元は高木敏子作の児童文学で、何度か映画やドラマになっている。私が観たのは何かの上映会でだったか、一番古い映画版だったと思う。戦争中に少女時代を過ごした作者自身の体験を描いたノンフィクションだ。
ずいぶん前に観たので細部の記憶が正確ではないけれど、ある登場人物のことが妙に印象に残っている。
少しでも華やかなものは「不謹慎!」と非難された時代、6年生の敏子ちゃんは肌着(体操着だったか?)の胸に小さなお花の刺しゅうをして楽しむのだが、それを先生(女性)に見つかってひどく怒られてしまう。当時は(当時も)この先生のようになってしまった人が大勢いた。
もうひとり似たような人、近所のお姉さんだったと思うが、戦争中はバリバリの愛国婦人で、同じような人たちと一緒に近所を回っては監視の目を光らせ、自分たちの厳しい規範から少しでも外れて見える人がいると、「不謹慎!」と声を荒げる。
戦争が終わったあとのある日、敏子ちゃんの前にそのお姉さんが現れた。
真っ赤なスーツに真っ赤な口紅、パーマのかかったロングヘアという姿で、「あたし、いまPXに勤めてるの。ハイ、おみやげ」と、敏子ちゃんにチョコレートを渡そうとするが、敏子ちゃんにはその変貌ぶりが理解できない。
いったいこのお姉さんの変貌はどういうことなのか....
ずっと後になって、ふと腑に落ちた。
つまりお姉さんはいつも「正し」かったのだ。
どういう意味かと言うと、戦争中は戦争中の「正しさ」に従い、風向きが変わればまた別の正しさ(価値観)に従う。
その中身が真逆であろうと、彼女にとっては重要ではないのだ。
私がずっと奇妙に思っていたことがある。
時の趨勢とか流行とか風潮とか、風向きしだいであちらに吹き溜まったりこちらに吹き溜まったり、時には真逆の方向へと、まるで風に吹き寄せられる落ち葉のように、大勢の人々が動く。(風を操っているのは誰だ?)
木から離れた落ち葉でなく、自分が根差すところのものを持っていたら、こんな動き方をするだろうか....
話が飛ぶようだけれど、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」で、バスチアンが悪い魔術師サイーデの巧みな策略に捕まる場面を思い出す。
エンデは、「まことの意志」を見つけるファンタージエンの旅の中で、ここがバスチアンの最大の危機だったと言った。
サイーデの家来である黒甲冑の巨人は、甲冑だけでできていて中身は空っぽだった。それはサイーデの意志で動いているという。
「からっぽだからこそ、わたくしの意志にしたがうのでございます。中身のないものならなんでも、わたくしの意志で操ることができるのでございますよ」
なお、エンデはこのようなことも言っている。
「悲惨な戦争を体験しても、何も学ばず何も変わらなかった人たちが、悲惨な戦争を描いた文学や映画を見て、何かを学んだり変わったりするでしょうか」
エンデ自身は、戦争末期の15歳の時に、召集令状を破り捨てて逃亡した。同級生たちは一日だけ訓練を受けて戦場に送られ、その日のうちに全員が死んだという。
映画に戻ろう。
敏子ちゃんの家はガラス工場を営んでいたが、空襲で焼かれてしまい、焼け跡から歪んだガラスのうさぎだけが見つかった。タイトルはここから取られたものだ。
posted by Sachiko at 22:19
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