2020年10月11日

円環

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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ケルト人の意識はけっして直線に惹かれることはなく、確実さの中に満足を求める在り方やものの見方を避けていた。

ケルトの精神は、円と螺旋の神秘に深い敬意をはらっていた。
円は最も古く、最も強力なシンボルの1つである。

世界は円であり、太陽と月も然りである。
時間そのものも、円を描く性質を持っていて、一日や一年は円環を作っている。

最も身近なところでは、個々の人生もまた環を描く。
円は人の目や精神の前に、けっしてその全貌をすっかり明かすことはないが、複雑かつ神秘的なものを真摯に迎え入れ、深さと高さとを共に包み込む。

円はけっして、神秘を直線的な一方向に還元したり序列をつけることはない。この懐の大きさは、ケルトの精神の奥深いところに認められるもののひとつである。

魂の世界は深く秘められている。その秘密と神聖は姉妹である。秘められたものが尊重されないとき、神聖は消え去ってしまう。

ゆえに魂の世界は、あまりに苛烈な強すぎる光で照らすべきではない。
ケルト人の意識の光は、明暗の境界に映る半影である。

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「ANAM CARA」の中の、この文章の描くところは何とも美しく、わが意を得たり、という思いを強くする。まさに、これなのだ。

円環上には中心がなく、起点も終点もない。同時に、任意のどの点もそうなり得る。
これは直線上の序列やピラミッド型構造とは本質的に違っている。

そこから古代の叡智に基づく世界がどのような姿をしていたかを見てとれる。
円と螺旋は、多くの古代文明の中に、また少数民族となってしまった各地の先住民の文化にも象徴的に見られる。

直線的な文明は、円を駆逐するのでなく、正しく結びあったなら、聖なる形である螺旋に上昇することができたのだ。
螺旋は、未来においてその実現を示唆する形のように思える。

「強すぎる光は、光本来の役目を果たすことができない」とどこかで聞いた。
明暗のあわいにある半影は、強すぎる光を当てたときには見えない神秘をそっと映し出すだろう。
次に来る文明は、この優しいあわいの光のもとに立ちあげられることを願う。
  
posted by Sachiko at 22:02 | Comment(2) | ケルト
2020年10月09日

家路

ついに最低気温が一ケタになり、来週には一気に寒くなりそうだ。
秋の夕刻にキャンドルを灯したときの独特の気分に、ふと、しばらく離れていたあの場所に思いを馳せる。
帰りたいと思う場所、ムーミン谷へ。

スナフキンが旅立ち、ムーミンたちが冬眠の準備をする時期も近づいてきた。
特にどの物語を追うのでもなく、ムーミン谷をさまよってみる。

森を抜け、川べりを歩き、橋を渡って、ムーミン屋敷が見えるところまで。
やはり、冬眠から覚めた春は外へ飛び出す季節であり、夕刻の灯りが誘う秋は、家に帰る季節なのだ。


“ほんとうの家”とは、ほんものの暮らしが営まれている場所だ。
ムーミン屋敷やグリーン・ノウ屋敷、ホビットの家...特に、すべてを見届けて家路についたサム・ギャムジーを迎えた小さな家は、何と家らしかったことだろう。

ほんとうの家は生きものだ。
生きた自然の風が通り、生きた火が燃えている家。
生きた水、生きた土の香り...

つまり、現代の、特に都市では、ほんものの家を持つのは難しい(私は、得体のしれない機械に話しかけてカーテンを開けてもらうような生活はまっぴらだ)。

けれど帰りたいほんとうの家は、この世界の家ですらないのかもしれない。
家という名で象徴的に呼ばれる、この次元を超えたある“状態”のような....


「ムーミン谷の十一月」の後書きにはこのように書かれている。

『・・・ムーミン谷は、けっしてユートピアでもないし、おとぎの国でもありません。
私たちが生きている生々しい現実世界と共通することがたくさんあるのです。それにもかかわらず、ムーミン谷には、どんな強烈な個性の持ち主であっても、だれもが、自分らしく、自由に生きられる世界があります・・・』

それだからだろうか。生活に興味があるとは思えず、自由と孤独と旅を愛するスナフキンでさえ、必ずムーミン谷に帰ってくる。
    
posted by Sachiko at 22:32 | Comment(2) | ムーミン谷
2020年10月07日

草たちの秋

いつものことながら、10月の天気は不安定だ。
晴れていたかと思えば突然雨が降ったり、天気予報も当てにならない。

花も少なくなった中、何の変哲もない雑草が、思いがけず美しく紅葉していたりする。

この草はそこらじゅうにあるのだけれど、私はいまだに名前を知らない。

kusared.jpg

イヌタデの小さな赤い花。別名赤まんまと呼ばれ、ままごとのお供だった。

akamama.jpg

種がはじけた後のゲンノショウコも赤くなるのだと気がついた。じっくり見たことがなかった。

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とても小さくて丸い、ノボロギクの綿毛。
この可愛らしい綿毛がボロのように見えるので、野ボロ菊という気の毒な名前になったとか。

watage.jpg

木々の紅葉の見頃にはまだ少し早いこの時期、気に留められることもない雑草たちが、つつましく着飾りながら秋を迎えている。
  
posted by Sachiko at 22:38 | Comment(2) | 自然
2020年10月05日

ケルトの詩

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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ケルトの自然詩を読むと、すべての感覚が研ぎ澄まされているのがわかる。
風の音が聞こえ、果実の味が感じられ、そして何よりも、自然が人間存在にどのように働きかけるのかについて、すばらしい感覚をそこから得ることができる。

ケルトの霊性は、とりわけ霊的世界に関する視覚の認識に優れている。
ケルト人は、目に見えるものと見えないものの間にある世界を見る卓越した感覚を持っている。
イメージの世界と呼ばれるそれは、天使たちの住む世界である。

ケルト人は、この“あいだ”の世界を愛する。
そのことは、ケルト精神における、詩と祈りの中の美しい表現に見て取れる。

見える世界と見えない世界、これら二つはもはや分かれてはいない。それらは自然に、優雅に、抒情的に、互いに浸透しあって流れているのである。



   感覚への寿ぎの詩

 あなたの肉体が祝福されますように
 肉体は魂の 忠実にして麗しい友であることを
 心に留めますように

 あなたが安らぎと喜びに満ちて
 感覚が神聖な境界であることを
 知り得ますように

 聖性が心を寄せて
 見やり 感じ 聴き 触れることに
 あなたが気づきますように

 感覚があなたを抱きとり
 我が家へと連れ帰りますように

 あなたの感覚がいつも 
 宇宙と 存在の神秘と可能性とを
 祝すことができますように

 大地の官能があなたを祝福しますように

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このようにケルト文化では、本来一体であるものを切り離すという考えがなかったという。
見える世界と見えない世界、内と外、肉体と精神.....

それはいわゆる現代的、西欧的二元の世界観とは異なる。
むしろ東洋的に感じるが、古い東洋の智恵というものも、今では失われてしまったように見える。

“あいだ”を見ることができなければ、ふたつの世界は分離し対立する。
“あいだ”を認識するには、繊細な感性がなくてはならない。
虹のそれぞれの色のあいだには、はっきりと隔てる線が引かれてはいない、ひとつながりの一体なのだ。

『ケルト人は、この“あいだ”の世界を愛する』

何も分かれていない、始源のやすらぎを思い起こさせる“あいだ”の世界。
ケルト文化が、現代にまた注目され浮かび上がってきているのは、あの失われたやすらぎへの希求かもしれないと思う。
  
posted by Sachiko at 21:59 | Comment(2) | ケルト