するように、ある時点を訪ねる感じだ。

なぜ夕刻なのだろう。
午前と午後では、陽光のエネルギーの質がまったく違う。

季節の気分、時間帯の気分....それらを感じ取る感覚は、地球に生きていく上でとても大切な能力だと思っている。
  
posted by Sachiko at 22:21 | Comment(2) | 未分類
2021年03月13日

トルマリン

トルマリンは、熱や摩擦などで電気を帯びるため、和名では電気石と呼ばれる。

オーストリアの作家、アーダルベルト・シュティフターの「石さまざま」という短編集の中に「電気石」という作品がある。
この短編集の石の名前は象徴的なもので、直接石にまつわる話が書かれているわけではない。

いちばん知られているのは「水晶」という美しい短編で、単独で岩波文庫から出ている(絶版になっていなければ)。
これは真冬の雪山の話なので、クリスマスの季節にまた持ち出してくることにしよう。


「宝石と四季のお祭り」(小林直生著)という本によれば、トルマリンは春(復活祭)の石だそうだ。

トルマリンは色のバリエーションがとても多い。
いろいろな元素を自らの内に取り入れ、それぞれの元素の性質を、美しい色彩という最高の姿で表現することができるのだという。

多様な色彩を人間の魂の象徴とすると、トルマリンという物質体は、魂の完全な表現となった姿だということになる。
完全な魂の犠牲によって物質界が霊化し変容する....
そのようにキリストの復活を象徴するのがトルマリンの輝きなのだそうだ。


地球自然界というとき、いきなり岩石や鉱石を連想する人は少ないかもしれない。

フィンドホーンの創設者のひとりであるドロシー・マクレーンが石のディーバにコンタクトを試みた時、偉大な宇宙的存在が現われたという話がある。

そのように、物言わぬ静かな石たちは、偉大な霊性を宇宙に置いて、つつましい姿で地上に在る。
けれど石の背後にある霊性を意識するなら、地球そのものがまったく違う姿で立ち現れるのを見ることになる。

その新しい地球のもとでは、地球の一部である人間もまた、本来の姿を思い出せるだろうか。


ところで本にはこんな話も載っていた。
シュタイナーが、よく転ぶ子どもにはトルマリンのペンダントを身に付けさせるとよいとアドバイスした、という話だ。

そうか、トルマリンはバランスをとるのにいいいのか....
というわけで、転びやすいわけではないけれど何かとバランスのわるい私は、春にはトルマリンのペンダントをつけているが、効果のほどはよくわからない。

これはウォーターメロントルマリン。
スイカのように、縁が緑色で中が赤い。

tourmaline.jpg
  
posted by Sachiko at 22:51 | Comment(2) | 自然
2021年03月11日

なんでもない日々の暮らし

このブログでも何度も書いているけれど、暮らしはいのちのいとなみであり、芸術の域に達することができる。
あのターシャ・テューダーはまさにその域にあった。

シュタイナーも、フィンドホーンの創設者アイリーン・キャディも、日常生活をとても大切にしていた。

近年、暮らしはまるで取るに足らない雑用扱いされたりしている。もっと簡単、もっと時短!
何でもそうだが、そのように扱えば、そのような姿にしか見えなくなるだろう。

けれど別様の扱いをすれば、別の次元が見えてくる。
「皿洗いだろうがゴミ出しだろうが、神聖な仕事にすることができる」と、昔誰かが言っていたっけ...

かつて庶民の日常がもっとつつましく、過酷なことも多かった時代には、“ハレ”と“ケ”の境界がはっきりしていた。
地味な日常と、特別な祝祭“ハレ”と。

その何でもない日常が、突然失われることもある。

そうして、些細な日々の暮らしの一片が、いとおしい祝祭だったと気づかされたりする。
暮らしはいのちのいとなみだから、どの瞬間も、祝されていないはずはなかった。

3.11から10年.....
   
posted by Sachiko at 22:29 | Comment(2) | 暮らし
2021年03月08日

「春と修羅 序」

この序文には多くの解説も出ているらしいのだけど、詩の解説というものはどうも余計なことに思えて読んだことがない。



  わたくしといふ現象は

  假定された有機交流電燈の

  ひとつのい照明です

  (あらゆる透明な幽靈の複合體)

  風景やみんなといっしょに

  せはしくせはしく明滅しながら

  いかにもたしかにともりつづける

  因果交流電燈の

  ひとつのい照明です

  (ひかりはたもち その電燈は失はれ)



ある時これを久しぶりに読み返したとき、ああほんとうに、そのとおりですね....と、ただ頷くのみだった。



  それらも畢竟こゝろのひとつの風物です



ああほんとうに、そのとおりですね....
この不世出の詩人が日本にいてよかった。



  (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

   みんなのおのおののなかのすべてですから)



ああほんとうに......
  
  
posted by Sachiko at 21:58 | Comment(4) | 宮澤賢治