2021年11月26日

「永訣の朝」

今年も遅い初雪だったが、明日は本格的な雪になりそうだ。

宮澤賢治のこの詩については(他の作品についても同様に)、何かを語ろうとするのものもまったく余計なことに思えるのだけれど.....


  けふのうちに

  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

  (あめゆぢゅとてちてけんじや)

    ・・・・

  おまへはわたくしにたのんだのだ

  銀河や太陽 氣圏などとよばれたせかいの

  そらからおちた雪のさいごのひとわんを.....


この世を去ろうとするひとの最後のたべものは、地から生え出たものではなく、天から降りてきたものだった。

色を持たず、地上の温度には耐えられない、まさに“すきとおったほんとうのたべもの”に近いもの。

  銀河や太陽 氣圏などとよばれたせかい

『銀河鉄道の夜』のカムパネルラには、妹としの姿が投影されているという説もあるが、そうした解釈もまた、すきとおった魂の表出にとっては余計なことなのだろう。

愛する者が、銀河などとよばれる世界の向こうへ行ってしまう。
澄みわたった銀河の水が凍ったような美しい雪の姿。


  おまへがたべるこのふたわんのゆきに

  わたくしはいまこころからいのる

  どうかこれが兜卒の天の食に變つて

  やがてはおまへとみんなとに

  聖い資糧をもたらすことを

  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ


としが亡くなったのは、11月27日。
まだ本格的な冬ではない、みぞれの降る頃だったのだ。
  
posted by Sachiko at 22:37 | Comment(0) | 宮澤賢治
2021年03月08日

「春と修羅 序」

この序文には多くの解説も出ているらしいのだけど、詩の解説というものはどうも余計なことに思えて読んだことがない。



  わたくしといふ現象は

  假定された有機交流電燈の

  ひとつのい照明です

  (あらゆる透明な幽靈の複合體)

  風景やみんなといっしょに

  せはしくせはしく明滅しながら

  いかにもたしかにともりつづける

  因果交流電燈の

  ひとつのい照明です

  (ひかりはたもち その電燈は失はれ)



ある時これを久しぶりに読み返したとき、ああほんとうに、そのとおりですね....と、ただ頷くのみだった。



  それらも畢竟こゝろのひとつの風物です



ああほんとうに、そのとおりですね....
この不世出の詩人が日本にいてよかった。



  (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

   みんなのおのおののなかのすべてですから)



ああほんとうに......
  
  
posted by Sachiko at 21:58 | Comment(4) | 宮澤賢治
2019年02月10日

アドレッセンス中葉

この言葉は、宮澤賢治の『注文の多い料理店』広告文の後半に出てくる。

・・・・・・
そこでは、あらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいに輝いている。

深い椈の森や、風や影、肉之草や、不思議な都会ベーリング市まで続く電柱の列、それはまことにあやしくも楽しい国土である。
この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。それは少年少女期の終り頃からアドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとっている。


「少年少女期の終り頃からアドレッセンス中葉に対する一つの文学として」....
つまり思春期から青年期の中頃までを主な対象とした文学ということだ。
宮澤賢治の作品は小学校の教科書にも幾つか載っていたのだが、あまり深い印象は残っていない。
「銀河鉄道の夜」は、図書室で何度も背表紙のタイトルを目にして気になってはいたが、当時はなぜか手に取らなかった。

私が手に取ったのは、高校生になってからだった。これは正解だったと思う。
小学生の時に読んでいたら、「子どもの頃読んだことがあるな...」と言って通り過ぎてしまったかもしれない。
やはり、アドレッセンス中葉という時期まで待つことが必要だったのだ。

罪や、かなしみでさえ聖くきれいに輝いている場所は、賢治の理想郷イーハトヴだ。
罪や悲しみが初めからなかったのではなく、排除したのでもなく、浄化され昇華されて、やがて聖くきれいに輝くようになったところ。今はただ心象としてある場所。

この序文には続きがある。以下、その一部分。

「…それはどんなに馬鹿げていても難解でも、必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解なだけである。」

心の深部において万人に共通・・・
この深みに至る作品は、古いメルヒェンをのぞいては他にほとんどないのでは、と思う。
そして賢治の時代にもやはり、心の深みに降りたことがないまま、その作品を不可解と感じる、卑怯な成人たちと呼ばれてしまう人々がいた。

心象スケッチと呼ばれる作品群が提供する「すきとおったほんとうのたべもの」は、若い魂にとって、やがて罪や悲しみをも昇華させる糧になるだろう。

肉体を養う食べ物は、たえず食べ続けなければならないが、魂のたべものは、たとえ一度でもほんものを食べたことがあるなら、生涯その魂を養い続ける力を持つ気がする。
 
posted by Sachiko at 22:05 | Comment(2) | 宮澤賢治
2019年02月09日

すきとおったほんとうのたべもの

昨日から記録的な低温になっている。
−10度以下になると、空気も凍りついたように透きとおる気がする。
透きとおったものは魂を浄化するようだ。氷も水晶も、透きとおった言葉も。


宮澤賢治の『注文の多い料理店』序文から。

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。

またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。

わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。

ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。

ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。

けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。


人間は、この「すきとおったほんとうのたべもの」だけで生きていけないものか...などと思ってしまうのだが、いつかもっと進化した未来にはそうなれるだろうか。

「意識的に魂をメルヒェンのイメージで満たすことは、魂の飢えに栄養を与えることになる」(R・シュタイナー)

魂の飢えを満たす栄養、まさにそれのことだ。
現代人は魂の栄養不良に陥っている気がするのだが、この短い序文の中にすら、桃いろの朝日、虹や月明かり、青い夕方の上を、すきとおったたべものの香気が漂っているのを感じる。

この序文が書かれたのは大正12年12月、やはり冬のさなかだ。
 
posted by Sachiko at 21:59 | Comment(2) | 宮澤賢治
2019年02月04日

「水仙月の四日」

宮澤賢治の「水仙月の四日」、一番好きな短編だ。
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ひとりの子どもが、赤い毛布にくるまって、しきりに“カリメラ”のことを考えながら、大きな象の頭のかたちをした、雪丘のすそを、せかせかうちのほうへ急いでおりました。

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雪狼(ゆきおいの)の後ろから、三角帽子をかぶった雪童子(ゆきわらす)が歩いてくる。

 カシオピイヤ、
 もう水仙が咲きだすぞ
 おまえのガラスの水車
 きっきとまわせ

 アンドロメダ
 あざみの花がもう咲くぞ
 おまえのランプのアルコール
 しゅうしゅと噴かせ

雪童子は、やどりぎの枝を子どもに投げつける。子どもは驚いてあたりを見まわすが、やどりぎの枝を持って、また歩き出す。

やがて風と雪がはげしくなり、雪婆んごがやってきた。
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「…さあしっかりやっておくれ。きょうはここらは水仙月の四日だよ。さあしっかりさ、ひゅう。」

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水仙月とは何月のことか、雪が吹き荒れているのだから2月かと思っていたが、3月かもしれない。東北で水仙が咲くのはいつだろう。
「ここらじゃ水仙月の四日だよ」.....どこか異世界での月の呼び名のようだ。

雪婆んごは容赦なく雪を降らすことを命じる。雪童子は、泣いている子どもの声を聞いた。雪童子は雪婆んごにわからないように、子どもを助けようとする。

「だまってうつむけに倒れておいで、きょうはそんなに寒くないんだから凍えやしない。」
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雪婆んごがやってきました。その裂けたように紫な口もとがった歯もぼんやり見えました。

「おや、おかしな子がいるね、そうそう、こっちへとっておしまい。水仙月の四日だもの、ひとりやふたりとったっていいんだよ。」

「ええ、そうです。さあ、死んでしまえ。」雪童子はわざとひどくぶっつかりながらまたそっと言いました。

「倒れているんだよ。動いちゃいけない。動いちゃいけないったら。」

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雪童子は子どもに赤い毛布をすっかりかけてやり、上からたくさん雪をかぶせた。雪婆んごは風の中で叫び、雪は夜じゅう降りに降った。
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雪童子らは、めいめい自分の狼をつれて、はじめてお互い挨拶しました。
「ずいぶんひどかったね。」
「ああ。」
「こんどはいつ会うだろう。」
「いつだろうねえ、しかしことしじゅうに、もう二へんぐらいのもんだろう。」
「早くいっしょに北へ帰りたいね。」
「ああ。」
「さっき子どもがひとり死んだな。」
「大丈夫だよ。眠ってるんだ。あしたあすこへぼくしるしをつけておくから。」

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朝、雪童子は子どもが埋まっているところへ行き、雪狼があたりの雪を蹴散らした。村のほうから毛皮を着た人が急いでやって来た。
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「おとうさんが来たよ。もう眼をおさまし。」雪童子はうしろの丘にかけあがって一本の雪けむりをたてながら叫びました。子どもはちらっとうごいたようでした。そして毛皮の人は一生けん命走ってきました。

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吹雪を体験できる地域に住んでいれば、雪と風が吹き荒れるようすがリアルに浮かぶことだろう。
「雪婆んごの、ぼやぼやつめたい白髪は、雪と風との中で渦になりました。」

雪童子は、その口調から、雪の中を行く子どもより少し大きい少年のように見える。
この雪童子というのは何者だろうかと、ずっと思っていた。
元々異界の妖精なのか、それとも、いつかある年の水仙月の四日に、向こう側に“とられて”しまった子どもたちなのだろうか...と。

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posted by Sachiko at 22:00 | Comment(2) | 宮澤賢治