2021年12月21日

もうひとつの「手回しオルガン」

以前「手回しオルガン」というタイトルで書いたのは、ムーミン谷に春が来てみんなが目をさます時、手回しオルガンを回しながらトゥティッキが谷間の向こうへ去っていく話だった。

エリナー・ファージョンの短編「手まわしオルガン」は、短編集「ムギと王さま」に収録されている。


闇夜の森を抜けて家路をたどる旅人が、森で道に迷ってしまう。
寂しさから独り言を言い続けているうちに、音楽がきこえてきたのに気がついた。

それは手回しオルガンの音だった。
旅人が「おい、どこにいるんだい?」と声をかけると、「ここですよ、だんな」と答える声がした。

たのしい曲が続くあいだ、旅人は陽気に踊った。
街角で弾くことから引退したオルガン弾きは、今はどこでも好きなところで弾いているのだった。

次の曲が始まると、草木や虫や花たち、小川も空の星も、森の中のすべてのものが踊りはじめた。

旅人はいつの間にか踊りながら森を通り抜けて、町の灯が見える道に出ていた。


真夜中の森のオルガン弾き.....なんとも不思議な光景だ。
最初に読んだ時には一瞬、旅人の声に答えたのはオルガンそのものかと思ったが、ちゃんとオルガン弾きがいた。

しまいには森のすべてのものが踊りはじめる、楽しく不思議で美しく、ほんの少しばかり不気味でもある物語。


大道芸人のいる街角は、色彩と仄暗い闇とが混在する、古い時代のフランス映画やイタリア映画を思わせる何ともいえない人間臭さがあった。

その気分は人生の幸福も苦難も、物語の中に包みこむ。
“人の世は舞台、男も女も役者にすぎぬ”という、シェイクスピアの名言のように。


札幌でも昔、夏ごとにフランスから出稼ぎに来ていた大道芸人がいたけれど、その後道路や公園での大道芸を禁じるような条例ができたらしい。

杓子定規になった現代社会は、アナーキーな匂いのする組織化されない人間を嫌う。彼らの存在はどこか不安を誘うのだろう。

けれど自然界の2:8の法則のように、規格外を排除しようとすると、また新たな規格外が生まれる。
そうした規格外は、実は血の通った世界のために必要な存在ではないのだろうかと、森を抜ける旅人もオルガン弾きもいなくなった時代に思う。
  
posted by Sachiko at 22:22 | Comment(0) | 児童文学
2021年08月17日

「図書館にいたユニコーン」・2

「図書館にいたユニコーン」(マイケル・モーバーゴ作)

・・・その夏、トマスの村にも戦争がやってきた。
ある日爆撃機が飛んできて爆弾を落とし、村中に火が燃え広がった。
トマスの家は焼けずにすんだが、父さんのゆくえがわからなくなっていた。

村の中心で、燃えている図書館に消防士たちが放水していた。
そのとき、父さんとユニコーン先生が本を抱えて図書館から出てくるのが見えた。

村人たちも集まり、力を合わせて本を運び出し、これ以上は危険という最後に、父さんと先生が木でできたユニコーンを運びだした。


先生は言った。
「このユニコーンはわたしの父が作ったものなの。父はよくいっていたわ。木でできたユニコーンだけれど、本物とおなじように、ふしぎなまほうの力をもっているんだよって。
・・・
建物はこわせても、わたしたちのゆめをこわすことは、だれにもできないわ」

家が焼けずにすんだ人たちは、救い出した本を少しずつ預かり、戦争が終わって新しい図書館ができたらまた持ち寄ることになった。


戦争が終わって新しい図書館が建てられても、すべてが元どおりになったわけではなかった。
戦地から帰ってこなかった者も、癒えない傷を負った者もいた。

20年後、ユニコーン先生は今も図書館で働いている。大人になったトマス少年は本を書く仕事をし、ときどき子どもたちにお話をするために図書館へ行く。


焚書などしないまでも、子どもたちを(大人たちも)物語や詩から遠ざけ、自由に考え、想像することから遠ざけようとする力は常に機会を狙っている。

その力は、外側の物質的な破壊から、人間の内面の破壊へと方法を変えてきているらしい。
それは遠い昔や遠い国の話ではなく、今進行中の危機である。

ほんものの物語や詩には、人間の内側を破壊から守ってくれる不思議な力がある。まさにユニコーンの魔法だ。
この物語は、実際に図書館の本を救った司書の話がもとになっているという。
  
posted by Sachiko at 22:05 | Comment(2) | 児童文学
2021年08月13日

「図書館にいたユニコーン」

「華氏451度」で焚書や本の力について語られていた流れで、これも本の持つ力について書かれた物語。
2005年(日本語版は2017年)初版の新しい児童文学だ。

「図書館にいたユニコーン」(マイケル・モーバーゴ作)

uni2.jpg

静かな村に住むトマス少年は、学校がきらいで山が大好き。
ある日、母さんに図書館ヘ連れていかれた。母さんが買い物をしているあいだ、図書館でお話を聞かなくてはならない。

お話の部屋をのぞいてみると、木でできた本物そっくりのユニコーンの隣に、子どもたちからユニコーン先生と呼ばれている女の人がすわっていてお話をはじめた。


・・・
洪水を起こす大雨が降りだしたとき、山のてっぺんには、方舟に乗りそこねた二頭のユニコーンが取り残されていた。

水は山頂まで押し寄せ、ユニコーンは泳ぐしかなくなった。
何年も泳ぎ続けるうちに、ユニコーンは少しずつクジラに姿を変えていった。

それでもユニコーンの魔法の力と、その角だけは失われなかった。
今でも海には、ユニコーンの角を持ったクジラがいる・・・


そのあともユニコーン先生のお話や詩は続き、トマスはお話会に魅せられていった。

ある日先生は、焼け焦げた跡のある、宝物だという古い本を持ってきた。
先生は何があったのかを話しはじめた。

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・・・子どものころ、わたしは、よその国に住んでいました。
その国を支配していたのは、心のゆがんだ、ひどい人間たちでした。
その人たちは、物語や詩の力をおそれていました。本が人々にあたえるふしぎな力に、おびえていたのです。

その国の支配者たちは、わたしたちのようなふつうの人間が、考えたり、ゆめをもったりすることがいやだったのです。
じぶんたちとおなじように考え、おなじことをしんじて、いわれたとおりにしてほしかったのです。

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そしてある日、兵士たちがやってきて町じゅうの気に入らない本を奪って広場に集め、火を放った。兵士たちは本が燃えるのをながめて笑っていた。

その時、先生のお父さんが命がけで炎の中から取り戻したのが、宝物の一冊だったのだ。


権力者たちが物語や詩の力をおそれている.....
いつの時代にも、それはほんとうだったようだ。
自分で考えたり夢を持ったりする人間は、権力を必要としない。
それでは都合が悪いのだ。

前にも書いたけれど、ミヒャエル・エンデやアーシュラ・K・ル=グウィンも同様のことを言っている。

「注目できるのは、世界中の独裁者がファンタジー文学や想像力を敵視したという事実です。彼らはファンタジーの中に、何かアナーキーなものが隠れていると感じたんです。」(ミヒャエル・エンデ)

「私たちが認識と共感と希望とを手に入れるのは、結局のところ何よりもまず、想像力によってなのですから。」
「ファンタジーは事実ではありませんが、〈真実〉なのです。
大人たちだって知ってはいる。知っているからこそ、彼らはファンタジーをおそれるのです。」(アーシュラ・K・ル=グウィン)


本や物語の中にあるものは、人間の想像力、つまりは精神と魂の力によって表現されたものだ。
それはまさに、人間に与えられている人間らしい能力だ。
ほんものの人間の在り方を怖れるようにはたらくのは、どんな力だろう?

この物語はまだもう少し続く。
  
posted by Sachiko at 21:24 | Comment(0) | 児童文学
2021年02月09日

金色の塵

イギリスの児童文学作家エリナー・ファージョンの「本の小部屋」という短編集は、現在は「ムギと王さま」「天国を出ていく」という2冊に分かれて岩波少年文庫から出ている。

子どもの頃に住んでいた家の話から始まる、作者による前書きが楽しい。
その家はどの部屋も本でいっぱいだったが、中でも「本の小部屋」は、他の部屋のように選ばれて整頓された本ではなく、種々雑多な本で埋まっていた。

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あのほこりっぽい本の部屋のまどは、あけたことがありませんでした。そのガラスをとおして、夏の日は、すすけた光のたばになってさしこみ、金色のほこりが、光のなかでおどったり、キラキラしたりしました。

わたくしに魔法のまどをあけてみせてくれたのは、この部屋です。
そこのまどから、わたくしは、じぶんの生きる世界や時代とはちがった、またべつの世界や歴史をのぞきました。
詩や散文、事実や夢に満ちている世界でした。

・・・

あのちり、ほこりがなかったら、「本の小部屋」は、あのなつかしい部屋にはなれなかったでしょう。
星くず、金泥、花粉.....いつかは土の下にもどり、ふたたびヒアシンスの形をとって、大地のひざから咲き出す“ちりあくた”なのです。

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実は、本編もさることながら、私はこの前書きがいちばん好きだ。
降りつもった塵は、降りつもった時間そのもののように、本に閉じ込められた別の世界の気配を、吸い込んでは吐きだしていたに違いなかった。
それらはエリナー・ファージョンの魂の深みに降りて、物語という新たな花を咲かせた。


ところで私は子どものころ、朝目覚めたときにカーテンの隙間から射す光のすじを見るのが好きだった。
光が当たっていなければ見えない細かなほこりが、キラキラと浮かんでいる不思議。
本の小部屋があるような家ではなかったが、別の世界へ誘う小さなものは、日常の中にも見つけることができるものだ。

ごくたまに訪ねた田舎の親類の家には、本の小部屋があった。
私はそこで「不思議の国のアリス」や「ロビン・フッドの冒険」、「君よ知るや南の国(※ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の中から、少女ミニヨンの章を抜粋したもの)」などを読んだ。
本棚のほかには何もない、文字通りの本の小部屋だった。

エリナー・ファージョンの前書きには、ふたつの魅力的な詩の断片が載っている。


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「このしずかなちりこそは」と、アメリカの詩人、エミリー・ディキンソンはいっています。

 このしずかなちりこそは
  紳士に淑女、若衆にむすめ、
 その笑い、ちから、ため息、
  おとめらの服、まき毛。

そして、イギリスの詩人、ヴァイオラ・メネルは、「昼、ひそやかにきて」彼女の棚の上の輝いているものの上につもるほこりをふきながら、つぎのように考えます。

 けれども、ああ
 わたしがぬぐい去る、このちりは、
 花や王たち、
 ソロモンの寺、詩人、ニネヴェなのだ.....

わたくしが、目をいたくしながら、こそこそと本の小部屋を出てくるとき、わたくしの頭のなかには、まだ、まだらの金の粉がおどり、わたくしの心のすみには、まだ、銀のクモの巣がこびりついていたとしても、ふしぎはありません。

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ほこりを金色に、クモの巣を銀色に輝かせる“何か”は、まさに、土の下に沈み、いつかふたたび姿を変えて現れる、創作という錬金術の種だ。
ほんの短い前書きの中で語られている金色の塵が、そっと開けてくれる扉の、向こう側の世界は広い。
  
posted by Sachiko at 22:52 | Comment(0) | 児童文学
2020年12月04日

さびしい子どもたち

「本ばっかり読んでいる子というのは、ある種のさびしさがあるからですよ。外で遊んでいると忙しいですからね。」(宮崎駿「本へのとびら」より)

トールキンも、ファンタジーを好んで読むような子どもは少数派だと言っていた。

このさびしさの質は何か。
離島や山奥に住んでいてほかに子どもがいない、というような物理的条件とは違うだろう。

「この世界に収まりきらないもの」への希求、憧れ、郷愁....
なぜなら“それを知っている”からだ。
この世界にも美しいものはたくさんある。でも、こんなもんじゃないのだ。それらがやってくる“根源”にあるものは。


もっとも私だって、今どきの子どもの百倍くらいは外で遊んだはずだ。
塾へも行かず、習い事をしたこともなく、時間は今よりもずっとゆっくり流れていた。

もうひとつ別の視点から言えば、ミヒャエル・エンデが言ったように、「1冊の同じ本を二人の別の人が読むと、それは違う本になる」ということだ。
本の世界はひとりで入り込む、孤独な旅だ。

たとえば「はてしない物語」の、本を読むことが無上の喜びだったバスチアンも、さびしい子どもだった。
だからファンタージエンに行ってしまったのだが、彼は戻ってくることができた。

古本屋など営んでいるコレアンダー氏も、かつてさびしい子どもだったのだろう。あれほどファンタージエンに詳しいのだから。

本ばかり読んでいる子どもといえば、19世紀末のイギリスに生まれた児童文学作家エリナー・ファージョンの「本の小部屋」の話を思い出す。

学校へ行かず、本でいっぱいの家で本を読んで育ったエリナー・ファージョンは、文字通りのさびしい子どもと言えるだろうが、本の中の、溢れんばかりに豊かな世界を自由に翔けることができた子どもに、「さびしい」という言葉が適切かどうかわからない。

本の世界では、時間は遥かな過去から遥かな未来まで、空間は遥か遠い国や、さらにはこの世に存在しない異世界まで広がっている。
狭い時空に制限された「現実」に閉じ込められたままでいることのほうが、むしろさびしいこともあるだろう。
   
posted by Sachiko at 21:27 | Comment(2) | 児童文学