2021年02月09日

金色の塵

イギリスの児童文学作家エリナー・ファージョンの「本の小部屋」という短編集は、現在は「ムギと王さま」「天国を出ていく」という2冊に分かれて岩波少年文庫から出ている。

子どもの頃に住んでいた家の話から始まる、作者による前書きが楽しい。
その家はどの部屋も本でいっぱいだったが、中でも「本の小部屋」は、他の部屋のように選ばれて整頓された本ではなく、種々雑多な本で埋まっていた。

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あのほこりっぽい本の部屋のまどは、あけたことがありませんでした。そのガラスをとおして、夏の日は、すすけた光のたばになってさしこみ、金色のほこりが、光のなかでおどったり、キラキラしたりしました。

わたくしに魔法のまどをあけてみせてくれたのは、この部屋です。
そこのまどから、わたくしは、じぶんの生きる世界や時代とはちがった、またべつの世界や歴史をのぞきました。
詩や散文、事実や夢に満ちている世界でした。

・・・

あのちり、ほこりがなかったら、「本の小部屋」は、あのなつかしい部屋にはなれなかったでしょう。
星くず、金泥、花粉.....いつかは土の下にもどり、ふたたびヒアシンスの形をとって、大地のひざから咲き出す“ちりあくた”なのです。

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実は、本編もさることながら、私はこの前書きがいちばん好きだ。
降りつもった塵は、降りつもった時間そのもののように、本に閉じ込められた別の世界の気配を、吸い込んでは吐きだしていたに違いなかった。
それらはエリナー・ファージョンの魂の深みに降りて、物語という新たな花を咲かせた。


ところで私は子どものころ、朝目覚めたときにカーテンの隙間から射す光のすじを見るのが好きだった。
光が当たっていなければ見えない細かなほこりが、キラキラと浮かんでいる不思議。
本の小部屋があるような家ではなかったが、別の世界へ誘う小さなものは、日常の中にも見つけることができるものだ。

ごくたまに訪ねた田舎の親類の家には、本の小部屋があった。
私はそこで「不思議の国のアリス」や「ロビン・フッドの冒険」、「君よ知るや南の国(※ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の中から、少女ミニヨンの章を抜粋したもの)」などを読んだ。
本棚のほかには何もない、文字通りの本の小部屋だった。

エリナー・ファージョンの前書きには、ふたつの魅力的な詩の断片が載っている。


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「このしずかなちりこそは」と、アメリカの詩人、エミリー・ディキンソンはいっています。

 このしずかなちりこそは
  紳士に淑女、若衆にむすめ、
 その笑い、ちから、ため息、
  おとめらの服、まき毛。

そして、イギリスの詩人、ヴァイオラ・メネルは、「昼、ひそやかにきて」彼女の棚の上の輝いているものの上につもるほこりをふきながら、つぎのように考えます。

 けれども、ああ
 わたしがぬぐい去る、このちりは、
 花や王たち、
 ソロモンの寺、詩人、ニネヴェなのだ.....

わたくしが、目をいたくしながら、こそこそと本の小部屋を出てくるとき、わたくしの頭のなかには、まだ、まだらの金の粉がおどり、わたくしの心のすみには、まだ、銀のクモの巣がこびりついていたとしても、ふしぎはありません。

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ほこりを金色に、クモの巣を銀色に輝かせる“何か”は、まさに、土の下に沈み、いつかふたたび姿を変えて現れる、創作という錬金術の種だ。
ほんの短い前書きの中で語られている金色の塵が、そっと開けてくれる扉の、向こう側の世界は広い。
  
posted by Sachiko at 22:52 | Comment(0) | 児童文学
2020年12月04日

さびしい子どもたち

「本ばっかり読んでいる子というのは、ある種のさびしさがあるからですよ。外で遊んでいると忙しいですからね。」(宮崎駿「本へのとびら」より)

トールキンも、ファンタジーを好んで読むような子どもは少数派だと言っていた。

このさびしさの質は何か。
離島や山奥に住んでいてほかに子どもがいない、というような物理的条件とは違うだろう。

「この世界に収まりきらないもの」への希求、憧れ、郷愁....
なぜなら“それを知っている”からだ。
この世界にも美しいものはたくさんある。でも、こんなもんじゃないのだ。それらがやってくる“根源”にあるものは。


もっとも私だって、今どきの子どもの百倍くらいは外で遊んだはずだ。
塾へも行かず、習い事をしたこともなく、時間は今よりもずっとゆっくり流れていた。

もうひとつ別の視点から言えば、ミヒャエル・エンデが言ったように、「1冊の同じ本を二人の別の人が読むと、それは違う本になる」ということだ。
本の世界はひとりで入り込む、孤独な旅だ。

たとえば「はてしない物語」の、本を読むことが無上の喜びだったバスチアンも、さびしい子どもだった。
だからファンタージエンに行ってしまったのだが、彼は戻ってくることができた。

古本屋など営んでいるコレアンダー氏も、かつてさびしい子どもだったのだろう。あれほどファンタージエンに詳しいのだから。

本ばかり読んでいる子どもといえば、19世紀末のイギリスに生まれた児童文学作家エリナー・ファージョンの「本の小部屋」の話を思い出す。

学校へ行かず、本でいっぱいの家で本を読んで育ったエリナー・ファージョンは、文字通りのさびしい子どもと言えるだろうが、本の中の、溢れんばかりに豊かな世界を自由に翔けることができた子どもに、「さびしい」という言葉が適切かどうかわからない。

本の世界では、時間は遥かな過去から遥かな未来まで、空間は遥か遠い国や、さらにはこの世に存在しない異世界まで広がっている。
狭い時空に制限された「現実」に閉じ込められたままでいることのほうが、むしろさびしいこともあるだろう。
   
posted by Sachiko at 21:27 | Comment(2) | 児童文学
2020年11月22日

さよならセドリック

かつて名作だったものは、いつまで名作なのか。
古い時代に書かれ、あまり一般に読まれなくなったら名作ではなくなるのかというと、そうとも言えない。
最近は本もサイクルが早くて、これは絶版にしてはいけない!と思う本も短期間で絶版になったりする。

判断するのは、やはり読む本人だろう。
本の楽しみというものはまったく個人的な領域なのだから。

宮崎駿氏が選んだ50冊のうち、私も選ぶだろうな、と思った本は10冊ほどだった。この重なり部分は多いのか少ないのか....
自分の好みで選ぶのと、多くの人に紹介するために選ぶのとでは違ってくるだろうけど。


かつての名作、バーネットの「小公子」「小公女」「秘密の花園」....
「小公女セーラ」はアニメで見た。
「秘密の花園」は、これも小学校のときに何度か読みかけて挫折した。

「小公子」は、小さい時にダイジェスト版の絵本を持っていた気がするのだけれどほとんど憶えていない。
大人になってから、ラジオの朗読番組で聴いたことがあるが、もう記憶が薄れている。

ただ一か所、強烈に憶えている場面がある。
セドリック少年が、「ぼくのお母さま」について語るところだ。

「お母さまは『わたくしはいつも、町で貧しい人たちを見かけると、施しをしたくてたまらなくなるのよ。』とおっしゃるんです。これで、ぼくのお母さまがどんなに素晴らしい方かおわかりでしょう!」

な、なんだって?
今どきどこかの上品なマダムがこんなことを言ったら袋叩きに遭うぞ!・・・と、現代人は思った。

セドリックは、大人の目から見た「理想の子ども」なのだ。ここでは自由や個性よりも『規範』が強い。
お手本にするべき『規範』が外側に提示され、それを真似なければならないとしたら、現代の子どもにとってはとんでもなく苦しいことだ。

「よい子主義」は、子どもの本の世界でもずいぶん長いことまかり通っていた。
個人が誰なのかよりも、身分や階級が強い力を持っていた時代があり、個性というものが、矯正しなければならない何かだった時代があった。

リトルミイがそこにいたら、「あんたをお手本にするですって?あたしゃまっぴらだわね、ワハハハ〜」と、銀のお盆に乗ってソリ遊びにでも行ってしまうだろう。

マリア・グリーペの「ヒューゴとジョセフィーン」では、ヒューゴもジョセフィーンも、別に模範的な良い子ではなく、ただヒューゴでありジョセフィーンなのだ。

ヒューゴはヒューゴであり続け、ジョセフィーンはジョセフィーンになるためにいくらか格闘するが、誰も他の誰かのようになる必要はない。


さよなら、美しい天使のようなセドリック。21世紀は、君には生きにくいだろうね。

19世紀の児童文学には、やはり当時の過酷な(現代とは違う形での)時代背景が色濃く映っている。
「小公女セーラ」で、貧しくなったセーラに寄宿学校の下働きをさせたパワハラ全開のミンチン先生など、今なら逮捕されてしまうだろう。

これらの古い物語の寿命は、時代や場所の制約を超えた永遠の領域にどれだけ触れているかによるだろうと思う。
もっと古い神話やメルヒェンの寿命が長いのは、それらが地上で創作されたものではなく、元々上の世界から取って来られたからだ。

いつか人々が、時代の騒がしい流行に飽きて永遠なものを求め始めた時に、“時が移っても変わらない何か”を携えた少年少女たちの誰かが、不意に戻って来ないとも限らない。
   
posted by Sachiko at 21:38 | Comment(0) | 児童文学
2020年11月18日

「ハイジ」の話

宮崎駿「本へのとびら―岩波少年文庫を語る」を読んでいた。
岩波少年文庫から宮崎駿氏が選んだ50冊と、児童文学への思いが語られている。

ハイジのところで、こう書かれている。

「アニメより原作を本で読んだほうがいいという人がいます。ぼくも半分位そう思っていますが、この作品はちがうと思っています。
見、読みくらべてみて下さい。ぼくらはいい仕事をしたと、今でも誇りに思っています。」

私も、映画やドラマやアニメになった作品は、先に原作を読むのがいいと、基本的には思っている。
指輪物語もナルニアもゲド戦記も、やはり原作がいい。

けれど19世紀の作品などは、現代人の感覚では読みにくいかもしれない。
本の後半で宮崎氏は、アニメ版ハイジを作ったときのエピソードとして、今ごろそんなカビの生えたものをやるのか、という感じだったと書いている。

ある時代に名作と呼ばれたものが、永久に名作であり続けるとは限らない。子ども向けの名作全集などには、いつまでもそうした古典が名を連ねていたりするけれど、中にはもう寿命が尽きているものも少なくないと思うのだ。

「ハイジ」も、もうあまり読まれなくなっていた古典のひとつだったと思う。
ヨハンナ・スピリはかなり多くの作品を書いていたらしいが、後年まで残ったのはハイジだけだったようだ。
アニメになったことで、確かに新しい生命が吹き込まれたのだ。

ストーリー展開も設定も原作通り、でも不思議と19世紀のカビ臭さはなくなっている。(アニメのペーターは原作より賢そうだが)
最近はアニメのハイジはCMでイジられまくっているが、それくらい現代日本人に親しい存在になった。

私は実はハイジの原作は、小学生のときに何度か読みかけては挫折していて、まともに読んだのはかなり後になってからだった。
それもアニメの再放送を見たのがきっかけだったような気がする。

その昔、マイエンフェルトの駅を素通りしたことがある。
エクスプレスの通過駅だったのか、それとも降りようと思えば降りられたのだったか、もう憶えていない。
児童文学の古典についてもう少し書きたかったけれど、また別の機会にしよう。
   
posted by Sachiko at 22:17 | Comment(0) | 児童文学
2019年02月11日

「満月の夜のさんぽ」

1年間の満月の夜の散歩のお話。
(フランシス・ハマーストロム 偕成社)

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お母さんは、小さな兄妹アランとエルバに、「これから一年間、毎月満月の晩に〈探検〉に連れて行ってあげましょう」と約束した。
満月の夜にはいつも、すばらしいことが起こった.....

鳥の鳴き声に誘われたり、ホタルの群れを見たり、クローバーは夜には葉を折りたたむことを発見したり、自然の中にはたくさんの驚きがある。

そしてやはり冬は格別だ。
大雪のあとの凍った池の上で、二匹のキツネがジャコウネズミを取りあってじゃれている。

零下35度の中、オコジョたちが跳びまわって遊んでいる。できるだけ静かに近づくが、オコジョは木の根元の巣穴に隠れてしまった。

小さいエルバは雪の上のキラキラを数える。お母さんがつぶやく。
「…草の上や木の葉の上や雪の上の、何百万、何千万というキラキラに、だあれも気がついてないわ。そう、わたしたちだけは別ね。」

エルバが鹿をそばで見たいと言ったので、窓辺にリンゴを置いて、鹿が食べにくるのを観察する。

お母さんが木から折り取ったつららを子どもたちが舐めてみると甘い。
嵐で割れたシュガーメープルの木から樹液がしみでて凍ったのだ。

たくさん折り取ったつららをパーカーに包んで持ち帰り、バケツに入れて煮詰める。ずいぶん時間がかかったが、ついにみんなは本物のメープルシロップをかけたホットケーキにありついた。

あとがきにはこう書かれている。
わたしのふたりの子どもたちアランとエルバは、月夜に探検したことをけっして忘れることがないでしょう。

数年後大きくなったエルバは言った。
「わたしもきっと、子どもたちをつれて満月の夜に散歩をするわ。」


そこにはすばらしい自然が拡がっていた。
雑木林、池、鳥や虫や動物たち、季節ごとの植物、雪、樹氷。そしてそれらを照らす月の光。
子ども時代にとって、なんとすてきな糧だろう。

雪の上のキラキラは、都会でも見られるし、ほんとうに美しい。気がつかずに通り過ぎてしまうのはもったいない。
 
posted by Sachiko at 22:21 | Comment(2) | 児童文学