2022年12月25日

今日から12聖夜

今日から12聖夜だけれど、今年は毎日の更新ができそうもないm(_ _)m

『Die Zwölf Heiligen Nächte und die Geistigen Hierarchien(十二聖夜と霊的ヒエラルキー)』(セルゲイ・プロコフィエフ著)という本を紹介しようと思っていたのに、全く訳が進まなかったm(_ _)m。

魚座から牡羊座まで黄道12宮を巡る旅の、最初の章しかできていないので今年は諦めた。

ともかく本がなくても、12聖夜は重要だ。
特に慌ただしい日本の年末年始の中で、暦の間隙だという12夜は、まだ秘教の静けさに属している。

おさらいしてみる。
25日は1翌年1月、26日は翌年2月...と、12夜は次の1年に対応している。

人間イエスの誕生(クリスマス)から、イエスの中でのキリストの誕生(エピファニー)までの、人間にとっては上昇、神にとっては下降の、ふたつの流れ。

原初の人間の領域であった魚座から、キリストが地上に降りる時の門であった牡羊座へと巡る旅。
これも同時に、牡羊座の門を通って魚座の人間領域に至る流れでもある。

時間が空間に変わる12聖夜、夢に注意を払いながら、この特別な次元を今年も旅したいと思う。

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posted by Sachiko at 22:44 | Comment(6) | クリスマス
2022年01月06日

エピファニー2022

今年もエピファニー。
12聖夜が明けるといつも、特別な時空間を抜けた気分になる。
実際、この時期は天とのあいだの壁が薄くなっているそうだ。

旅のおさらいをしてみよう。

アドベントは、宇宙に鉱物界、植物界、動物界、人間界が現われてくる宇宙進化のプロセスを辿って、聖夜に至る。


クリスマス、魂の深奥で聖なる子どもが誕生する。

霊的な真の自己である“私”という意識をもって人生の責任を引き受ける決意とともに、階梯を上っていく。

愛することと赦すこと、他者への愛と敬意。
“私”という存在に気付き、体験や思いを十字架にかけ、新たな段階に引き上げる。
すべての人は神聖な存在であるという認識、内なるキリストの体験へ。


エピファニー、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエスの中にキリストが降臨する。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」(マタイ3-17)

クリスマスの物語同様、エピファニーもまた、未来には個々の魂の中で起こるべき出来事なのだろう。

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11月末からの壮大なクリスマスの旅が終わり、今日はツリーを片付けた。
明日で松の内も終わるので、お正月飾りも片づける(日本人なもので....(^^;)

ほんの少し日が長くなり、光にかすかな春を感じるようになっていく。
   
posted by Sachiko at 14:22 | Comment(0) | クリスマス
2022年01月05日

12月に向けて---第十二夜

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シュタイナーが伝えた12夜の話から

最後の聖夜の一歩を踏み出そう。
毎日歩んできたこれらの12の階梯は、次のクリスマスに私たちの存在が新たにされるまで、1年間の各月のテーマとなる。

私たちは自分の内面の在り方を観照してきた。そして自分の中で毎瞬間起こっている様々な動きに対し、さらに意識的になれることを願う。

私たちは、自分の感情がどのように湧き上がるか、放っておけば私たちを押し流してしまうかということを、より意識するようになった。

私たちの心の中を飛び交う思考の幾つかは、衝撃的なものだったかもしれない。それらはいつもそこにあったのに、気づかなかっただけなのだ。
また、行為への衝動がより意識的になり、自分の動機を評価する機会を得たかもしれない。

少なくとも、これらの3つの魂の活動をより意識するようになったなら、私たちは自分の存在の中で最高のもの、すなわち“私”を体験したことになる。

内なる“私”は、私たちに平静と目的を与え、世界や出会うすべての人々との関係のあり方を変えてくれる。
そのような“私”を体験できたとき、すべての人間の中にキリストが見えはじめる。

宇宙のキリストは、イエスという媒介を通してこの地上に降り、この霊は私たちの中に宿っている。
この霊は、主に私たちが呼吸するたびに、また私たちが食べる食物、キリストの体である大地で育まれた食べ物を通して、私たちの中に宿っている。

この現実を受け入れると、私たちは地球の生命力と、自分のエーテル体の中にも、キリストのエーテル存在を体験し始める。

今、私たちはすべての人をキリストであるかのように扱い始める。
否定的な思考は、それが形成される前に阻止する。
なぜなら、その思考がキリストについて考えていることになると知るからだ。

他者の中にいるキリストに敬意を払うからこそ、すべての感情や動機に気をつける。そうすることで、自分自身が変容し、相手も引き上げることができる。

パウロがこう言ったように。
「この奥義は、あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みである。」(コロサイ1:27)。

もし私たちがこれからの1年間、毎日この神秘を思い起こすことだけをするなら、私たちは世界を変えるだろう。

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12夜の最初と最後は、さらに特別だ。
第1夜は翌年の1月に対応するが、その1月には、8月〜12月に対応する日が含まれている。

第12夜は12月に対応し、その12月には次の年の1〜7月が含まれる。
更に言えば、含まれている1月にはそのまた次の8〜12月が含まれ...と、どこまでも層になり、鏡に映した鏡のように、遥かな過去から未来までの時空が、神秘的に折り重なっている。


今日の話は、この箇所にもつながっている。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)

福音書を引用するとなんだか説教臭くも見えてしまうけれど、12夜の神秘をたどるのに、外的なキリスト教徒である必要はないと思う。
12夜の神秘は、キリスト教が広まる以前の時代から知られていたのだ。

それは宇宙と地球が織りなす神秘であり、すべての人にとって重要な意味と働きを持つ。
  
posted by Sachiko at 10:46 | Comment(4) | クリスマス
2022年01月04日

11月に向けて---第十一夜

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シュタイナーが伝えた12夜の話から

人類は霊的な世界の入り口に生きている。
私たちは無意識のうちにその上を通り過ぎていると言う人もいる。

つまり、それと知らずに霊的な力を行使しているということだ。
ゆえに、自分が霊的存在であるという認識に目覚めることが、人類にとっての急務である。

それは、私たちが物理的な世界において何かの道具を使うように、霊的存在である“私”が私たちを動かし使っていることを理解することによってのみ可能である。

私たちがスプーンを手にして食べ物を口に入れるように、“私”は、自分の成長の糧となるような形で他の人々と関わる状況に私たちを置いているのだ。

このことを理解し、実際にこのことに関連した思考をすると、人生の中でカルマが再生される瞬間に、私たちは“私”を体験する。

私たちは本当の自分に触れ、皿の上の食事を興味深く観察するように、目の前にあるものを興味深く観察する。
好きなものも嫌いなものも、偏見なしに見ることができる。

その時、自らの努力によって、キリストの血の力、聖杯を自分自身の内に受け取る。

私たちの血は、“私”という存在の担い手であり、その血から低次の欲望や本能を浄化することで、“私”という存在にふさわしいものにする。
そして私たちの血はさらに純粋になり、キリストの血となることができる。

私たちはこの課題に取り組めるだろうか?

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12夜の旅が終わり近くになり、これが聖杯探求の道でもあったことが明らかになる。

人類の自我は、まだ発達の途についたばかりの子どものようなものだという。
現代の混乱した状況は、子どもが自分では使いこなせない危険物や複雑な機器を見つけてしまい、手に負えないままおもちゃにしているようにも見えるが、やはりそれは危険すぎる。

この時代をどのようにくぐり抜けて行くのか、子どもの自我は、長い宇宙時間を経て、ようやく“私”を見出す場所の戸口に立っている。

扉をくぐることができればまた、約束された道への長い階梯を廻る旅が続いて行くのだろう。
   
posted by Sachiko at 10:59 | Comment(0) | クリスマス
2022年01月03日

10月に向けて---第十夜

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シュタイナーが伝えた12夜の話から

私たちは、自分の中の “私”の呼び声を聞いているだろうか?
自分の存在、自分の魂の中で、この“私”を経験しようと努めているだろうか?

転生する前に“私”と交わした約束を忘れないようにしているだろうか?
もしそうなら、成功も失敗も、善も悪も、喜びも苦しみにも煩わされなくなる。
それは、私たちが成長するために必要な大切な経験であると知るからだ。

内なる“私”は、カルマを解消し、人生で関わるすべての人々との調和を図るように取り計らっている。
もちろん、私たちは、ある人たちとは距離を置きたいと思うし、その方が人生が楽になると思っている。

しかし、この方法では困難を取り除くことはできず、困難は他の人を通して再び私たちの前に現れる。
自分に正直になれば、自分の人生を難しくしている人を愛するよりも、憎む方が簡単だということを認めるだろう。

憎しみは強い言葉だと思われるが、愛の対極は憎しみであることを認めなければならない。
この言葉の真実を直視することは、それを覆い隠したり、もっと聞こえのよい名前を付けたりするよりも良いことだ。

内なる“私”について少しでも知っていれば、私たちは自分の人生に関わるすべての人に奉仕するように求められていること、そしてどの一人も偶然に自分の人生に現れているのではないことに気づくだろう。

自分の周りに集まっているすべての人に奉仕する方法は、彼らを愛すること、本当に愛することだ。

すべての人間は神聖な存在であり、すべての人間は神になる可能性を持っている。
私たちは、神聖な存在と仲間になることを望むだろうか?
神になろうとしている何ものかと共にあることを?

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「人間は神の種であり、そこからはやがて神が育つ。という名言がどこかにあった。
現状からは到底信じられないように見えても、それは、知らない人が見れば毛虫が蝶になるとは信じられないようなものだろう。

できれば距離を置きたい人々を愛するということ、これもまた誤解を招きやすい。我慢して相手の要求に従い続けるようなことではけっしてない(そんなことをしてはいけない)。

「すべての人間は神聖な存在である」ということを、まず自分自身に適用しなければ、日常の意識で面倒な人々をも愛そうとするのは無理がある。
内なる尊い存在、それが真の“私”であり、そこを通った先に、他のすべての人の本質が聖性であると知れる神聖な空間が拡がっている。

繰り返し語られている“私”、原文では大文字で書かれている“I AM”は、神の名だ。

現代の多くの状況の中で、人間を内なる“I AM”に気づかせないように仕向ける力が巧みにはたらいているけれど、種が育つということは本来自然なことだ。

12夜には特別な力がはたらいているので、日常の“I am”が“I AM”に出会うことも、いつもより難しくないかもしれない。
    
posted by Sachiko at 09:25 | Comment(0) | クリスマス