2022年01月23日

「しあわせハンス」・2

この世的な見方をすれば、ハンスはずいぶんばかな取引を繰り返したように見える。家で、母親は何と言うだろう。

「ハンス、7年も奉公したあげく手ぶらで帰ってくるなんて、お給金はどうしたんだい。
(理由を聞く)
なんだって?頭ほどの金の塊があったというのに、何てことを!このバカ息子が!!」

・・・と、こうなることもあり得る。


私は、ハンスが奉公を終えて帰りたいと言った故郷の家は、この世の家ではないような気がした。

奉公(この世の人生)を終えたばかりの頭は地上的な価値でいっぱいになっている。
帰り道を歩きはじめると、それは重荷に変わる。

道の途上で、地上の価値はしだいに小さくなっていき、その度にしあわせ感は増えていく。

最後の重荷が落ちてしまい、すっかり浄化されてしあわせに満ちた魂は、かつてそこにいた天の故郷の家に帰り着く。
そこでハンスは喜んで迎え入れられるにちがいない。


・・・というのはあくまで私見であり、毎度のことながらメルヒェンに解釈は不要だ。
「メルヘンの世界観」では、また別のことが書かれている。

メルヒェンの中の「家」は人間の肉体を表わし、家を離れるということはしばしば、肉体を離れることを意味する、とある。
そうすると、家に帰ることは、ふたたび地上に受肉するということになる。

そのように見ればこの話の流れは逆になる。
家(肉体)を離れて別の世界でしばらく奉公し、ふたたび家に帰りたいと願う。
このあたりは、家を離れてホレおばさんの元で奉公し、やがて家に帰りたいと願った娘に似ている。

でも『ホレおばさん』では、娘は黄金を浴びて地上世界に戻ってくるのに、ハンスはすべてを手放して何も持たずに家に帰るのだ。

メルヒェンの中では、同じモチーフが出て来てもいつも同じものを意味するとは限らないとも言われているので、やはり解釈の深入りはやめておこう。


シュナイダーは、『しあわせハンス』は『星の銀貨』の物語が始まるところで終わっているという。

星の銀貨の少女は、はじめから貧しく、善良な心という宝物だけを持っている。
ハンスは物質的財産をすべてなくして、幸せな心という宝ものだけが残った。
少女の上には最後に星が降ってきて銀貨に変わる。
そして『星の銀貨』が終わるところから、ふたたび『しあわせハンス』の物語が始まる、と。


人間の運命は、地上の生と向こう側での生を通して廻っていく。
その両方の流れを見通すところから、メルヒェンは降りてきた。
解釈は不要だとしても、メルヒェンはそのようにして人類とともにあり、時代を超えて特別な力で働きかけてくると感じさせるのだ。
   
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(0) | メルヒェン
2022年01月20日

「しあわせハンス」

グリムのメルヒェンとしては、日本ではあまりなじみのない話かも知れないけれど、類話は世界中にたくさんある。

----------

7年間の奉公の年季が明けたハンスは親方に、故郷の母親のもとへ帰りたいと申し出る。親方はよい奉公の給金として、ハンスの頭ほどもある金塊を与えた。

ハンスはそれを布に包んで歩き出すが、金塊が重くてしかたがない。そこへ通りかかった馬に乗った人の言うまま、金塊を馬と取りかえる。

嬉しくなったハンスは馬を速駆けさせて振り落とされてしまう。そこへ牝牛を追うお百姓が通りかかり、馬と牝牛を取りかえようと言う。

ハンスはこれで毎日乳やバターやチーズが手に入ると喜ぶ。ところが曠野の暑さの中、乳を絞ろうとしても牛は乳を出さないばかりか、ハンスの頭を蹴飛ばした。

そこへ屠殺人が手押し車に子豚を乗せて通りかかり、牝牛と子豚を取りかえる。ハンスは何もかも望み通りに行くものだと喜ぶ。

次に、ガチョウを抱えた若い男が道連れになり、ハンスの子豚は近くの村で盗まれたものかもしれないと言う。
若い男は助けてやると言い、ハンスは豚をガチョウと取りかえる。

ハンスは喜んで最後の村を通り抜けると、はさみ砥ぎ屋が立っていた。
砥ぎ屋はこれまでのいきさつを聞くと、幸運のてっぺんにたどり着くには砥ぎ屋にならなくてはいけないと言い、ハンスはガチョウを砥石と取りかえる。

砥ぎ屋はもうひとつおまけだと言って、そこに転がっていた重たい石ころも渡した。
ハンスは石を担いで喜んで歩き出すが、その石の重たいこと!

ハンスが少しやすんで泉で水を飲もうとすると、石は水の中に転げ落ちた。ハンスは邪魔な重たい石がなくなったので嬉しさに躍り上がって神さまにお礼を言った。

何一つ重荷のなくなったハンスは、自分ほどのしあわせ者はいないと思い、踊る足どりで郷里の家に帰り着いた。

----------

ハンスは持っている物を次々と、より物質的な価値の低いものへと交換していく。この道筋は日本の「わらしべ長者」の逆だ。
そしてその度にハンスの幸福感は高まっていく。

ハンスという名は、日本で言えば「太郎」のように、メルヒェンによく出てくる典型的な名前だ。
そして「まぬけのハンス」などの呼ばれ方をすることが多い。
この『しあわせハンス』(Hans im Glück)のハンスには、妙好人の趣きがある。


ヨハネス・W・シュナイダーの「メルヘンの世界観」の中で、人間の運命を現した三つのメルヘンが挙げられている。
『ホレおばさん』『星の銀貨』、そしてもうひとつがこの『しあわせハンス』だ。

以前にも書いたがシュナイダーは、メルヒェンに出てくる黄金には、世界のはじまりから存在していた黄金と、地上生活を通して新たに紡ぎ出された黄金の二種類あると言っている。

ハンスが奉公の報酬として受け取った金塊は、新しい黄金だ。ハンスはそれを、頭ほどの大きさのあるものとして受け取る。
「頭」には特別な意味があり、頭には前世における行いが現われているのだという。

私は個人的には、この物語に別のイメージを抱いた。
それはまた次回に。
   
posted by Sachiko at 22:30 | Comment(0) | メルヒェン
2022年01月12日

「かえるの王さま」

魔法で動物の姿に変えられてしまった王子についての話を以前書いた。
「かえるの王さま」の王子はその代表格だ。

KHM(Kinder-und Hausmärchen グリム兄弟の蒐集による「子供と家庭のための童話集」の通し番号)の1番が、この「かえるの王さま」で、番号はほぼ採話順になっている。

悪い魔女によって動物に変えられた王子は、そもそもなぜ、どのようにして魔法にかかってしまったのかは、どの物語でも説明されていない。

ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」の中では、姿を変えるという魔法は、悪の力から来るものだと言っている。

動物に変えられた姿は、人間が本来あるべき姿から外れてしまったことを示していて、、現代人はこの状態で、それは悪の力という魔法にかけられてしまったためだ。

けれどその力によって姿を変えられたカエルは、それによって善をもたらす行為を成し遂げることができるという。

「悪を統合した人間には威厳がある」というように、悪をくぐり抜けた善には、そうでない場合よりもはるかに力強さを感じる。

いったいここを無事にくぐり抜けられるのか?と思うような時代も、全体を見通している高次元の目から見れば必然的なプロセスで、人間がより強くなって本来の姿に還る未来が見えているのだろう。

それまで金のまりで遊んでいた、子どもと思われる王女が、カエルが王子になったことで結婚に至るほど成熟する。
このパターンは、「雪白とバラ紅」で、熊が王子にもどった時の状況に似ている。
このあたりにも、メルヒェン特有の深い叡智が透けて見える。

--------

HPに「グリム童話の世界」を追加しました。
https://fairyhillart.net/grimm1.html

froschkönig-1.jpg
  
posted by Sachiko at 22:34 | Comment(2) | メルヒェン
2021年04月17日

魔法にかけられた王子

メルヒェンには、王子が魔法によって姿を変えられてしまった話がよく出てくる。
「雪白とばら紅」では熊の姿に変えられ、「かえるの王さま」では、ヒキガエルに変えられている。

ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」によれば、動物に変えられた姿は、人間が本来あるべき状態にない、ということを意味している。

多くのメルヒェンに、幾つかの共通するパターンがある。
太古の叡智(しばしば黄金で表わされる)が生きていた時代、その叡智を失って人間にふさわしくない姿で生きなければならない時代(現代はこの時代)、最後に、人間が本来の姿を取り戻す時代。

近年、縄文などの古代の叡智や先住民の智恵が再び注目され始めているのは、本来の姿を思い出そうとする意志が目覚めてきているということだろうか。

けれどそれは太古の黄金そのままに先祖返りするのではなく、現代のような困難なプロセスを通って、新しい黄金に紡ぎ直されなければならない。そうして獲得した自由な意識をもって、個であり全体であるという未来の意識にたどり着く。


「かえるの王さま」では、王女がカエルを壁に叩きつけることで魔法が解けるのだが、これが残酷だとやらで、王女がカエルにキスをすると王子に戻るという奇妙な改変バージョンが出回っている。
この改変についてはかつてミヒャエル・エンデがかなり憤っていた。

「・・まさにその攻撃によって王女は王子を救い出す。こういう図式に理解を示さず、外面的な意識で童話をいじくりまわすなら、童話の意味はこわれてしまう。
現代人は頭がすっかりおかしくなって、もはやさまざまな平面を区別できなくなっている。こういう事態こそ、恐るべきことなんだ。」(「オリーブの森で語りあう」より)


メルヒェンは根源的な物語だ。
そこには宇宙的な時間における人類の発達段階が描かれているのだとしたら、現在は魔法にかかって動物の姿になっている人類も、やがてその段階を超えて本来の人間性に至ることが約束されていることになる。

メルヒェンの中でその未来は霊視されていて、王子と王女の輝かしい結婚と幸福の姿で描かれる。
魔法という悪の働きによって動物の姿に変えられた人間は、本来、天の王族だったのだ。

ならば動物の姿に絶望することはない。
正統なメルヒェンは、人類のあるべき未来への希望の物語とも言える。
  
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(0) | メルヒェン
2021年02月27日

「いばら姫」

三大メルヒェンというのがある。
一説では「白雪姫」「いばら姫」「赤ずきん」で、また「白雪姫」「いばら姫」「ヘンゼルとグレーテル」だという説もある。
私は「白雪姫」が最高傑作だと思うけれど、いずれにしても「いばら姫」は入っている。

このお話の中で、どうも腑に落ちないところがあった。
姫がつむを指に刺して百年の眠りにつき、同時にお城中のすべてのものが眠ってしまった時、魔女はどうなったのだろう。

自分の魔法にかかっていっしょに眠ってしまったのではあまりにマヌケだし、この魔女についての記述はここで途絶えている。
王子が姫の眠る部屋にやってきた時も、魔女には遭遇していない。

つまり、魔女はもはや、わかり易い魔女の姿では存在していないのだ。
魔女は城を眠りにつかせた魔法のはたらきそのものであって、魔法がとけたときに消えてしまったのではないだろうか....


グリム兄弟はメルヒェンのストーリーそのものには手を加えずに残したが、フランスではかつて多くの作家たちが改変版を作ったと言われている。
シャルル・ペロー版の「眠れる森の美女」は、王子の母親が実は人食い鬼で・・・などというややこしい話になっている。

改変に改変を重ねたディズニー版は、もはや原型をとどめていない。
メルヒェンには著作権がないから何をしてもいいのか?
メルヒェンのように根源(Origin)に根差しているものを恣意的に改変するのは、遺伝子組換に相当する行為のように思える。


ヨハネス・W・シュナイダーの「メルヘンの世界観」では、百年目にやってきた王子について、このように語られている。

「・・お城に入るために、この王子はいったい何を必要としたでしょうか。勇気、決意、あるいは意志の力といったもの以外は必要ではありませんでした。
そして勇気をもっていばらに向かったとき、いばらはしぜんに開いたのです。」


しかし.....この王子の前にも多くの王子たちが勇気と決意と意志を持ってやってきたが、いばらに阻まれて悲惨な最期を遂げたのだ。
最後の王子は何が違ったのか....
百年目の、ちょうど呪いが解ける日にやってきた、ということだけだ。

白雪姫は王子が現われて目を覚ますけれど、いばら姫は、ちょうど目をさます時に王子が現われたのだ。
ちょうどよいタイミング、ここではこれが重要なのかもしれない。

「メルヘンの世界観」の中では、いばら姫の眠りは、知性の抽象思考によって麻痺した状態とされている。つまり現代人はこの状態だ。

このメルヒェンは、根源の世界から離れて、地上で麻痺状態をくぐり抜けたあと、ふたたび本来の人間性を取り戻すという、人類の発達の過程が描かれているという。

解釈はとりあえず脇に置いておくとして、メルヒェンそのものを純粋に響かせてその世界に浸ることが、やはりいちばんの楽しみ方だと思う。
  
posted by Sachiko at 21:55 | Comment(2) | メルヒェン