2022年01月02日

9月に向けて---第九夜

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シュタイナーが伝えた12夜の話から

私たちの個人的な復活には、新しいレベルの客観性が伴う。
以前そうしていたように、物事を個人的にとらえることはなくなる。

それは人生で何が起ころうとただ平静に受け止めるということではなく、これまでよりもより高い次元から、切り離して観ることができるようになる。

出来事から超然としていられる時はいつでも、“私”という存在を通して人生に対応していることがわかる。
そうでない場合は、低次の自己で対応している。低次の自己は、ある状況においては子供のような振る舞いをする。

低次の自己は自分なりのやり方を求めるが、それはたいていの場合、最も抵抗の少ない方法だ。
しかし、面倒なことに対していつものように反応するのを我慢すれば、解放された気分になる。

試してみるといい。次に誰かに煩わされたら、一呼吸おいて、スペースを作り、自分にこう言う。"もしこれが誰か他人に起こったことなら、私は苛立つだろうか?"

こうして、私たちは自分の低次の感情的な反応をコントロールするために意志を働かせる。
相手の言葉や行為をそのまま通り過ぎるにまかせると、やがて忘却の彼方へと流れ去っていく。
そうすると、相手が何をしたにせよ、その力は失われ、みんなにとって益になる。

さらに、「自分に起こることは自分で引き寄せている」ということを覚えておけば、このような小さな試練にもすぐに気づき、新年の誓いを強化する方法として捉えることができるだろう。

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低次の自我のやり方では大抵の場合、よいと思われることも悪いと思われることも、それが自分に起こった場合と他人に起こった場合とでは、反応や呼び起こされる感情が全く違い、時には真逆のものだったりする。

シュタイナーの修行法でもこの点について言及されている。
自分に起こったことを見る時には、それが他人であるかのように客観的に見ること。
他人に起こったことを見る時には、それが自分自身であるかのように共感をもって見ること。

言われるほど簡単ではないが、フィンドホーンのゲームでこれに似たものがあった。

互いに向き合って、自分の言葉を相手のものであるかのように、相手の言葉を自分のものであるかのように聞く(この時の発言は肯定的なものに限られる)。

続けていくうちに、どちらがどちらのことを言っているのかわからなくなるような不思議な一体感が起こってくる。

☆ ☆ ☆

これはまったく個人的にだけれど、12夜の旅は、地上から遠く離れて銀河鉄道で旅するような気分になる。

「・・・おまえがあうどんなひとでも、みんななんべんもおまえといっしょにりんごをたべたり汽車にのったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい・・・」(『銀河鉄道の夜』より)
   
posted by Sachiko at 08:40 | Comment(0) | クリスマス
2022年01月01日

8月に向けて---第八夜

2022年、明けましておめでとうございます♪m(_ _)m

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シュタイナーが伝えた12夜の話から

第8聖夜では、私たちは2つの時間の輪のあいだの崖っ淵に立っている(新年への移行とともに)。

この1年、私たちの成長のために提供されてきたものは、今、十字架に磔にされ死ななければならない。

これまで大切にした思いや感情、活動を、ここに来て一旦休ませる。
そして新年を迎えるにあたり、それらを新たなレベルに引き上げる。1年間役に立ったものをすべて犠牲にして、それを他の人のために役立てることだ。

私たちが霊的な真理において体験した感情の深さは、他の人々の不幸に対する思いやりになる。
それは単に「お気の毒に」というのではなく、彼らが感じている押しつぶされそうな悲しみをリアルに体験するのだ。

ある霊的真理を理解したことにより、魂の中で考察できた新しい思考は、今度は霊の中でインスピレーションを生きるための道を開くことになる。

その霊的真理が私たちにとって黄金のようなものであったとしても、私たちはそれを握りしめる手をゆるめなければならない。

私たちは霊的真理を所有することはできない。
それを手放せば、必要なときに戻ってくるが、しがみついていると、必要なときに見つけられないかも知れない。

この1年のあいだ自信を持って行った新しい活動も、磔にしなければならない。それを誇ってしがみつくのは自己中心的なことだ。

自らの意志を通して、私たちは自分の本当の姿を明らかにする。
そうして他者が私たちを知ることを許し、私たちも他者を知ることができる。
自分自身について明らかにしないまま他人のことを知ろうとするのは、関わるすべてに人々にとって破壊的なはたらきをする。

私たちが次の一歩を踏み出すとき、先に歩いたキリスト・イエスの存在によって力づけを得る。

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新年に移行する第8夜は、二つの異なる時間の上を通る。
12夜の中でも特に、神秘的な夢を見ることも多いと言われる。

神的な“私”に向かう旅の途上で、他者との関係性も変化していく。
これまでのように、比較、競争、勝ち負け、奪い合いといったものは意味をなさなくなる。

それらはまだ地上世界の大部分を形作っているように見えても、やがて消え去らなければならないだろう。
そのゲームを続けるのは、自分がまだ眠っていると宣言することでしかない、という時が近づいてくるだろう。

未来において、進化した人間は、他人の感情をも自分のものとして感じるようになるのだという。
他のすべての人が幸福でないかぎり、自分の完全な幸福はないというのは、文字通りのことなのだ。

他人に対して腹を立てたり、その他不快な感情を抱いた時、意識的に気づくことができるように、他者の苦しみを他人事として知らんぷりすることが自分の苦痛になるように、高次の“私”は遠い道を導こうとしているのだろう。

12夜の期間は時間ではなくて空間だというのは頷ける。
遠い過去も約束の未来も、ここに同時に存在すると感じられるからだ。
  
posted by Sachiko at 00:02 | Comment(0) | クリスマス
2021年12月31日

7月に向けて---第七夜

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シュタイナーが伝えた12夜の話から

私たちの3つの魂の力、すなわち、感情、思考、意志をよりいっそう意識するようになると、多くの繰り返されるパターンが見えてくる。
私たちは、特定の感情を持ち、特定の考えを持ち、特定の方法で行動する傾向があることが明らかになる。

私たちのことを知っている人なら誰でも、そのことを告げてくれる。
心理分析家はそれを研究し、私たちが特定の状況でどのように反応するかを予測することができる。

これが私たちの個性であり、性格なのだ。これらの個人的な傾向は、生涯にわたって発達してきた。
私たちの性格の強さや気質は、私たちの魂の中にある“私であるもの”の影響に直接つながっている。

私たちの最も有意義な活動、それは“私であるもの”が魂の中で考え、“私であるもの”が魂の中にある種の感情を呼び起こし、特定の方法で行動するように動機づけるのも“私であるもの”だということだ。

もしこれらのことを無意識に野放しにするなら、私たちはもはや、外部の力によって動かされるだけの操り人形のようになってしまう。
自由もなければ、自分の人生の出来事を理解することもできない。
さらに、ある状況下では、好ましくない反応をしてしまうこともある。

私たちに起こる個々の出来事はすべて、私たち自身が過去の人生で行ったことに起因する。
今、私たちは、自分が作り出した原因の影響を引き受けている。
これはかなり破壊的なものに思えるかもしれないが、実のところ全く逆である。

私たちが為してきたすべてのことは、“私”という存在に気づくためのものだったのだ。
私たちの歩く道は、"キリストを受けた者 "であるイエスの人生で辿ったように、痛みと悲しみの道である。

私たちは、この地上の道を完全に歩んだ偉大な“私”であるイエスの足跡を辿る。
彼は私たちに道を示す。自分の行為の結果に対し、痛みに苦しむか、自分の目的を果たしていることを自覚して得られる喜びを味わうのか...どのように受け入れるかは、私たちの選択なのだ。

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12夜の旅も折り返し地点になった。
そして...この旅は手厳しくも深い。

人を操り人形にしようとする力が跋扈している現代、人間であることのすべて---何を意図し、感じ、考え、行うのかは、“私”にかかかっている。

「日々自分の十字架を背負って私について来なさい」(ルカ9-23)というのは、こういうことなのだろう。

“私”を生きるのか、周りの動向や損得や外部からの力など“私”ではないものを動機にするのかで、これからの時代は道が分かれて行くだろう。

何が起こったとしても、生きていてよかった、と思えるなら、カルマを正しく歩んでいるのだそうだ。
  
posted by Sachiko at 11:46 | Comment(0) | クリスマス
2021年12月30日

6月に向けて---第六夜

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シュタイナーが伝えた12夜の話から

魂の3つの力の中で、意志は最も神秘的である。
私たちの生活の中で、私たちは2種類の意志を扱う。

1つは自然と、分解や破壊の力と関わり、もう1つは霊性と、地球の建設的な力と関わる。

消化器系の働きや、他の体の動きの中に地上の意志は見出される。
私たちはそれを意識することも干渉することもできないが、それには為すべき仕事がある。

私たちが剣のように振るうことができるのは霊的な意志である。
その剣は私たちの道徳的衝動によって導かれ、私たちをこの世界を創造する原因と結果の不可欠な部分にする。
私たちは自分自身の意志をコントロールすることで大きな責任を負っている。

キリストが”私”という存在を個人的なものとして人間に与えるために地上に降りたとき、私たちはこの責任を与えられた。

では、道徳性とは何か?
それは大いに誤解されていて、私たちが何をするかではなく、どのようにするかに関わっている。

私たちの行為は、自分の幸せが他人の犠牲の上に成り立つのではない場合にのみ道徳的になり得る。

つまり、労働者が酷い扱いを受けている工場で作られた新しい贈物を喜んで受け取ったり、酷い扱いを受けている動物によって生産された安価な食品を喜んで買ったりすると、私たちは不道徳の網に巻き込まれる。

道徳の行為は、私たちの行為が他の人々への関心に由来するときに起こる。
したがって道徳は、他者への愛、最も純粋で最高の愛と敬意から生まれる。

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簡単に手に入れることのできる安価な品物、衣服、食品など、どこでどのように作られているかを意識するのは、心地よくはない。できれば見ないふりをしていたいかも知れない。

フェアトレード製品や、よい環境で育てられた動物に由来するミルクや卵などは、そうでないものよりも高価だ。
誰をも不当に抑圧しないで作られたものだけを買って暮らそうとすれば今より貧しくなってしまうと感じるなら、普段はその貧しさをどこか遠くの他人に押しつけているということだ。


でも仕方がない、世界はそういうシステムになっているのだし....と思いたくなるけれど、それが不道徳の網で、誰もそこから逃れていない。
現代人は、特にいくらか豊かに暮らせている人々は皆、同じ網のムジナということだ。


「私たちの行為は、自分の幸せが他人の犠牲の上に成り立つのではない場合にのみ道徳的になり得る。」

これはまさに、宮沢賢治のこの言葉だ。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

これもまた誤解されやすい言葉で、みんなが幸せになるまで、自分はじっと不幸の中に留まるべきだ、などという意味ではない。
「この私」は、他者から見れば「世界全体」の一部なのだから。

「私」という意識が神から与えられたものならば、深いところにおいて人間は、他者を犠牲にしては心底の幸せを感じることができないように創られているのではないだろうか。
  
posted by Sachiko at 21:02 | Comment(0) | クリスマス