2021年10月04日

「10月はたそがれの国」

10月になったので今日はこれを出そう。
「華氏451度」の話で、レイ・ブラッドベリは私にとっては“青春のブラッドベリ”である、と書いた。
まだ日本ではほとんど知られていなかったハロウィーンという行事について知ったのも、ブラッドベリの作品からだった。

ブラッドベリにハマる人は、ほとんどが10代の時にハマる。その先どうなるかは人によるだろう。
私は一時期手に入るかぎりの作品を読んだけれど、ある時離れてしまった。

不意に、それらの作品群を追って行っても、ブラッドベリ氏の家の屋根裏部屋で(そこは魅力的な宝物でいっぱいだったが)行き止まりになってしまう気がしたのだ。


「10月はたそがれの国」は訳が秀逸で、このタイトルも、元は単に“THE OCTOBER COUNTRY"なのだ。中身は19編の短編から成る。

ファンが多い「みずうみ」は、子ども時代の初恋の少女の話だ。
少女は湖で溺れ、遺体はみつからなかった。

大人になり、男は新婚旅行で故郷の地を訪ねる。滞在の最後の日に湖畔で目撃したものが、一気に時を12歳の昔に戻した。
監視人が、10年ものあいだ発見されなかった子どもの溺死体を見つけたのだ。彼女は永遠に幼いままだ。

みぎわには、子どもの頃作ったとおりの半分作りかけの砂の城と、湖に戻っていく小さな足あとがあった。

「ぼくも、仕上げを手伝おう」・・・・


もう一つ、私が好きだった「集会」。
万聖節のイブ(ハロウィーン)のために、人間ではなさそうな奇妙な一族の人々が世界中から集まってくる。

病弱なティモシー少年は、みんなとは違っていた。一族のみんなのように強くなりたい....
妹のシシーは、ベッドに横たわったままどこにでもトリップし、他の人の中に入り込むこともできる。

前の日、ティモシーは外に出て毒キノコや毒グモを集め、家族による黒ミサと逆祈祷の簡単な儀式が行われた。

夜中になると、次々と人々が到着した。
緑色の翼を持つエナー伯父が、不思議な力で少年の身体を操り、高く飛ばせた。すばらしい体験だった。

真夜中から明け方まで、酒宴は盛り上がる。
遠くの時計が6時を打つと、パーティは終わった。次の集会はまた何十年も後だ。エジプトの屍衣を着た大祖母も来るだろう。
ティモシーはその時まで生きていられるだろうか、と思う。

ママがやってきて、わたしたちはおまえを愛している、と言った。
たとえ遠くへ行ってしまうとしても、万聖節の宵祭にはやってきて、おまえが安らかに眠れるように気をつけてあげる、と・・・



ブラッドベリはよく“エドガー・アラン・ポーの遺鉢を継ぐ”と評されているけれど、私はポーはほとんど読んだことがない。

いわゆる幻想文学のジャンルに属するのだろうが、ブラッドベリからは、大人の幻想文学に色濃くある頽廃性をほとんど感じない。主人公も少年である場合が多い。
10代の頃に出会い、大人になるとそこを出て行く世界に見えるのもそういうことなのか、と思う。

けれど子ども時代の思い出のように、時折その断片が戻ってくることもある。「10月はたそがれの国」の前書きは、秋の気分にふさわしい。

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・・・・いつの年も、末ちかくあらわれ、丘に霧が、川に狭霧がたちこめる。昼は足早に歩み去り、薄明が足踏みし、夜だけが長々と坐りこむ。

地下室と穴蔵、石炭置場と戸棚、屋根裏部屋を中心にした国。台所までが陽の光に横をむく。

住む者は秋の人々。秋のおもいを思い、夜ごと、しぐれに似たうつろの足音を立て・・・・

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posted by Sachiko at 22:19 | Comment(0) | SF
2021年07月30日

「華氏451度」・7

仕事に戻ったモンターグが通報を受けて出動した先は、本を隠し持っていたモンターグ自身の家だった。
ベイティーの命令で彼は家を焼き払うが、最後には挑発するベイティーに火炎放射器を向ける。

犯罪者になったモンターグは再びフェーバーを訪ねて逃げ道を教えてもらい、たどり着いた先には、自然の香りが満ちている土地があった.....


小説版と映画版ではラストがかなり違っていて、私は映画版が印象に残っている。

ひとりの人間が一冊の本になり、自分の記憶の中にそれを保存している世界。彼らは「ブックピープル」と呼ばれる。

老人が孫に自分の「本」を引き継いでもらうべく口承しているシーンや、ブックピープルたちがそれぞれ自分の「本」を、忘れないように暗唱しながら行き交う光景。

人々が一体化している本はほとんどが、時代を超えて読み継がれるような文学や哲学、宗教書だ。

人が統計的データとして記号化されてしまわないように、言葉を生き、物語を生きる必要がある。
たとえ本を丸暗記しなくても、ひとりの人間はオリジナルな自分自身の物語なのだ。


人は舞台を観るときには神の目で見る、と言ったのはミヒャエル・エンデだったか...
舞台の上の物語はこの世の道徳律とは別の法則の元にある。

舞台上でオセロがデズデモーナを絞殺しようとしても、観客は止めに駆けつける必要はない、観る人はその殺人も含めたすべてを、別の次元から見て受け入れる・・・という話だった。

(ただしあくまでも、劇場という特別な場所に出かけて舞台を観るという非日常次元において。テレビのように日常の中に入り込んでしまうと逆効果になる。)

舞台を観るように、人生の物語を神の目で見るならどうだろう。
悲劇も喜劇も平凡な日常も、それに同化して巻き込まれることなく味わうとき、この短い詩の一節のようになれたら美しい。

  いま響く 昔のしらべ

  幸も悲しみも歌となる (ゲーテ)
   
posted by Sachiko at 21:02 | Comment(0) | SF
2021年07月20日

「華氏451度」・6

まだ続く「華氏451度」。
モンターグは老婦人の家を燃やした時以降、仕事の度に少しずつ本を家に持ち帰っていた。
本を読むことの中には、何か重要なものがあるのかもしれない....

最後にもうひとりの人物、元大学教授のフェーバーが登場する。
彼は以前、本を持っているところをモンターグが見逃してやったのだ。
なぜ“元”なのかと言えば、大学が閉校になったからだ。

本を読むことが禁じられたこの時代の教育はどうなっていたのだろう。
本を読んで考えを巡らせ感情を味わうこととは対極のような、コンピュータによるデータ処理やプログラミングがメインになっていたのだろうか。


家を訪ねてきたモンターグに、フェーバーは語る。
彼はかつて焚書計画が進行していった時、声を上げる勇気を持てなかったことを悔いているのだ。

本そのものではなく内容が重要だと言ったのはフェーバーだ。
そして、本を読むことがもたらすゆっくりした時間と、能動的にものを考えること、それらが失われたのは必ずしもテレビのせいだけではなく、人々が自発的に読むのをやめてしまったからだ、とフェーバーは言う。


本は「言葉」で書かれている。
言葉は単なるコミュニケーションの道具だと考える人が今では多いらしい。
SNSなどで使われる略語でも、とりあえず意味は通じるかもしれないが.....それは、かつて言葉だったのが記号化されたものだ。

マックス・ピカートが『沈黙の世界』の中で書いている“騒音語”という言葉を思い出す。
人間という背景を失って記号化された言葉は、その騒音語ですらないものに解体されて見える。

現代語の記号化断片化のプロセスは、まさに華氏451度の世界に重なる。
「わたしの言葉」が、魂を伴わない、意味伝達のみの記号と化したとき、「わたし」は何者でどこにいるのだろう。
  
posted by Sachiko at 22:29 | Comment(2) | SF
2021年07月11日

「華氏451度」・5

老婦人が本といっしょに燃えてしまったことに罪悪感を抱くモンターグのところに、上司のベイティーが訪ねてきて焚書の歴史を語りはじめた。

マスメディアの台頭によって内容の単純化が始まり、さらに社会のスピードアップによって、人々はゆっくりものを考えなくなった。
生活は仕事と娯楽だけ。安易で刹那的な快楽を求める傾向が知性の劣化を招いた。

そして、こうしたことは必ずしも権力のせいではなく、人々が自ら望んで招いたことだとベイティーは巧みに語る。

均質化=平等、難しいことを考えない安楽=幸福、思考を巡らし悩むこと=不幸....
だから、不幸をもたらす本とそれを読む者は抹殺する。人々を安心させ幸福にするためだ...と。

ピラミッド型権力構造の元では、大衆が愚かであるほど支配しやすい。
ベイティーはこのシステムを熟知しているが、モンターグのように疑問は持たない。ベイティーは二重の意味で「頭」の人間なのだ。


これはいつの時代のどこの話だろう?なんだかとてもリアルに見えるのだけれど。

どんな権力者も、支持者がいなければその座に立つことはできない、ただの裸の王様になってしまう。
そのために多くの網が張られている。

乗らなければ遅れてしまうと思わせる流行、自分と同じような周囲の人々の様子をうかがい、みんながそうしている正しそうなことに従おうとして、マスメディアが煽る通りに行動する人々...
この作品ではミルドレッドに象徴されている。


けれどほんとうに、人間はそれほど完全に騙されきってしまうものなのだろうか。
ファイアマンのいるシステム社会でさえ、異端のクラリスを生み出し、モンターグは少しずつ意識を変えはじめる。

本の背後には人間がいることに、モンターグは気付く。
「本」というものも、ここではひとつのシンボルになる。

背後にいる「人間」は、社会が要求するミルドレッドのような人間ではないはずだ。実際、これが幸福だと示されるとおりに生きながら、ミルドレッドは幸福ではない。

ふと、サン=テグジュペリの造語である「真人間」という言葉を思い出したが、本筋から逸れてしまいそうなので少し触れておくに留める。

つまり、表面的には凡庸な人間の深奥にいる、本来そうあるべき真の人間の姿である。
本の背後にいる、本を読む人々は、「真人間」に向かって模索し思考する人々、ベイティーが属する権力にとっては好ましくない人々なのだ。
  
posted by Sachiko at 22:27 | Comment(2) | SF
2021年07月04日

「華氏451度」・4

これは先月放送されていたEテレの「100分de名著・華氏451度」に基づいている。
第三回の「自発的に隷従するひとびと」というテーマは、まさに現在の様相を思わせる。

他人、特に力を持つ存在に“決めて”もらいたい、「強いリーダー」に従いたがる人々はいつの時代にもいる。
その裏返しのようにも見えるが、自分の立場を権力の側に置いてしまう人々も、いつの時代にもいる。

「もっと厳しく取り締まるべき」などと言う人は、自分が取り締まられる側になり得ることは想定していないらしい。そうして自主的に「○○警察」になったりする(誰も頼んでいないのに)。


ヴィクトル・フランクルの『夜と霧---ドイツ強制収容所の体験記録』の中に、興味深い記述がある。

収容所のユダヤ人たちを直接虐げたのは、実はナチスの人間ではなかった、という話だ。

ナチス側は、囚人たちの中から最も低劣な人物を選び出し、彼を囚人たちのリーダーに据える。これは自分の手を汚さずに効率よく囚人たちを支配するやり方だった。
不相応な疑似権力を手にしたその男は、喜んで仲間たちに残虐なふるまいをするようになる、と。

フランクルはこう語っている。
「彼は、出世したと思っているのだ。」


本題に戻ると、主人公モンターグは、本と一緒に燃えてしまうことを選んだ老婦人に強い衝撃を受ける。
そんなことまでするとは、本とはいったい何なのか。

本の背後には、かならず人間がいる。本を燃やすことは、人の人生を燃やすことだ。

自分の仕事に懐疑的になりはじめたモンターグのところに、上司のベイティーが訪ねてきた。
このベイティーの話が実に今日的なのだけれど、それはまた次回に。
  
posted by Sachiko at 22:51 | Comment(0) | SF