2020年09月18日

「フィオナの海」

アザラシつながりで、映画「フィオナの海」(1994/アメリカ、原題は The Secret of Roan Inish)より。

少女フィアナは、父によって祖父母の元に預けられて暮らすことになる。
近くの島ローン・イニッシュは、かつて家族が暮らしていた場所だ。

母親が死んで一家が島を離れる時、幼い弟はゆりかごといっしょに波にさらわれ行方不明になってしまった。
フィオナは弟が生きていると信じ、島へ渡る。

そしてフィオナは不思議な話を聞く。
一族はセルキーの血を引いていて、弟もその血の濃いひとりだ、と。
フィオナは島で弟らしい少年の姿を見かけるが....


異類婚姻譚は世界中にあり、アザラシ女房の話はスコットランドの島々やアイルランドに伝わっている。

地方によって多少異なるものの、大筋はこのような話だ。
アザラシが海岸で皮を脱ぎ捨てると、美しい若い女性の姿になる。
それを見た男が彼女を家に連れ帰って妻にし、アザラシの皮は隠しておく。

やがて子どもも生まれ幸せに暮らすが、ある時夫の留守中に、隠してあった皮を見つけ、それを着てアザラシの姿に戻り海に帰っていく。
このように人間の姿になることのできるアザラシはセルキーと呼ばれる。


映画の中でも、セルキーがアザラシの皮を脱いで人間の女性になるシーンは印象的だ。

北の海辺の、荒々しくも美しい自然。
波間に浮かぶゆりかご、アザラシの群れ.....
透きとおるような、魂に届く映画らしい映画。

残念ながらDVDやブルーレイは出ていないらしい。
↓これは家にある古いVHS版。

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posted by Sachiko at 22:21 | Comment(0) | 映画
2019年09月12日

「道」

昨日の「役に立つかどうか」という話で思い出すのは、もはや古典の映画、フェリーニの「道」だ。

ざっくりした話は、旅芸人のザンパノが、仕事の道連れの女性が死んだので、その妹で少し頭の弱いジェルソミーナを代わりに連れていく。

二人はいっしょに旅をするが、ザンパノの素行の荒さにジェルソミーナは不満だ。あるところで知り合ったサーカス団の青年に、彼女はこう言う。

「私は彼の役に立っているのかしら...」

青年は小石を拾い上げ、答える。

「どんなものも、何かの役に立ってる。ほら、この石ころだって。だから君も、きっと役に立ってる」

「石ころはどんな役に立ってるの?」

「ぼくは知らない。神さまだけが知ってる」


この短い会話は、映画のハイライトのひとつだと思う。
どんなものも存在する限り、神にみとめられた意味がある、その静かな安堵感。

古い時代のイタリア映画は、なんともいえない人間臭さに溢れている。現代物にはない土の匂いや血の温かさのようなものだろうか。粗野なザンパノも、けっして冷酷な男ではない。

ラストシーンを好きな人が多いが、私は、眠っているジェルソミーナを置き去りにするときのザンパノの表情がとても印象に残っている。

悲しい物語なのに、暗く湿った暖かい場所にすべてが包まれているようで、イタリアは“母”の国なのだと感じる。
  
posted by Sachiko at 22:03 | Comment(4) | 映画
2019年08月10日

「ガラスのうさぎ」

元は高木敏子作の児童文学で、何度か映画やドラマになっている。私が観たのは何かの上映会でだったか、一番古い映画版だったと思う。戦争中に少女時代を過ごした作者自身の体験を描いたノンフィクションだ。

ずいぶん前に観たので細部の記憶が正確ではないけれど、ある登場人物のことが妙に印象に残っている。

少しでも華やかなものは「不謹慎!」と非難された時代、6年生の敏子ちゃんは肌着(体操着だったか?)の胸に小さなお花の刺しゅうをして楽しむのだが、それを先生(女性)に見つかってひどく怒られてしまう。当時は(当時も)この先生のようになってしまった人が大勢いた。

もうひとり似たような人、近所のお姉さんだったと思うが、戦争中はバリバリの愛国婦人で、同じような人たちと一緒に近所を回っては監視の目を光らせ、自分たちの厳しい規範から少しでも外れて見える人がいると、「不謹慎!」と声を荒げる。

戦争が終わったあとのある日、敏子ちゃんの前にそのお姉さんが現れた。
真っ赤なスーツに真っ赤な口紅、パーマのかかったロングヘアという姿で、「あたし、いまPXに勤めてるの。ハイ、おみやげ」と、敏子ちゃんにチョコレートを渡そうとするが、敏子ちゃんにはその変貌ぶりが理解できない。

いったいこのお姉さんの変貌はどういうことなのか....
ずっと後になって、ふと腑に落ちた。

つまりお姉さんはいつも「正し」かったのだ。
どういう意味かと言うと、戦争中は戦争中の「正しさ」に従い、風向きが変わればまた別の正しさ(価値観)に従う。
その中身が真逆であろうと、彼女にとっては重要ではないのだ。

私がずっと奇妙に思っていたことがある。
時の趨勢とか流行とか風潮とか、風向きしだいであちらに吹き溜まったりこちらに吹き溜まったり、時には真逆の方向へと、まるで風に吹き寄せられる落ち葉のように、大勢の人々が動く。(風を操っているのは誰だ?)

木から離れた落ち葉でなく、自分が根差すところのものを持っていたら、こんな動き方をするだろうか....


話が飛ぶようだけれど、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」で、バスチアンが悪い魔術師サイーデの巧みな策略に捕まる場面を思い出す。
エンデは、「まことの意志」を見つけるファンタージエンの旅の中で、ここがバスチアンの最大の危機だったと言った。

サイーデの家来である黒甲冑の巨人は、甲冑だけでできていて中身は空っぽだった。それはサイーデの意志で動いているという。

「からっぽだからこそ、わたくしの意志にしたがうのでございます。中身のないものならなんでも、わたくしの意志で操ることができるのでございますよ」

なお、エンデはこのようなことも言っている。
「悲惨な戦争を体験しても、何も学ばず何も変わらなかった人たちが、悲惨な戦争を描いた文学や映画を見て、何かを学んだり変わったりするでしょうか」

エンデ自身は、戦争末期の15歳の時に、召集令状を破り捨てて逃亡した。同級生たちは一日だけ訓練を受けて戦場に送られ、その日のうちに全員が死んだという。


映画に戻ろう。
敏子ちゃんの家はガラス工場を営んでいたが、空襲で焼かれてしまい、焼け跡から歪んだガラスのうさぎだけが見つかった。タイトルはここから取られたものだ。
  
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(2) | 映画
2019年05月20日

「かもめ食堂」

先日あるところで、久々にこの映画の話題になった。
もう10年以上前の映画だけれど、独特の雰囲気が印象的だった。

お客が来ても来なくても、店主のサチエは日々のルーティンを続ける。
いつも外から店の様子をうかがう年配の女性たちは、なかなか店に入ってこない。

最初の客になったのは日本オタクの青年で、ガッチャマンの歌詞を知りたいという。
歌詞を教えてくれたミドリさんという奇妙な女性が店を手伝うことになる。ムーミンの物語でミイとスナフキンは姉弟なのだと教えてくれたのも彼女だ。
そして、空港でスーツケースを失くしたというマサコさんも仲間に加わる。

これといった事件が起こるわけではないのだが、やはり魅力は“空間”だろうか。
ひとりひとりのまわりにある、ゆったりとした空間。

パーソナルスペースというものがある。
個人が自分の周りに必要とする物理的・心理的空間のことだが、北欧の人々はこれが広いそうだ。(私もかなり広いスペースが必要...)

なぜここの人々はゆったりと暮らせているのかという問いに、オタク青年トンミは答える。
「フィンランドには、森があります」

森....
そう聞いてマサコさんは森に出かけたが、採ったキノコはなぜかなくなってしまう。
スーツケースが戻ってきた時、中は失くしたキノコでいっぱいだった。北欧ではおなじみのアンズタケ、それが金色に輝いている。
何かの象徴なのか、なんともファンタスティックな情景だ。

フィンランドの森と透明な空気と、濃いキャラクター(笑)の人々。
森も湖も、冷んやりと澄んだ空気も、ムーミンの物語も古くならない。
私の好きなこの映画も、まだ古くならないと思う。
  
posted by Sachiko at 22:01 | Comment(2) | 映画
2018年10月05日

青年と少女の物語

「夜のパパ」シリーズは、青年と少女が深く心を通わせる友情物語だった。

青年と少女の魂の交流ということでは、全く違う話だけれどひとつのとても古い映画を思い出す。
『シベールの日曜日』(1962年フランス映画)、昔小さな映画館での名作リバイバルシリーズとして観たことがある。

インドシナ戦争の帰還兵で戦争のPTSDに苦しむ青年と、孤独な12歳の少女の物語だが、周囲の大人たちの誤解によって悲劇的な結末を迎える。またひとりぼっちになってしまった少女の悲嘆が痛ましい。

もうひとつの古い映画、ヴィム・ヴェンダースの『都会のアリス』(1973年ドイツ)、これもマニアックな小さな劇場でリバイバル上映されたときに観た。

ジャーナリストの青年(といってもややオジサンに近い感じだった)が、ひょんなことから知り合った少女(8歳か9歳)のあいまいな記憶だけをたよりに、少女の祖母の家を探して旅する話だ。

この中のひとつの会話を強烈に覚えている。
少女が青年に訊ねる。

「何が怖いの?」
「怖さが、怖い」

実際は作家や脚本家は大人であり、子どもに何かを託して語らせているのだけれど....
語るのが子どもだと、大人同士の会話よりもいっそう鋭く本質を突くように聞こえるのはなぜだろう。
主人公、あるいは重要な役どころで子どもが登場する映画の魅力はそのあたりにあるのかもしれない。

* * *
子どもが主人公の古い映画といえばやっぱりこれ「ミツバチのささやき」(1973年スペイン)、これはDVDが出ている。
深く暗い静寂と詩の中に分け入っていくような雰囲気が好きだった。
 
posted by Sachiko at 21:54 | Comment(2) | 映画