「ムーミン谷の冬」より
ムーミンが外へ出ていくと、見たことのない真っ白な馬がベランダのそばに立っていた。「こんばんは」と近づいてみると、その馬は雪で作られたものだとわかった。
冬は、ムーミンには見慣れないものばかりだ。
トゥティッキは、馬は自分が作ったものだと言う。
「わたしたち、今夜あのうまに川の水をかけてやるのよ。そうすると、うまは夜のあいだにこおって、全身氷になってしまうの。
そうすると、氷姫さまがやってきて、あれにのってはしっていって、それっきりもどってこないのよ。」
また奇妙なものが現われた。雪の馬に乗って走る氷姫....
この白い馬のように、雪像は水をかけて凍らせなければしっかりとした像にならない。
その日の夕方、トゥティッキは氷姫がやってくるのをかぎつけた。氷姫は、こわいけれど、とてもきれいな人だという。
「だけど、もしその人の顔を見つめたら、あんたはこおりついてしまいますよ。・・だから、今夜は外へ出たらだめよ。」
氷姫とは何者なのだろう。見る者を凍らせてしまうといっても、モランとは性質が違う。
おそろしいが、美しい。厳しい冬そのもののように。
それから何日かあとに、トゥティッキはムーミンに言う。
「あんたのお日さまは、あしたかえってくるはずよ。」
戻ってくる太陽を迎えるかがり火を焚く前に、氷姫が来て、去っていく。
氷姫は、極夜が明ける前に最後にやってくる北極寒気団の化身のようにも思える。氷姫が現われるのはこのとき一度きりだ。
ムーミン谷の極夜は何日くらい続くのだろう。極夜は一日中真っ暗なわけではなく、太陽は見えないけれど昼間は薄明るく、日の出前なのか日没後なのかわからないあいまいな明るさなのだそうだ。
「ものごとってのは、みんな、とてもあいまいなものよ。まさにそのことが、わたしを安心させるんだけれどもね。」
そう言うトゥティッキは、きっとこの地の冬を知りつくしているのだ。
先日の厳寒から一転して、今日の最高気温は8.5度、3月下旬並みの暖かさだった。この冬はこうして何度も眠りを中断されるように真冬日が中断される。
北極寒気団でもシベリア寒気団でも、冬にはもう少し落ち着いて居座ってほしいのだけれど.....
2020年02月13日
氷姫の謎
posted by Sachiko at 22:01
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| ムーミン谷
2019年08月25日
木いちごの葉
「ムーミン谷の夏まつり」より。
スナフキンが24人の子どもたちを連れてボートで劇場へ向かう途中、いちばん大きな子がスナフキンにプレゼントを差し出した。
「これ、たばこ入れです。ぼくたち、みんなで、ししゅうしたの、こっそりと。」(それはフィリフヨンカの古い帽子のひとつだった)
「日曜日にすう、木いちごの葉っぱですよ!」と、いちばん小さな子が叫んだ。
スナフキンのライフスタイルに平日と日曜日の区別があるのかどうかわからないが、木いちごの葉っぱのたばこというのは、似たような話がどこかにあった。
マリア・グリーペの「夜のパパ」の中で、夜のパパ・ぺーテルは、たばこの代わりにコケモモの葉やミントの葉をパイプに詰めて吸っていた。北欧では一般的だったのだろうか。
ところで前回、スナフキンは子どもたちをほうり出してボートで去ったわけではなく、劇の舞台に出ていたムーミンママに、子どもたちの面倒をみてくれるように託したのだ。
「あの子たち、スナフキンがいなくて、さびしがるだろうなあ。」とムーミンが言った。
「たぶん、はじめのうちはね。でも、スナフキンは毎年、あの子どもたちに会いにいくし、みんなの誕生日には、手紙を書くつもりだって。絵のついた手紙をね。」とムーミンママは言った。
すべての出来事が収束していった晩、ムーミンがスナフキンにおやすみを言いに行くと、スナフキンは川原でパイプをくゆらせていた。
「いままでとちがうたばこを、すいはじめたの?ちょっと、きいちごみたいだね。それは、上等?」
「いや、だけど、日曜日だけはこれをすうんだ。」
24人の子どもたちの話はこれきり出てこないが、ふだんは人の世話などまっぴらで、親友のムーミンにさえ、旅立つ前に短い手紙を残していくだけのスナフキンに、手放した子どもたちの影が残っている。
こうして夏まつりのドタバタは、最後はムーミンが家に戻り、夏の夕刻の穏やかなしあわせ感を感じているところで終わる。
木いちごの葉(ラズベリーリーフ)はハーブとして薬効がある。
循環器系や消化器系にも効能があるが、主に女性のからだにやさしいハーブとして使われる。煙を吸った場合はどうなのかはわからない。
ベリー類は、見た目にも美しく北国の短い夏を彩る。

スナフキンが24人の子どもたちを連れてボートで劇場へ向かう途中、いちばん大きな子がスナフキンにプレゼントを差し出した。
「これ、たばこ入れです。ぼくたち、みんなで、ししゅうしたの、こっそりと。」(それはフィリフヨンカの古い帽子のひとつだった)
「日曜日にすう、木いちごの葉っぱですよ!」と、いちばん小さな子が叫んだ。
スナフキンのライフスタイルに平日と日曜日の区別があるのかどうかわからないが、木いちごの葉っぱのたばこというのは、似たような話がどこかにあった。
マリア・グリーペの「夜のパパ」の中で、夜のパパ・ぺーテルは、たばこの代わりにコケモモの葉やミントの葉をパイプに詰めて吸っていた。北欧では一般的だったのだろうか。
ところで前回、スナフキンは子どもたちをほうり出してボートで去ったわけではなく、劇の舞台に出ていたムーミンママに、子どもたちの面倒をみてくれるように託したのだ。
「あの子たち、スナフキンがいなくて、さびしがるだろうなあ。」とムーミンが言った。
「たぶん、はじめのうちはね。でも、スナフキンは毎年、あの子どもたちに会いにいくし、みんなの誕生日には、手紙を書くつもりだって。絵のついた手紙をね。」とムーミンママは言った。
すべての出来事が収束していった晩、ムーミンがスナフキンにおやすみを言いに行くと、スナフキンは川原でパイプをくゆらせていた。
「いままでとちがうたばこを、すいはじめたの?ちょっと、きいちごみたいだね。それは、上等?」
「いや、だけど、日曜日だけはこれをすうんだ。」
24人の子どもたちの話はこれきり出てこないが、ふだんは人の世話などまっぴらで、親友のムーミンにさえ、旅立つ前に短い手紙を残していくだけのスナフキンに、手放した子どもたちの影が残っている。
こうして夏まつりのドタバタは、最後はムーミンが家に戻り、夏の夕刻の穏やかなしあわせ感を感じているところで終わる。
木いちごの葉(ラズベリーリーフ)はハーブとして薬効がある。
循環器系や消化器系にも効能があるが、主に女性のからだにやさしいハーブとして使われる。煙を吸った場合はどうなのかはわからない。
ベリー類は、見た目にも美しく北国の短い夏を彩る。

posted by Sachiko at 22:54
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| ムーミン谷
2019年08月22日
森の子どもたち
「ムーミン谷の夏まつり」より。
公園には、捨てられたり迷子になったりした24人の子どもたちがいた。
公園番夫婦がめんどうを見ていたようだが、子どもたちはやはり『べからず』がきらい。草の上で跳ねたりしたいのだ。
禁止立て札をすっかり抜いてしまったことで、スナフキンは子どもたちを救ったヒーローとなる。
「さあ、みんな、すきな場所に行っていいんだよ!」と言っても、子どもたちはスナフキンにまとわりついて離れない。
スナフキンはこうしていきなり24人の子どもの父親役になった。
モミの木と葉っぱで小屋を作ってやったり、フィリフヨンカの留守宅に入り込んで樽の中の豆を食べさせたり、子どもたちの服を洗濯したり、白い花が咲いているのを見て、あれがカブ畑だったら...と思う。
父親になるとこんなふうになってしまうのか、と考えながら、スナフキンは眠っている子どもたちを眺める。
「ムーミン谷の夏まつり」は、幾つもの違う出来事や人々がすれ違い絡みあい、何でもありのドタバタ劇のようだ。
そして文字通り、劇場ではムーミンパパが脚本を書いた劇が演じられている。
劇場のビラを手に入れたスナフキンは、豆を入場料代わりにして子どもたちを劇場に連れていくことにしたのだが、「みんな僕の子どもだと思われたらいやだな...」などと思いながら、子どもたちに明日食べさせるもののことを考える。
スナフキンのこの珍道中はなんとも可笑しい。
そして実際に劇場で起きたドタバタのさなか、スナフキンはボートに乗ってこぎ出す。
「さようなら、ぼくの子どもたちよ!」
ムーミンママによれば、何人かの子どもたちは劇場に残り、何人かはフィリフヨンカの養子になるらしい。
ムーミン谷には、何ごとが起ころうと、いつも何ともいえない安心感がただよっている。暗く冷たいモランや、杓子定規で自由がきらいな公園番がいる自由もある。
暗いものや危険なものさえも排除されず、はるかな星空のような大きなものに、すべてが受け入れられていると感じられる安心感だ。それで、時々ふとこの場所に帰りたくなる。
公園には、捨てられたり迷子になったりした24人の子どもたちがいた。
公園番夫婦がめんどうを見ていたようだが、子どもたちはやはり『べからず』がきらい。草の上で跳ねたりしたいのだ。
禁止立て札をすっかり抜いてしまったことで、スナフキンは子どもたちを救ったヒーローとなる。
「さあ、みんな、すきな場所に行っていいんだよ!」と言っても、子どもたちはスナフキンにまとわりついて離れない。
スナフキンはこうしていきなり24人の子どもの父親役になった。
モミの木と葉っぱで小屋を作ってやったり、フィリフヨンカの留守宅に入り込んで樽の中の豆を食べさせたり、子どもたちの服を洗濯したり、白い花が咲いているのを見て、あれがカブ畑だったら...と思う。
父親になるとこんなふうになってしまうのか、と考えながら、スナフキンは眠っている子どもたちを眺める。
「ムーミン谷の夏まつり」は、幾つもの違う出来事や人々がすれ違い絡みあい、何でもありのドタバタ劇のようだ。
そして文字通り、劇場ではムーミンパパが脚本を書いた劇が演じられている。
劇場のビラを手に入れたスナフキンは、豆を入場料代わりにして子どもたちを劇場に連れていくことにしたのだが、「みんな僕の子どもだと思われたらいやだな...」などと思いながら、子どもたちに明日食べさせるもののことを考える。
スナフキンのこの珍道中はなんとも可笑しい。
そして実際に劇場で起きたドタバタのさなか、スナフキンはボートに乗ってこぎ出す。
「さようなら、ぼくの子どもたちよ!」
ムーミンママによれば、何人かの子どもたちは劇場に残り、何人かはフィリフヨンカの養子になるらしい。
ムーミン谷には、何ごとが起ころうと、いつも何ともいえない安心感がただよっている。暗く冷たいモランや、杓子定規で自由がきらいな公園番がいる自由もある。
暗いものや危険なものさえも排除されず、はるかな星空のような大きなものに、すべてが受け入れられていると感じられる安心感だ。それで、時々ふとこの場所に帰りたくなる。
posted by Sachiko at 22:02
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| ムーミン谷
2019年08月21日
禁止立て札事件
「ムーミン谷の夏まつり」より。
久しぶりのムーミンネタ。
ムーミン谷の夏まつりは夏至祭りのことなのに、気がつけば夏が終わりかけている...
ここで面白いのは、スナフキンと公園番とのたたかいだ。
公園番夫婦は、木を丸や四角にきちんと刈り込み、道はぜんぶまっすぐで、いたるところに何かが禁止だと書かれている。
スナフキンにとって公園番は昔からのかたきなのだ。
「『べからず、べからず』と書いてある立て札なんか、ぜんぶひきぬいてやるぞ!」
スナフキンは公園の周りにニョロニョロの種をまいて、公園番が電気を帯びた一団に取りまかれているあいだに、立て札を引き抜きにかかる。
「たばこをすうべからず」「草の上にすわるべからず」「わらったり、口ぶえをふいてはいけない」「とびはねるべからず」
立て札はもっとたくさんあったようで、海辺の草地に積み上げられているのをムーミンたちが見つけた。
「歌をうたうべからず」「花をつむべからず」...
ムーミンたちは立て札を夏まつりの焚火にした。有意義な使い方だ。
スナフキンの「禁止」への過剰反応は、父親のヨクサル譲りだ。
「ムーミンパパの思い出」の中で、ヨクサルを寝ぼけ猫のようなだらしなさから目を覚まさせるたった一つの方法は、何かをしてはいけないという「禁止」の札をはっておくことだ、と書かれている。
さらに、ものごとはつきつめて考えないほうがいいというヨクサルのものの見方はスナフキンに遺伝していて、スナフキンも同じ怠け星のあとを追っている、とある。
日本のアニメ版のスナフキンは、日本人好みに作られているのか、原作よりもかなりかっこいい。
穏やかで悟りきった賢者のように見えるのだが、この禁止立て札への過剰反応ぶりで、彼が自由への旅の途上にあることがわかる。
トーベ・ヤンソンはエッセイの中で、戦争中の「いまいましい検閲」について触れている。自由はかぎりなく尊く、彼女にとっても杓子定規な「禁止」などまっぴらだっただろう。
立て札事件の後に起こる森の子どもたちとの一件も、スナフキンをめぐるユーモラスな出来事だ。
久しぶりのムーミンネタ。
ムーミン谷の夏まつりは夏至祭りのことなのに、気がつけば夏が終わりかけている...
ここで面白いのは、スナフキンと公園番とのたたかいだ。
公園番夫婦は、木を丸や四角にきちんと刈り込み、道はぜんぶまっすぐで、いたるところに何かが禁止だと書かれている。
スナフキンにとって公園番は昔からのかたきなのだ。
「『べからず、べからず』と書いてある立て札なんか、ぜんぶひきぬいてやるぞ!」
スナフキンは公園の周りにニョロニョロの種をまいて、公園番が電気を帯びた一団に取りまかれているあいだに、立て札を引き抜きにかかる。
「たばこをすうべからず」「草の上にすわるべからず」「わらったり、口ぶえをふいてはいけない」「とびはねるべからず」
立て札はもっとたくさんあったようで、海辺の草地に積み上げられているのをムーミンたちが見つけた。
「歌をうたうべからず」「花をつむべからず」...
ムーミンたちは立て札を夏まつりの焚火にした。有意義な使い方だ。
スナフキンの「禁止」への過剰反応は、父親のヨクサル譲りだ。
「ムーミンパパの思い出」の中で、ヨクサルを寝ぼけ猫のようなだらしなさから目を覚まさせるたった一つの方法は、何かをしてはいけないという「禁止」の札をはっておくことだ、と書かれている。
さらに、ものごとはつきつめて考えないほうがいいというヨクサルのものの見方はスナフキンに遺伝していて、スナフキンも同じ怠け星のあとを追っている、とある。
日本のアニメ版のスナフキンは、日本人好みに作られているのか、原作よりもかなりかっこいい。
穏やかで悟りきった賢者のように見えるのだが、この禁止立て札への過剰反応ぶりで、彼が自由への旅の途上にあることがわかる。
トーベ・ヤンソンはエッセイの中で、戦争中の「いまいましい検閲」について触れている。自由はかぎりなく尊く、彼女にとっても杓子定規な「禁止」などまっぴらだっただろう。
立て札事件の後に起こる森の子どもたちとの一件も、スナフキンをめぐるユーモラスな出来事だ。
posted by Sachiko at 21:56
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| ムーミン谷
2019年03月22日
春のしらべ
「ムーミン谷の仲間たち」は、「ムーミン谷の冬」の次に刊行されている。「春のしらべ」はその最初の章で、3月の終わり、スナフキンが北のムーミン谷へ向かって旅しているところから始まる。
冬眠から目覚めてそのまま春を迎えたムーミンが、もうすぐ帰ってくるスナフキンを待ちわびている頃だ。
スナフキンは歌を作ろうとしていた。出来あがったら、ムーミン谷の橋に座って歌うのだ。ムーミンのことが浮かんだが、すぐに、今は歌のことだけを考えることにした。
ところが、邪魔が入る。一匹のはい虫(こう訳されているけれどどんな生きものなのかよくわからない)がやってきて、うわさに聞いていたスナフキンに会えてとても嬉しいと、興奮した調子で称えまくる。
「…ぼくは、スナフキンさんの焚火にあたった、はじめてのはい虫になるんです。ぼく、一生そのことを忘れませんよ。」
小さなはい虫には名前がない。そして、憧れのスナフキンに名前をつけてほしいという。
スナフキンは言った。
「だれかを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は得られないんだよ。」
これはこの章の名言だ。
そう言われても、はい虫の態度は相変わらずで、今度はスナフキンの旅のことを聞こうとしてくる。
(どうしてみんな、ぼくの旅のことを、そっとしておいてくれないんだろう?むりに語らせられると、ぺらぺらしゃべったが最後、ばらばらになって消えてしまうんだ。それで、おしまいさ。その旅のことを思いだしたくても、自分のしゃべった声しか聞こえなくなっちまう)
はい虫がとうとう立ち去ろうとしたので、スナフキンは別れ際に名前をつけてやる。
「ティーティー=ウーではどうだい」
はい虫は新しい名前をうっとりと叫ぶと、薮の中に消えていった。
なんだかスナフキンは居心地がわるくなる。春のしらべも消えてしまい、あのはい虫のことしか考えられない。こんな気分になったのは初めてだ。
そして向きを変えてはい虫のいた場所まで戻り、自分が与えた名前を呼び、ティーティー=ウーがみつかるようにと、新月に願掛けまでする。こんなスナフキンは見たことがない。
「ティーティー=ウー、ぼく、おしゃべりをしたくてもどってきたよ。」
ところが姿を現したティーティー=ウーはすっかり別人のようになっていて、自分の家を作ることでいそがしい。
「いまは、ぼく、一個の人格なんです。だから、できごとはすべて、なにかの意味を持つんです。」
なにか歌を聞きたいんじゃないか、お話をしてほしいんじゃないかと、うろたえているようなのはスナフキンのほうだ。
ところが、生きるのをいそがなくちゃいけないと、ティーティー=ウーは行ってしまった。かつての小さなはい虫は、今や自分自身を生きる喜びにあふれて見える。
なんだか立場が逆転してしまったような、この奇妙な展開はユーモラスでもある。
スナフキンは、静かに春の空を眺め、木の梢を眺める。
独りになって歌を作るためにはい虫を追い払おうとしたときとは違い、おだやかな、ひとりでいることの大きな喜びとともに、春のしらべが戻ってきたのだった。
この章は、どこか可笑しくも深い。
冬眠から目覚めてそのまま春を迎えたムーミンが、もうすぐ帰ってくるスナフキンを待ちわびている頃だ。
スナフキンは歌を作ろうとしていた。出来あがったら、ムーミン谷の橋に座って歌うのだ。ムーミンのことが浮かんだが、すぐに、今は歌のことだけを考えることにした。
ところが、邪魔が入る。一匹のはい虫(こう訳されているけれどどんな生きものなのかよくわからない)がやってきて、うわさに聞いていたスナフキンに会えてとても嬉しいと、興奮した調子で称えまくる。
「…ぼくは、スナフキンさんの焚火にあたった、はじめてのはい虫になるんです。ぼく、一生そのことを忘れませんよ。」
小さなはい虫には名前がない。そして、憧れのスナフキンに名前をつけてほしいという。
スナフキンは言った。
「だれかを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は得られないんだよ。」
これはこの章の名言だ。
そう言われても、はい虫の態度は相変わらずで、今度はスナフキンの旅のことを聞こうとしてくる。
(どうしてみんな、ぼくの旅のことを、そっとしておいてくれないんだろう?むりに語らせられると、ぺらぺらしゃべったが最後、ばらばらになって消えてしまうんだ。それで、おしまいさ。その旅のことを思いだしたくても、自分のしゃべった声しか聞こえなくなっちまう)
はい虫がとうとう立ち去ろうとしたので、スナフキンは別れ際に名前をつけてやる。
「ティーティー=ウーではどうだい」
はい虫は新しい名前をうっとりと叫ぶと、薮の中に消えていった。
なんだかスナフキンは居心地がわるくなる。春のしらべも消えてしまい、あのはい虫のことしか考えられない。こんな気分になったのは初めてだ。
そして向きを変えてはい虫のいた場所まで戻り、自分が与えた名前を呼び、ティーティー=ウーがみつかるようにと、新月に願掛けまでする。こんなスナフキンは見たことがない。
「ティーティー=ウー、ぼく、おしゃべりをしたくてもどってきたよ。」
ところが姿を現したティーティー=ウーはすっかり別人のようになっていて、自分の家を作ることでいそがしい。
「いまは、ぼく、一個の人格なんです。だから、できごとはすべて、なにかの意味を持つんです。」
なにか歌を聞きたいんじゃないか、お話をしてほしいんじゃないかと、うろたえているようなのはスナフキンのほうだ。
ところが、生きるのをいそがなくちゃいけないと、ティーティー=ウーは行ってしまった。かつての小さなはい虫は、今や自分自身を生きる喜びにあふれて見える。
なんだか立場が逆転してしまったような、この奇妙な展開はユーモラスでもある。
スナフキンは、静かに春の空を眺め、木の梢を眺める。
独りになって歌を作るためにはい虫を追い払おうとしたときとは違い、おだやかな、ひとりでいることの大きな喜びとともに、春のしらべが戻ってきたのだった。
この章は、どこか可笑しくも深い。
posted by Sachiko at 22:12
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