2020年02月09日

マイナス15度♪

ここまで気温が下がったのは19年ぶりだとか。
これを「凍(しば)れる」というのだ。標準語とやらに訳しようがない。
条件がよければダイヤモンドダストが見えはじめる気温だ。

それで、とても久しぶりに、寝る前に水を落とした。
・・・これも説明しなくては。
凍結防止のための水抜き栓(寒冷地では必ず付いている)をひねって、水道管の中の水を抜くことを指す。

今住んでいる家では、夜間も暖房を入れっぱなしなのでマイナス10度くらいまでは大丈夫なのだが、さすがに15度となると、念のため水抜きをしておいた。

北海道に引っ越してきたばかりの人が、「流れる水は凍らない」という話を信じて、水道の水を細く出しっぱなしにしていたところ、翌朝大変なことになったという話を聞いたことがある。

あれは、チョロチョロと流しておけば0℃でも凍らない、というレベルの話で、マイナス10度以下なら滝でも凍る。

もっとも、氷点下や吹雪が心地よいと思うのは暖房が効いた家に住んでいる現代だからで、開拓時代には、今よりもはるかに長く寒かった冬を越すのは命がけだった。
そんな時代にも、雪や氷の様々な姿が見せる美を愛でる人は幾らかいただろうか。

外は雪が降っているが、数時間前まで雲の切れ間から満月が見えていた。冴え冴えとした月が高く上っているのを暖かい部屋から眺める。冬は快適な季節なのだ。
   
posted by Sachiko at 22:11 | Comment(2) | 北海道
2020年01月28日

雪だるまを見なくなった

その後少しばかり雪が降って、20センチのリンゴンベリーは埋まったが、相変わらず雪は少ない。

雪が降るかもしれないというだけでニュースになる地域もある。
1センチの積雪の恐れ、だって?それは積雪とは言わない。
少なくとも5センチ以下は積雪ではなく、単にうっすら白くなったというだけだ。

そうして1センチでも毎年大騒ぎするのに、今年もスリップ事故や転倒事故が多発しているらしい。
夏タイヤや夏靴(この言葉も北国だけ?)では、雪道やアイスバーンはけっして走れないし歩けない(学んでおくれ...)。

それにしても、街角で雪だるまを見かけなくなって久しい。雪で遊ぶ子どもの姿も見ない。
少ないとはいえ、雪だるまを作るくらいの雪はあるのに。


小学校2年の冬、授業で詩を幾つか書くことになった。
多くの子どもが雪や氷のことを書き、それがあまりに多いので、先生はしまいに「雪や氷ではないことを書きなさい」と言いだした。

それほど、雪や氷は子どもたちに親しかった。
雪はタダで無尽蔵にあり、雪だるまでもかまくらでも、お城や落とし穴でも、好きなように作ることができた。

「ムーミン谷の冬」で、初めて雪を見たムーミンに、トゥティッキが雪の話をする。

「…雪って、つめたいと思うでしょ。だけど、雪小屋をこしらえて住むと、ずいぶんあったかいのよ。雪って、白いと思うでしょ。ところが、ときにはピンク色に見えるし、また青い色になるときもあるわ。どんなものよりやわらかいかと思うと、石よりもかたくなるしさ。なにもかも、たしかじゃないのね。」

このようなことを、かつて子どもたちは体験として知っていて、雪や氷のことだけでも、豊かな詩の世界をつくることができた。
光があたって輝くつららのことや、降りしきる雪をじっと見ていると目が回りそうになること、雪や氷は白だけでなく、ピンクや青や緑にも見えることを。

ただでさえ気温が上がって冬が短くなり、家の造りも変わったために、つららを見ることも少なくなったこの頃。
雪や氷と親しまずに子ども時代を終えるのはほんとうにもったいない。
  
posted by Sachiko at 22:13 | Comment(2) | 北海道
2019年10月19日

シカ騒動

この夏は住宅街でのクマ騒動があったが、今度はシカが現われた。
それも、街のど真ん中を含む数か所で。

昔、「熊、出ませんか?」とこわごわ聞く観光客をからかう都市伝説として「時計台の周りに熊が出るんだよ〜」という話が出回っていたことがある。(本気にした人もいたらしい...)
これで「札幌駅のそばにシカが出る」という事実ができてしまった。

前回のクマ騒動は山林に近いところで起きたが、今回複数のシカが現われた場所は山林からはかなり離れている。
どこからどうやって出てきたのだろう...?

住宅街で車にぶつかった瀕死のシカは、安楽死措置となった。
森を出て街に迷い込むと、自然霊の導きを受けられなくなってしまうのだろうか。
田舎の道路にはよく「シカに注意」の標識がある。

熊は人を襲うかもしれないし、増えすぎたシカは畑の農作物を荒らすかもしれない。ハンターの数は減っている。
「問題視」という視点で見れば、野生動物に関することは問題山積なのだが....

エゾシカはアイヌ語で「ユク」という。
これは元々は「獲物」という意味で、必ずしもシカだけを指す言葉ではなかったそうだ。

地元のテレビで、アイヌ民族の短いドキュメンタリーをやっていた。
狩猟民族として、倒したシカに敬意をもって祈りを捧げる。
魂は神の世界に還るように、そして肉体は人の世界に捧げられたことに感謝して。

見ているうちに、現代人がいかに文化というものを失くしてしまったかを思い知らされる。

「問題視」という目に映るものはともかくとして、この大地に、クマやシカやキツネやリスがいることが嬉しい。
  
posted by Sachiko at 21:57 | Comment(2) | 北海道
2019年08月18日

キムンカムイ・2

以前「ある森の話」というのを書いたことがある(2018.7.5付)。
この時、キノコ採りに連れて行ってもらったのだが、それは熊の生息域でもある山の中だった。

案内してくれた人は道路際から山に向かって「熊さん、入らせていただきます。キノコを少し分けてくださいね」と挨拶してから入っていった。そうして熊除けの鈴を鳴らしながら歩き、食べられるキノコを教わった。


ドロシー・マクレーンの「大地の天使たち」の中には、ドロシーがヒグマの魂と同調したときのことが書かれている。
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そのヒグマは初めて人間から愛を直接投げかけられて、泣き出さんばかりに喜んでいました。そのとき、動物は人間とちがって、自分の形の外には出られないことがわかりました。

だから、荒野で熊と出会ったら、その熊としての本性と習性を忘れてはなりません。熊を熊として尊敬するのも、ひとつの愛の形なのです。

くろ熊は、「愛をもって歩く」ようにと、私たちに伝えてきました。人間が愛をもって歩けば熊にもそれがわかり、さらにすべての生きもののためになるそうです。

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「熊を熊として尊敬する」、まさに「キムンカムイ」として敬うことだ。
人間が愛をもっているか、それとも恐怖をもっているかが、彼らにはわかるのだろう。
もちろん山で(あるいは街なかで!)熊に遭遇したときは、その本性と習性を忘れてはいけない。

ドロシー・マクレーンは、畑を荒らすモグラやネズミの意識とコンタクトしたときのことも書いている。
ネズミの害についての恐怖と、そうなるであろうという期待がまさにその事態を実現していることを明らかにしていったのだが、もちろんそのプロセスは簡単ではなかった。

アイヌ民族など各地の先住民にとって、全ての生きものがひとつの大いなるいのちを分け合っていることはあたりまえだった。
恐怖でいっぱいの文明人がふたたびそのことを思いだすプロセスも簡単ではないだろうが、それはすでに始まっている帰還の道だ。
  
posted by Sachiko at 22:33 | Comment(0) | 北海道
2019年08月17日

キムンカムイ

数日前まで市内のクマ騒動が全国ニュースで流れていて、こういうのを見ると、市内全域にクマが出没しているようなイメージを持たれるかも...と思っていた。

山林と隣接しているエリアだけなのだが、それがけっこう多い。クマだけでなく、時々シカやキツネも出てくる。
この規模の都市でこれだけ野生動物が近くにいる例は少ない。

一週間ほどの騒動の後、クマはハンターによって射殺された。
家庭菜園の作物や果樹を食べ、民家のすぐそばを歩き、人が出くわしたら襲われるかもしれない。近くには小学校もあり、もうすぐ夏休みが終わる.....

昔の人は、動物が住む山と里山のあいだに実のなる木などを植えて緩衝地帯を作り、野生動物をそこで止めて人間エリアに入ってこないように工夫していたらしい。
今は、動物エリアのすぐそばまで宅地が迫っている。

ニュースの中で繰り返された、「害獣」「駆除」などの言葉がどうも気になっていた。
野生動物は元々、自然界の絶妙なバランスの環に組込まれている。人間もこの環の一部だったことを忘れてしまった今、バランスを壊すのは常に人間だ。

自然界のあらゆる存在の中に霊格(カムイ)を見ていたアイヌ民族にとっては、熊は、キムンカムイ(山の神)だ。
だが人を襲うと悪い神(ウェンカムイ)になってしまう。
「もののけ姫」の、たたり神になってしまった動物を思い出す。

撃たれたクマはどうなったのか。できるならイヨマンテ(熊送りの儀式)で送ってほしいと思ったが、そうはならないだろう。
  
posted by Sachiko at 21:27 | Comment(2) | 北海道