2020年10月05日

ケルトの詩

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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ケルトの自然詩を読むと、すべての感覚が研ぎ澄まされているのがわかる。
風の音が聞こえ、果実の味が感じられ、そして何よりも、自然が人間存在にどのように働きかけるのかについて、すばらしい感覚をそこから得ることができる。

ケルトの霊性は、とりわけ霊的世界に関する視覚の認識に優れている。
ケルト人は、目に見えるものと見えないものの間にある世界を見る卓越した感覚を持っている。
イメージの世界と呼ばれるそれは、天使たちの住む世界である。

ケルト人は、この“あいだ”の世界を愛する。
そのことは、ケルト精神における、詩と祈りの中の美しい表現に見て取れる。

見える世界と見えない世界、これら二つはもはや分かれてはいない。それらは自然に、優雅に、抒情的に、互いに浸透しあって流れているのである。



   感覚への寿ぎの詩

 あなたの肉体が祝福されますように
 肉体は魂の 忠実にして麗しい友であることを
 心に留めますように

 あなたが安らぎと喜びに満ちて
 感覚が神聖な境界であることを
 知り得ますように

 聖性が心を寄せて
 見やり 感じ 聴き 触れることに
 あなたが気づきますように

 感覚があなたを抱きとり
 我が家へと連れ帰りますように

 あなたの感覚がいつも 
 宇宙と 存在の神秘と可能性とを
 祝すことができますように

 大地の官能があなたを祝福しますように

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このようにケルト文化では、本来一体であるものを切り離すという考えがなかったという。
見える世界と見えない世界、内と外、肉体と精神.....

それはいわゆる現代的、西欧的二元の世界観とは異なる。
むしろ東洋的に感じるが、古い東洋の智恵というものも、今では失われてしまったように見える。

“あいだ”を見ることができなければ、ふたつの世界は分離し対立する。
“あいだ”を認識するには、繊細な感性がなくてはならない。
虹のそれぞれの色のあいだには、はっきりと隔てる線が引かれてはいない、ひとつながりの一体なのだ。

『ケルト人は、この“あいだ”の世界を愛する』

何も分かれていない、始源のやすらぎを思い起こさせる“あいだ”の世界。
ケルト文化が、現代にまた注目され浮かび上がってきているのは、あの失われたやすらぎへの希求かもしれないと思う。
  
posted by Sachiko at 21:59 | Comment(2) | ケルト
2020年10月02日

言葉の陰影

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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現代の、すべてが短絡化し表面的になった世界では、言葉は亡霊のような記号やレッテルになり下がった。
魂を映す鏡である言葉は、神の実質が投影される沃野のはずだったのに。

古い時代の文化、特に民俗文化の言葉の背後にある沈黙と暗影の感覚は、現代人が使う言葉には欠けている。

言葉は略語だらけになり、今日では、人々は歴史や連想を担い伝える言葉には苛立つ。
一方、地方の人々、特にアイルランド西部の人々は、すばらしい言語感覚を持っている。

アイルランドで話されている英語を非常に興味深いものにしている要因の1つは、その背後にあるゲール語の色彩豊かな魂だ。
それは、アイルランドの英語に大いなる彩りと陰影と力強さを注ぎ込んだ。

ゲール語はそのように詩的で力強い言語であり、アイルランド人の記憶を呼び覚ます。
人々から言語を奪うなら、彼らの魂を荒野に迷わせることになる。

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マックス・ピカートは、名著「沈黙の世界」の中で、現代語を「騒音語」と呼んだが、それから半世紀後、騒音語はさらに分解して断片語と化したようだ。

ジョン・オドノヒューはそれをファストフードのようだと言っている。
ファストフードによって味覚が鈍磨したのと同じことが、現代人の言語感覚に現れているというのだ。

現代語は人の体験を語るには薄っぺらく、内面の神秘を真に表現するにはあまりに貧弱すぎる、と。
現代語はもはや語らない。SNS上には、言い捨て、言い放つだけの断片語が溢れている。

真の言葉は、やがて必ず詩に到達すると、私は思っている。
利用、利益、取引...などなど、魂に故郷を持たない言葉は詩には使えない。

現代のあらゆる要因が、人々の目を外側の慌ただしさに向けさせ、内なる神秘からは目を背けるように仕向けてくる。
他民族によって奪われるのではなかったとしても、真の言葉を失った魂は弱くなり、荒野に迷うだろう。
  
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(4) | ケルト
2020年09月30日

中秋の名月

今年の十五夜は10月1日。
当地では明日は曇りらしいので、晴れている今日のうちに月を見ておいた。やはり季節行事というのはいいものだ、と思う。


昔、函館のカトリック教会が運営する老人ホームの園長(確かフランス人の神父さんだった)が、「ホームでは、カトリックのお祭りは全部やる。そして日本のお祭りも全部やる。」と言っていた。

カトリックの行事に加えて、ひな祭りも七夕もお月見もあるのだ。一年中お祭りだらけで楽しそうだな、と思った。


ススキを漢字で書くと、薄(「ススキノ」のススキはこれだ)、あるいは芒。

芒はノギとも読み、イネ科の植物の多くに見られる、実の粒の先に付く針状の突起だ。
イネ科の植物は光と密接な関係があるという。

麦のノギが放射状に伸びている姿は、光を思わせる。
クリスマスに麦の穂を飾るのは、そういうシンボル的な意味もあるらしい。

十五夜にススキを飾ることの意味には諸説あるが、一説では、ススキの穂を稲に見立てて豊穣を祝うものだとされている。

近場にススキが生えている場所がなく、かなり遠くまで採りに行ってもらった。
やはり十五夜にはススキがなくてはいけない。
  
posted by Sachiko at 22:15 | Comment(2) | 季節・行事
2020年09月28日

「 MAJA AUF DER SPUR DER NATUR 」

「 MAJA AUF DER SPUR DER NATUR(自然をたどるマーヤ) 」
(Ulf Svedberg / Lena Anderson)

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マーヤといっしょに自然界の四季をたどる絵本。
「マーヤ」シリーズの中で、他の2冊はレーナ・アンデルソンが絵と文を書いているが、これは絵のみ。

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春には小鳥が歌い、夏にはたくさんの花や虫がやってきます。
マーヤはベリーやキノコや果実をみつけたり、秋には渡り鳥を観察します。木の葉はすばらしい色に変わっていきます。

冬になると色が少なくなって、植物や、暖かい季節が好きな動物たちはあまり心地よくありません。
それでも霜や雪にはすばらしい美しさがあります。


切り株の年輪を見て、方角を知る方法がある。
小鳥のさえずりは、何て美しいの!
花と蜂は、とても仲よし。

刺す生きものもいっぱい。
蚊や蜂、アリ、イラクサの葉も!

野に出て植物を観察しよう。
ハーブにベリーに木の葉っぱ。

川辺にすわって魚つり。
いろいろなトンボも飛んでいる。
クモはどんなふうに糸をかけていくのかしら。

動物たちは冬じたく。
渡り鳥は南へ旅立つ。
雪の上の足あとで、何の動物かがわかる。
枝に残った赤い実を食べにくる小鳥たち。

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このように、マーヤは自然の中で季節の移り変わりを楽しむ。
四季の章の冒頭には、それぞれ4人の詩人による詩が載っている。
春はストリンドベリ、夏はリンドグレーン、秋はメーリケ、冬はモルゲンシュテルン。


  9月の朝

 世界はまだ霧の中にまどろみ
 森も草地も夢みている

 君はじきに見るだろう 
 霧のベールがすべり落ち
 まことの蒼穹が現れるのを
 
 湿気を帯びて秋は深まる
 暖かい金色の流れの中で

   エドゥアルト・メーリケ 


  三羽のスズメ

 裸になったハシバミの枝で
 三羽のスズメが寄りそっている

 右のはエーリヒ、左はフランツ
 真ん中にいるのは生意気ハンス

 みんなしっかり目を閉じて
 上には雪が降っている、ほら!

 みんなでくっつきあったなら
 ハンスは誰より暖かい

 三羽はそれぞれおたがいの
 心臓の音をきいている

 どこかへ飛び去っていないなら
 みんなまだそこにいるよ

   クリスティアン・モルゲンシュテルン


※この本は以前、「マーヤの春夏秋冬」というタイトルで日本語版が出ていたが、中身がほとんど差し替えられていた。
季節の詩はすべて日本の詩人のものに代えられ、内容も、スウェーデンと日本の季節感の違いは何か、というような話になっているので、古本で見つけた時には要注意。

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posted by Sachiko at 21:52 | Comment(0) | 絵本