2020年10月17日

見えなくなった少女

「ムーミン谷の仲間たち」より

ある雨の夕方、トゥティッキがムーミン家を訪ねてきた。
ニンニという名前の少女を連れてきたようなのだが、そこには誰の姿も見えない。

ニンニはおばさんからひどくいじめられすぎて、姿が見えなくなってしまったのだとトゥティッキは言った。
ニンニの首に付けた小さな鈴だけが、少女がそこにいることを知らせていた。

トゥティッキが最初に登場した「ムーミン谷の冬」でも、彼女は、あまりに恥ずかしがり屋のため目に見えなくなったトンガリネズミたちと暮らしていた。
姿が見えなくなったものたちの“存在”が、彼女には見えているようなのだ。

トゥティッキが帰ってしまったあと、ムーミン家の人々は、姿の見えない少女を戸惑いながらも受け入れる。

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ママは階段をおりて自分のへやにいくと、「家庭にかくことのできない常備薬」と書いたおばあさまのふるい手帳をひっぱりだして、目をとおしはじめました。

すると、とうとう手帳のおわりちかくに、ずっとお年よりになってから書かれたものなのでしょう、ふるえぎみの字で、「人々がきりのようになって、すがたが見えなくなってきたときの手あて」としてあって、二、三行書きくわえてあるのをみつけたのです。

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薬が効いてきたのか、ニンニの手足の先が少しずつ見えはじめた。
みんなが寝たあと、ムーミンママはピンクのショールで、ニンニの服とリボンを縫う。翌朝その服を着たニンニは、首のところまで見えるようになった。

ムーミンとミイはニンニを遊びに誘ったが、ニンニは遊びを何一つ知らないようだった。

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「この子はあそぶことができないんだ」
と、ムーミントロールはつぶやきました。
「この人はおこることもできないんだわ」
と、ちびのミイはいいました。

「それがあんたのわるいとこよ。たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」

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ママはおばあちゃんの薬をずっと飲ませていたが、顔が見えるようにはならなかった。

ある日みんなは海岸へ出かけた。
パパは子どもたちを面白がらせるために、桟橋にいるママを突き落とすまねをしようと、後ろから忍びよる。
その時、叫び声を上げて、ニンニが桟橋を走りぬけ、ムーミンパパのしっぽに噛みついた。

「おばさんを、こんな大きいこわい海につきおとしたら、きかないから!」

赤毛の下に、ニンニの怒った顔が現れた。
大好きなママのために怒りを表に出し、顔を取り戻したニンニはもう、遊ぶこともできない怯えた少女ではなかった。

人が「その人である」ことの象徴である「顔」を失うとき、そしてそれを取り戻すとき....
現代社会で、自分のほんとうの顔をはっきりと持っている人はどのくらいいるだろう?と、ふと思う。

何を感じているのか、どうしたいのか、何が好きで何がきらいで何が大切なのか。それらが曖昧になるとき、その人の姿は霧のようにぼやけていく気がする。
見えなくなった少女ニンニの物語は、ムーミンシリーズの中でも深い。

それにしても、「人々がきりのようになって、すがたが見えなくなってきたときの手あて」....と、ムーミンママのおばあさんの処方箋にはこんなことまで書かれているとは。
   
posted by Sachiko at 22:34 | Comment(2) | ムーミン谷
2020年10月09日

家路

ついに最低気温が一ケタになり、来週には一気に寒くなりそうだ。
秋の夕刻にキャンドルを灯したときの独特の気分に、ふと、しばらく離れていたあの場所に思いを馳せる。
帰りたいと思う場所、ムーミン谷へ。

スナフキンが旅立ち、ムーミンたちが冬眠の準備をする時期も近づいてきた。
特にどの物語を追うのでもなく、ムーミン谷をさまよってみる。

森を抜け、川べりを歩き、橋を渡って、ムーミン屋敷が見えるところまで。
やはり、冬眠から覚めた春は外へ飛び出す季節であり、夕刻の灯りが誘う秋は、家に帰る季節なのだ。


“ほんとうの家”とは、ほんものの暮らしが営まれている場所だ。
ムーミン屋敷やグリーン・ノウ屋敷、ホビットの家...特に、すべてを見届けて家路についたサム・ギャムジーを迎えた小さな家は、何と家らしかったことだろう。

ほんとうの家は生きものだ。
生きた自然の風が通り、生きた火が燃えている家。
生きた水、生きた土の香り...

つまり、現代の、特に都市では、ほんものの家を持つのは難しい(私は、得体のしれない機械に話しかけてカーテンを開けてもらうような生活はまっぴらだ)。

けれど帰りたいほんとうの家は、この世界の家ですらないのかもしれない。
家という名で象徴的に呼ばれる、この次元を超えたある“状態”のような....


「ムーミン谷の十一月」の後書きにはこのように書かれている。

『・・・ムーミン谷は、けっしてユートピアでもないし、おとぎの国でもありません。
私たちが生きている生々しい現実世界と共通することがたくさんあるのです。それにもかかわらず、ムーミン谷には、どんな強烈な個性の持ち主であっても、だれもが、自分らしく、自由に生きられる世界があります・・・』

それだからだろうか。生活に興味があるとは思えず、自由と孤独と旅を愛するスナフキンでさえ、必ずムーミン谷に帰ってくる。
    
posted by Sachiko at 22:32 | Comment(2) | ムーミン谷
2020年02月13日

氷姫の謎

「ムーミン谷の冬」より

ムーミンが外へ出ていくと、見たことのない真っ白な馬がベランダのそばに立っていた。「こんばんは」と近づいてみると、その馬は雪で作られたものだとわかった。

冬は、ムーミンには見慣れないものばかりだ。
トゥティッキは、馬は自分が作ったものだと言う。

「わたしたち、今夜あのうまに川の水をかけてやるのよ。そうすると、うまは夜のあいだにこおって、全身氷になってしまうの。
そうすると、氷姫さまがやってきて、あれにのってはしっていって、それっきりもどってこないのよ。」

また奇妙なものが現われた。雪の馬に乗って走る氷姫....
この白い馬のように、雪像は水をかけて凍らせなければしっかりとした像にならない。

その日の夕方、トゥティッキは氷姫がやってくるのをかぎつけた。氷姫は、こわいけれど、とてもきれいな人だという。

「だけど、もしその人の顔を見つめたら、あんたはこおりついてしまいますよ。・・だから、今夜は外へ出たらだめよ。」

氷姫とは何者なのだろう。見る者を凍らせてしまうといっても、モランとは性質が違う。
おそろしいが、美しい。厳しい冬そのもののように。

それから何日かあとに、トゥティッキはムーミンに言う。

「あんたのお日さまは、あしたかえってくるはずよ。」

戻ってくる太陽を迎えるかがり火を焚く前に、氷姫が来て、去っていく。
氷姫は、極夜が明ける前に最後にやってくる北極寒気団の化身のようにも思える。氷姫が現われるのはこのとき一度きりだ。

ムーミン谷の極夜は何日くらい続くのだろう。極夜は一日中真っ暗なわけではなく、太陽は見えないけれど昼間は薄明るく、日の出前なのか日没後なのかわからないあいまいな明るさなのだそうだ。

「ものごとってのは、みんな、とてもあいまいなものよ。まさにそのことが、わたしを安心させるんだけれどもね。」
そう言うトゥティッキは、きっとこの地の冬を知りつくしているのだ。


先日の厳寒から一転して、今日の最高気温は8.5度、3月下旬並みの暖かさだった。この冬はこうして何度も眠りを中断されるように真冬日が中断される。
北極寒気団でもシベリア寒気団でも、冬にはもう少し落ち着いて居座ってほしいのだけれど.....
  
posted by Sachiko at 22:01 | Comment(0) | ムーミン谷
2019年08月25日

木いちごの葉

「ムーミン谷の夏まつり」より。

スナフキンが24人の子どもたちを連れてボートで劇場へ向かう途中、いちばん大きな子がスナフキンにプレゼントを差し出した。

「これ、たばこ入れです。ぼくたち、みんなで、ししゅうしたの、こっそりと。」(それはフィリフヨンカの古い帽子のひとつだった)

「日曜日にすう、木いちごの葉っぱですよ!」と、いちばん小さな子が叫んだ。

スナフキンのライフスタイルに平日と日曜日の区別があるのかどうかわからないが、木いちごの葉っぱのたばこというのは、似たような話がどこかにあった。

マリア・グリーペの「夜のパパ」の中で、夜のパパ・ぺーテルは、たばこの代わりにコケモモの葉やミントの葉をパイプに詰めて吸っていた。北欧では一般的だったのだろうか。

ところで前回、スナフキンは子どもたちをほうり出してボートで去ったわけではなく、劇の舞台に出ていたムーミンママに、子どもたちの面倒をみてくれるように託したのだ。

「あの子たち、スナフキンがいなくて、さびしがるだろうなあ。」とムーミンが言った。

「たぶん、はじめのうちはね。でも、スナフキンは毎年、あの子どもたちに会いにいくし、みんなの誕生日には、手紙を書くつもりだって。絵のついた手紙をね。」とムーミンママは言った。

すべての出来事が収束していった晩、ムーミンがスナフキンにおやすみを言いに行くと、スナフキンは川原でパイプをくゆらせていた。

「いままでとちがうたばこを、すいはじめたの?ちょっと、きいちごみたいだね。それは、上等?」

「いや、だけど、日曜日だけはこれをすうんだ。」

24人の子どもたちの話はこれきり出てこないが、ふだんは人の世話などまっぴらで、親友のムーミンにさえ、旅立つ前に短い手紙を残していくだけのスナフキンに、手放した子どもたちの影が残っている。

こうして夏まつりのドタバタは、最後はムーミンが家に戻り、夏の夕刻の穏やかなしあわせ感を感じているところで終わる。

木いちごの葉(ラズベリーリーフ)はハーブとして薬効がある。
循環器系や消化器系にも効能があるが、主に女性のからだにやさしいハーブとして使われる。煙を吸った場合はどうなのかはわからない。
ベリー類は、見た目にも美しく北国の短い夏を彩る。

raspberryleaf.jpg
  
posted by Sachiko at 22:54 | Comment(2) | ムーミン谷
2019年08月22日

森の子どもたち

「ムーミン谷の夏まつり」より。

公園には、捨てられたり迷子になったりした24人の子どもたちがいた。
公園番夫婦がめんどうを見ていたようだが、子どもたちはやはり『べからず』がきらい。草の上で跳ねたりしたいのだ。

禁止立て札をすっかり抜いてしまったことで、スナフキンは子どもたちを救ったヒーローとなる。
「さあ、みんな、すきな場所に行っていいんだよ!」と言っても、子どもたちはスナフキンにまとわりついて離れない。
スナフキンはこうしていきなり24人の子どもの父親役になった。

モミの木と葉っぱで小屋を作ってやったり、フィリフヨンカの留守宅に入り込んで樽の中の豆を食べさせたり、子どもたちの服を洗濯したり、白い花が咲いているのを見て、あれがカブ畑だったら...と思う。
父親になるとこんなふうになってしまうのか、と考えながら、スナフキンは眠っている子どもたちを眺める。

「ムーミン谷の夏まつり」は、幾つもの違う出来事や人々がすれ違い絡みあい、何でもありのドタバタ劇のようだ。
そして文字通り、劇場ではムーミンパパが脚本を書いた劇が演じられている。

劇場のビラを手に入れたスナフキンは、豆を入場料代わりにして子どもたちを劇場に連れていくことにしたのだが、「みんな僕の子どもだと思われたらいやだな...」などと思いながら、子どもたちに明日食べさせるもののことを考える。
スナフキンのこの珍道中はなんとも可笑しい。

そして実際に劇場で起きたドタバタのさなか、スナフキンはボートに乗ってこぎ出す。
「さようなら、ぼくの子どもたちよ!」

ムーミンママによれば、何人かの子どもたちは劇場に残り、何人かはフィリフヨンカの養子になるらしい。

ムーミン谷には、何ごとが起ころうと、いつも何ともいえない安心感がただよっている。暗く冷たいモランや、杓子定規で自由がきらいな公園番がいる自由もある。

暗いものや危険なものさえも排除されず、はるかな星空のような大きなものに、すべてが受け入れられていると感じられる安心感だ。それで、時々ふとこの場所に帰りたくなる。
  
posted by Sachiko at 22:02 | Comment(2) | ムーミン谷