2023年02月15日

旅芸人の話

前回書いた、『モモ』の登場人物ジジは、観光客相手に面白おかしく話を聞かせ、帽子をさしだしてお金を集める。いわば大道芸人の類だ。

エンデの作品にはよくサーカスや小さな劇団などの芸人たちが描かれている。エンデはこうした芸人たちに、特別な尊敬と愛着を抱いていたらしい。

旅芸人といえば真っ先に、これも以前書いたフェリーニの映画『道』を思い出す。
あとは、『旅芸人の記録』という、4時間近くもあるとんでもなく長いギリシャ映画。

一座は「ゴルフォが来たよ!タソスが来たよ!」というお決まりの呼び声とともに、たったひとつの演目だけを持って旅していく。
この映画は今もたまにリバイバル上映されているようだ。

旅芸人はやはりイタリアなどの南欧が似合う気がする。
仄暗い猥雑さ、体温と血の生暖かさ、横溢する生命の輝き。


ヨーロッパの街でかつて印象的だったのが、メインストリートにたくさんいた大道芸人たちの姿だった。
いつも同じ街にいる人もいれば、旅している人もいた。

ある都市で見かけたグループを、また別の都市で見たことがあり、大道芸の衣裳のまま、小道具を抱えて駅で列車に乗り込むところを見たこともある。映画のワンシーンのように見えた。
思えばまだのんびりした時代だった。


昔、夏ごとにフランス人の大道芸人が来ていてパントマイムなどをやっていた。ある時、市の条例だか何だか知らないが、公道や公園での物販や大道芸が禁止されてしまった。大通公園ぐらい、スペースがあるんだからいいじゃないか。

道端で手作りアクセサリーを売っていた人たちも(たまにあやしげな人も混じっていたらしいが)、どこかで採ってきた山菜を売っていたおじさんおばさんもいなくなった。


旅芸人は、組織化されない人々だ。
システムにあてはまらず、明日どこにいるのかもわからない。
思えば浮浪児という設定のモモ自身がそのような存在、つまりすべてを管理しようとする灰色の男たちにとっては厄介な存在だ。

ミヒャエル・エンデは『ものがたりの余白』の中で、子どもの頃に、近所の家で冬を越すことになったサーカス芸人一座と過ごした思い出を語っている。
サーカス芸人たちは芸術家そのものだとエンデは言う。

「芸術家の存在は、この世に、なんの役にもたたないことをする者がいるためなんです。いわば無償で起きるなにか。なにか有益なことを得ようとしてするのではない。それを人類が失えば、人類はとても大切なポイントを失うことになる、そのようなもの。」


すべてがシステム化されて整い、自分で創意工夫する必要もない便利な都市は、怪しげな翳をも受け入れて消化する包容力を失い、人々は生気を欠いて見える。
人間には清潔な秩序ばかりでなく、幾ばくかのいかがわしさのようなものがまとわりついているほうが人間らしいというものだ。

そうした人間臭い生気が、ある力にとっては邪魔なのだろうけれど、逆に言えば、次の全く新しい文明を創る原動力をどこに見出したらよいかということへの示唆にもなる気がする。
  
posted by Sachiko at 14:45 | Comment(2) | 未分類
2023年01月29日

ジジの悲劇

ミヒャエル・エンデ『モモ』より。

モモの二人の親友のうちのひとり、観光ガイドのジジは、物語を話すことが何よりも好きだった。
モモと出会ってからは特に、彼の空想力はすばらしく花開いた。

モモが円形劇場から姿を消してすぐ、新聞に「ほんとうの物語の語り手としての最後の人物」という見出しで、ジジについての長い記事が出た。

ジジはたちまち人気者になり、ラジオやテレビに出演し、まもなく大邸宅に移り住んだ。
ますます膨らんでくる需要に追いつけず、ある日ジジは、モモだけのために作ってあった物語を話してしまう。


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でもこの話もほかのどうよう、みんなはよく味わいもせず飲みこんで、またたちまちわすれてしまいました。そして、あとからあとから話を要求するのです。
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ジジに起こったことは、エンデ自身に起こったことでもあったそうだ。

最初の児童文学『ジム・ボタン』シリーズの成功によってマーケティング機構に巻き込まれたエンデは、、PRプロモーションイベントに駆り出され、百貨店でサイン会までしなければならなかった。

「・・・ここでわたしがしているのは、いったい何なのか?こうはなりたくないと思っていたのに、今わたしはそこへ行きついてしまったのだ。」
(『ものがたりの余白』−エンデが最後に話したこと−より」

エンデは世間が自分を忘れるまで、マーケティングの騒々しさを拒否することにした。そうして10年の沈黙の後、『モモ』が生まれた。


もう何も考えだせなくなったにもかかわらず、成功に見放されるのが怖くなったジジは、今までの物語を少し変えただけのものを話すが、誰もそれに気がつかず、注文が減ることもなく、今や大金持ちの有名人になっていた。
それこそ、彼がいつも夢見ていたことだった。

昔の友だちが懐かしくてたまらなくなったジジは、灰色の男たちのことをみんなに話そうと決心する。
そのとたん、電話のベルが鳴った。


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「おまえをつくり出したのはわれわれだ。おまえはゴム人形さ。われわれが空気を入れてふくらましてやったのだ。
・・・
おまえがいまのようになれたのは、おまえのそのけちな才能のおかげだとでも、ほんきで思っているのか?」
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ジジのにわか成功の背後には、灰色の男たちが関わっていた。そして、真実を語ろうと決めたジジを脅す。
このあたりは、今あらためて読み返してみるとかなり怖い個所だ。

成功し有名で影響力のある人物が、何らかの真実を明かそうとした時に不慮の死を遂げるようなことが、時々起こっていないだろうか?
モモの世界の人々は、気づかないうちに灰色の男たちの策略に巻き込まれていった。

灰色の男たちに対抗するのに、デモや人々への説得という普通の方法は役に立たなかった。
以前にも書いたように、モモは行為ではなく“存在”においてヒーローだったのだ。
どうすれば、何をすればいいのかと行き詰まったときに、“わたしはどう在るのか”ということが別次元の道を開いたりする。

モモが書かれてからちょうど50年、子ども向けファンタジーという姿を借りて描かれた世界は、ますますリアリティを増して見える。
  
posted by Sachiko at 22:30 | Comment(2) | ファンタジー
2023年01月19日

エキナセア

少しばかり喉の痛みを感じて、風邪かな...熱はないし、例のヤツではなさそうだ。とりあえず喉に効くエキナセアのお茶を飲んでおこうと思った。

数回飲んで痛みは軽くなり、ほとんど気にならないほどだが、ハーブにそれほどの即効性はないはずだ。
最初から大したことではなかったのだろう。

echinacea1.jpg

一頃は30種類ほどのハーブを植えていた。
その後、薬用ハーブはプロが栽培したもののほうがいいのかもしれないと思ったので、今は半分くらいに減っている。

最近、やはり作物はなるべく自分の近くで採れたものがその人の栄養になるのだという話を聞いた。自分のところに届くまでのプロセスが多いほど、栄養は少なくなるのだとか。

たしかに昔から、身土不二という言葉がある。単に輸送に時間がかかって鮮度が落ちるというだけの話ではないらしい。

自分の畑で収穫してすぐ食べるのが一番だ。
野菜もハーブも、自分を育ててくれた人の役に立ちたいのだ。

そうして自分や家族のための薬草園を管理していた女性たちが、あるとき魔女にされてしまった....と、想像が遠くへ飛んでいく。

土地がなければベランダでも、鉢植えのハーブは育てられる。
パセリやタイムなど、料理用ハーブを少しばかり植えて、必用な時に摘んで使う。
そんな日常が、“自分自身の”暮らしになる。

真夏に咲くエキナセアやセントジョンズワート(冬場の鬱に効く)が、真冬に活躍することも、自然の素敵な采配だ。
  
posted by Sachiko at 22:41 | Comment(6) | ハーブ
2023年01月07日

エピファニーを過ぎて

12聖夜の特別な領域が明けエピファニーも終わると、時空が日常に戻ったのを感じる。

そして毎年のことながら、少しばかり日が長くなっているのに気づく。
冬至の頃から見ると、日没が13分遅くなっている。日の出は3分早くなっただけ。
たったこれだけの違いでも、感覚はいちばん暗い時期を過ぎたことを敏感に感じとる。

そしてこれも毎年のことながら、本格的な寒さと雪はこれからだ。
夏も、暑さのピークは夏至を過ぎてからやってくる。
天文学的な位置関係と地上の現象とのあいだにはタイムラグがある。


よく言われる「いちばん暗い時は夜明け前」という言葉が、私にはどうも不思議だった。
どう考えても、一番暗いのは真夜中じゃないか?と思っていた。
ひょっとしたら、タイムラグのある現象のほうを指しているのだろうか。

連日の真冬日の中で雪が降り続き、うず高く積もって、もうたくさんだ!という頃に、最高気温がプラスに転じ、雪解けが始まる。
一番キツい時が春間近で、このようにして迎える春は格別だ。

近年はあまり真冬日が長く続かず、冬フリークとしては物足りないところだけれど。

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今日で松の内もおしまい。
遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m
  
posted by Sachiko at 14:50 | Comment(2) | 季節・行事