2020年12月18日

心の中に美しいものを

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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魂は命を覆い護る自然の避難所である。
あなたが人生を通してこの避難所をたえず擦り減らしていたのでなければ、魂はあなたを包みこみ、やさしく気づかうことだろう。

困難な時は心の中にいつも何かしら美しいものを持っているがいい、という、ブレーズ・パスカルの思想を私は愛する。

ある詩人が言ったように、おそらく最後に我々を救うのは美ではないだろうか。

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美の力は現代においてあまりに過小評価されていると感じる。
「役に立つ」という大義名分で括ることができないからなのか。

美には治癒力があり、人間を新しくし、本来の道に目覚めさせる力がある。

美が純粋な姿で現れるのは、やはり自然界の中だろう。
自然の美は絶え間なく変化し、留まってはいない。
同じ空、同じ波は二度とない。
そこでは、同じこの世界の中にありながらどこか別次元に移されるようだ。

「“沈黙”は搾取することができない」と、マックス・ピカートが言ったように、葉擦れの音も、草の露も、そこに注ぐ陽光も、搾取することはできない。
沈黙と同様、こうした美もまた善霊によって守られているに違いない。

人生の最後に美が救ってくれるのだとしたら、これほどの希望はないと私は思う。
   
posted by Sachiko at 21:57 | Comment(2) | ケルト
2020年12月07日

ケルト十字

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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ケルト人は十字架をさえ、円環で囲むことで変容させた。
ケルト十字は美しいシンボルである。

十字架の木の周りの円環は、単純な二本の線の交点を孤独から救い出し、その荒涼とした直線性に安らぎと慰めを与えるかのようだ。

ケルト人にとっての自然界は、さまざまな異なる領域を有していた。
まず、見える世界の下には地下世界、妖精たちが住むトゥアハ・デ・ナーンがあった。

人間の世界は、地下世界と天界とのあいだにあり、その三つの世界を互いに閉ざし隔てる境界は存在しなかった。

上にあるのは、超感覚的な、高次の天界である。
これら三つの次元は、それぞれ互いに入り混じり重なりあっていた。

まさに、時間が全てを包含する円環であることは、自明のことと考えられる。

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十字のかたちについては、このような話がある。
(「クリスマスの秘密」ハンス=ヴェルナー・シュレーダー著より)

横軸は、人間の誕生から死までの時間軸。
そして誕生と死の門を超えて、人間存在は続く。
縦の軸は、上は天使たちのいる世界で、下は妖精たち、自然霊たちの世界。この認識は、ケルトの世界観と一致する。

そして十字架のふたつの軸の交点にキリスト意識がある。
その中心に立つ光として。


ケルト十字の円環には、光輪のイメージを持っていたが、それも遠からずだったようだ。
円環に囲まれたことで、十字架はより完全な調和を得たかに見える。

遠い過去に生まれたこの形は、実は十字架の未来における姿のようにも感じられる。
たしかに、ケルト十字は美しいシンボルだ。
  
posted by Sachiko at 22:06 | Comment(2) | ケルト
2020年11月13日

孤独の中の美

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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ただ孤独の中においてのみ、人は自身の美しさに出会う。
現代文明は外面の美にこだわり、美しさは標準化されている。
だが本来の美は、魂の輝きである。
孤独はただ寂しさには留まらず、魂の内に輝く暖かさを呼び起こす。

孤独の中で人はしばしば、社会生活や公の世界にいるよりもはるかに、安らいだ家郷の中心に近づく。内なる世界は人を喜び迎え入れる。

魂の内には、空間も時間もなく肉体も触れることのできない永遠の場所がある。人が真に必要としているものは、他の場所にはない。

真の友情と神聖さは、人を度々孤独の炉端を訪れるようにと誘うが、この恩恵は、他の人々をも同じ祝福へと招き入れるのである。

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表面的な寂しさはまだ孤独には至らず、波立つ水面のように、波を鎮めるものを外側に求めるだろう。
真の孤独は静かな水底の世界で、そこにこそ暖炉があるのだという。

以前書いた清水真砂子氏のインタビューにあった、「ひとりでいることはいけないことだ」と思い込まされていた学生たちの話を思い出す。
この時代には、敢えて孤独の淵に飛び込むのは怖いだろうか。

ここで書かれている孤独は、単に独りでいることを超えた魂の深奥の世界だ。
光輝いて温かなその場所は、逆説のようだけれど、すべての存在の深奥とつながっている。

「アナム カラ」という絆を見出せるのはこの炉端であると確信できれば、孤独は怖ろしくはないだろうけれど。
この章からは不思議に、行ったことのないアイルランドの荒涼とした野の景色が浮かんでくるようだ。
   
posted by Sachiko at 22:20 | Comment(2) | ケルト
2020年11月06日

「輝く子供」

W・B・イエイツ編「ケルト幻想物語」には、魔女や巨人、王族や聖者の伝説、幽霊譚などが集められている。
妖精については、姉妹編の「ケルト妖精物語」のほうに収録されている。

幽霊話の中で私が一番好きなのが「輝く子供」という、3ページほどの短い物語だ。

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ある日、狩りの獲物を追って道に迷ったスチュワート大尉は、ある邸に一夜の宿を求めた。
主人は、その日は来客が大勢あり充分なもてなしはできないと言いながらも、執事に客の接待を言いつけた。

執事が案内した部屋には、家具はほとんどなく、暖炉に泥炭が明るく燃え、急ごしらえのベッドが置いてあった。
大尉は、燃えさかっている暖炉の火を少し落としてから眠りについた。

二時間ほどたって不意に目を覚ますと、部屋は燃えるように明るかった。暖炉の火は消えていて、光は煙突から射していた。

光の正体を見ると、眩い光に包まれた美しい裸の少年が目に入った。少年は大尉を見つめていたがやがて消え、あたりは真暗になった。

大尉は誰かの悪ふざけだと思い腹を立てた。主人は何か失礼があったことを知り、訳を尋ねた。主人には思い当たることがあり、執事を呼んで言った。
「昨夜、スチュワート大尉はどの部屋に休まれたのか?」

執事は答えた。
「どの部屋もいっぱいでしたので、『子供の部屋』にお連れしました。子供が出てきませんよう、火を盛んに燃やしておきましたが」

主人はこの家に伝わる云い伝えを打ち明けた。
『輝く子供』を見た者は、必ず最高の権力に到達する。が、頂点に達するや、非業の最期を遂げるだろう...というのだった。

「『輝く子供』が現われたことは記録にも残っておりますが、それを見ると確かにこの言い伝えどおりになっているのです」

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ここにも、泥炭の燃える暖炉が出てくる。
幽霊話の章に入っているが、子供が幽霊なのか何なのかはよくわからない。

火と暗闇と輝く子供、この単純なコントラストがいっそう不思議さを掻き立て、大尉が逃れられない運命を刻印されてしまったことを突きつける。

ケルト民族は、この世と異界のあいだを容易に行き来していたという。
神秘な薄明りの中を漂うことが自然であるような人々が存在した地は、時間的も空間的にも遥か遠いのに、郷愁を誘う。

本には、ドロシー・ラスロップの魅惑的な絵が添えられている。
   
posted by Sachiko at 22:25 | Comment(2) | ケルト
2020年11月01日

炉端の物語

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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アイルランド西部では、多くの家に直火の暖炉がある。
冬に、凍てつく荒涼とした景色の中を歩いてどこかの家を訪ねると、そこには暖かい炉端と火の魔法が待っている。

泥炭の焚火は古い時代からあった。
泥炭は大地から取り出され、遥か遠い時代の木々や野原の思い出を運んでくる。
家の中で、そこに馴染みきったように土くれが燃えているのは不思議なことだ。

愛すべき炉端のイメージは、家の象徴であり、温かい帰還の場所だ。
すべての人の内なる孤独の中には、明々と輝く暖かい炉端がある。

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今日はケルトの新年で、これから冬の半年に入る。
凍てつく冬と暖かい炉端はひとつだ。
炉端で語られる冬の夜話は、不思議に満ちていたことだろう。

ここに書かれているように、内界においても、孤独が深ければいっそう沁みるように暖かい暖炉が奥にあるのだろう。
そこで燃えるものは、広大な魂の大地から取ってこられたものに違いない。


幼い頃訪ねた田舎の親族の家には、まだ囲炉裏があった。
当時は何か田舎じみて古臭いもののように思ったが、家の真ん中に燃える火が陣取っていてそこに人々を集めるということは、まさに家の象徴としての力を持っていたのだ。

あの火の力を思うと、真冬でもスイッチひとつで家の隅々まで快適な温度を保つ現代の都会の家は、“帰る場所”としての求心力が弱いのか、むしろどこか寒々しさを感じてしまう。

今週の天気予報には、ついに雪マークがついた。
せめて内なる暖炉の火を見つめてみよう。
   
posted by Sachiko at 22:16 | Comment(4) | ケルト