星新一のショートショート「生活維持省」は「ボッコちゃん」という短編集に入っていて、中でも印象的な話だった。
読んだのは高校生の頃で、本も今は手元にないが、大筋はこんな話だ。
戦争も犯罪も公害もない、豊かで平和な世界というユートピアの仮面をかぶったディストピアの物語。
その平和な世界を維持しているのは、“人口調整”のシステムだった。
システムを遂行する生活維持省の職員は、毎日コンピュータで無作為に選ばれた人間を殺す役割を持っている。
ある日職員の男は、アリサという少女の家に行く。
彼女は留守で、出てきた母親は彼の身分を知ると、「死神...」とつぶやく。
「なにもアリサを、これまで育ってきたかわいいアリサを!」
抗議する母親に対し、このシステムをやめればまた昔のような混乱した世の中になってしまう、決定には従うしかない、と諭す。
森で木いちごを摘み、歌いながら帰ってきたアリサは、何も知らないまま光線銃で射ち殺される。
次の行先を訪ねる同僚に、男は「さっき通った小川のほとりがいいな」と答える。
「いいなって何だい、休むつもりかい」
男は次の名前のリストを見せる。そこには彼自身の名前が書かれていた...
書かれたのは1960年で、もう60年以上も前のことだ。
にもかかわらず、妙に今日的に見える。
かつての世界の混乱は、人口過剰が原因だった。
“安心安全”で平和な世界を実現するために作られた、政府による人口削減システム....
毎日一定数の人々が突然、“消されて”いく。
アリサの母親のように、理不尽に愛する者を失う人々もまた日々増えていくはずだが、いつかシステムに抗議して立ちあがる人々が現われることはないのだろうか。
それとも、かつての混乱した世界に戻るより、このロシアンルーレットを受け入れる方がまだましだと思うのか...
あるいは、物語には書かれていないが、身近な人たちからは、その人が存在したという記憶すら消されてしまうということは?
それなら抗議集団が現われることはないだろうけれど....
リストに自分の名前を見出した男は、この平和な世界にこれだけ生きられて楽しかったと、すべてを受け入れているように見える。
物語の中では戦争も犯罪も貧困も過去のもので、生活維持省職員の車は、豊かで平和な美しい街並をゆく。
選ばれた少女が帰宅する様子も、いかにも穏やかで幸福そうな雰囲気の中にある。
その明るい空気感の描写が、じわりと怖い。
2022年06月29日
「生活維持省」
posted by Sachiko at 22:02
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| SF
2022年05月31日
異端狩り
SFのひとつのジャンルとして超能力テーマがあるが、異端の超能力者はたいてい迫害される。
例えばヴァン・ヴォクトの古典的名作『スラン』。
ミュータントの種族「スラン」が、人類によって激しい迫害を受けるが、テレパシーなどの超能力によって、隠れている仲間を探し出す。
主人公がスランの少女と通りですれ違い、テレパシーで互いを認識するシーンをなぜかはっきり憶えている。
「この青年はスランだわ」
「この娘はスランなのだ」
この本は昔持っていたけれど、もうSFは読まないだろうと思って手放してしまった。
先日ふと思い出して調べてみたら今は絶版になっていて、古本にとんでもない価格がついている。本はうっかり手放すものじゃない(>_<)。
迫害されるのは超能力者とは限らない。
以前紹介したブラッドベリの『華氏451度』に登場する少女クラリスは、別に超能力者ではない。
ただ雨の感触を楽しみ、月や草の露の美しさを見る。
それが、不都合なのだ。そして事故を装って消されてしまう。
クラリスによく似た少女の話がある。
萩尾望都さんの初期の短編『ポーチで少女が子犬と』。
幼い少女は超能力者でも何でもなく、ただ雨の日にポーチで子犬と遊んでいる。虹を美しいと思い、葉っぱの裏の妖精のことを考える。
それがどうやら不都合なのだ。
「あんなふうにひとりだけ別個の考えを持っていちゃ困るんですよ。雨の日は家の中にいるべきです。」
そして、家族と家政婦と医者は、少女に指先を向ける。
何かの光線でも発射されたのか、少女は一瞬で消滅する。
何がそんなに不都合なのだろう。
異端狩りはいつの時代にもあった。
先住民迫害、魔女狩り、違う宗派、違うイデオロギー....
動機はいつも“恐怖”だ。
自分たちとは違う少数派。少数なのに、なぜそんなに怖い?
自分が迫害されないために多数派に入ろうとした者も少なくなかっただろう。そうすると、敢えてそうしない者が余計に怖く感じるかもしれない。
これも以前書いたミヒャエル・エンデの言葉をもう一度。
「注目できるのは、世界中の独裁者がファンタジー文学や想像力を敵視したという事実です。彼らはファンタジーの中に、何かアナーキーなものが隠れていると感じたんです。こうしたことからもファンタジーは、人間が持っている創造的な力ということができると思います。」
つまりは自由な想像&創造の力「人間であること」の力そのものが、独裁者にとっては不都合なのだ。
どんな異端狩りも狂気じみているけれど、そもそも歴史の中で、人類が集団的狂気に陥っていない時代があっただろうか。
今この時代にも、あの手この手で・・・・
例えばヴァン・ヴォクトの古典的名作『スラン』。
ミュータントの種族「スラン」が、人類によって激しい迫害を受けるが、テレパシーなどの超能力によって、隠れている仲間を探し出す。
主人公がスランの少女と通りですれ違い、テレパシーで互いを認識するシーンをなぜかはっきり憶えている。
「この青年はスランだわ」
「この娘はスランなのだ」
この本は昔持っていたけれど、もうSFは読まないだろうと思って手放してしまった。
先日ふと思い出して調べてみたら今は絶版になっていて、古本にとんでもない価格がついている。本はうっかり手放すものじゃない(>_<)。
迫害されるのは超能力者とは限らない。
以前紹介したブラッドベリの『華氏451度』に登場する少女クラリスは、別に超能力者ではない。
ただ雨の感触を楽しみ、月や草の露の美しさを見る。
それが、不都合なのだ。そして事故を装って消されてしまう。
クラリスによく似た少女の話がある。
萩尾望都さんの初期の短編『ポーチで少女が子犬と』。
幼い少女は超能力者でも何でもなく、ただ雨の日にポーチで子犬と遊んでいる。虹を美しいと思い、葉っぱの裏の妖精のことを考える。
それがどうやら不都合なのだ。
「あんなふうにひとりだけ別個の考えを持っていちゃ困るんですよ。雨の日は家の中にいるべきです。」
そして、家族と家政婦と医者は、少女に指先を向ける。
何かの光線でも発射されたのか、少女は一瞬で消滅する。
何がそんなに不都合なのだろう。
異端狩りはいつの時代にもあった。
先住民迫害、魔女狩り、違う宗派、違うイデオロギー....
動機はいつも“恐怖”だ。
自分たちとは違う少数派。少数なのに、なぜそんなに怖い?
自分が迫害されないために多数派に入ろうとした者も少なくなかっただろう。そうすると、敢えてそうしない者が余計に怖く感じるかもしれない。
これも以前書いたミヒャエル・エンデの言葉をもう一度。
「注目できるのは、世界中の独裁者がファンタジー文学や想像力を敵視したという事実です。彼らはファンタジーの中に、何かアナーキーなものが隠れていると感じたんです。こうしたことからもファンタジーは、人間が持っている創造的な力ということができると思います。」
つまりは自由な想像&創造の力「人間であること」の力そのものが、独裁者にとっては不都合なのだ。
どんな異端狩りも狂気じみているけれど、そもそも歴史の中で、人類が集団的狂気に陥っていない時代があっただろうか。
今この時代にも、あの手この手で・・・・
posted by Sachiko at 22:34
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| SF
2021年10月04日
「10月はたそがれの国」
10月になったので今日はこれを出そう。
「華氏451度」の話で、レイ・ブラッドベリは私にとっては“青春のブラッドベリ”である、と書いた。
まだ日本ではほとんど知られていなかったハロウィーンという行事について知ったのも、ブラッドベリの作品からだった。
ブラッドベリにハマる人は、ほとんどが10代の時にハマる。その先どうなるかは人によるだろう。
私は一時期手に入るかぎりの作品を読んだけれど、ある時離れてしまった。
不意に、それらの作品群を追って行っても、ブラッドベリ氏の家の屋根裏部屋で(そこは魅力的な宝物でいっぱいだったが)行き止まりになってしまう気がしたのだ。
「10月はたそがれの国」は訳が秀逸で、このタイトルも、元は単に“THE OCTOBER COUNTRY"なのだ。中身は19編の短編から成る。
ファンが多い「みずうみ」は、子ども時代の初恋の少女の話だ。
少女は湖で溺れ、遺体はみつからなかった。
大人になり、男は新婚旅行で故郷の地を訪ねる。滞在の最後の日に湖畔で目撃したものが、一気に時を12歳の昔に戻した。
監視人が、10年ものあいだ発見されなかった子どもの溺死体を見つけたのだ。彼女は永遠に幼いままだ。
みぎわには、子どもの頃作ったとおりの半分作りかけの砂の城と、湖に戻っていく小さな足あとがあった。
「ぼくも、仕上げを手伝おう」・・・・
もう一つ、私が好きだった「集会」。
万聖節のイブ(ハロウィーン)のために、人間ではなさそうな奇妙な一族の人々が世界中から集まってくる。
病弱なティモシー少年は、みんなとは違っていた。一族のみんなのように強くなりたい....
妹のシシーは、ベッドに横たわったままどこにでもトリップし、他の人の中に入り込むこともできる。
前の日、ティモシーは外に出て毒キノコや毒グモを集め、家族による黒ミサと逆祈祷の簡単な儀式が行われた。
夜中になると、次々と人々が到着した。
緑色の翼を持つエナー伯父が、不思議な力で少年の身体を操り、高く飛ばせた。すばらしい体験だった。
真夜中から明け方まで、酒宴は盛り上がる。
遠くの時計が6時を打つと、パーティは終わった。次の集会はまた何十年も後だ。エジプトの屍衣を着た大祖母も来るだろう。
ティモシーはその時まで生きていられるだろうか、と思う。
ママがやってきて、わたしたちはおまえを愛している、と言った。
たとえ遠くへ行ってしまうとしても、万聖節の宵祭にはやってきて、おまえが安らかに眠れるように気をつけてあげる、と・・・
ブラッドベリはよく“エドガー・アラン・ポーの遺鉢を継ぐ”と評されているけれど、私はポーはほとんど読んだことがない。
いわゆる幻想文学のジャンルに属するのだろうが、ブラッドベリからは、大人の幻想文学に色濃くある頽廃性をほとんど感じない。主人公も少年である場合が多い。
10代の頃に出会い、大人になるとそこを出て行く世界に見えるのもそういうことなのか、と思う。
けれど子ども時代の思い出のように、時折その断片が戻ってくることもある。「10月はたそがれの国」の前書きは、秋の気分にふさわしい。
------------
・・・・いつの年も、末ちかくあらわれ、丘に霧が、川に狭霧がたちこめる。昼は足早に歩み去り、薄明が足踏みし、夜だけが長々と坐りこむ。
地下室と穴蔵、石炭置場と戸棚、屋根裏部屋を中心にした国。台所までが陽の光に横をむく。
住む者は秋の人々。秋のおもいを思い、夜ごと、しぐれに似たうつろの足音を立て・・・・
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「華氏451度」の話で、レイ・ブラッドベリは私にとっては“青春のブラッドベリ”である、と書いた。
まだ日本ではほとんど知られていなかったハロウィーンという行事について知ったのも、ブラッドベリの作品からだった。
ブラッドベリにハマる人は、ほとんどが10代の時にハマる。その先どうなるかは人によるだろう。
私は一時期手に入るかぎりの作品を読んだけれど、ある時離れてしまった。
不意に、それらの作品群を追って行っても、ブラッドベリ氏の家の屋根裏部屋で(そこは魅力的な宝物でいっぱいだったが)行き止まりになってしまう気がしたのだ。
「10月はたそがれの国」は訳が秀逸で、このタイトルも、元は単に“THE OCTOBER COUNTRY"なのだ。中身は19編の短編から成る。
ファンが多い「みずうみ」は、子ども時代の初恋の少女の話だ。
少女は湖で溺れ、遺体はみつからなかった。
大人になり、男は新婚旅行で故郷の地を訪ねる。滞在の最後の日に湖畔で目撃したものが、一気に時を12歳の昔に戻した。
監視人が、10年ものあいだ発見されなかった子どもの溺死体を見つけたのだ。彼女は永遠に幼いままだ。
みぎわには、子どもの頃作ったとおりの半分作りかけの砂の城と、湖に戻っていく小さな足あとがあった。
「ぼくも、仕上げを手伝おう」・・・・
もう一つ、私が好きだった「集会」。
万聖節のイブ(ハロウィーン)のために、人間ではなさそうな奇妙な一族の人々が世界中から集まってくる。
病弱なティモシー少年は、みんなとは違っていた。一族のみんなのように強くなりたい....
妹のシシーは、ベッドに横たわったままどこにでもトリップし、他の人の中に入り込むこともできる。
前の日、ティモシーは外に出て毒キノコや毒グモを集め、家族による黒ミサと逆祈祷の簡単な儀式が行われた。
夜中になると、次々と人々が到着した。
緑色の翼を持つエナー伯父が、不思議な力で少年の身体を操り、高く飛ばせた。すばらしい体験だった。
真夜中から明け方まで、酒宴は盛り上がる。
遠くの時計が6時を打つと、パーティは終わった。次の集会はまた何十年も後だ。エジプトの屍衣を着た大祖母も来るだろう。
ティモシーはその時まで生きていられるだろうか、と思う。
ママがやってきて、わたしたちはおまえを愛している、と言った。
たとえ遠くへ行ってしまうとしても、万聖節の宵祭にはやってきて、おまえが安らかに眠れるように気をつけてあげる、と・・・
ブラッドベリはよく“エドガー・アラン・ポーの遺鉢を継ぐ”と評されているけれど、私はポーはほとんど読んだことがない。
いわゆる幻想文学のジャンルに属するのだろうが、ブラッドベリからは、大人の幻想文学に色濃くある頽廃性をほとんど感じない。主人公も少年である場合が多い。
10代の頃に出会い、大人になるとそこを出て行く世界に見えるのもそういうことなのか、と思う。
けれど子ども時代の思い出のように、時折その断片が戻ってくることもある。「10月はたそがれの国」の前書きは、秋の気分にふさわしい。
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・・・・いつの年も、末ちかくあらわれ、丘に霧が、川に狭霧がたちこめる。昼は足早に歩み去り、薄明が足踏みし、夜だけが長々と坐りこむ。
地下室と穴蔵、石炭置場と戸棚、屋根裏部屋を中心にした国。台所までが陽の光に横をむく。
住む者は秋の人々。秋のおもいを思い、夜ごと、しぐれに似たうつろの足音を立て・・・・
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posted by Sachiko at 22:19
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| SF
2021年07月30日
「華氏451度」・7
仕事に戻ったモンターグが通報を受けて出動した先は、本を隠し持っていたモンターグ自身の家だった。
ベイティーの命令で彼は家を焼き払うが、最後には挑発するベイティーに火炎放射器を向ける。
犯罪者になったモンターグは再びフェーバーを訪ねて逃げ道を教えてもらい、たどり着いた先には、自然の香りが満ちている土地があった.....
小説版と映画版ではラストがかなり違っていて、私は映画版が印象に残っている。
ひとりの人間が一冊の本になり、自分の記憶の中にそれを保存している世界。彼らは「ブックピープル」と呼ばれる。
老人が孫に自分の「本」を引き継いでもらうべく口承しているシーンや、ブックピープルたちがそれぞれ自分の「本」を、忘れないように暗唱しながら行き交う光景。
人々が一体化している本はほとんどが、時代を超えて読み継がれるような文学や哲学、宗教書だ。
人が統計的データとして記号化されてしまわないように、言葉を生き、物語を生きる必要がある。
たとえ本を丸暗記しなくても、ひとりの人間はオリジナルな自分自身の物語なのだ。
人は舞台を観るときには神の目で見る、と言ったのはミヒャエル・エンデだったか...
舞台の上の物語はこの世の道徳律とは別の法則の元にある。
舞台上でオセロがデズデモーナを絞殺しようとしても、観客は止めに駆けつける必要はない、観る人はその殺人も含めたすべてを、別の次元から見て受け入れる・・・という話だった。
(ただしあくまでも、劇場という特別な場所に出かけて舞台を観るという非日常次元において。テレビのように日常の中に入り込んでしまうと逆効果になる。)
舞台を観るように、人生の物語を神の目で見るならどうだろう。
悲劇も喜劇も平凡な日常も、それに同化して巻き込まれることなく味わうとき、この短い詩の一節のようになれたら美しい。
いま響く 昔のしらべ
幸も悲しみも歌となる (ゲーテ)
ベイティーの命令で彼は家を焼き払うが、最後には挑発するベイティーに火炎放射器を向ける。
犯罪者になったモンターグは再びフェーバーを訪ねて逃げ道を教えてもらい、たどり着いた先には、自然の香りが満ちている土地があった.....
小説版と映画版ではラストがかなり違っていて、私は映画版が印象に残っている。
ひとりの人間が一冊の本になり、自分の記憶の中にそれを保存している世界。彼らは「ブックピープル」と呼ばれる。
老人が孫に自分の「本」を引き継いでもらうべく口承しているシーンや、ブックピープルたちがそれぞれ自分の「本」を、忘れないように暗唱しながら行き交う光景。
人々が一体化している本はほとんどが、時代を超えて読み継がれるような文学や哲学、宗教書だ。
人が統計的データとして記号化されてしまわないように、言葉を生き、物語を生きる必要がある。
たとえ本を丸暗記しなくても、ひとりの人間はオリジナルな自分自身の物語なのだ。
人は舞台を観るときには神の目で見る、と言ったのはミヒャエル・エンデだったか...
舞台の上の物語はこの世の道徳律とは別の法則の元にある。
舞台上でオセロがデズデモーナを絞殺しようとしても、観客は止めに駆けつける必要はない、観る人はその殺人も含めたすべてを、別の次元から見て受け入れる・・・という話だった。
(ただしあくまでも、劇場という特別な場所に出かけて舞台を観るという非日常次元において。テレビのように日常の中に入り込んでしまうと逆効果になる。)
舞台を観るように、人生の物語を神の目で見るならどうだろう。
悲劇も喜劇も平凡な日常も、それに同化して巻き込まれることなく味わうとき、この短い詩の一節のようになれたら美しい。
いま響く 昔のしらべ
幸も悲しみも歌となる (ゲーテ)
posted by Sachiko at 21:02
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2021年07月20日
「華氏451度」・6
まだ続く「華氏451度」。
モンターグは老婦人の家を燃やした時以降、仕事の度に少しずつ本を家に持ち帰っていた。
本を読むことの中には、何か重要なものがあるのかもしれない....
最後にもうひとりの人物、元大学教授のフェーバーが登場する。
彼は以前、本を持っているところをモンターグが見逃してやったのだ。
なぜ“元”なのかと言えば、大学が閉校になったからだ。
本を読むことが禁じられたこの時代の教育はどうなっていたのだろう。
本を読んで考えを巡らせ感情を味わうこととは対極のような、コンピュータによるデータ処理やプログラミングがメインになっていたのだろうか。
家を訪ねてきたモンターグに、フェーバーは語る。
彼はかつて焚書計画が進行していった時、声を上げる勇気を持てなかったことを悔いているのだ。
本そのものではなく内容が重要だと言ったのはフェーバーだ。
そして、本を読むことがもたらすゆっくりした時間と、能動的にものを考えること、それらが失われたのは必ずしもテレビのせいだけではなく、人々が自発的に読むのをやめてしまったからだ、とフェーバーは言う。
本は「言葉」で書かれている。
言葉は単なるコミュニケーションの道具だと考える人が今では多いらしい。
SNSなどで使われる略語でも、とりあえず意味は通じるかもしれないが.....それは、かつて言葉だったのが記号化されたものだ。
マックス・ピカートが『沈黙の世界』の中で書いている“騒音語”という言葉を思い出す。
人間という背景を失って記号化された言葉は、その騒音語ですらないものに解体されて見える。
現代語の記号化断片化のプロセスは、まさに華氏451度の世界に重なる。
「わたしの言葉」が、魂を伴わない、意味伝達のみの記号と化したとき、「わたし」は何者でどこにいるのだろう。
モンターグは老婦人の家を燃やした時以降、仕事の度に少しずつ本を家に持ち帰っていた。
本を読むことの中には、何か重要なものがあるのかもしれない....
最後にもうひとりの人物、元大学教授のフェーバーが登場する。
彼は以前、本を持っているところをモンターグが見逃してやったのだ。
なぜ“元”なのかと言えば、大学が閉校になったからだ。
本を読むことが禁じられたこの時代の教育はどうなっていたのだろう。
本を読んで考えを巡らせ感情を味わうこととは対極のような、コンピュータによるデータ処理やプログラミングがメインになっていたのだろうか。
家を訪ねてきたモンターグに、フェーバーは語る。
彼はかつて焚書計画が進行していった時、声を上げる勇気を持てなかったことを悔いているのだ。
本そのものではなく内容が重要だと言ったのはフェーバーだ。
そして、本を読むことがもたらすゆっくりした時間と、能動的にものを考えること、それらが失われたのは必ずしもテレビのせいだけではなく、人々が自発的に読むのをやめてしまったからだ、とフェーバーは言う。
本は「言葉」で書かれている。
言葉は単なるコミュニケーションの道具だと考える人が今では多いらしい。
SNSなどで使われる略語でも、とりあえず意味は通じるかもしれないが.....それは、かつて言葉だったのが記号化されたものだ。
マックス・ピカートが『沈黙の世界』の中で書いている“騒音語”という言葉を思い出す。
人間という背景を失って記号化された言葉は、その騒音語ですらないものに解体されて見える。
現代語の記号化断片化のプロセスは、まさに華氏451度の世界に重なる。
「わたしの言葉」が、魂を伴わない、意味伝達のみの記号と化したとき、「わたし」は何者でどこにいるのだろう。
posted by Sachiko at 22:29
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