2021年01月16日

町のくらし

マリア・グリーペ「森の少女ローエラ」より。

車に乗せられたローエラは、初めて町を見た。
町のようすはとても奇妙に見えた。
道沿いには庭などなく、建物がぎっしりと建てこんでいる。
イルミネーション、騒音、人の波!

児童ホームで、ローエラは部屋をひとつもらった。
新しい環境に外面的には溶けこんだが、実際のところうまく適応できず、戸惑うことばかりだった。

町では自分の力を使う必要がない。
部屋はひとりでに温まり、スイッチひとつであかりが点き、水もひとりでに熱くなる。
ローエラは火が恋しい。

炎を出さない、生命のないあかりは、神秘に満ちた影を追い払ってしまう。こういうあかりに照らされていると、人間は灰色になって、しまいに抹殺されてしまうだろう。

町には静けさがない。小さな生き物の声は騒音に飲み込まれてしまう。まったく身の毛もよだつ思いがする。

ここにはほんとうの空気がない。においだけ。
ガソリンのにおい、排気ガス、工場のけむりが、草や雪や太陽の香りを飲み込んでしまう。
空気がなければ、どうやって呼吸ができるだろう?

人間の数が多すぎる。そして都会の人々はたがいにあいさつさえしない....

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つまり、町には生きたものが少ない。
生きたあかり、生きた音、生きた空気、生き生きとした人間...
生命あるものと引き換えに、都会の人々は何を手に入れたのだろう。

この物語が書かれた時代は、まだパソコンもスマホもなかったが、すでに町の暮らしからは生命力が失われかけていた。
町の暮らしに対するローエラの感じかたには、森の感覚が生きている。

森が与えてくれるキノコや木いちごを喜んで受け取っていたローエラは、村の人たちが傷んでいない食べものをも捨ててしまうことが不思議だった。
都会ではさらに多くの奇妙なことがあたりまえになっている。

ローエラの目を通して見ると、都会の人々は“感覚”を鈍らせているように見える。
光や音やにおいがどんなふうなのか、まるで気づかずにいるようだ。

森は感覚を鋭くすると言われる。森の中にあるものは、みんな生きているからだ。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(0) | マリア・グリーペの作品
2021年01月13日

パパの存在

マリア・グリーペ「森の少女ローエラ」より。

ある吹雪の日、ローエラはまた村へ遠征に行かなくてはならなくなった。こんな日は村人も外に出ていないのでかえって都合がいい。

バスケットを一杯にしての帰り道、後ろから車の音が聞こえた。
ついに、アグダ・ブルムクヴィストが来たのだ。
早く家に入って鍵をかけてしまおうと思ったが、遅かった。
ローエラは岩のあいだの落ち葉の陰に隠れた。

アグダと、もうひとり男の人がいる。おしゃべり、笑い声。
ローエラの目に、アグダはいやな人間に見える。
小さい弟たちをひきとってくれるのは、こんな人だったのか...
ローエラは二人の話し声に聞き耳を立てた。

...子どもたちの出費はイリス(ママの名前)が持ってくれる....
...小さい頃のローエラは手に負えない子だった、きっと父親似なんでしょうね...
...美男だけれど横柄で高慢な人だったわ...

何度もパパの話が出てきた。いい話ではなかった。
長いあいだ、ローエラにとって存在しなかったパパが、実在のものとなった。
アグダの話はもう聞きたくない。あの人たちにパパのことをとやかく言う権利はない!

ローエラは裏から煙突に登って叫んだ。

「とっとと立ち去れ!消えてなくなれ!」

投げつけた菓子パンやケーキが二人に当たったようだ。
車の音が遠ざかっていった。

一見勝利したように見えたが、この事件はアグダを一層熱心にさせてしまった。翌朝、アグダ夫妻といっしょに、児童保護委員会の代表ふたりがやってきた。

女たちはさっさと荷物をまとめ、弟たちとローエラは、家を後にしなければならなかった....

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子どもは、保護されなければならない。学校教育も受けなければならない。それは間違っていない。
けれど、ここで登場する大人たちとローエラとの極端な温度差....

事務手続き、杓子定規、決まりごと、書類、大人の都合、お役所仕事、浅い常識...
そうした言葉を寄せ集めてできているような人々...
さらに、アグダ夫妻には抜け目のないずるさがある。
車に乗せられたローエラの“いのち”が、敗北を噛みしめる。

児童保護委員会の女の人はアグダよりましで、アグダに取り上げられそうになった家の鍵を返してくれて、町ですごすのは冬のあいだだけだと言った。
森の中で子どもだけで暮らさせるわけにはいかない。子どもの保護は、この人たちの仕事だ。

それは外的な保護で、魂に寄り添うことはない。もっともローエラもそんなことは望んでいない。
まるで、互いに遠く離れた別の次元に住んでいるような人々...

車に乗る前に、パパ・ペッレリンのところを通った。
パパの古着を着たかかしが腕をひろげて立っている。ローエラはその腕に飛びこんでいきたかった。

ここではかかしでさえ、はるかに生き生きと温かく、ローエラに近い存在に見える。
  
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2021年01月10日

村への遠征

マリア・グリーペ「森の少女ローエラ」より。

ローエラたちのめんどうを見てくれるアディナおばさんは、足を折って入院してしまった。

夫のダビードおじさんが代わりに食べものを持ってやって来て、何かいるものはないかと尋ねた。
おじさんは迷惑がっている、ここへも、お義理で来ただけだ....ローエラはさとった。

おじさんが帰って一週間、食料もお金も底をついた。
ローエラを児童ホームに入れようとするアグダ・ブルムクヴィストが留守中に来ないか心配で、家を空けることができない。
でも、とうとう村まで行かなければならなくなった。

村での用事は、犯罪ではないけれど、だれにも目撃されたくない種類の仕事だった。

村の肉屋とパン屋の物置には、傷みかけたものを入れる樽が置いてある。豚の餌にするのだ。
中にはたいして傷んでいないものも放り込んである。

こんなによい品物を捨てるなんてもったいない、村の人はぜいたくだ、とローエラは思う。
パン屋を出たとき、あいにく村の女の子に見つかった。

「あっ、ノミのローエラだ!ジプシー娘!どろぼうネコ!」

女の子が金切声を上げ、通りの家々の窓が開いたときには、ローエラはとっくに姿を消していた。

こうしてローエラと弟たちは細々といのちをつないでいた。
パパ・ペッレリンのポケットにはときどき食べものが入っていたし、腕には一日おきに牛乳ビンがかかっている。

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・・・がんこで自尊心のつよいローエラだが、この援助だけはよろこんでうけいれていた。
なぜだろうか。おなさけではなくてあたりまえのこととしてあたえられたものだからであり、また、もし立場がぎゃくならきっとローエラもそうしてくれるはずだと、フレドリク=オルソンが考えているのを知っていたからである。

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だいぶ時間が空いてしまったけれど、「森の少女ローエラ」の続き...
あまり目撃されたくない種類の、ローエラの村での仕事は、村の人々から見れば、あまり目撃したくない光景でもあるだろう。

どこから見るかによって、人も物事も、まるで違った姿で映るものだ。
物語では、自分の力で幼い弟たちに食べさせようとする誇り高いローエラに光が当たっている。

村人たち、アディナおばさん、ダビードおじさん、帰ってこないママ...
ローエラから見たその人たちと、その人たちから見たローエラ。
関係性も、それぞれ違っている。

「おなさけではなくてあたりまえのこととしてあたえられたもの」
この言葉がキラリと光る。

「あの子は、ひとにめぐんでもらうくらいならぬすみをはたらくほうがましだと思う子だ」と、村の人たちはうわさしている。

子どものローエラと、老人のフレドリク=オルソンの関係は、対等なのだ。だから、たとえ立場が逆になったとしても同じように対等だ。

パパ・ペッレリンのポケットで贈りものを交換しあう以外、直接の関わりあいがほとんどないにも関わらず、ふたりには不思議な内的なつながりが感じられる。
たぶん、どこか似た種類の人間なのだ。

そして、冬になったある日、ついにアグダ・ブルムクヴィストがやって来た.....
  
posted by Sachiko at 21:56 | Comment(0) | マリア・グリーペの作品
2020年12月16日

パパ・ペッレリン

マリア・グリーペ「森の少女ローエラ」より。

ローエラは近くのキイチゴのしげみにかかしを立て、家にあった父親の服を着せた。
そしてそのかかしを〈パパ・ペッレリン〉と呼んでいた。

森のさらに奥には、フレドリク・オルソンという老人が住んでいて、村にローエラ宛の手紙が来ていれば、パパ・ペッレリンの服のポケットに入れておくという方法で届けてくれる。

手紙が来ていないときでも、ガムやキャラメルなど、何かしらポケットに入れておいてくれる。
ローエラも、フレドリク・オルソンが蒐集している外国切手をポケットに入れておく。

ふたりは、姿の見えないなかよしの友だちのようなつきあいをしている。

ある日ローエラは、パパ・ペッレリンのポケットから一通の手紙を受けとった。
ママからだ!でもどこにも、帰ってくることについては書かれていなかった。

ママはひと財産作るためにアメリカへ行くそうだ。
昔なじみのアグダ・ブルムクヴィストという人物にふたごを引き取ってくれるように話をつけ、ローエラは町の児童ホームに入れるようとりはからってもらったという。

ローエラの深い落胆、怒り、何よりも恥辱感。
手紙をこまかくちぎって風に飛ばし、パパ・ペッレリンに話しかけた。

「子どもって、親がうむのがふつうよね。でも、あたしはあなたをつくったんだわ、パパ・ペッレリン。
いまのあたしは、ママもつくっとけばよかったって気持ちよ。」


この物語の原題は、PAPA PELLERINNS DOTTER(パパ・ペッレリンの娘)という。
マリア・グリーペは、スウェーデンではあのリンドグレーンと並ぶ存在で、多くの作品が映画やドラマになっている。

「万人受け」から外れたところに視点を置いて光を当てるからなのか、そこから降りてゆく「深さ」ゆえにか、どうも日本人受けしないようで、邦訳はほとんど絶版になってしまっている。

ローエラの物語で、森の描写は実は多くない。
でも不思議と、草の香りや露に濡れた手触り、空気の冷たさまで、少女が五感で感じ取っているものがそのまま映されているようにリアルだ。

そこにローエラという「存在」がいる。考え出された人物ではなく、まさにその存在が自らを立ち上げてくるかのように。
村人たちの気に入らないのは、この「存在」の強さだろうか。
  
posted by Sachiko at 22:21 | Comment(0) | マリア・グリーペの作品
2020年12月13日

「森の少女ローエラ」

マリア・グリーペの「森の少女ローエラ」。
スウェーデンでの初版は1970年で、「夜のパパ」シリーズとほぼ同じ頃だ。

主人公のローエラは12歳、森の中のあばら家で、まだ赤ん坊に近いような幼い双子の弟たちと暮らしている。

母親は外国を廻る船で炊事婦として働いていて、もう長いこと帰って来ない。父親は行方不明だ。しかも弟たちとは父親が違うらしい。
学校に行っていないローエラのことを、村人はあれこれうわさしている。

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みんなはローエラをきらっている。でも、それがどうだというのだろう?
あたしだって、みんなのことががまんならない。どれもこれも、ばかで気どりやの偽善者ばかり。あたしにはよくわかる。

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ママは10月には帰ると約束したのに、もう11月だ。手紙もこない。
ローエラはママへの心配を怒りに変えて発散する。

アディナおばさんが、ときどき食料などを持って世話をしに来る。
おばさんは家に引っ越して来るように言うが、ローエラは森の家でママを待ちたい。

事件の少ない村で、ローエラは人々の興味を引いていた。村人たちはあれこれ意見を言いあうが、本当のところ、誰もローエラのことをよく知らない。


気だてのよくない、気性のはげしい孤独な少女。
またしても、マリア・グリーペは、世間受けしなさそうな子どもを主人公にしている。

けれど、世間の人たちの気に入る基準は何だろう。
人々は、いつも安心していたいのだ。自分がすでに知っているもの、受け入れられる範囲のものの中にいて、不安を掻き立てるような未知のものと関わりたくない。
その不安のありかは彼ら自身の中で、ローエラとは何の関係もないのだが。

村人たちの鈍感さと対照的に、自分自身と弟たちを守り抜こうとするローエラの世界は生き生きとしている。
ローエラは森と親しい。森はキノコや木いちごを与えてくれる。
それなのに、この森の家を出なければならなくなりそうだ。

この物語も、続きはまた少しずつ....
  
posted by Sachiko at 21:35 | Comment(2) | マリア・グリーペの作品