グリーン・ノウ物語第5巻「グリーン・ノウの魔女」より
トーリーとピンは魔法玉を自分たちの部屋に持って行って吊るし、ペルシャ鏡も元の場所に戻すことにした。
トーリーは、鏡をのぞき込んだピンの顔が悲しげになったのに気がついて、何が映っているのか見に行った。
「そうだろ?そうだろ?ね?」ピンが言った。
「うん、そうだ。」トーリーが言った。
トーリーは不意に飛び上がって付け加えた。
「そうだろ?」
「うん、そうだ!」
ふたりは抱きあい、あわてて階段を降り、騎士の間を駆け抜けて、オールドノウ夫人に向かって叫んだ。
「ピンのおとうさんなんだ!ぼくのおとうさんの友だちっていうのは、ピンのおとうさんなんだ。庭の門を二人いっしょに来るところが鏡の中に見えたんだ。」
メラニー騒動のさなか、間もなくグリーン・ノウに着くというトーリーの父からの電報にはこう書かれていた。
『トモダチヲツレテ』
こんな奇跡が起こり得るのだろうか、と思うような結末。でもグリーン・ノウなら起こる。
ピンはこの後どうしたのだろう。お父さんに会えたので、オールドノウ夫人の養子でいる必要もなくなった。
ロンドンあたりでお父さんと暮らすのだろうか。それなら時々トーリーにも会える。
ともかく、こうしてトーリーとピンが体験したグリーン・ノウの危機は大団円で終わった。
この「グリーン・ノウの魔女」は、訳者によるあとがきが印象的だ。
「悪魔は、じぶんの姿でいる時よりも、人間の心の中であばれている時の方が、はるかに恐ろしい」というナサニエル・ホーソンの言葉が引用されている。
いつの時代にも、それはほんとうにそうだ。見た目は人間に見えるのだから。
そして、以前「戦わないヒーロー・3」でも書いたけれど、人間の力についてのこの箇所は勇気を与える。
「グリーンノウの女主人と子供たちは、正しい礼儀を守りながら、人間としての全力をふりしぼって、これと戦います。この小説が、なん百とある魔女物語と違う点は、この人間の力が美しく表現されているところにあります。」
『人間の力』、これこそは、困難な時代をくぐり抜けていくための、最も大切な鍵なのではないかと思う。
2021年11月18日
大団円
posted by Sachiko at 21:55
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| ルーシー・M・ボストン
2021年11月13日
魔女メラニーの最後
グリーン・ノウ物語第5巻「グリーン・ノウの魔女」より
トーリーとピンは、木の枝の中に隠れて計画を実行しようとしていた。
そこに、まるで中身がなくなってしまっているようなメラニーが近づいてきて、木の下にさしかかったところで、二人はボール紙で作ったラッパを口に当てた。
去れ! ここより行け!
メルシーン・デモゴルゴン・フォスファー!
少年たちはその名を繰り返した。
ああ、フォスファー!
フォスファー!
ファー!
最後の「ファー!」とともに、メラニーの身体は引きつって倒れた。
そして、人間の心では信じられないいやらしいものがその上をまたいで立ち去って行った。
少年たちは心臓が止まりそうな思いだった。
敗北したメラニーは、中身がからっぽで、力もなくなって打ちひしがれていた。
メラニーに憑依していたものは、人間の心では信じられないようなもの---悪魔と呼ぶなら、そのようなものだったのだろう。
ファンタジーにはファンタジーの世界の法則がある。
そのゆえに、優れたファンタジー作品はどこか交錯して見えることがある。
『はてしない物語』(M・エンデ)の中の、サイーデの言葉を思い出す。
「からっぽのものなら何でもあやつることができる」
サイーデが操っていた騎士は、黒甲冑だけでできていて、中身は空っぽだった。
似たところでは、『指輪物語』の冥王サウロンの手下である黒の乗り手も、やはり空っぽだった。
この空っぽは恐ろしい。
現代は、悪の諸力が人間の内面を攻撃対象にしている時代だそうだ。
乗っ取られてしまったら、自分が乗っ取られているとは自覚できなくなるだろう。
内面を空虚にしないこと、得体の知れないものに委ねてしまわないことだ。
内なる勇気、知恵、善きものへの信頼とグリーン・ノウへの愛を、少年たちは持っていた。
本来そうである「人間らしい心」を、悪魔は嫌う。
オールドノウ夫人は、角を曲がってきたメラニーを信じられない思いで見た。おずおずとした様子は、これまで戦ってきた残忍な敵とは思えなかった。
メラニーは庭の道を通って、つまずきながら、小さく小さくなって出て行った。
こうしてこの奇妙な事件は終わった。あとはグリーン・ノウらしい、すばらしい出来事が待っている。
トーリーとピンは、木の枝の中に隠れて計画を実行しようとしていた。
そこに、まるで中身がなくなってしまっているようなメラニーが近づいてきて、木の下にさしかかったところで、二人はボール紙で作ったラッパを口に当てた。
去れ! ここより行け!
メルシーン・デモゴルゴン・フォスファー!
少年たちはその名を繰り返した。
ああ、フォスファー!
フォスファー!
ファー!
最後の「ファー!」とともに、メラニーの身体は引きつって倒れた。
そして、人間の心では信じられないいやらしいものがその上をまたいで立ち去って行った。
少年たちは心臓が止まりそうな思いだった。
敗北したメラニーは、中身がからっぽで、力もなくなって打ちひしがれていた。
メラニーに憑依していたものは、人間の心では信じられないようなもの---悪魔と呼ぶなら、そのようなものだったのだろう。
ファンタジーにはファンタジーの世界の法則がある。
そのゆえに、優れたファンタジー作品はどこか交錯して見えることがある。
『はてしない物語』(M・エンデ)の中の、サイーデの言葉を思い出す。
「からっぽのものなら何でもあやつることができる」
サイーデが操っていた騎士は、黒甲冑だけでできていて、中身は空っぽだった。
似たところでは、『指輪物語』の冥王サウロンの手下である黒の乗り手も、やはり空っぽだった。
この空っぽは恐ろしい。
現代は、悪の諸力が人間の内面を攻撃対象にしている時代だそうだ。
乗っ取られてしまったら、自分が乗っ取られているとは自覚できなくなるだろう。
内面を空虚にしないこと、得体の知れないものに委ねてしまわないことだ。
内なる勇気、知恵、善きものへの信頼とグリーン・ノウへの愛を、少年たちは持っていた。
本来そうである「人間らしい心」を、悪魔は嫌う。
オールドノウ夫人は、角を曲がってきたメラニーを信じられない思いで見た。おずおずとした様子は、これまで戦ってきた残忍な敵とは思えなかった。
メラニーは庭の道を通って、つまずきながら、小さく小さくなって出て行った。
こうしてこの奇妙な事件は終わった。あとはグリーン・ノウらしい、すばらしい出来事が待っている。
posted by Sachiko at 22:40
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| ルーシー・M・ボストン
2021年11月05日
日食
グリーン・ノウ物語第5巻「グリーン・ノウの魔女」より
その日は日食が起こる日だった。
少年たちはメラニーをやっつける計画を練っていた。
階下ではオールドノウ夫人が、トーリーの父からの電報を持って待っていた。ビルマから飛行機で帰ってくるという。
『トモダチヲツレテ』
その友だちがゆくえ知れずのお父さんだったらどんなにいいかと、ピンは思っていた。
電報を渡す前に、郵便配達人は奇妙なものを指し示した。
手のかたちをしたものに「破滅がなんじに来たるべし」と書かれて、ドアに張り付けてあったのだ。
夫人はそれをはがして、子どもたちの目に触れないように本のあいだに隠した。
やがて太陽が欠けてあたりが暗くなりはじめた。
トーリーは“なにか”を感じた。
屋根の端に手のようなものが動いていて、トーリーとピンが夫人を家の中に引き込んだとたん、大きな石が落ちてきた。
太陽がすっかり隠れてしまった時間だった。
そのとき、ポープ氏がテープに吹き込みをしている声が響いた。
それは「力の呪文」のすばらしい朗読だった。
ハレルー ヤー
最後の部分とともに、絶望の声が響いて何かが庭を横切って出ていった。
良きにつけ悪しきにつけ、日食というものは特別な時間のようだ。
魔法書の解読に夢中で日食には関心がなかったポープ氏が、はからずも不穏な者を追い出してしまったのだ。
朗読は、偉大なものたちの名前だった。
ことば、名まえ、声の響き....それらにはやはり特別な力がある。
そのことは太古から知られ、祈りや呪文のかたちで、これまた良くも悪くも使われてきた。
言葉を単なる情報伝達手段とだけ考える人が多くなった現代では、言葉のほんとうの力はどこかに埋もれたままだ。
「世界を鳴り響かせることば」や「事物のまことの名」は、今まさに発見されるのを待っているのかも知れなかった。
ポープ氏の力強い朗読は、家を揺らすほどだった。
世界を揺り動かし刷新するのは、古臭い議論やややこしいシステムではなく、ほんとうの「ことば」の力ではないのだろうか。
その日は日食が起こる日だった。
少年たちはメラニーをやっつける計画を練っていた。
階下ではオールドノウ夫人が、トーリーの父からの電報を持って待っていた。ビルマから飛行機で帰ってくるという。
『トモダチヲツレテ』
その友だちがゆくえ知れずのお父さんだったらどんなにいいかと、ピンは思っていた。
電報を渡す前に、郵便配達人は奇妙なものを指し示した。
手のかたちをしたものに「破滅がなんじに来たるべし」と書かれて、ドアに張り付けてあったのだ。
夫人はそれをはがして、子どもたちの目に触れないように本のあいだに隠した。
やがて太陽が欠けてあたりが暗くなりはじめた。
トーリーは“なにか”を感じた。
屋根の端に手のようなものが動いていて、トーリーとピンが夫人を家の中に引き込んだとたん、大きな石が落ちてきた。
太陽がすっかり隠れてしまった時間だった。
そのとき、ポープ氏がテープに吹き込みをしている声が響いた。
それは「力の呪文」のすばらしい朗読だった。
ハレルー ヤー
最後の部分とともに、絶望の声が響いて何かが庭を横切って出ていった。
良きにつけ悪しきにつけ、日食というものは特別な時間のようだ。
魔法書の解読に夢中で日食には関心がなかったポープ氏が、はからずも不穏な者を追い出してしまったのだ。
朗読は、偉大なものたちの名前だった。
ことば、名まえ、声の響き....それらにはやはり特別な力がある。
そのことは太古から知られ、祈りや呪文のかたちで、これまた良くも悪くも使われてきた。
言葉を単なる情報伝達手段とだけ考える人が多くなった現代では、言葉のほんとうの力はどこかに埋もれたままだ。
「世界を鳴り響かせることば」や「事物のまことの名」は、今まさに発見されるのを待っているのかも知れなかった。
ポープ氏の力強い朗読は、家を揺らすほどだった。
世界を揺り動かし刷新するのは、古臭い議論やややこしいシステムではなく、ほんとうの「ことば」の力ではないのだろうか。
posted by Sachiko at 22:19
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| ルーシー・M・ボストン
2021年10月27日
悪魔の娘
グリーン・ノウ物語第5巻「グリーン・ノウの魔女」より
村へ行く途中のメラニーが、ピンとトーリーに声をかけた。あとで手伝ってほしいことがあるという。
「いいわね、あれを持ってくるのよ。」
あれとは本のことか、鏡のことか。
メラニーが戻ってくる前に、二人はモミバヤシへ行った。
家のそばにある小屋に入ってみると、そこには山羊の角を結わえつけた棒があり、その棒には文字が彫りつけてあった。
トーリーがそれを書きとると、二人はグリーン・ノウへ駆け戻った。
オールドノウ夫人は中庭でつぎはぎ細工の掛布団をつくろっていた。
「スーザン(※)のねまきだったきれの部分をとりかえてるんだね。」とトーリーが言った。
(※スーザン:第2巻「グリーン・ノウの煙突」に登場する、19世紀にグリーン・ノウに住んでいた盲目の少女)
トーリーは剥がしたぼろきれを集めて、道端に置かれたごみ箱に入れた。
三人は、トーリーが書き留めた文字のことを考えた。
ルアリベルナユシトーアフスオフンゴルゴモデンーシールメ
後ろから読んでも意味がはっきりしない。
メルシーンデモゴルゴンフオスフアートシユナルベリアル
夫人は、最後のベリアルは悪魔サタンの名前のひとつだと言った。つまり、主なるベリアルだ。
さらに、メルシーンも名前で、悪魔の娘、デモゴルゴンというのも、サタンのもうひとつの名前。フォスファーは、サタンのギリシャ語だ。
メルシーン・デモゴルゴン・フォスフアーの頭文字は、M・D・P、メラニー・デリア・パワーズの頭文字と同じだ。
悪魔の娘が、メラニーの秘密の本名だったのだ。
その夜、寝ているトーリーの掛布団が引っ張られた。それにもスーザンのきれが使われていた。
スーザンは鏡を持って外へ行こうとしていた。
「門のところにいる女の人に持っていくの。行かせてよ。・・・あたしのねまきを引っぱらないでよ。」
トーリーは鏡を渡すように言った。
「メルシーン・デモゴルゴン・フォスフアーの名において。」
泣き声がおこり、スーザンは消えた。鏡はトーリーの手に残った。
メラニーは、ごみ箱に入れたきれを使ってスーザンを呼び出したようだ。
今回はスーザンが登場する。
グリーン・ノウでは、訪れる人それぞれに合った出来事が起こる。
トーリーは部屋に吊るした鏡にスーザンが映っているのを見たが、ピンが鏡をのぞき込んでも誰も見えなかった。
この家に過去に住んでいた子どもたちは、オールドノウ家の血を引くトーリーの前にだけ姿を現すのかもしれなかった。
この家が建っていた間のすべての時間はいま同時に存在し、夫人もトーリーも、それを当たり前のように受け入れて親しんでいた。
ピンがアイダやオスカーと楽しんだ夏休みは、オールドノウ夫人は留守にしていて、子どもたちはほとんどの時間を川で過ごした。
あの明るい夏には屋敷の秘密は影をひそめていたようで、過去の子どもたちも現れなかった。
一方、ゴリラのハンノーがグリーン・ノウの森に逃げ込んで自由を味わった三日間は、難民になったピンだけが共有できるものだった。
悪魔は名前を知られると力を失うという。
メラニーの本名を突きとめたので、もう夫人と少年たちのほうが優勢だった。だがまだすべてが終わったわけではなかった....
村へ行く途中のメラニーが、ピンとトーリーに声をかけた。あとで手伝ってほしいことがあるという。
「いいわね、あれを持ってくるのよ。」
あれとは本のことか、鏡のことか。
メラニーが戻ってくる前に、二人はモミバヤシへ行った。
家のそばにある小屋に入ってみると、そこには山羊の角を結わえつけた棒があり、その棒には文字が彫りつけてあった。
トーリーがそれを書きとると、二人はグリーン・ノウへ駆け戻った。
オールドノウ夫人は中庭でつぎはぎ細工の掛布団をつくろっていた。
「スーザン(※)のねまきだったきれの部分をとりかえてるんだね。」とトーリーが言った。
(※スーザン:第2巻「グリーン・ノウの煙突」に登場する、19世紀にグリーン・ノウに住んでいた盲目の少女)
トーリーは剥がしたぼろきれを集めて、道端に置かれたごみ箱に入れた。
三人は、トーリーが書き留めた文字のことを考えた。
ルアリベルナユシトーアフスオフンゴルゴモデンーシールメ
後ろから読んでも意味がはっきりしない。
メルシーンデモゴルゴンフオスフアートシユナルベリアル
夫人は、最後のベリアルは悪魔サタンの名前のひとつだと言った。つまり、主なるベリアルだ。
さらに、メルシーンも名前で、悪魔の娘、デモゴルゴンというのも、サタンのもうひとつの名前。フォスファーは、サタンのギリシャ語だ。
メルシーン・デモゴルゴン・フォスフアーの頭文字は、M・D・P、メラニー・デリア・パワーズの頭文字と同じだ。
悪魔の娘が、メラニーの秘密の本名だったのだ。
その夜、寝ているトーリーの掛布団が引っ張られた。それにもスーザンのきれが使われていた。
スーザンは鏡を持って外へ行こうとしていた。
「門のところにいる女の人に持っていくの。行かせてよ。・・・あたしのねまきを引っぱらないでよ。」
トーリーは鏡を渡すように言った。
「メルシーン・デモゴルゴン・フォスフアーの名において。」
泣き声がおこり、スーザンは消えた。鏡はトーリーの手に残った。
メラニーは、ごみ箱に入れたきれを使ってスーザンを呼び出したようだ。
今回はスーザンが登場する。
グリーン・ノウでは、訪れる人それぞれに合った出来事が起こる。
トーリーは部屋に吊るした鏡にスーザンが映っているのを見たが、ピンが鏡をのぞき込んでも誰も見えなかった。
この家に過去に住んでいた子どもたちは、オールドノウ家の血を引くトーリーの前にだけ姿を現すのかもしれなかった。
この家が建っていた間のすべての時間はいま同時に存在し、夫人もトーリーも、それを当たり前のように受け入れて親しんでいた。
ピンがアイダやオスカーと楽しんだ夏休みは、オールドノウ夫人は留守にしていて、子どもたちはほとんどの時間を川で過ごした。
あの明るい夏には屋敷の秘密は影をひそめていたようで、過去の子どもたちも現れなかった。
一方、ゴリラのハンノーがグリーン・ノウの森に逃げ込んで自由を味わった三日間は、難民になったピンだけが共有できるものだった。
悪魔は名前を知られると力を失うという。
メラニーの本名を突きとめたので、もう夫人と少年たちのほうが優勢だった。だがまだすべてが終わったわけではなかった....
posted by Sachiko at 22:24
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| ルーシー・M・ボストン
2021年10月23日
さらなる災い
グリーン・ノウ物語第5巻「グリーン・ノウの魔女」より
メラニーが放った虫のわざわいは、庭の鳥たちが解決してくれたが、トーリーとピンは二匹の黒猫が雷鳥を狙っているのに気がついた。
一時は追い払ったものの、一羽が殺されてしまった。
猫はメラニーのものに違いなく、少年たちがメラニーの庭を覗き込むと、木のあいだに張られた洗濯ひもに、死んだ鳥たちが下がっていた。
二人はそのことはオールドノウ夫人に言わなかった。
夫人にはもう十分すぎるほどのことが起きていたのだ。
不意にピンが、希望をもたらすあることを思いついた。
日が暮れたあとピンは、かつてゴリラのハンノー(第4巻「グリーン・ノウのお客さま」参照)が自分を救ってくれた木のところへ行って祈った。
「ああ、ハンノー、もういちどだけ出て来ておくれ。」
ピンにとって、ハンノーの思い出は庭じゅうに満ちていた。
そして気がつくと、聞いたことのないような猫の鳴き声とともに、黒い姿が次々と塀を飛び越えて行った。
けれど邪悪な力はまだ去ってはいなかった。オールドノウ夫人は言った。
「むかしから、魔法を使うにはきびしい規則があるのです。ちょうどチェスみたいなものです。もしある駒がとられたら、その駒はもう使えない。
そこでそれをとった駒をとるためにがんばるのです。
うじ虫には鳥、鳥には猫、猫にはハンノー。でも、ピン。もうこれ以上のものはいませんよ。」
ところが二人が果樹園に行くと、そこは蛇だらけになっていた。
これが次のわざわいだ。ピンとトーリーはまた知恵を働かせた。
あのペルシャ鏡で蛇たちの注意を逸らして蛇の穴から取り出したのは、蓋が付いた蛇の卵だった。中には、文字が書かれた蛇の皮が入っていた。
きたれへび
とぐろをまけわがつめたきものよ
なんじがしれるもののなによりてめいず
二人は皮を卵に戻して封をすると、それを川に投げた。
蛇たちは卵を追って川の中を流れていった。
メラニーは気が動転してしまったようだ。
魔法をかける人は、その魔法がだめになっていくとき、すっかりろうばいしてしまうものなのだ。
悪しきものは、最後には自分の足に蹴躓いて倒れることになると言われている。メラニーに関していえば、彼女は最初からどこか抜けたところがあった。
こうしてメラニーは次々と悪質な嫌がらせを仕掛けてきたが、二人の少年はけっしてメラニーと同じ方法では戦わない。
以前、「戦わないヒーロー」シリーズで書いたことがあるように、多くのファンタジーでは、たいてい善玉も悪玉も同じ戦い方をする。
つまり剣を振り回して相手を斬りまくったり、その類のことだ。
けれどここでは違っている。
悪に対するもっとも正しい戦い方は、善を実現することだという。
そのようにピンとトーリーは、よく考えて知恵をはたらかせる。
本来のグリーン・ノウには愛が満ちているのだ。
オールドノウ夫人と少年たちは、互いを愛し、この場所を愛し、庭の生きものたちや、かつてここに生きたものたちを愛している。
その愛の力こそは、悪い魔法が及ばぬところにあり、彼らを力強く助けてくれているに違いなかった。
だがメラニーは敵意を増してきている。
魔法の規則によれば、次の魔法は前のより強くなくてはならない。メラニーはさらに何かたくらんで来ることだろう。
メラニーが放った虫のわざわいは、庭の鳥たちが解決してくれたが、トーリーとピンは二匹の黒猫が雷鳥を狙っているのに気がついた。
一時は追い払ったものの、一羽が殺されてしまった。
猫はメラニーのものに違いなく、少年たちがメラニーの庭を覗き込むと、木のあいだに張られた洗濯ひもに、死んだ鳥たちが下がっていた。
二人はそのことはオールドノウ夫人に言わなかった。
夫人にはもう十分すぎるほどのことが起きていたのだ。
不意にピンが、希望をもたらすあることを思いついた。
日が暮れたあとピンは、かつてゴリラのハンノー(第4巻「グリーン・ノウのお客さま」参照)が自分を救ってくれた木のところへ行って祈った。
「ああ、ハンノー、もういちどだけ出て来ておくれ。」
ピンにとって、ハンノーの思い出は庭じゅうに満ちていた。
そして気がつくと、聞いたことのないような猫の鳴き声とともに、黒い姿が次々と塀を飛び越えて行った。
けれど邪悪な力はまだ去ってはいなかった。オールドノウ夫人は言った。
「むかしから、魔法を使うにはきびしい規則があるのです。ちょうどチェスみたいなものです。もしある駒がとられたら、その駒はもう使えない。
そこでそれをとった駒をとるためにがんばるのです。
うじ虫には鳥、鳥には猫、猫にはハンノー。でも、ピン。もうこれ以上のものはいませんよ。」
ところが二人が果樹園に行くと、そこは蛇だらけになっていた。
これが次のわざわいだ。ピンとトーリーはまた知恵を働かせた。
あのペルシャ鏡で蛇たちの注意を逸らして蛇の穴から取り出したのは、蓋が付いた蛇の卵だった。中には、文字が書かれた蛇の皮が入っていた。
きたれへび
とぐろをまけわがつめたきものよ
なんじがしれるもののなによりてめいず
二人は皮を卵に戻して封をすると、それを川に投げた。
蛇たちは卵を追って川の中を流れていった。
メラニーは気が動転してしまったようだ。
魔法をかける人は、その魔法がだめになっていくとき、すっかりろうばいしてしまうものなのだ。
悪しきものは、最後には自分の足に蹴躓いて倒れることになると言われている。メラニーに関していえば、彼女は最初からどこか抜けたところがあった。
こうしてメラニーは次々と悪質な嫌がらせを仕掛けてきたが、二人の少年はけっしてメラニーと同じ方法では戦わない。
以前、「戦わないヒーロー」シリーズで書いたことがあるように、多くのファンタジーでは、たいてい善玉も悪玉も同じ戦い方をする。
つまり剣を振り回して相手を斬りまくったり、その類のことだ。
けれどここでは違っている。
悪に対するもっとも正しい戦い方は、善を実現することだという。
そのようにピンとトーリーは、よく考えて知恵をはたらかせる。
本来のグリーン・ノウには愛が満ちているのだ。
オールドノウ夫人と少年たちは、互いを愛し、この場所を愛し、庭の生きものたちや、かつてここに生きたものたちを愛している。
その愛の力こそは、悪い魔法が及ばぬところにあり、彼らを力強く助けてくれているに違いなかった。
だがメラニーは敵意を増してきている。
魔法の規則によれば、次の魔法は前のより強くなくてはならない。メラニーはさらに何かたくらんで来ることだろう。
posted by Sachiko at 22:45
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