2022年04月23日

柱時計の中の子ども

私が幼い頃に持っていた最初の絵本が、グリム童話の「おおかみと七ひきの子やぎ」だった。
これは記憶にあるかぎりの最初のもので、もっと古いのもあったらしいのだけれど、それは憶えていない。

これもよく知られたお話で、お母さん山羊の留守中に、お母さんに化けた狼がやってきて子どもたちを6匹まで食べてしまうのだが、一番小さい子は壁の時計の中に隠れて助かる。

狼が寝ているあいだにお腹をハサミで切られ、石ころを詰められたあげく死んでしまうところは「赤ずきん」と共通している。

メルヒェンの中の狼は悪の象徴であり、狼に呑まれるということは闇の中に閉ざされる状態だという。
そうしてまた、その闇が解かれて救い出される。

本物のメルヒェンは天から降ろされてきたもので、そこには天上の叡智が隠されている。
それらは近代以降、とても知的になった人々によって子ども部屋に追いやられてしまった。

神話や伝説、メルヒェンなど、いわゆるまっとうな“大人”からは「子ども向けのおとぎ話」として冷笑され、まともに扱われなくなったものの中に、叡智は身を隠して生き延びている。

このことは、柱時計に隠れた子ヤギを思い起こさせる。
大きい子どもたちは狼に呑まれてしまったが、いちばん小さな子は助かり、母親に状況を説明してみんなを助け出すことができた。

メルヒェンでは、小さな、あるいは馬鹿にされたりいじめられていた末っ子が、いちばん賢く重要な役割を果たすことが多い。

今の時代、叡智は何々会議等に集う“有識者”たちのところではなく、特に何も持たない人々のあいだに隠されて、ひっそりと時を待っているかもしれない。
  
posted by Sachiko at 22:53 | Comment(2) | メルヒェン
2022年03月14日

メルヒェンと沈黙

マックス・ピカートの「沈黙の世界」の中で、メルヒェンについて少し触れられている。

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童話の中では、言葉を与えられるのは星であるか、花や樹木であるか、或いは人間であるかが、まだ不確かなのだ。
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あたかも、沈黙が深いところで、星か花か或いは人間か、いずれに永久に言葉をあたえるべきかを熟考しているようなのである。
さて、人間が言葉をあたえられた。しかし、まだ暫くのあいだは樹々や星や獣類も、語り続けていたのである。

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そうしてしばらくのあいだ、人間は星や樹木や獣たちのことばを聴くことができたようだ。
それとも、人間が彼らの言葉を聴くことができていたあいだ、彼らはまだ語り続けていたのだろうか。

現代の人間の言葉は、世界の他の存在たちと言葉を分かち合っていた頃とは違っている。今日の言葉がまだ“言葉”と呼べるものかどうかもわからない。

星や樹木や花や、人間自身の別様の姿を美しく映し出していたはずの存在たちは沈黙している。
人間は世界の中で、極端に孤独になってしまったのだ。

この孤独は人間を狂気に駆り立てる。
人間が他の美しい存在たちに耳を傾け語りかけることは、ふたたび自分自身を取り戻すことだ。


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童話の中のあらゆるものは、沈黙のうちに経過することもできるであろう。そして、本来ならば沈黙のうちに生起しうるものが、しかも言葉を伴っているということ、このこと自体が既に一つの童話だといわねばなるまい。
ちょうど子供たちが沈黙の世界に属しているように、童話は沈黙の世界に属しているのである。
子供たちと童話とが切っても切れない関係にあるのはそのためである。

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メルヒェンの中の木々や獣たちは、沈黙に属しているがゆえに語ることが出来た。子どもたち、そしてまだ沈黙に属していた時代には大人たちも、それらの言葉を聴いた。

やがてメルヒェンは「子どもじみたもの」として大人世界から閉め出され、子ども部屋に追いやられてしまったが、今ではさらに子ども部屋からさえ追い出されようとしているらしい。

現代人はこの上さらに何を失おうとしているのだろう.....
幸い、そうしようと思えばメルヒェンはまだ手の届くところにあり、始源に続く小径の旅はたしかに、喧噪の日常では味わえない活力に満ちている。

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〈ルンペルシュティルツヒェン〉 https://fairyhillart.net/grimm1.html

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posted by Sachiko at 22:40 | Comment(2) | メルヒェン
2022年01月28日

太陽と黄金の物語

前回の『しあわせハンス』のメルヒェンについて、「 THE HEALING POWER of PLANETARY METALS 」という本の中にも記述があるのを見つけた。

幾つかのメルヒェンと、それに関わる惑星と金属について語られている。
メルヒェンはやはり宇宙領域から取ってこられた話だったのだ。


「しあわせハンス」の物語は、金のプロセスの太陽的な性質が見られ、軽快な印象を与える。ハンスを追っていくうちに「太陽型」のイメージが形成されていくという。

人間は「太陽型」と「月型」に分かれるという話は以前どこかで書いた。
太陽型は、オープンハート、信頼感、自然、寛大、自信を表わす。
ハンスはまさにこのようで、不運さえもポジティブに捉え、人生を楽観視する太陽のような性格だ。

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物語のすべての行程は昼間である。陽射しが強く、暑いほどだ。
ハンスはしばらくの間、木も茂みもなく日陰もほとんどない荒地を旅する。

のどの渇きに悩まされるものの、本当に脅威となる悪の力には遭遇しない。登場するのはハンスの帰路のみである。

他のメルヒェンのようにまず広い世界に出て行くのではなく、最初から帰路しかないのだ。
ハンスは光と暖かさに溢れた景色の中を家路につく。

「母のもとへ帰る」途上であるということは、彼は自分自身への道を進んでいるのだ。そして自分自身への道は放棄の道だ。

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・・・なるほど。
ここでは「メルヒェンの世界観」とはまた違った見方がされているが、ここで「メルヒェンの世界観」の中で『しあわせハンス』」と『星の銀貨』が繋がった輪のような関係になっているという話が浮かび上がってくる。

ハンスは太陽の照りつける昼間の道を行くが、星の銀貨の少女はまず森へ入って行き、物語はすべて寒い夜の森で起こる。

惑星と金属の話では『星の銀貨』については書かれていないが、この対照性には興味深いものがある。


類話が世界中にあるという『しあわせハンス』に似た話が、「幼い子の文学(瀬田貞二)」の中で紹介されているのを見つけた。

あるおばあさんが帰り道で黄金の詰まったつぼを見つけ、黄金の使い道を想像しながらつぼを引っ張って歩いていく。
しばらくして振り返ってみると、黄金のつぼは銀の塊に変わっていた。

おばあさんはその銀の使い道を想像しながら満足して歩き、また振り返ると、銀は鉄の塊に変わっていた。
鉄ならドアの押さえ石にでも使えるだろうと思って家に帰ると、鉄は怪物に変わって逃げてしまった。

何もかもなくなってしまったが、おばあさんは、今日は面白い見ものを見たと満足して眠りについた、というお話。

これもやはり「帰路」で、プロセスはハンスの話にそっくりだ。

メルヒェンや各地の古いおとぎ話からは、人類普遍の大きな世界とつながる安堵感のようなものを感じ、明らかに恣意的に作られた物語とは違う力がある。
  
posted by Sachiko at 22:44 | Comment(0) | メルヒェン
2022年01月23日

「しあわせハンス」・2

この世的な見方をすれば、ハンスはずいぶんばかな取引を繰り返したように見える。家で、母親は何と言うだろう。

「ハンス、7年も奉公したあげく手ぶらで帰ってくるなんて、お給金はどうしたんだい。
(理由を聞く)
なんだって?頭ほどの金の塊があったというのに、何てことを!このバカ息子が!!」

・・・と、こうなることもあり得る。


私は、ハンスが奉公を終えて帰りたいと言った故郷の家は、この世の家ではないような気がした。

奉公(この世の人生)を終えたばかりの頭は地上的な価値でいっぱいになっている。
帰り道を歩きはじめると、それは重荷に変わる。

道の途上で、地上の価値はしだいに小さくなっていき、その度にしあわせ感は増えていく。

最後の重荷が落ちてしまい、すっかり浄化されてしあわせに満ちた魂は、かつてそこにいた天の故郷の家に帰り着く。
そこでハンスは喜んで迎え入れられるにちがいない。


・・・というのはあくまで私見であり、毎度のことながらメルヒェンに解釈は不要だ。
「メルヘンの世界観」では、また別のことが書かれている。

メルヒェンの中の「家」は人間の肉体を表わし、家を離れるということはしばしば、肉体を離れることを意味する、とある。
そうすると、家に帰ることは、ふたたび地上に受肉するということになる。

そのように見ればこの話の流れは逆になる。
家(肉体)を離れて別の世界でしばらく奉公し、ふたたび家に帰りたいと願う。
このあたりは、家を離れてホレおばさんの元で奉公し、やがて家に帰りたいと願った娘に似ている。

でも『ホレおばさん』では、娘は黄金を浴びて地上世界に戻ってくるのに、ハンスはすべてを手放して何も持たずに家に帰るのだ。

メルヒェンの中では、同じモチーフが出て来てもいつも同じものを意味するとは限らないとも言われているので、やはり解釈の深入りはやめておこう。


シュナイダーは、『しあわせハンス』は『星の銀貨』の物語が始まるところで終わっているという。

星の銀貨の少女は、はじめから貧しく、善良な心という宝物だけを持っている。
ハンスは物質的財産をすべてなくして、幸せな心という宝ものだけが残った。
少女の上には最後に星が降ってきて銀貨に変わる。
そして『星の銀貨』が終わるところから、ふたたび『しあわせハンス』の物語が始まる、と。


人間の運命は、地上の生と向こう側での生を通して廻っていく。
その両方の流れを見通すところから、メルヒェンは降りてきた。
解釈は不要だとしても、メルヒェンはそのようにして人類とともにあり、時代を超えて特別な力で働きかけてくると感じさせるのだ。
   
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(0) | メルヒェン
2022年01月20日

「しあわせハンス」

グリムのメルヒェンとしては、日本ではあまりなじみのない話かも知れないけれど、類話は世界中にたくさんある。

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7年間の奉公の年季が明けたハンスは親方に、故郷の母親のもとへ帰りたいと申し出る。親方はよい奉公の給金として、ハンスの頭ほどもある金塊を与えた。

ハンスはそれを布に包んで歩き出すが、金塊が重くてしかたがない。そこへ通りかかった馬に乗った人の言うまま、金塊を馬と取りかえる。

嬉しくなったハンスは馬を速駆けさせて振り落とされてしまう。そこへ牝牛を追うお百姓が通りかかり、馬と牝牛を取りかえようと言う。

ハンスはこれで毎日乳やバターやチーズが手に入ると喜ぶ。ところが曠野の暑さの中、乳を絞ろうとしても牛は乳を出さないばかりか、ハンスの頭を蹴飛ばした。

そこへ屠殺人が手押し車に子豚を乗せて通りかかり、牝牛と子豚を取りかえる。ハンスは何もかも望み通りに行くものだと喜ぶ。

次に、ガチョウを抱えた若い男が道連れになり、ハンスの子豚は近くの村で盗まれたものかもしれないと言う。
若い男は助けてやると言い、ハンスは豚をガチョウと取りかえる。

ハンスは喜んで最後の村を通り抜けると、はさみ砥ぎ屋が立っていた。
砥ぎ屋はこれまでのいきさつを聞くと、幸運のてっぺんにたどり着くには砥ぎ屋にならなくてはいけないと言い、ハンスはガチョウを砥石と取りかえる。

砥ぎ屋はもうひとつおまけだと言って、そこに転がっていた重たい石ころも渡した。
ハンスは石を担いで喜んで歩き出すが、その石の重たいこと!

ハンスが少しやすんで泉で水を飲もうとすると、石は水の中に転げ落ちた。ハンスは邪魔な重たい石がなくなったので嬉しさに躍り上がって神さまにお礼を言った。

何一つ重荷のなくなったハンスは、自分ほどのしあわせ者はいないと思い、踊る足どりで郷里の家に帰り着いた。

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ハンスは持っている物を次々と、より物質的な価値の低いものへと交換していく。この道筋は日本の「わらしべ長者」の逆だ。
そしてその度にハンスの幸福感は高まっていく。

ハンスという名は、日本で言えば「太郎」のように、メルヒェンによく出てくる典型的な名前だ。
そして「まぬけのハンス」などの呼ばれ方をすることが多い。
この『しあわせハンス』(Hans im Glück)のハンスには、妙好人の趣きがある。


ヨハネス・W・シュナイダーの「メルヘンの世界観」の中で、人間の運命を現した三つのメルヘンが挙げられている。
『ホレおばさん』『星の銀貨』、そしてもうひとつがこの『しあわせハンス』だ。

以前にも書いたがシュナイダーは、メルヒェンに出てくる黄金には、世界のはじまりから存在していた黄金と、地上生活を通して新たに紡ぎ出された黄金の二種類あると言っている。

ハンスが奉公の報酬として受け取った金塊は、新しい黄金だ。ハンスはそれを、頭ほどの大きさのあるものとして受け取る。
「頭」には特別な意味があり、頭には前世における行いが現われているのだという。

私は個人的には、この物語に別のイメージを抱いた。
それはまた次回に。
   
posted by Sachiko at 22:30 | Comment(0) | メルヒェン