2019年03月28日

「ホレおばさん」異譚・4

娘が井戸を通ってホレおばさんの家に着く前に、野原でパン焼き窯とリンゴの木に出会う。

このパンとリンゴについて、「メルヘンの世界観」(ヨハネス・W・シュナイダー著)では、それらは地上生活を通して内面にたくわえられた、人生の実りだと言われている。
しかもそれは、天上界よりもさらに高次の存在たちの糧として差し出される贈りものであるとされる。

地上で働き者だった娘は、かまどからパンを取り出し、木からリンゴを揺すり落として、高次元の糧を用意することができたのだ。

この働き者というのは別に、毎日何時間残業したかというような話ではないだろう。
シュタイナーは「愛を持って為すなら、すべての行為は倫理的である」と言っていて、逆に、仕事をするとき「仕事だからと割り切ってやる」というやり方が一番いけないのだ、とも言っている。

これは以前フィンドホーンの話で触れた、LOVE IN ACTION−「愛を持って為す」ということにもつながる。

地上に実る作物が人間の糧になるように、人間の魂の実りは、天使や高次存在にとっての糧になるのか....

人間が高次の世界に糧をもたらすことができなくなれば、地上もまた荒廃するだろう。
人間の使命は、この世の物質的な活動だけにあるのではなく、高次の世界にも関わっている。

メルヒェンを読むときに感じる独特の気分は、単に「おもしろいおはなし」を読むのとは違っている。
無意識のうちに、はるかな天上の世界から降りてくる響きを魂が捉えるからだろうと思う。
 
posted by Sachiko at 21:15 | Comment(2) | メルヒェン
2019年03月27日

「ホレおばさん」異譚・3

しばらく間が空いてしまったけれど、ホレおばさんの話の続き....

このメルヒェンは人間の運命を表している。地上での生き方によって、次に地上に戻ってくるとき、黄金に覆われるか、コールタール(不運)を浴びるか、という話だった。

コールタールの運命と黄金の運命。完全にどちらか一方だけという人間はいないだろう。
ほとんどの運命は、さまざまな割合で、黄金とコールタールが入り混じっている。

メルヒェンにおける黄金には二種類あるという。
世界のはじまりから存在していた古い黄金と、地上での生活を通して新たに紡ぎだされた黄金と。ホレおばさんの黄金は、新しい黄金だ。

大きな輪で見るなら、運命は公正なのだ。
外面的に一見不公平に見えようと、宇宙的な秩序の元に運命は作られている。

カルマに良い悪いはなく、運命は命を運ぶと書くので、ほんとうの意味では悪いようにはしない、という話を聞いたことがある。
ではコールタールを黄金に変える方法はあるのだろうか。

ここでまたもうひとつ別のおとぎ話を思い出す。
「美女と野獣」で、美女が野獣をそのままの姿で愛したとき、魔法が解けて、野獣は王子に変わる。

張り付いたコールタールの運命を、これでよかった、と受け入れ愛したときに、変容が起こる気がするのだ。
 
posted by Sachiko at 22:21 | Comment(2) | メルヒェン
2019年02月24日

「ネズの木」または「柏槇(ビャクシン)の話」

岩波文庫版では「柏槇(ビャクシン)の話」と訳されている。
この世的に読むと、怖いと言われるグリム童話の中でも特に怖い(>_<;)
なので、あえて解説を参照してみる。
まずはあらすじを...
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昔、長いこと子どもをほしがっている夫婦がいました。
ある冬、妻がビャクシンの木の下でりんごを剥いているときに指を切って、血が雪の上に落ちました。

「血のように赤い、雪のように白い子どもが一人あったら、どんなにうれしいことでしょうねえ」

やがて妻は、雪のように白く血のように赤い男の子を産んだあと、死んでしまいました。夫は妻をビャクシンの木の下に葬ってしばらく泣きましたが、やがて新しい妻を娶り、女の子が生まれました。
妻は男の子に、それはつらくあたるようになりました。

ある日妻は、男の子にりんごをあげると言って箱の蓋をあけ、男の子が身を屈めたとたんに蓋を閉めたので、男の子の首はりんごの中に落ちました。

妻は自分のせいではないことにするために、首を男の子の体の上にのせ、椅子に座らせて手にりんごを持たせると、娘のマリアに、兄の耳をぶつように言いました。
マリアが耳をぶつと、男の子の頭が転げ落ちました。

母親はマリアに「黙っているんだよ。もう取り返しがつかないんだから、兄ちゃんをスープにしよう」と言って、男の子のからだを刻むと、煮込んでスープにしました。
やがて帰ってきた父親には、息子は田舎の大伯父のところへ行ったと嘘をつきましたが、マリアはずっと泣いていました。

父親は「このごちそうはどうしてこんなにおいしいのかな、もっとくれ」と、骨はぜんぶ下へ捨てて、すっかり食べてしまいました。

マリアは骨を絹の布に包んでビャクシンの木の下に置くと、木の中から美しい鳥が飛び出し、歌いながらどこかへ飛んでいきました。骨はもうありませんでした。

鳥は、飾り職人の家の屋根で歌って、金の鎖をもらい、靴屋の屋根で歌って靴をもらい、粉ひき場のそばで歌って石臼をもらいました。
それから家のほうに行き、ビャクシンの木に止まって歌いました。

 おかあさんが、ぼくをころした
 おとうさんが、ぼくをたべた
 いもうとのマリアが
 ぼくのほねをみんなさがして
 きぬのきれにつつんで
 ビャクシンの木の下においた
 キーウィット、キーウィット、なんときれいな鳥だろ、ぼくは

お父さんが外へ出て鳥をながめると、鳥は金鎖をお父さんの首に落としました。マリアが外に出ると、鳥は靴を落としました。
お母さんが外に出ると、鳥は石臼を投げ落としたので、お母さんはつぶされてしまいました。

その場所から靄や火が立ちのぼり、消えたと思うと、そこに男の子が立っていました。三人は大喜びで家に入ると、食卓にすわってごはんを食べました。

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なんともシュール....
でも、白い雪の上に落ちた赤い血、そのような子どもがほしい、というところなど「白雪姫」を思い起こさせる、やはりこれはメルヒェンなのだ。

首を切り落とすということには、古い秘儀では、頭による知覚や知性を排除するという意味があるという。すると人間は、心で考え始める。

頭の知性による文化を発達させる時代は、やがて行き詰る。
頭を切り落とすという犠牲ののち、感情や胸による思考が、未来につながっていく....
これもまた、未来を予見するようなメルヒェンに見える。

首をはねるというメルヒェンは他にも幾つかある。
シュナイダーは、大人が子どもに話して聞かせるときに実際に首をはねるところを想像してしまうと残酷なことになるが、そのメルヒェンの意味を理解したうえで静かに語るなら、子どもはその雰囲気から受け止めることができるという。

子どもに話して聞かせるメルヒェンとして、この「ネズの木」を選ぶことは、あまりないかもしれないが.....
 
posted by Sachiko at 21:53 | Comment(2) | メルヒェン
2019年02月23日

子どもとメルヒェン

ヨハネス・W・シュナイダー著「メルヘンの世界観」から。

子どもの頃、遠い外国のものであるグリムのメルヒェンを読んだとき、実際に見たことがないものや人物が登場しても、すんなり物語に入って行けたのはなぜだろう。

子どもはストーリーの中に直接入り込み、ストーリーに即して事柄の意味を理解する。だからストーリーの中に魔女が出てきても、魔女の絵を用意したり、魔女とはこういうものだと説明する必要はない。
子どもは描写されている人物の行為から、ずっと昔の言葉のイメージを作り上げるのだ....と、シュナイダーは言う。
(挿絵はいらないというのだが...メルヒェンは描くのに魅力的な題材だ^^;)

そのためにはメルヒェンが正しく語られなければならない。映画やテレビ番組になったメルヒェンは、子ども自身の内的なイメージの世界を奪い、現実の世界を正しく知ることも妨げるので、犯罪映画よりも有害だとまで彼は言っている。

原作の雰囲気とはかけ離れた娯楽映画などに改変されてしまったメルヒェン(それはもはやメルヒェンとは呼べない)には、私もずっと耐え難いものを感じていた。

メルヒェンの源がこの地上世界を超えたところにあり、年齢にかかわらずすべての人間にとっての真の魂の伴侶であるならなおのこと。

古いメルヒェンに描かれているものは今の子どもにはわからないだろう、などと大人が気を回す必要はないのだった。

もしもほんとうに、身近で見たことのないものはイメージすることができなくなっていたり、何でも極彩色の動く映像で見なければ受け入れられない状態にあるのなら、それは子どもにとって大きな危機だ。

感覚のうわべではなく、魂の深みに向かって語られるメルヒェンは、いつもこのように静かに始まる。

昔々あるところに.... Es war einmal.......
 
posted by Sachiko at 21:15 | Comment(2) | メルヒェン
2019年02月21日

メルヒェン「手なし娘」・2

ヨハネス・W・シュナイダー著「メルヘンの世界観」から。

メルヒェンには三つの類型があるとされている。
一つ目は、天上界と地上界が密接に結びついている状態で、人間の意識はまだ天上界の近くにとどまっている。主人公はただ純粋さによって天上界の力を地上で実現することができる。

二つ目は、人間の本質が天上界と地上界に二分されている。
地上界の人間は不完全であり、天上界の本質と結びついたときに、完全な人間になれる。天上界との結びつきが失われなければ、人間は信頼の念をもって地上界を生きていくことができる。
二分された人間は、兄弟、姉妹というかたちで描かれ、一方(天上側)がもうひとりを助けるという物語が幾つか紹介されている。

三つ目では、太古の叡智が失われ、人間は天上界から離れたところにいる。「手なし娘」は、この三つ目の類型として語られている。

物語は、すでに太古の叡智が失われた状況から始まっている。
手は、直接触って世界を了解することを示し、娘は手を失ったことで、霊的な真実を直接了解することができない。現代人はみな「手なし娘」の状態ということだ。

継母というのは古い世界の存在で、過去の霊性を捨てた人間は殺されなければいけないという古い世界の評価が働いている。

娘は子どもを助けようとして、他者のために自分を無にしたときに、ふたたび手が生えてくる。そして、やがて未来の国から夫が助けにやってくる。
最後には、地上で人間が苦難を乗り越え、新しい霊性と結びついたとき、苦しみの涙は美しい花に変わる。


「手なし娘」の話は、グリムのものも日本のものも、メルヒェンの中では比較的新しい時代のもののように感じた。
グリムの手なし娘は、信心深かったために神さまによって新しい手を与えられる。キリスト教の影響が色濃く入っている。

メルヒェンはどれも、何らかのかたちで人間の発達段階を表しているという。
太古の叡智をまだ持っている段階から、それを失い、意識が最底辺まで下降して地上で苦しんで生きる時代(現代はこの時代のようだ)、やがて新たな霊性を手にしてふたたび上昇する段階。

このような全体像があるのなら、人類がやがて新しい段階に上昇することはあらかじめ約束されているとも言える。
でも黙っていて上がれるのではなく、新たな霊性のほうへ意識的に向かわなくてはならないだろう。それも現代の様相を見るかぎり、火急の課題として。
 
posted by Sachiko at 21:52 | Comment(2) | メルヒェン