2022年09月17日

秋の灯

「ムーミンパパ海へ行く」より。

北国ではもう秋の気配がする8月末の夕暮れ時、パパは水晶玉をのぞき込む。パパの水晶玉は、庭の中心であり、ムーミン谷の中心であり、全世界の中心なのだ。

水晶玉の深い深い内側に、家族の姿が映りはじめる。
それは小さく、頼りなく見えて、守ってやらなければならないとパパは思う。

夏と秋の“あいだ”、昼と夜の“あいだ”。
どこか心もとない季節の、揺らいでいる時間。

しだいに闇が濃くなってくる。
ママがランプを灯したことで、水晶玉の中に見えるものはランプの光だけになった。


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ランプは、すべてのものを身近に、安全に感じさせ、小さな家族のみんなを、おたがいによく知りあい、信じあうようにさせます。
光の輪の外は、知らない、こわいものだらけで、暗やみは高く高く、遠く遠く世界の終わりまでもとどいているように思われました。
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こうした翳る気分を象徴するように、暗い存在、モランがやってくる。
モランがすわっていた場所は凍りついている。
ランプの近くまでやってくると、火は消えてしまう。

これは、ムーミン一家が島に移り住む少し前のことだ。
短い章の中に、島暮らしで家族それぞれに起こる危うい変化を予感させる。

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9月の夕刻、まだあまり暗くなりすぎない頃にろうそくに火を灯すと、この季節だけの独特の気分が満ちる。
言葉でうまく表せないけれど、灯火とそれを囲む薄闇が、たしかにある意識を持った空間を創りだしているようなのだ。

日が沈んだあとの少しの時間、外の空気は青インクを溶かし込んだような色に染まる。

やがて暗闇の中心、深い内側で灯火だけが輝きはじめる。
ムーミンパパの水晶玉の中のように。
  
posted by Sachiko at 22:28 | Comment(2) | ムーミン谷
2021年11月09日

おさびし山の向こう

11月、もうすぐスナフキンが旅に出る。
ムーミン一家も針葉樹の葉を食べて冬眠に入る季節だ。

今更ながら、記憶というものは曖昧なものだ。
ムーミンの物語も、そう度々読み返すわけではない。
そのうちに、何だか話がこんがらがってしまっている。

私はずっと、スナフキンはおさびし山を越えて旅するのだと思っていて、おさびし山はムーミン谷の南にある気がしていた。

でも改めて地図を見ると、山は北東にあり、海もニョロニョロの島も北にある。
考えてみれば、ムーミン谷は冬は極夜になるほど北にあるのだから、北の海に面しているのは当然のことだ。

なぜか私の頭の中では、地図の南北が逆さになっていたようだ(方向音痴はこういうところにも表れるのか....)。


これも今更ながらだけれど、最近になって「スナフキンの歌」というものがあるのを知った。
日本版アニメの最初のシリーズに出てくるらしく、スナフキンがおさびし山のことを歌っている。

私はこのシリーズは観ていない。
でもどこかでそれと知らずに聴いたことがあったのだろうか。
どうもスナフキンとおさびし山がイメージの中で結びついている。


いや待て!
今『ムーミン谷の冬』を開いたら、こんな記述がある。
・・・谷の向こうにはおさびし山がそびえていました。遠く南のほうまで波うちつづいて、このうえもなくさびしく見える山です。

そしてムーミンは、
「あの山の向こうのどこかに、きっとスナフキンはいるんだ。」
とつぶやいている。

おさびし山は北東から南まで続く連山なのか?また方向感覚がおかしくなってきた....
  
posted by Sachiko at 22:30 | Comment(2) | ムーミン谷
2021年06月12日

スナフキンの時間

「いつもやさしく愛想よくなんてやってられないよ。理由はかんたん。時間がないんだ。」(『ムーミン谷の仲間たち』より)

スナフキンのこのセリフ、『ムーミン谷の仲間たち』のどこかにあるはずなのだけれど、見つからなかった。
前々からどうも気になっていたのは、スナフキンには時間がないなんてことがあるのか?ということだった。

忙しすぎて時間がないという意味には見えないし、この前後のシーンは何だったのか....
“いつもやさしく愛想よく”しようと努めるスナフキンというのもイメージではない。

スナフキンは、よほど仕方ない時以外はほかの人のために食事を作るなんてことはなく、食事をしながらのおしゃべりや、テーブルセットをしつらえるなどもまっぴらだ。

つまり、いつもやさしく愛想よくしなければならないような状況に時間を割くつもりはない、ということか。

そのスナフキンも、必用に迫られればほかの人のために時間をつかうことを厭わない。公園の24人の子どもたちのめんどうを見なければならなくなった時のように。
そして、ほんとうにやさしくしたい時にも、きっとそうするだろう。


ムーミン谷では、途方もなくゆっくりと時間が流れているように見える。
いつも忙しく何でも大急ぎで済ませなければならないのに、本当に大切なことに使う時間はない現代生活とは、時間の観念自体が違うように思う。

いつもやさしく愛想よくなんてやってられないということには大いに共感するし(^_^;、それを完璧にやってのけている人には内心あまり近づきたくない気もする。
なぜなら、それが「ほんとう」かどうかは、やはりわかってしまうのだ。

スナフキンは、ほんとうではない感情を演じたりはけっしてしないだろう。それなら、そんなことに使う時間を持たなくてもいっこうにかまわないと思える。

このセリフの前後はどんな話だったのか、ここだけを取り上げたのでまるで的外れな話になったかもしれないけれど、まあいい。

ムーミン谷は白夜の季節だ。時間はことのほか長く感じられることだろう。
  
posted by Sachiko at 22:42 | Comment(2) | ムーミン谷
2021年05月16日

生活者スナフキン

ムーミンが初めてスナフキンに会ったのは、シリーズの最初の巻『ムーミン谷の彗星』で、スニフといっしょにおさびし山の天文台へ旅にでかけた時だった。
アニメ版ではフローレンという名がついているスノークのお嬢さんに出会うのもこの巻だ。

『ムーミン谷の彗星』はあまり読み返すことがなかったけれど、久しぶりに手に取って、些細なことに気がついた。

川岸に張ったテントの中からハーモニカの音がして、ムーミンが声をかけるとスナフキンが現われる。
スナフキンは火を起こして、スニフが持っていたコーヒーを沸かす。

今日はたまたまここにいて、明日はまたどこかへ行くのだと、コーヒーカップを三つ出しながらスナフキンが言った。

・・・なるべく物を持たず、身軽な旅を好むスナフキンが、来客用のコーヒーカップを持っているんだ....

この時のスナフキンは、ムーミンとスニフを歓待し、彗星の話をして、ハーモニカを吹き、ガーネットの谷間へ散歩に誘う。
スナフキンは二人に音楽を聞かせ、カード遊びや魚釣りを教え、途方もない話をし、おかげで旅は楽しいものになった。

・・・スナフキンは、遊び用のカードも持っているんだ....

そして、おもしろい話をせがむスニフに火山の話を聞かせたりする。それも、けっこう長い話なのだ。

ガーネットが輝く谷間で、スニフが言った。

「あれがみな、きみのものなの?」

「ぼくが、ここに住んでいるうちはね。じぶんで、きれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもな。」

スナフキンのもうひとつの名言も、この巻にある。

「ものは、自分のものにしたくなったとたんに、あらゆるめんどうがふりかかってくるものさ。運んだり番をしたり....。
ぼくは、なんであろうと、見るだけにしている。立ち去る時には、全部、この頭にしまっていくんだ。そのほうが、かばんを、うんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね。」

体験され、自分の中に取り込まれたものだけが、ほんとうに自分のものになる。外側に保存したものと違ってそれだけが、死ぬ時にも持っていけるものだ。

スナフキンは、一方で必要なものを必要な時に、なぜかちゃんと持っているのだが、それがなくなっても執着しない。
定住はしないけれど、ある意味、ムーミンママ同様、生活の達人かもしれない。

孤独を愛するというスナフキンは、騒がしく面倒な人たちを煩わしく感じるとしても、人そのものがきらいなわけではない。
この巻ではむしろかなり饒舌で、ムーミンたちとの旅を楽しんでいるのだ。

終わりのほうで、スナフキンがハーモニカで子守歌を吹き、それに合わせてムーミンママが静かに歌うシーンは美しい。
    
posted by Sachiko at 22:37 | Comment(2) | ムーミン谷
2020年10月17日

見えなくなった少女

「ムーミン谷の仲間たち」より

ある雨の夕方、トゥティッキがムーミン家を訪ねてきた。
ニンニという名前の少女を連れてきたようなのだが、そこには誰の姿も見えない。

ニンニはおばさんからひどくいじめられすぎて、姿が見えなくなってしまったのだとトゥティッキは言った。
ニンニの首に付けた小さな鈴だけが、少女がそこにいることを知らせていた。

トゥティッキが最初に登場した「ムーミン谷の冬」でも、彼女は、あまりに恥ずかしがり屋のため目に見えなくなったトンガリネズミたちと暮らしていた。
姿が見えなくなったものたちの“存在”が、彼女には見えているようなのだ。

トゥティッキが帰ってしまったあと、ムーミン家の人々は、姿の見えない少女を戸惑いながらも受け入れる。

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ママは階段をおりて自分のへやにいくと、「家庭にかくことのできない常備薬」と書いたおばあさまのふるい手帳をひっぱりだして、目をとおしはじめました。

すると、とうとう手帳のおわりちかくに、ずっとお年よりになってから書かれたものなのでしょう、ふるえぎみの字で、「人々がきりのようになって、すがたが見えなくなってきたときの手あて」としてあって、二、三行書きくわえてあるのをみつけたのです。

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薬が効いてきたのか、ニンニの手足の先が少しずつ見えはじめた。
みんなが寝たあと、ムーミンママはピンクのショールで、ニンニの服とリボンを縫う。翌朝その服を着たニンニは、首のところまで見えるようになった。

ムーミンとミイはニンニを遊びに誘ったが、ニンニは遊びを何一つ知らないようだった。

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「この子はあそぶことができないんだ」
と、ムーミントロールはつぶやきました。
「この人はおこることもできないんだわ」
と、ちびのミイはいいました。

「それがあんたのわるいとこよ。たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」

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ママはおばあちゃんの薬をずっと飲ませていたが、顔が見えるようにはならなかった。

ある日みんなは海岸へ出かけた。
パパは子どもたちを面白がらせるために、桟橋にいるママを突き落とすまねをしようと、後ろから忍びよる。
その時、叫び声を上げて、ニンニが桟橋を走りぬけ、ムーミンパパのしっぽに噛みついた。

「おばさんを、こんな大きいこわい海につきおとしたら、きかないから!」

赤毛の下に、ニンニの怒った顔が現れた。
大好きなママのために怒りを表に出し、顔を取り戻したニンニはもう、遊ぶこともできない怯えた少女ではなかった。

人が「その人である」ことの象徴である「顔」を失うとき、そしてそれを取り戻すとき....
現代社会で、自分のほんとうの顔をはっきりと持っている人はどのくらいいるだろう?と、ふと思う。

何を感じているのか、どうしたいのか、何が好きで何がきらいで何が大切なのか。それらが曖昧になるとき、その人の姿は霧のようにぼやけていく気がする。
見えなくなった少女ニンニの物語は、ムーミンシリーズの中でも深い。

それにしても、「人々がきりのようになって、すがたが見えなくなってきたときの手あて」....と、ムーミンママのおばあさんの処方箋にはこんなことまで書かれているとは。
   
posted by Sachiko at 22:34 | Comment(2) | ムーミン谷