宮澤賢治の『どんぐりと山猫』の中で、めんどうな裁判を片付けたお礼にと、一郎はやまねこから黄金のどんぐり一升をもらう。
日本に山猫がいただろうか、それも東北に?と、一瞬思う。
日本にいる山猫と言えば、イリオモテヤマネコなど、南の方にいて天然記念物になっている、くらいの認識しかない。
古代には日本にも北方系の山猫がいたと言われているが、とっくにいなくなっている。
作品に出てくる山猫は、野生動物というより、超自然的な存在と考えたほうがよさそうだ。
『注文の多い料理店』にいるのも、山猫軒という名前からして山猫なのだろうけれど、はっきりとした姿は見せない。
この世界と異界との壁が薄くなっている場というのは確かにある。
特別な季節や時間帯、自然の野山や、子ども時代だ。
『雪渡り』でも、狐の幻燈会に行けるのは11歳以下の子どもだけだった。
優れた物語では、異界との“あわい”が自然に存在し、ほんの一飛びで、気がつけば別の空気の中にいる。
『風の又三郎』も、この世界の話のようでありながら、登場する子どもたちは高田三郎に異界の気配を纏わせる。
『どんぐりと山猫』の一郎は、山猫からハガキをもらい、栗の木やキノコやリスと話をすることができる。
きのこの馬車に乗って草地を離れるうちに、どんぐりの光は薄くなり、やがて普通の茶色のどんぐりになってしまう。
家に着くと、山猫もきのこの馬車も見えなくなっていた。
外国のメルヒェンや伝説でも、妖精や小人からもらった黄金が、家に帰るとただの葉っぱになっていた、という話は多い。
客から受けとったお金が葉っぱに変わってしまい、キツネに化かされたことに気づくという昔話も、かつては異界がもっと日常に近いところにあったことを思い起こさせる。
この世と異界とでは、価値というものがまるで違うらしい。
逆に、この世の黄金が、向こう側ではただの枯葉か何かだということはあるかもしれない。
黄金のどんぐりはとても魅力的で、どこかの異界の入り口に一つ二つ転がっているのを目にしてみたいと思う。
2022年11月23日
黄金のどんぐり
posted by Sachiko at 21:54
| Comment(2)
| 宮澤賢治
2022年03月18日
「ざしき童子のはなし」
先日の東北の地震で、空家が倒壊したニュースを見て、宮澤賢治の「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」を思い出した。
人が住まなくなった家は脆くなる。
家にはたしかに、家の気、家の魂というようなものがあるのだ。
ざしき童子もそのように、古い家に棲む「気」の存在のひとつなのだろうか。
「ざしき童子のはなし」は、土地に伝わる幾つかの話が集められている。
--------
・・・
ちやうど十人の子供らが、両手をつないで円くなり、ぐるぐるぐるぐる、座敷のなかをまはつてゐました。
ぐるぐるぐるぐる、まはつてあそんで居りました。
そしたらいつか、十一人になりました。
--------
萩尾望都さんの「11人いる!」は、この話からインスパイアされたものだと聞いたことがある。
コミックつながりでもうひとつ、吉田秋生さんの「ざしきわらし」という短編がある。
ひろし少年は毎年お盆に母方の田舎に帰省するのがならわしで、土地の子どもたちとも仲よくなっていた。
ある年、浴衣に下駄という姿の、見たことのない子に会った。
その子も含め数人の友だちを連れて家に戻ると、お母さんがスイカを切ってくれたが....
子どもたちは、一個足りないという。お母さんはちゃんと人数分切ったという。
ひろし少年は、おとなにはこの子が見えないのだと気づき、おばあちゃんに話すと、それはざしきわらしだと言われる。
時が経って大人になったひろしは、妻と息子を連れて久しぶりに田舎に帰る。雑木林も川も、昔のままだった。
息子は友だちになった数人の子どもたちを連れて家に戻ってきた。
妻がスイカを出すと、「おかあさん、いっこたりないよ」と言われる。
ひろしはハッと気づいて、もう一切れスイカを持っていき、見えない子どもに声をかける。
「よく来たね」
このへんで元の話に戻ろう。
--------
ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやつぱり、どう数へても十一人だけ居りました。その増えた一人がざしきぼつこなのだぞと、大人が出てきて云ひました。
けれどもだれが増えたのか、とにかくみんな、自分だけは、何だつてざしきぼつこだないと、一生けん命眼を張つて、きちんと座つて降りました。
こんなのがざしきぼつこです。
--------
十人の子供がいつの間にか十一人になっているこの話が、中でも不思議で、昔の仄暗い田舎家の空気感を思い起こさせて何とも魅力的なのだった。
人が住まなくなった家は脆くなる。
家にはたしかに、家の気、家の魂というようなものがあるのだ。
ざしき童子もそのように、古い家に棲む「気」の存在のひとつなのだろうか。
「ざしき童子のはなし」は、土地に伝わる幾つかの話が集められている。
--------
・・・
ちやうど十人の子供らが、両手をつないで円くなり、ぐるぐるぐるぐる、座敷のなかをまはつてゐました。
ぐるぐるぐるぐる、まはつてあそんで居りました。
そしたらいつか、十一人になりました。
--------
萩尾望都さんの「11人いる!」は、この話からインスパイアされたものだと聞いたことがある。
コミックつながりでもうひとつ、吉田秋生さんの「ざしきわらし」という短編がある。
ひろし少年は毎年お盆に母方の田舎に帰省するのがならわしで、土地の子どもたちとも仲よくなっていた。
ある年、浴衣に下駄という姿の、見たことのない子に会った。
その子も含め数人の友だちを連れて家に戻ると、お母さんがスイカを切ってくれたが....
子どもたちは、一個足りないという。お母さんはちゃんと人数分切ったという。
ひろし少年は、おとなにはこの子が見えないのだと気づき、おばあちゃんに話すと、それはざしきわらしだと言われる。
時が経って大人になったひろしは、妻と息子を連れて久しぶりに田舎に帰る。雑木林も川も、昔のままだった。
息子は友だちになった数人の子どもたちを連れて家に戻ってきた。
妻がスイカを出すと、「おかあさん、いっこたりないよ」と言われる。
ひろしはハッと気づいて、もう一切れスイカを持っていき、見えない子どもに声をかける。
「よく来たね」
このへんで元の話に戻ろう。
--------
ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやつぱり、どう数へても十一人だけ居りました。その増えた一人がざしきぼつこなのだぞと、大人が出てきて云ひました。
けれどもだれが増えたのか、とにかくみんな、自分だけは、何だつてざしきぼつこだないと、一生けん命眼を張つて、きちんと座つて降りました。
こんなのがざしきぼつこです。
--------
十人の子供がいつの間にか十一人になっているこの話が、中でも不思議で、昔の仄暗い田舎家の空気感を思い起こさせて何とも魅力的なのだった。
posted by Sachiko at 22:24
| Comment(2)
| 宮澤賢治
2022年03月09日
春の物語
ふと、宮澤賢治の作品の季節は、ほとんどが秋から冬ではないだろうかと思った。
全作品を読んでいるわけではないけれど、よく知られている主要な作品はほとんどそう見える。
『風の又三郎』は、9月1日の新学期から始まる。
『銀河鉄道の夜』は、夏の星座が出てくるけれどもやはり秋の新学期のようで、銀河鉄道で旅する途中には、リンドウやススキが生えている。
『どんぐりと山猫』は、どんぐりが出てくるのだから秋だ。
『注文の多い料理店』、これもススキがざわざわしているので秋だ。
春の話はないのか探してみたら、『山男の四月』というのがあった。
四月だから春なのだが、枯草のあいだからカタクリが咲き出しているという一文のほかは、あまり春らしい感じはしない。
『やまなし』の第一章は5月だが、二章はいきなり12月になる。
『春と修羅』は、タイトルに春が入っているけれど、特に春を歌っているわけではない。
やはり、秋冬型の人なのだ。
『雪渡り』の凍った雪野原、『水仙月の四日』の猛吹雪など、とても生き生きと感じられるが、これは読む側との相性かもしれない。
『注文の多い料理店』の序にあるように、
「ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたがないのです。」
11月の寒い風の中から物語を聴き、遥か北方のベーリング市まで列車を走らせた精神は、研ぎ澄まされて硬質な冬の冷気に似て見える。
『氷河鼠の毛皮』では、12月26日のひどい吹雪の中、人々はベーリング行き列車に乗ってイーハトヴを発つ。けれどベーリング市に着いた記述がないので、ベーリング市がどのような都会なのかは謎のままだ。
春の話は、探せばどこかに見つかるかもしれない。
気温が上がり、積もった雪が日々目に見えて減って行くこの時期、もう真冬日は来そうもない。
近年は冬が短くなっているので、後にしていく冬がまだ名残惜しいのだ。
これで雪がほとんど消えて春一番のスノードロップやふきのとうを目にすれば、本格的に春を楽しむ気分になる。
全作品を読んでいるわけではないけれど、よく知られている主要な作品はほとんどそう見える。
『風の又三郎』は、9月1日の新学期から始まる。
『銀河鉄道の夜』は、夏の星座が出てくるけれどもやはり秋の新学期のようで、銀河鉄道で旅する途中には、リンドウやススキが生えている。
『どんぐりと山猫』は、どんぐりが出てくるのだから秋だ。
『注文の多い料理店』、これもススキがざわざわしているので秋だ。
春の話はないのか探してみたら、『山男の四月』というのがあった。
四月だから春なのだが、枯草のあいだからカタクリが咲き出しているという一文のほかは、あまり春らしい感じはしない。
『やまなし』の第一章は5月だが、二章はいきなり12月になる。
『春と修羅』は、タイトルに春が入っているけれど、特に春を歌っているわけではない。
やはり、秋冬型の人なのだ。
『雪渡り』の凍った雪野原、『水仙月の四日』の猛吹雪など、とても生き生きと感じられるが、これは読む側との相性かもしれない。
『注文の多い料理店』の序にあるように、
「ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたがないのです。」
11月の寒い風の中から物語を聴き、遥か北方のベーリング市まで列車を走らせた精神は、研ぎ澄まされて硬質な冬の冷気に似て見える。
『氷河鼠の毛皮』では、12月26日のひどい吹雪の中、人々はベーリング行き列車に乗ってイーハトヴを発つ。けれどベーリング市に着いた記述がないので、ベーリング市がどのような都会なのかは謎のままだ。
春の話は、探せばどこかに見つかるかもしれない。
気温が上がり、積もった雪が日々目に見えて減って行くこの時期、もう真冬日は来そうもない。
近年は冬が短くなっているので、後にしていく冬がまだ名残惜しいのだ。
これで雪がほとんど消えて春一番のスノードロップやふきのとうを目にすれば、本格的に春を楽しむ気分になる。
posted by Sachiko at 22:31
| Comment(0)
| 宮澤賢治
2021年11月26日
「永訣の朝」
今年も遅い初雪だったが、明日は本格的な雪になりそうだ。
宮澤賢治のこの詩については(他の作品についても同様に)、何かを語ろうとするのものもまったく余計なことに思えるのだけれど.....
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆぢゅとてちてけんじや)
・・・・
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 氣圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを.....
この世を去ろうとするひとの最後のたべものは、地から生え出たものではなく、天から降りてきたものだった。
色を持たず、地上の温度には耐えられない、まさに“すきとおったほんとうのたべもの”に近いもの。
銀河や太陽 氣圏などとよばれたせかい
『銀河鉄道の夜』のカムパネルラには、妹としの姿が投影されているという説もあるが、そうした解釈もまた、すきとおった魂の表出にとっては余計なことなのだろう。
愛する者が、銀河などとよばれる世界の向こうへ行ってしまう。
澄みわたった銀河の水が凍ったような美しい雪の姿。
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜卒の天の食に變つて
やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
としが亡くなったのは、11月27日。
まだ本格的な冬ではない、みぞれの降る頃だったのだ。
宮澤賢治のこの詩については(他の作品についても同様に)、何かを語ろうとするのものもまったく余計なことに思えるのだけれど.....
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆぢゅとてちてけんじや)
・・・・
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 氣圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを.....
この世を去ろうとするひとの最後のたべものは、地から生え出たものではなく、天から降りてきたものだった。
色を持たず、地上の温度には耐えられない、まさに“すきとおったほんとうのたべもの”に近いもの。
銀河や太陽 氣圏などとよばれたせかい
『銀河鉄道の夜』のカムパネルラには、妹としの姿が投影されているという説もあるが、そうした解釈もまた、すきとおった魂の表出にとっては余計なことなのだろう。
愛する者が、銀河などとよばれる世界の向こうへ行ってしまう。
澄みわたった銀河の水が凍ったような美しい雪の姿。
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜卒の天の食に變つて
やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
としが亡くなったのは、11月27日。
まだ本格的な冬ではない、みぞれの降る頃だったのだ。
posted by Sachiko at 22:37
| Comment(0)
| 宮澤賢治
2021年03月08日
「春と修羅 序」
この序文には多くの解説も出ているらしいのだけど、詩の解説というものはどうも余計なことに思えて読んだことがない。
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつのい照明です
(あらゆる透明な幽靈の複合體)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつのい照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
ある時これを久しぶりに読み返したとき、ああほんとうに、そのとおりですね....と、ただ頷くのみだった。
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
ああほんとうに、そのとおりですね....
この不世出の詩人が日本にいてよかった。
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
ああほんとうに......
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつのい照明です
(あらゆる透明な幽靈の複合體)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつのい照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
ある時これを久しぶりに読み返したとき、ああほんとうに、そのとおりですね....と、ただ頷くのみだった。
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
ああほんとうに、そのとおりですね....
この不世出の詩人が日本にいてよかった。
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
ああほんとうに......
posted by Sachiko at 21:58
| Comment(4)
| 宮澤賢治