2022年11月06日

「ヨリンデとヨリンゲル」

昔テレビのドイツ語講座に出ていたドイツ人が、子供の頃に読んだグリム童話は?という質問に、「白雪姫」「赤ずきん」といった日本でもおなじみの話と並んで、「ルンペルシュティルツヒェン」や「ヨリンデとヨリンゲル」といった物語を挙げていた。

ドイツの子どもたちには親しまれている話らしかった。
日本で出ている子供向けの「グリム童話集」には入っていないことが多いと思う。

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 あらすじ:

昔々、森の古いお城に魔女が住んでいて、若い娘を捕まえては鳥の姿に変え、かごに閉じ込めていました。お城にはそういうかごが七千もありました。

美しい娘ヨリンデと美しい若者ヨリンゲルは結婚の約束をしていましたが、ある時森を散歩しているうちに道に迷い、お城に近づきすぎたかと思うと、ヨリンデは小鳥になってさえずっているのでした。

そしてヨリンゲルが身動きできずにいるうちに、魔法使いのお婆さんがやってきてヨリンデを連れていってしまいました。
嘆き悲しむヨリンゲルは、さまよったあげくどこかの村にたどり着き、そこで羊番になりました。

ある夜ヨリンゲルは、真ん中に大きな真珠がある赤い花を見つけた夢を見ました。その花でさわると、どんなものも魔法から解かれるのでした。
目を覚ましたヨリンゲルは、山で花を探し、九日目に夢で見たとおりの赤い花を見つけました。

ヨリンゲルは花を持ってお城へ行くと、花で城門を開け、たくさんの鳥かごがある広間に入りました。
ヨリンデを探しているうちに、魔法使いが鳥かごをひとつ持ってドアの方へ行くのに気がつき、ヨリンゲルは花で鳥かごと魔法使いにさわりました。

そこにはヨリンデが前と変わらない美しい姿で立っていました。
ヨリンゲルは他の鳥たちもみんな、元の娘の姿に戻してやると、ヨリンデといっしょに家に帰り、それからずっと楽しく暮らしました。

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メルヒェンの中で人間が魔法で動物に変えられる話は、人間が本来あるべき姿から外れてしまうことを示しているという。
王子が動物に変えられる例が多いが、ここでは姿を変えられたのは女性で、しかも大勢だ。魔女の城には七千もの鳥かごが吊り下げられている。

メルヒェンに出てくる7という数は、「とても多くの」という意味があると言われる。この物語では、さらに7の千倍だ。
途方もなく多くの女性たちが悪い魔法にかかって鳥の姿に変えられ、しかもかごの中に閉じ込められている。歴史の中の女性たちのように。

助けに来るのは恋人で、彼は他の娘たちも一人残らず解放する。
このあたりも、他の動物譚とは少し違っている。
若い恋人たちは、王子でも王女でもない。
比較的新しい時代の話なのかもしれないけれど、詳しいことはわからない。

いずれにしても、メルヒェンはあまり解釈を加えたりしないでそのまま味わうほうがいい。この物語も、美しく不思議で魅力的な話なのだ。

夢に現れた不思議な花を山の中で見つけるという部分は、ノヴァーリスの『青い花』を連想させる。
青い花はテューリンゲン地方の伝承に由来するそうだが、ドイツ各地に似たような言い伝えがあったのだろうか。

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〈ヨリンデとヨリンゲル〉 https://fairyhillart.net/grimm1.html 

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posted by Sachiko at 22:18 | Comment(0) | メルヒェン
2022年04月23日

柱時計の中の子ども

私が幼い頃に持っていた最初の絵本が、グリム童話の「おおかみと七ひきの子やぎ」だった。
これは記憶にあるかぎりの最初のもので、もっと古いのもあったらしいのだけれど、それは憶えていない。

これもよく知られたお話で、お母さん山羊の留守中に、お母さんに化けた狼がやってきて子どもたちを6匹まで食べてしまうのだが、一番小さい子は壁の時計の中に隠れて助かる。

狼が寝ているあいだにお腹をハサミで切られ、石ころを詰められたあげく死んでしまうところは「赤ずきん」と共通している。

メルヒェンの中の狼は悪の象徴であり、狼に呑まれるということは闇の中に閉ざされる状態だという。
そうしてまた、その闇が解かれて救い出される。

本物のメルヒェンは天から降ろされてきたもので、そこには天上の叡智が隠されている。
それらは近代以降、とても知的になった人々によって子ども部屋に追いやられてしまった。

神話や伝説、メルヒェンなど、いわゆるまっとうな“大人”からは「子ども向けのおとぎ話」として冷笑され、まともに扱われなくなったものの中に、叡智は身を隠して生き延びている。

このことは、柱時計に隠れた子ヤギを思い起こさせる。
大きい子どもたちは狼に呑まれてしまったが、いちばん小さな子は助かり、母親に状況を説明してみんなを助け出すことができた。

メルヒェンでは、小さな、あるいは馬鹿にされたりいじめられていた末っ子が、いちばん賢く重要な役割を果たすことが多い。

今の時代、叡智は何々会議等に集う“有識者”たちのところではなく、特に何も持たない人々のあいだに隠されて、ひっそりと時を待っているかもしれない。
  
posted by Sachiko at 22:53 | Comment(2) | メルヒェン
2022年03月14日

メルヒェンと沈黙

マックス・ピカートの「沈黙の世界」の中で、メルヒェンについて少し触れられている。

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童話の中では、言葉を与えられるのは星であるか、花や樹木であるか、或いは人間であるかが、まだ不確かなのだ。
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あたかも、沈黙が深いところで、星か花か或いは人間か、いずれに永久に言葉をあたえるべきかを熟考しているようなのである。
さて、人間が言葉をあたえられた。しかし、まだ暫くのあいだは樹々や星や獣類も、語り続けていたのである。

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そうしてしばらくのあいだ、人間は星や樹木や獣たちのことばを聴くことができたようだ。
それとも、人間が彼らの言葉を聴くことができていたあいだ、彼らはまだ語り続けていたのだろうか。

現代の人間の言葉は、世界の他の存在たちと言葉を分かち合っていた頃とは違っている。今日の言葉がまだ“言葉”と呼べるものかどうかもわからない。

星や樹木や花や、人間自身の別様の姿を美しく映し出していたはずの存在たちは沈黙している。
人間は世界の中で、極端に孤独になってしまったのだ。

この孤独は人間を狂気に駆り立てる。
人間が他の美しい存在たちに耳を傾け語りかけることは、ふたたび自分自身を取り戻すことだ。


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童話の中のあらゆるものは、沈黙のうちに経過することもできるであろう。そして、本来ならば沈黙のうちに生起しうるものが、しかも言葉を伴っているということ、このこと自体が既に一つの童話だといわねばなるまい。
ちょうど子供たちが沈黙の世界に属しているように、童話は沈黙の世界に属しているのである。
子供たちと童話とが切っても切れない関係にあるのはそのためである。

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メルヒェンの中の木々や獣たちは、沈黙に属しているがゆえに語ることが出来た。子どもたち、そしてまだ沈黙に属していた時代には大人たちも、それらの言葉を聴いた。

やがてメルヒェンは「子どもじみたもの」として大人世界から閉め出され、子ども部屋に追いやられてしまったが、今ではさらに子ども部屋からさえ追い出されようとしているらしい。

現代人はこの上さらに何を失おうとしているのだろう.....
幸い、そうしようと思えばメルヒェンはまだ手の届くところにあり、始源に続く小径の旅はたしかに、喧噪の日常では味わえない活力に満ちている。

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〈ルンペルシュティルツヒェン〉 https://fairyhillart.net/grimm1.html

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posted by Sachiko at 22:40 | Comment(2) | メルヒェン
2022年01月28日

太陽と黄金の物語

前回の『しあわせハンス』のメルヒェンについて、「 THE HEALING POWER of PLANETARY METALS 」という本の中にも記述があるのを見つけた。

幾つかのメルヒェンと、それに関わる惑星と金属について語られている。
メルヒェンはやはり宇宙領域から取ってこられた話だったのだ。


「しあわせハンス」の物語は、金のプロセスの太陽的な性質が見られ、軽快な印象を与える。ハンスを追っていくうちに「太陽型」のイメージが形成されていくという。

人間は「太陽型」と「月型」に分かれるという話は以前どこかで書いた。
太陽型は、オープンハート、信頼感、自然、寛大、自信を表わす。
ハンスはまさにこのようで、不運さえもポジティブに捉え、人生を楽観視する太陽のような性格だ。

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物語のすべての行程は昼間である。陽射しが強く、暑いほどだ。
ハンスはしばらくの間、木も茂みもなく日陰もほとんどない荒地を旅する。

のどの渇きに悩まされるものの、本当に脅威となる悪の力には遭遇しない。登場するのはハンスの帰路のみである。

他のメルヒェンのようにまず広い世界に出て行くのではなく、最初から帰路しかないのだ。
ハンスは光と暖かさに溢れた景色の中を家路につく。

「母のもとへ帰る」途上であるということは、彼は自分自身への道を進んでいるのだ。そして自分自身への道は放棄の道だ。

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・・・なるほど。
ここでは「メルヒェンの世界観」とはまた違った見方がされているが、ここで「メルヒェンの世界観」の中で『しあわせハンス』」と『星の銀貨』が繋がった輪のような関係になっているという話が浮かび上がってくる。

ハンスは太陽の照りつける昼間の道を行くが、星の銀貨の少女はまず森へ入って行き、物語はすべて寒い夜の森で起こる。

惑星と金属の話では『星の銀貨』については書かれていないが、この対照性には興味深いものがある。


類話が世界中にあるという『しあわせハンス』に似た話が、「幼い子の文学(瀬田貞二)」の中で紹介されているのを見つけた。

あるおばあさんが帰り道で黄金の詰まったつぼを見つけ、黄金の使い道を想像しながらつぼを引っ張って歩いていく。
しばらくして振り返ってみると、黄金のつぼは銀の塊に変わっていた。

おばあさんはその銀の使い道を想像しながら満足して歩き、また振り返ると、銀は鉄の塊に変わっていた。
鉄ならドアの押さえ石にでも使えるだろうと思って家に帰ると、鉄は怪物に変わって逃げてしまった。

何もかもなくなってしまったが、おばあさんは、今日は面白い見ものを見たと満足して眠りについた、というお話。

これもやはり「帰路」で、プロセスはハンスの話にそっくりだ。

メルヒェンや各地の古いおとぎ話からは、人類普遍の大きな世界とつながる安堵感のようなものを感じ、明らかに恣意的に作られた物語とは違う力がある。
  
posted by Sachiko at 22:44 | Comment(0) | メルヒェン
2022年01月23日

「しあわせハンス」・2

この世的な見方をすれば、ハンスはずいぶんばかな取引を繰り返したように見える。家で、母親は何と言うだろう。

「ハンス、7年も奉公したあげく手ぶらで帰ってくるなんて、お給金はどうしたんだい。
(理由を聞く)
なんだって?頭ほどの金の塊があったというのに、何てことを!このバカ息子が!!」

・・・と、こうなることもあり得る。


私は、ハンスが奉公を終えて帰りたいと言った故郷の家は、この世の家ではないような気がした。

奉公(この世の人生)を終えたばかりの頭は地上的な価値でいっぱいになっている。
帰り道を歩きはじめると、それは重荷に変わる。

道の途上で、地上の価値はしだいに小さくなっていき、その度にしあわせ感は増えていく。

最後の重荷が落ちてしまい、すっかり浄化されてしあわせに満ちた魂は、かつてそこにいた天の故郷の家に帰り着く。
そこでハンスは喜んで迎え入れられるにちがいない。


・・・というのはあくまで私見であり、毎度のことながらメルヒェンに解釈は不要だ。
「メルヘンの世界観」では、また別のことが書かれている。

メルヒェンの中の「家」は人間の肉体を表わし、家を離れるということはしばしば、肉体を離れることを意味する、とある。
そうすると、家に帰ることは、ふたたび地上に受肉するということになる。

そのように見ればこの話の流れは逆になる。
家(肉体)を離れて別の世界でしばらく奉公し、ふたたび家に帰りたいと願う。
このあたりは、家を離れてホレおばさんの元で奉公し、やがて家に帰りたいと願った娘に似ている。

でも『ホレおばさん』では、娘は黄金を浴びて地上世界に戻ってくるのに、ハンスはすべてを手放して何も持たずに家に帰るのだ。

メルヒェンの中では、同じモチーフが出て来てもいつも同じものを意味するとは限らないとも言われているので、やはり解釈の深入りはやめておこう。


シュナイダーは、『しあわせハンス』は『星の銀貨』の物語が始まるところで終わっているという。

星の銀貨の少女は、はじめから貧しく、善良な心という宝物だけを持っている。
ハンスは物質的財産をすべてなくして、幸せな心という宝ものだけが残った。
少女の上には最後に星が降ってきて銀貨に変わる。
そして『星の銀貨』が終わるところから、ふたたび『しあわせハンス』の物語が始まる、と。


人間の運命は、地上の生と向こう側での生を通して廻っていく。
その両方の流れを見通すところから、メルヒェンは降りてきた。
解釈は不要だとしても、メルヒェンはそのようにして人類とともにあり、時代を超えて特別な力で働きかけてくると感じさせるのだ。
   
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(0) | メルヒェン