2022年07月27日

「我意」

1919年に書かれたヘルマン・ヘッセの「我意(Eigensinn)」は、ヘッセの全作品を貫くエッセンスを、ほんの数ページで語っている。
ヘッセが愛する唯一の徳と呼んだ我意とは何か。

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すべての他の徳、人に好まれ、ほめられる徳は、人間によって定められた法則に対する従順である。ただ一つ我意は、その法則を問題にしないものである。
我意の人は、別の法則に、ただ一つの、絶対に神聖な、自己の中の法則、「自分」の「心」に服従する。

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第一次大戦後の1919年は、あの『デミアン』が書かれた年だ。
『デミアン』は私にとっては特別な一冊で、容易に語ることはできない。
それで、というわけではないけれど、まさにそのエッセンスであるこの掌編に少し触れてみる。

ただ一つの、絶対に神聖な、自己の中の法則に従う....
一般の人間社会ではけっして奨励されず話題にもされないこの徳は、おそらくは孤独な脇道だ。


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「自分の心」は、地上のあらゆるものが持っている。
あらゆる石、あらゆる草、あらゆる花、あらゆる低木、あらゆる動物が、ひたすら「自分の心」に従って成長し、生き、行い、感じている。
世界がよく、豊かで、美しいのは、それにもとづいているのである。

宇宙においてはどんなに微小なものでも、自分の「心」を持ち、自分の法則を抱き、完全にたしかに迷わず自分の法則に従っている・・・・

深く生まれついた自分の心が命じるままに存在し生き死ぬことが許されていないような、哀れなのろわれたものは、地上にはたった二つしか存在しない。
人間と、人間によってならされた家畜だけだ・・・

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ヘッセがこれを書いてから百年以上を経て、時代はますます、あらゆるものが自分自身として存在し、生き死ぬことを許さないように見える。

もしも人間が、草や木や石のようにそれ自身であり、自分が生まれついたところのものを生きるなら、“人生”は本来どんな姿をしていたのだったか。

あのデミアンをエーテルの冷気が取り巻き、彼が星や樹木のように見えたのは、我意の人は、影のようになった今日の人間世界とは別の宇宙に属しているからだ。
  
posted by Sachiko at 22:22 | Comment(2) | ヘルマン・ヘッセ
2022年05月13日

「内と外」

ヘルマン・ヘッセのあまり知られていない短編「内と外(Innen und Aussen)」。

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論理学と科学を愛する主人公フリードリヒは、神秘主義的なものは迷信や魔術と呼んで忌み嫌っていた。
ある日久しぶりに旧友エルヴィーンの家を訪ねると、壁に留められた紙に書かれた言葉が目に入った。

「何ものも外になく、何ものも内になし。外にあるものは内にあればなり。」

これこそフリードリヒが嫌う神秘主義、魔術の世界であり、この旧友とは絶縁するしかないと考え、別れの言葉を告げた。

エルヴィーンは、「これが君の外ではなく内にあるようになったらまたやって来たまえ」と、小さな粘土の像をフリードリヒに渡し、その像がいつまでも外にあり続けたら、その時が別れだと言った。

フリードリヒはその像が気に入らなかった。像の存在はしだいに彼の生活を不快にした。
ある日小旅行から帰って来ると、像がなくなっていた。女中が壊してしまったのだ。
これで落ち着けるだろうと思ったが、今度はそれがないことが彼を悩ませはじめた。

彼は像がないのを苦痛に思い、それを悲しむのは無意味だと明らかにするために、像を詳細に思い浮かべてみた。
そうして眠れなくなった夜、ひとつの言葉が意識に入り込んできた。
「そうだ、今おまえは私の中にいる」という言葉だった。
像はもう外にはなく、内にあった。

彼はエルヴィーンの家に駆けつけた。
「どうしたらあの偶像がまた僕の中から出ていくだろうか。」
エルヴィーンは言った。
「あれを愛することを学びたまえ。あれは君自身なのだ。」

「・・・君は外が内になり得ることを体験した。君は対立の組み合わせの彼岸に達したのだ。

それが魔術なんだ。外と内を、自由に自ら欲して取りかえることが。
君は今日まで君の内心の奴隷だった。その主人になることを学びたまえ。
それが魔術だ。」

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書かれたのは1920年で、第一次大戦後の多産な時期であり、1919年に書かれた『デミアン』にも通じるテーマに見える。

内と外がまるで別物であり、人間は大きな外側の世界に無力な小さな存在として置かれているだけだと考えるようになったのはいつからだろう。

ミヒャエル・エンデは、創世記の「初めに神は天と地をつくられた」という部分を、「初めに神は内と外をつくられた」と訳すべきだったと言っていた。

シュタイナーは、人間は死後、内界と外界が逆転すると言っている。
生前の自分の内面を、外側に拡がる世界として体験するわけだ。
何も外になく、何も内にない.....

内と外が別物だと思っていると、都合の悪いものは外側に投影しやすい。
悪いものは常に外側、他人の側にある・・・ユング的に言えば“シャドウ”だ。
そうして投影した外界も、結局はやがて自分で回収しなければならない。

ヘッセとユングの関係についてはよく知られている。
ヘッセとシュタイナーについては特に文献等で触れられていないけれど、実際にはかなり親しかったそうだ。
   
posted by Sachiko at 22:18 | Comment(4) | ヘルマン・ヘッセ
2019年11月07日

マウルブロン修道院

マウルブロン修道院は、ヘルマン・ヘッセの作品の中でも特に美しく香り高い『ナルチスとゴルトムント』(邦題「知と愛」)の中で、「マリアブロン修道院」という名で登場している。

マウルブロンの神学校は、ヘッセが少年時代に短いあいだ在籍し、逃げ出した場所だ。
神学校時代の苦難は「車輪の下」に描かれている。未来小説である最後の大作「ガラス玉演戯」の舞台も、マウルブロンがモデルのようだ。

ここはぜひ行きたい場所だった。
旅行者がほとんど行かないような町の駅裏のバスターミナルに着くと、ちょうどマウルブロン行のバスが来た。
行先表示板の「Maulbronn」の文字を見て大いに感激したのだった。

田舎道をしばらく走ったあと鐘楼の塔が見えてきたところで降り、湿った落ち葉の匂いがする坂道を下ると修道院があった。

今ではすっかり観光地として賑わっているらしいが、私が行った時はほとんど人がいなかった。しんとした回廊に沿って暗く冷たい石の僧房が並んでいた。

こんな僧房に、若い修道士ナルチスはいたのか....
物語は、少年ゴルトムントが父親の意向で神父になるべく修道院内の学校に編入させられたところから始まる。
だがナルチスは、ゴルトムントの本質が芸術家であると見抜いた。
あらゆる点で対極にある二人の友情は奇妙なものだった。

ナルチスの名言が幾つかある中で、私は特にこれが気に入っていた。

「神に対する愛は、必ずしも善に対する愛と一致しない。
ああ、それほど簡単ならいいんだが!」
(Die Liebe zu Gott, ist nicht immer eins der Liebe zum Guten. Ach, Wenn es so einfach wäre!)

運命に呼び醒まされたように、ゴルトムントが修道院を出ていく夜、長い修行中のナルチスを訪ねる。
それもこのような石の小部屋だったのだろう...と、回廊を歩きながら思った。

ここで感じたものは、晩秋のドイツの暗さと寒さ、中世の石造建築の重さ、そして....前にも書いたことがあっただろうか、時間の重さだ。

何世紀もの時間が層になって覆いかぶさってくるような....
暗い祭壇に灯るたくさんのロウソクの灯りも、空間だけでなく時間をも炙り出しているような気がした。
冬を前にした暗い11月には、時折あのずっしりとした時間を思い出す。

maulbronn.jpg
  
posted by Sachiko at 22:31 | Comment(2) | ヘルマン・ヘッセ
2019年08月03日

Calw

ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州にある小さな町、Calw...

Calwを何と読むのかは、カルヴとかカルプとかカルフとか諸説あったが、今はどうやらカルフで定着しているようだ。
この町へはどこを通って行ったのだったか、昔のことで記憶があやしげになっているが、たぶんテュービンゲンからだったと思う。

カルフはヘルマン・ヘッセ生誕の町だ。
生家は、私が行った時はブティックのような店になっていたが、今はどうなっただろう。家そのものはまだあるはずだ。

町なかには、「Demian」「Der Steppenwolf(荒野の狼)」など、ヘッセの作品名のついた店もあった。
ネッカーの支流ナゴルト川にかかる橋の上の小さなチャペル、これも作品の中に登場している。

私は「デミアン」以降の後期作品が好きだが、幾つかの美しい初期の短編も捨てがたい。作風が大きく変わったのは第一次大戦がきっかけだった。

シュタイナー研究者の高橋巌氏がある時、最も影響を受けた本が「デミアン」だと言われたのを聞いて驚いた。
「デミアン」に書かれているような思想が、きっとこの世界にはあるはずだ、それを探しにドイツに渡り、そこでシュタイナーの人智学に出会った、ということだった。

私も、一冊上げろと言われたら間違いなく「デミアン」なのだ。
この一冊については、いつかここで少しずつ書くかもしれないし、書かないかもしれない。簡単には手をつけられない気がする。

「車輪の下」が、中学生の読書感想文用の定番図書になっていたりしたので、多くの人がヘッセを甘い青春小説家と思って他の作品を読まなくなってしまうのは残念なことだ。

バーデン=ヴュルテンベルク州のあたりは古い名前ではシュヴァーベンと呼ばれ、シュヴァーベン気質は内省的でロマンティック、多くの詩人を輩出し、詩人の宝庫と言われていたそうだ。

教科書に載っていた「少年の日の思い出」は、現在は日本語でしか読めないという話を聞いたことがあるが、これは正確な情報ではない。

Das Nachtpfauenauge (ヤママユガ)というタイトルで、「Die schönsten Erzählungen(いちばん美しい物語)」というアンソロジーの中に入って、ずっとヘッセの本を出し続けていたズールカンプ社から出ている。

翻訳ではただ「客」となっていた人物にはハインリヒ・モールという名前があることがわかった。
この小品は何度か別の媒体で発表されてタイトルが変わったりしているので、少し書き換えられた部分があるのかもしれない。

hessebuch.jpg
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追記:
「少年の日の思い出」は日本語でしか読めないという話は、この作品は何度もタイトルを変えて別々の媒体で発表されたため、「少年の日の思い出(Jugendgedenken)」というタイトルのものは本国にも原文が残っておらず、日本語でしか読めないという意味だそうだ。
       
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(0) | ヘルマン・ヘッセ
2019年07月05日

「少年の日の思い出」

ヘルマン・ヘッセの短編「少年の日の思い出」は、日本で一番多く読まれている外国文学だそうだ。
もう70年以上も中学校の教科書に載り続けているからだ。

市内の中学校はみんな同じ教科書を使っていたはずなので、以前ある場所で尋ねてみたが、誰もこの作品を憶えている人はいなかった。私は大好きな作品だったのだけれど....

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私が惹かれたのは、物語そのもの以上に情景の美しさだった。物語の内容はかなり痛々しい...

子ども時代を思い出してまた蝶の蒐集を始めたという人が、彼の書斎にお客を迎えているところから始まる。物語のほとんどは、その友人の少年時代の回想話だ。

「…もうすっかり暗くなっているのに気づき、私はランプを取ってマッチをすった。すると、たちまち外の景色はやみに沈んでしまい、窓いっぱいに不透明な青い夜色に閉ざされてしまった。」

少し冷んやりしてきたであろう夏の夜の、青い空気の色、外の微風、葉擦れの音、野草の香り、ランプのほのかなオレンジ色の灯りなど、そこに描かれていないものも含めた光景が見えるような気がした。

お客である友人は、少年時代に熱心な蝶の蒐集家だったが、自分でその思い出をけがしてしまった....と言って、思い出を語り始めた。その夏の描写がまた美しい。

「…強くにおう乾いた荒野のやきつくような昼さがり、庭の中の涼しい朝、神秘的な森のはずれの夕方……

日なたの花にとまって、色のついた羽を呼吸とともにあげさげしているのを見つけると、捕える喜びに息もつまりそうになり、しだいにしのびよって、かがやいている色の斑点の一つ一つ、すきとおった羽の脈の一つ一つ、触覚の細いとび色の毛の一つ一つが見えてくると、その緊張と歓喜ときたら、なかった。」

そして彼はあるとき、そのあたりでは珍しい青いコムラサキを捕まえて展翅した。得意のあまり、それを隣の子どもにだけは見せようという気になった。

隣の少年エーミールについては、「…非の打ちどころがないという悪徳を持っていた。それは子どもとしては二倍も気味悪い性質だった」とある。結果、コムラサキの標本はこっぴどい批評にさらされてしまう。

二年後、エーミールがヤママユガをサナギからかえしたといううわさが広まった。本の挿絵でしか見たことのないその蝶をどうしても見たい、これが悲劇の始まりだった....


私は中学一年生の教科書をまだ持っているわけではなく、後になってこの短編が古いヘッセ全集に入っているのを見つけて手に入れたのだ。

物語の夏の情景は、自分の子ども時代と重なる。私は特に蝶の蒐集家ではなかったし、都会ではそう珍しい蝶も見られなかったが、網を持って昆虫を追うのは夏の遊びの定番だった。

男の子たちの中には、蝶の標本を作る道具のセットを持っている子もいた。展翅板や三角紙の中に収められたアゲハなどを見せてもらったのを憶えている。

当時12歳の私にとってこの短い物語は、去り行く子ども時代の情景を思い起こさせてくれるものであり、ヘルマン・ヘッセとドイツ文学に強く惹かれていくきっかけでもあった。

あとがきによれば、「少年の日の思い出」Jugendgedenken というタイトルは翻訳者がヘッセからもらった切り抜きについていたもので、最初に発表されたときの題は「ヤママユガ」Das Nachtpfauenauge だということだ。
  
  
posted by Sachiko at 21:41 | Comment(0) | ヘルマン・ヘッセ