今年もエピファニー。
12聖夜が明けるといつも、特別な時空間を抜けた気分になる。
実際、この時期は天とのあいだの壁が薄くなっているそうだ。
旅のおさらいをしてみよう。
アドベントは、宇宙に鉱物界、植物界、動物界、人間界が現われてくる宇宙進化のプロセスを辿って、聖夜に至る。
クリスマス、魂の深奥で聖なる子どもが誕生する。
霊的な真の自己である“私”という意識をもって人生の責任を引き受ける決意とともに、階梯を上っていく。
愛することと赦すこと、他者への愛と敬意。
“私”という存在に気付き、体験や思いを十字架にかけ、新たな段階に引き上げる。
すべての人は神聖な存在であるという認識、内なるキリストの体験へ。
エピファニー、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエスの中にキリストが降臨する。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」(マタイ3-17)
クリスマスの物語同様、エピファニーもまた、未来には個々の魂の中で起こるべき出来事なのだろう。
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11月末からの壮大なクリスマスの旅が終わり、今日はツリーを片付けた。
明日で松の内も終わるので、お正月飾りも片づける(日本人なもので....(^^;)
ほんの少し日が長くなり、光にかすかな春を感じるようになっていく。
2022年01月06日
エピファニー2022
posted by Sachiko at 14:22
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2022年01月05日
12月に向けて---第十二夜
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シュタイナーが伝えた12夜の話から
最後の聖夜の一歩を踏み出そう。
毎日歩んできたこれらの12の階梯は、次のクリスマスに私たちの存在が新たにされるまで、1年間の各月のテーマとなる。
私たちは自分の内面の在り方を観照してきた。そして自分の中で毎瞬間起こっている様々な動きに対し、さらに意識的になれることを願う。
私たちは、自分の感情がどのように湧き上がるか、放っておけば私たちを押し流してしまうかということを、より意識するようになった。
私たちの心の中を飛び交う思考の幾つかは、衝撃的なものだったかもしれない。それらはいつもそこにあったのに、気づかなかっただけなのだ。
また、行為への衝動がより意識的になり、自分の動機を評価する機会を得たかもしれない。
少なくとも、これらの3つの魂の活動をより意識するようになったなら、私たちは自分の存在の中で最高のもの、すなわち“私”を体験したことになる。
内なる“私”は、私たちに平静と目的を与え、世界や出会うすべての人々との関係のあり方を変えてくれる。
そのような“私”を体験できたとき、すべての人間の中にキリストが見えはじめる。
宇宙のキリストは、イエスという媒介を通してこの地上に降り、この霊は私たちの中に宿っている。
この霊は、主に私たちが呼吸するたびに、また私たちが食べる食物、キリストの体である大地で育まれた食べ物を通して、私たちの中に宿っている。
この現実を受け入れると、私たちは地球の生命力と、自分のエーテル体の中にも、キリストのエーテル存在を体験し始める。
今、私たちはすべての人をキリストであるかのように扱い始める。
否定的な思考は、それが形成される前に阻止する。
なぜなら、その思考がキリストについて考えていることになると知るからだ。
他者の中にいるキリストに敬意を払うからこそ、すべての感情や動機に気をつける。そうすることで、自分自身が変容し、相手も引き上げることができる。
パウロがこう言ったように。
「この奥義は、あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みである。」(コロサイ1:27)。
もし私たちがこれからの1年間、毎日この神秘を思い起こすことだけをするなら、私たちは世界を変えるだろう。
-----
12夜の最初と最後は、さらに特別だ。
第1夜は翌年の1月に対応するが、その1月には、8月〜12月に対応する日が含まれている。
第12夜は12月に対応し、その12月には次の年の1〜7月が含まれる。
更に言えば、含まれている1月にはそのまた次の8〜12月が含まれ...と、どこまでも層になり、鏡に映した鏡のように、遥かな過去から未来までの時空が、神秘的に折り重なっている。
今日の話は、この箇所にもつながっている。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)
福音書を引用するとなんだか説教臭くも見えてしまうけれど、12夜の神秘をたどるのに、外的なキリスト教徒である必要はないと思う。
12夜の神秘は、キリスト教が広まる以前の時代から知られていたのだ。
それは宇宙と地球が織りなす神秘であり、すべての人にとって重要な意味と働きを持つ。
シュタイナーが伝えた12夜の話から
最後の聖夜の一歩を踏み出そう。
毎日歩んできたこれらの12の階梯は、次のクリスマスに私たちの存在が新たにされるまで、1年間の各月のテーマとなる。
私たちは自分の内面の在り方を観照してきた。そして自分の中で毎瞬間起こっている様々な動きに対し、さらに意識的になれることを願う。
私たちは、自分の感情がどのように湧き上がるか、放っておけば私たちを押し流してしまうかということを、より意識するようになった。
私たちの心の中を飛び交う思考の幾つかは、衝撃的なものだったかもしれない。それらはいつもそこにあったのに、気づかなかっただけなのだ。
また、行為への衝動がより意識的になり、自分の動機を評価する機会を得たかもしれない。
少なくとも、これらの3つの魂の活動をより意識するようになったなら、私たちは自分の存在の中で最高のもの、すなわち“私”を体験したことになる。
内なる“私”は、私たちに平静と目的を与え、世界や出会うすべての人々との関係のあり方を変えてくれる。
そのような“私”を体験できたとき、すべての人間の中にキリストが見えはじめる。
宇宙のキリストは、イエスという媒介を通してこの地上に降り、この霊は私たちの中に宿っている。
この霊は、主に私たちが呼吸するたびに、また私たちが食べる食物、キリストの体である大地で育まれた食べ物を通して、私たちの中に宿っている。
この現実を受け入れると、私たちは地球の生命力と、自分のエーテル体の中にも、キリストのエーテル存在を体験し始める。
今、私たちはすべての人をキリストであるかのように扱い始める。
否定的な思考は、それが形成される前に阻止する。
なぜなら、その思考がキリストについて考えていることになると知るからだ。
他者の中にいるキリストに敬意を払うからこそ、すべての感情や動機に気をつける。そうすることで、自分自身が変容し、相手も引き上げることができる。
パウロがこう言ったように。
「この奥義は、あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みである。」(コロサイ1:27)。
もし私たちがこれからの1年間、毎日この神秘を思い起こすことだけをするなら、私たちは世界を変えるだろう。
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12夜の最初と最後は、さらに特別だ。
第1夜は翌年の1月に対応するが、その1月には、8月〜12月に対応する日が含まれている。
第12夜は12月に対応し、その12月には次の年の1〜7月が含まれる。
更に言えば、含まれている1月にはそのまた次の8〜12月が含まれ...と、どこまでも層になり、鏡に映した鏡のように、遥かな過去から未来までの時空が、神秘的に折り重なっている。
今日の話は、この箇所にもつながっている。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)
福音書を引用するとなんだか説教臭くも見えてしまうけれど、12夜の神秘をたどるのに、外的なキリスト教徒である必要はないと思う。
12夜の神秘は、キリスト教が広まる以前の時代から知られていたのだ。
それは宇宙と地球が織りなす神秘であり、すべての人にとって重要な意味と働きを持つ。
posted by Sachiko at 10:46
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2022年01月04日
11月に向けて---第十一夜
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シュタイナーが伝えた12夜の話から
人類は霊的な世界の入り口に生きている。
私たちは無意識のうちにその上を通り過ぎていると言う人もいる。
つまり、それと知らずに霊的な力を行使しているということだ。
ゆえに、自分が霊的存在であるという認識に目覚めることが、人類にとっての急務である。
それは、私たちが物理的な世界において何かの道具を使うように、霊的存在である“私”が私たちを動かし使っていることを理解することによってのみ可能である。
私たちがスプーンを手にして食べ物を口に入れるように、“私”は、自分の成長の糧となるような形で他の人々と関わる状況に私たちを置いているのだ。
このことを理解し、実際にこのことに関連した思考をすると、人生の中でカルマが再生される瞬間に、私たちは“私”を体験する。
私たちは本当の自分に触れ、皿の上の食事を興味深く観察するように、目の前にあるものを興味深く観察する。
好きなものも嫌いなものも、偏見なしに見ることができる。
その時、自らの努力によって、キリストの血の力、聖杯を自分自身の内に受け取る。
私たちの血は、“私”という存在の担い手であり、その血から低次の欲望や本能を浄化することで、“私”という存在にふさわしいものにする。
そして私たちの血はさらに純粋になり、キリストの血となることができる。
私たちはこの課題に取り組めるだろうか?
-----
12夜の旅が終わり近くになり、これが聖杯探求の道でもあったことが明らかになる。
人類の自我は、まだ発達の途についたばかりの子どものようなものだという。
現代の混乱した状況は、子どもが自分では使いこなせない危険物や複雑な機器を見つけてしまい、手に負えないままおもちゃにしているようにも見えるが、やはりそれは危険すぎる。
この時代をどのようにくぐり抜けて行くのか、子どもの自我は、長い宇宙時間を経て、ようやく“私”を見出す場所の戸口に立っている。
扉をくぐることができればまた、約束された道への長い階梯を廻る旅が続いて行くのだろう。
シュタイナーが伝えた12夜の話から
人類は霊的な世界の入り口に生きている。
私たちは無意識のうちにその上を通り過ぎていると言う人もいる。
つまり、それと知らずに霊的な力を行使しているということだ。
ゆえに、自分が霊的存在であるという認識に目覚めることが、人類にとっての急務である。
それは、私たちが物理的な世界において何かの道具を使うように、霊的存在である“私”が私たちを動かし使っていることを理解することによってのみ可能である。
私たちがスプーンを手にして食べ物を口に入れるように、“私”は、自分の成長の糧となるような形で他の人々と関わる状況に私たちを置いているのだ。
このことを理解し、実際にこのことに関連した思考をすると、人生の中でカルマが再生される瞬間に、私たちは“私”を体験する。
私たちは本当の自分に触れ、皿の上の食事を興味深く観察するように、目の前にあるものを興味深く観察する。
好きなものも嫌いなものも、偏見なしに見ることができる。
その時、自らの努力によって、キリストの血の力、聖杯を自分自身の内に受け取る。
私たちの血は、“私”という存在の担い手であり、その血から低次の欲望や本能を浄化することで、“私”という存在にふさわしいものにする。
そして私たちの血はさらに純粋になり、キリストの血となることができる。
私たちはこの課題に取り組めるだろうか?
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12夜の旅が終わり近くになり、これが聖杯探求の道でもあったことが明らかになる。
人類の自我は、まだ発達の途についたばかりの子どものようなものだという。
現代の混乱した状況は、子どもが自分では使いこなせない危険物や複雑な機器を見つけてしまい、手に負えないままおもちゃにしているようにも見えるが、やはりそれは危険すぎる。
この時代をどのようにくぐり抜けて行くのか、子どもの自我は、長い宇宙時間を経て、ようやく“私”を見出す場所の戸口に立っている。
扉をくぐることができればまた、約束された道への長い階梯を廻る旅が続いて行くのだろう。
posted by Sachiko at 10:59
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2022年01月03日
10月に向けて---第十夜
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シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちは、自分の中の “私”の呼び声を聞いているだろうか?
自分の存在、自分の魂の中で、この“私”を経験しようと努めているだろうか?
転生する前に“私”と交わした約束を忘れないようにしているだろうか?
もしそうなら、成功も失敗も、善も悪も、喜びも苦しみにも煩わされなくなる。
それは、私たちが成長するために必要な大切な経験であると知るからだ。
内なる“私”は、カルマを解消し、人生で関わるすべての人々との調和を図るように取り計らっている。
もちろん、私たちは、ある人たちとは距離を置きたいと思うし、その方が人生が楽になると思っている。
しかし、この方法では困難を取り除くことはできず、困難は他の人を通して再び私たちの前に現れる。
自分に正直になれば、自分の人生を難しくしている人を愛するよりも、憎む方が簡単だということを認めるだろう。
憎しみは強い言葉だと思われるが、愛の対極は憎しみであることを認めなければならない。
この言葉の真実を直視することは、それを覆い隠したり、もっと聞こえのよい名前を付けたりするよりも良いことだ。
内なる“私”について少しでも知っていれば、私たちは自分の人生に関わるすべての人に奉仕するように求められていること、そしてどの一人も偶然に自分の人生に現れているのではないことに気づくだろう。
自分の周りに集まっているすべての人に奉仕する方法は、彼らを愛すること、本当に愛することだ。
すべての人間は神聖な存在であり、すべての人間は神になる可能性を持っている。
私たちは、神聖な存在と仲間になることを望むだろうか?
神になろうとしている何ものかと共にあることを?
-----
「人間は神の種であり、そこからはやがて神が育つ。という名言がどこかにあった。
現状からは到底信じられないように見えても、それは、知らない人が見れば毛虫が蝶になるとは信じられないようなものだろう。
できれば距離を置きたい人々を愛するということ、これもまた誤解を招きやすい。我慢して相手の要求に従い続けるようなことではけっしてない(そんなことをしてはいけない)。
「すべての人間は神聖な存在である」ということを、まず自分自身に適用しなければ、日常の意識で面倒な人々をも愛そうとするのは無理がある。
内なる尊い存在、それが真の“私”であり、そこを通った先に、他のすべての人の本質が聖性であると知れる神聖な空間が拡がっている。
繰り返し語られている“私”、原文では大文字で書かれている“I AM”は、神の名だ。
現代の多くの状況の中で、人間を内なる“I AM”に気づかせないように仕向ける力が巧みにはたらいているけれど、種が育つということは本来自然なことだ。
12夜には特別な力がはたらいているので、日常の“I am”が“I AM”に出会うことも、いつもより難しくないかもしれない。
シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちは、自分の中の “私”の呼び声を聞いているだろうか?
自分の存在、自分の魂の中で、この“私”を経験しようと努めているだろうか?
転生する前に“私”と交わした約束を忘れないようにしているだろうか?
もしそうなら、成功も失敗も、善も悪も、喜びも苦しみにも煩わされなくなる。
それは、私たちが成長するために必要な大切な経験であると知るからだ。
内なる“私”は、カルマを解消し、人生で関わるすべての人々との調和を図るように取り計らっている。
もちろん、私たちは、ある人たちとは距離を置きたいと思うし、その方が人生が楽になると思っている。
しかし、この方法では困難を取り除くことはできず、困難は他の人を通して再び私たちの前に現れる。
自分に正直になれば、自分の人生を難しくしている人を愛するよりも、憎む方が簡単だということを認めるだろう。
憎しみは強い言葉だと思われるが、愛の対極は憎しみであることを認めなければならない。
この言葉の真実を直視することは、それを覆い隠したり、もっと聞こえのよい名前を付けたりするよりも良いことだ。
内なる“私”について少しでも知っていれば、私たちは自分の人生に関わるすべての人に奉仕するように求められていること、そしてどの一人も偶然に自分の人生に現れているのではないことに気づくだろう。
自分の周りに集まっているすべての人に奉仕する方法は、彼らを愛すること、本当に愛することだ。
すべての人間は神聖な存在であり、すべての人間は神になる可能性を持っている。
私たちは、神聖な存在と仲間になることを望むだろうか?
神になろうとしている何ものかと共にあることを?
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「人間は神の種であり、そこからはやがて神が育つ。という名言がどこかにあった。
現状からは到底信じられないように見えても、それは、知らない人が見れば毛虫が蝶になるとは信じられないようなものだろう。
できれば距離を置きたい人々を愛するということ、これもまた誤解を招きやすい。我慢して相手の要求に従い続けるようなことではけっしてない(そんなことをしてはいけない)。
「すべての人間は神聖な存在である」ということを、まず自分自身に適用しなければ、日常の意識で面倒な人々をも愛そうとするのは無理がある。
内なる尊い存在、それが真の“私”であり、そこを通った先に、他のすべての人の本質が聖性であると知れる神聖な空間が拡がっている。
繰り返し語られている“私”、原文では大文字で書かれている“I AM”は、神の名だ。
現代の多くの状況の中で、人間を内なる“I AM”に気づかせないように仕向ける力が巧みにはたらいているけれど、種が育つということは本来自然なことだ。
12夜には特別な力がはたらいているので、日常の“I am”が“I AM”に出会うことも、いつもより難しくないかもしれない。
posted by Sachiko at 09:25
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2022年01月02日
9月に向けて---第九夜
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シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちの個人的な復活には、新しいレベルの客観性が伴う。
以前そうしていたように、物事を個人的にとらえることはなくなる。
それは人生で何が起ころうとただ平静に受け止めるということではなく、これまでよりもより高い次元から、切り離して観ることができるようになる。
出来事から超然としていられる時はいつでも、“私”という存在を通して人生に対応していることがわかる。
そうでない場合は、低次の自己で対応している。低次の自己は、ある状況においては子供のような振る舞いをする。
低次の自己は自分なりのやり方を求めるが、それはたいていの場合、最も抵抗の少ない方法だ。
しかし、面倒なことに対していつものように反応するのを我慢すれば、解放された気分になる。
試してみるといい。次に誰かに煩わされたら、一呼吸おいて、スペースを作り、自分にこう言う。"もしこれが誰か他人に起こったことなら、私は苛立つだろうか?"
こうして、私たちは自分の低次の感情的な反応をコントロールするために意志を働かせる。
相手の言葉や行為をそのまま通り過ぎるにまかせると、やがて忘却の彼方へと流れ去っていく。
そうすると、相手が何をしたにせよ、その力は失われ、みんなにとって益になる。
さらに、「自分に起こることは自分で引き寄せている」ということを覚えておけば、このような小さな試練にもすぐに気づき、新年の誓いを強化する方法として捉えることができるだろう。
-----
低次の自我のやり方では大抵の場合、よいと思われることも悪いと思われることも、それが自分に起こった場合と他人に起こった場合とでは、反応や呼び起こされる感情が全く違い、時には真逆のものだったりする。
シュタイナーの修行法でもこの点について言及されている。
自分に起こったことを見る時には、それが他人であるかのように客観的に見ること。
他人に起こったことを見る時には、それが自分自身であるかのように共感をもって見ること。
言われるほど簡単ではないが、フィンドホーンのゲームでこれに似たものがあった。
互いに向き合って、自分の言葉を相手のものであるかのように、相手の言葉を自分のものであるかのように聞く(この時の発言は肯定的なものに限られる)。
続けていくうちに、どちらがどちらのことを言っているのかわからなくなるような不思議な一体感が起こってくる。
☆ ☆ ☆
これはまったく個人的にだけれど、12夜の旅は、地上から遠く離れて銀河鉄道で旅するような気分になる。
「・・・おまえがあうどんなひとでも、みんななんべんもおまえといっしょにりんごをたべたり汽車にのったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい・・・」(『銀河鉄道の夜』より)
シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちの個人的な復活には、新しいレベルの客観性が伴う。
以前そうしていたように、物事を個人的にとらえることはなくなる。
それは人生で何が起ころうとただ平静に受け止めるということではなく、これまでよりもより高い次元から、切り離して観ることができるようになる。
出来事から超然としていられる時はいつでも、“私”という存在を通して人生に対応していることがわかる。
そうでない場合は、低次の自己で対応している。低次の自己は、ある状況においては子供のような振る舞いをする。
低次の自己は自分なりのやり方を求めるが、それはたいていの場合、最も抵抗の少ない方法だ。
しかし、面倒なことに対していつものように反応するのを我慢すれば、解放された気分になる。
試してみるといい。次に誰かに煩わされたら、一呼吸おいて、スペースを作り、自分にこう言う。"もしこれが誰か他人に起こったことなら、私は苛立つだろうか?"
こうして、私たちは自分の低次の感情的な反応をコントロールするために意志を働かせる。
相手の言葉や行為をそのまま通り過ぎるにまかせると、やがて忘却の彼方へと流れ去っていく。
そうすると、相手が何をしたにせよ、その力は失われ、みんなにとって益になる。
さらに、「自分に起こることは自分で引き寄せている」ということを覚えておけば、このような小さな試練にもすぐに気づき、新年の誓いを強化する方法として捉えることができるだろう。
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低次の自我のやり方では大抵の場合、よいと思われることも悪いと思われることも、それが自分に起こった場合と他人に起こった場合とでは、反応や呼び起こされる感情が全く違い、時には真逆のものだったりする。
シュタイナーの修行法でもこの点について言及されている。
自分に起こったことを見る時には、それが他人であるかのように客観的に見ること。
他人に起こったことを見る時には、それが自分自身であるかのように共感をもって見ること。
言われるほど簡単ではないが、フィンドホーンのゲームでこれに似たものがあった。
互いに向き合って、自分の言葉を相手のものであるかのように、相手の言葉を自分のものであるかのように聞く(この時の発言は肯定的なものに限られる)。
続けていくうちに、どちらがどちらのことを言っているのかわからなくなるような不思議な一体感が起こってくる。
☆ ☆ ☆
これはまったく個人的にだけれど、12夜の旅は、地上から遠く離れて銀河鉄道で旅するような気分になる。
「・・・おまえがあうどんなひとでも、みんななんべんもおまえといっしょにりんごをたべたり汽車にのったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい・・・」(『銀河鉄道の夜』より)
posted by Sachiko at 08:40
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