2021年04月30日

ベルテーン

今日は、ケルト暦では初夏の祝祭ベルテーン。
ワルプルギスという呼び名のほうが知られていると思う。

ケルトの祝祭日の日付が表記によって1日ずれていることがあるのは、ケルト文化では一日の始まりが日没からで、日を跨ぐことになるからだ。

夏を迎えるための火の祭りなのだが、今年は雨で寒かった。
別に外でかがり火を焚いて目立つ儀式をしたりはしないので寒くてもかまわないけれど、この連休は場所によっては雪予報が出ている。

サバトの儀式にはケーキとビール(あるいはワイン)が使われる。
ケーキは、今のスポンジケーキのようなものを連想すると、きっと違うのだろう。木の実を使うこともあるらしい。
儀式用のケーキの話は、粉と油で作った菓子として、旧約聖書にも出てくる。


私は読んだことがないが、サマセット・モームの「お菓子とビール(Cakes and Ale)」という小説がある。

このタイトルについて、お菓子とビールとは奇妙な組み合わせだ、お菓子はビールのつまみにはならないだろうに...などと昔思っていた。
サバトの供え物のことなら納得がいく。

タイトルはシェイクスピアの作品からとられたそうで、小説の内容はサバトとは何の関係もなさそうだ。

こういうちょっとした言葉は、文化の背景を知らないとわかりにくい。
「おはぎ」や「ぼたもち」と聞けば日本人はお彼岸を連想するけれど、背景を知らない外国人から見れば単に変わった食べものということになる。


現代では、ほんものの季節の祝祭は失われてしまった。
身近な自然の移り変わりも、注意深く見ていなければ通り過ぎてしまう。

土地に根差した集合的な祭りはもうない。
けれど個人の内的な祝祭というものは、むしろ未来に向けて発展させることができるのではないかと思っている。

季節を祝い、自然とつながって生きる未来を選ぶのなら、古い叡智を自分自身の祭儀として迎え入れるのも道のひとつに思える。
  
posted by Sachiko at 22:33 | Comment(0) | ケルト
2021年02月01日

聖ブリギットの日

インボルク祭の前日、2月1日は聖ブリギットの日。

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)の中に、聖ブリギットについての美しい記述がある。

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聖ブリギットは、ケルトの女神であると同時にキリスト教の聖人でもあった。ブリギットは自身の内で、ごく自然に、ふたつの世界の両方に焦点を当てていた。

古い自然宗教の世界とキリスト教の世界は、アイルランド人の心においては対立することなく、むしろ互いに親密な関係にあった。
これは記憶の炉端のための美しい祈りである。


 女神ブリギット 我らを抱きたまえ
 子羊の聖女 我らを護りたまえ
 炉床の守護者 我らに火を与え
 あなたの炉端に 我らを集わせ
 我らを記憶へと連れ戻したまえ

 我らの母の中の母
 力強い祖先の母よ
 その手で我らを導き
 炉の火を燃やす
 術を伝えたまえ

 燃える火を絶やさず
 炎を保ち
 我らの手の上に御手を
 御手の内に我らを
 昼も夜も
 あかりを灯しつづけるために

 ブリギットのマントの下
 我らの中の記憶
 ブリギットの加護は
 危害、無知、無情から我らを護る
 昼も夜も
 明け方から闇夜まで
 闇夜から明け方まで

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インボルクは火と光の祭りであり、「胎の中」という意味があるそうだ。光が戻ってきて、大地の中で春が胎動を始める季節である。
ブリギットは大地を歩き、眠っている種を起こす。

地方によってはこの日にクリスマスツリーを片付け、クリスマスシーズンを終えるというところもある。
今回は濃い十二夜を過ごしたので、エピファニーを迎えて十二夜が明けたとき、それまでの聖夜の気分から抜けて、はっきりと空気が変わったのを感じた。

ブリギットの祭りは浄化の時とされる。
古い文化では闇が不浄とみなされていて、光が強くなりはじめる2月は、暗い時を洗い清める儀式が行われた。
キリスト教ではこれが、聖母マリアの浄めの祝日となった。

自然のサイクルと人々の暮らしが強く結びついていた時代の祝祭には、力強い土の香りがあり、祈りもまた現実的なはたらきを持っていたことだろう。

日本では明日は節分。一部の地方の風習だった恵方巻が商業主義に乗って全国区になったり、祝祭の力は悲しいほど薄いものになってしまった。
我が家では恵方巻は食べない。

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〈星の子〉  https://fairyhillart.net

starchild1.jpg
  
posted by Sachiko at 21:55 | Comment(0) | ケルト
2020年12月18日

心の中に美しいものを

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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魂は命を覆い護る自然の避難所である。
あなたが人生を通してこの避難所をたえず擦り減らしていたのでなければ、魂はあなたを包みこみ、やさしく気づかうことだろう。

困難な時は心の中にいつも何かしら美しいものを持っているがいい、という、ブレーズ・パスカルの思想を私は愛する。

ある詩人が言ったように、おそらく最後に我々を救うのは美ではないだろうか。

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美の力は現代においてあまりに過小評価されていると感じる。
「役に立つ」という大義名分で括ることができないからなのか。

美には治癒力があり、人間を新しくし、本来の道に目覚めさせる力がある。

美が純粋な姿で現れるのは、やはり自然界の中だろう。
自然の美は絶え間なく変化し、留まってはいない。
同じ空、同じ波は二度とない。
そこでは、同じこの世界の中にありながらどこか別次元に移されるようだ。

「“沈黙”は搾取することができない」と、マックス・ピカートが言ったように、葉擦れの音も、草の露も、そこに注ぐ陽光も、搾取することはできない。
沈黙と同様、こうした美もまた善霊によって守られているに違いない。

人生の最後に美が救ってくれるのだとしたら、これほどの希望はないと私は思う。
   
posted by Sachiko at 21:57 | Comment(2) | ケルト
2020年12月07日

ケルト十字

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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ケルト人は十字架をさえ、円環で囲むことで変容させた。
ケルト十字は美しいシンボルである。

十字架の木の周りの円環は、単純な二本の線の交点を孤独から救い出し、その荒涼とした直線性に安らぎと慰めを与えるかのようだ。

ケルト人にとっての自然界は、さまざまな異なる領域を有していた。
まず、見える世界の下には地下世界、妖精たちが住むトゥアハ・デ・ナーンがあった。

人間の世界は、地下世界と天界とのあいだにあり、その三つの世界を互いに閉ざし隔てる境界は存在しなかった。

上にあるのは、超感覚的な、高次の天界である。
これら三つの次元は、それぞれ互いに入り混じり重なりあっていた。

まさに、時間が全てを包含する円環であることは、自明のことと考えられる。

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十字のかたちについては、このような話がある。
(「クリスマスの秘密」ハンス=ヴェルナー・シュレーダー著より)

横軸は、人間の誕生から死までの時間軸。
そして誕生と死の門を超えて、人間存在は続く。
縦の軸は、上は天使たちのいる世界で、下は妖精たち、自然霊たちの世界。この認識は、ケルトの世界観と一致する。

そして十字架のふたつの軸の交点にキリスト意識がある。
その中心に立つ光として。


ケルト十字の円環には、光輪のイメージを持っていたが、それも遠からずだったようだ。
円環に囲まれたことで、十字架はより完全な調和を得たかに見える。

遠い過去に生まれたこの形は、実は十字架の未来における姿のようにも感じられる。
たしかに、ケルト十字は美しいシンボルだ。
  
posted by Sachiko at 22:06 | Comment(2) | ケルト
2020年11月13日

孤独の中の美

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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ただ孤独の中においてのみ、人は自身の美しさに出会う。
現代文明は外面の美にこだわり、美しさは標準化されている。
だが本来の美は、魂の輝きである。
孤独はただ寂しさには留まらず、魂の内に輝く暖かさを呼び起こす。

孤独の中で人はしばしば、社会生活や公の世界にいるよりもはるかに、安らいだ家郷の中心に近づく。内なる世界は人を喜び迎え入れる。

魂の内には、空間も時間もなく肉体も触れることのできない永遠の場所がある。人が真に必要としているものは、他の場所にはない。

真の友情と神聖さは、人を度々孤独の炉端を訪れるようにと誘うが、この恩恵は、他の人々をも同じ祝福へと招き入れるのである。

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表面的な寂しさはまだ孤独には至らず、波立つ水面のように、波を鎮めるものを外側に求めるだろう。
真の孤独は静かな水底の世界で、そこにこそ暖炉があるのだという。

以前書いた清水真砂子氏のインタビューにあった、「ひとりでいることはいけないことだ」と思い込まされていた学生たちの話を思い出す。
この時代には、敢えて孤独の淵に飛び込むのは怖いだろうか。

ここで書かれている孤独は、単に独りでいることを超えた魂の深奥の世界だ。
光輝いて温かなその場所は、逆説のようだけれど、すべての存在の深奥とつながっている。

「アナム カラ」という絆を見出せるのはこの炉端であると確信できれば、孤独は怖ろしくはないだろうけれど。
この章からは不思議に、行ったことのないアイルランドの荒涼とした野の景色が浮かんでくるようだ。
   
posted by Sachiko at 22:20 | Comment(2) | ケルト