2019年07月16日

贈り物

「植物と叡智の守り人」(ロビン・ウォール・キマラー)より。

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アメリカ先住民の血を引く植物学者の女性によるこの本の中には、くりかえし「贈り物」という言葉が出てくる。
大地からの贈り物、人間同士が贈りあう贈り物....

「贈り物か、商品か....それをあなたがどうやって入手したかによってその性質はすっかり違ったものになる......贈り物の本質とは、それがある関係性を築くということだ。」(本文より)


あるささいなきっかけで、この贈り物の話を思い出したのだ。
時々、誰かにちょっとしたプレゼントを渡したときに、相手が一瞬、困惑した表情を見せるのに気づいてしまうことがある。

こんな例もあった。ある小さな集まりで(特に親しくはない、たまたま集まった人々)、誰かが途中で みんなの分のアイスクリームを買ってきた。ひとりがすぐにその人にアイスの代金を払おうとし、他の人もそれに続こうとした。

買ってきた人は慌てた。「そんなつもりじゃないんです!」。
ほんとに100%そんなつもりではなかっただろう。こうして、贈り物は商品になってしまうところだった。
(お金自体が悪いわけではない。お金が最も適切な贈り物になる場合もある。)

この「受け取り下手」はどういうことなのか?答えになりそうな、ある人の言葉があった。

「私はずっと、与えることは“良いこと、強いこと”で、受けとることは“悪いこと、弱いこと”だと思っていた」

これはたぶん、多かれ少なかれ日本人のDNAに染みついている観念のような気がする。受けとると、相手に対し負債を負うような気分になるのだ。

だから大急ぎでお返しをしたり対価を支払ったりして、負債を帳消しにしなくてはならない。そうでなければ“悪い側、弱い側”になってしまう....

一瞬困惑して受け取れないのも、すぐにお金を払おうとするのも、こういうことなのだろうか...と思う。

「この世界のすべてが商品なのだとしたら、私たちはとても貧しくなる。この世界のすべてが手から手へと移りゆく贈り物なのだとしたら、私たちはどんなに豊かになることか。」(本文より)

実験的に贈与経済のスタイルをとった無料食堂の話がどこかにあった。そこの食事は無料で、それは前の人からの贈り物なのだ。

食事をした人は、自分が食べた分に対してではなく、次に来る人のために支払う。お金があればお金を、なければ、皿洗いとか何かのパフォーマンスとか、別のかたちで何かを贈る。そうして、贈り物は循環していく。


自然界は、受けとろうとするほど豊かな姿で現れる。そのことは、ごく小さな私の庭からさえも感じとれる。
(奪うのではない。奪えば、ほどなく枯渇する。現在の地球に見て取れるように。)

先住民たちは、自然界からの贈り物を、所有して売買しようとは考えなかった。
でも今のこの文明は、理由あって必要だったのだろう。ただし一時的にで、永久にではない。これは永続しない形態だ。

ほんとうの贈り物が手から手へと渡っていく世界は豊かだ。ここから、次の文明のヴィジョンを思う。
  
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(2) | 言の葉
2019年02月12日

北を向く人々

古い東山魁夷全集の、北欧の巻の序文より。

「私は北方を指す磁針を、若い時から心の中に持っていた」

…それは異郷ではなく、心の最も深いところにある親しい風景、郷愁に誘う根源的なものとのめぐり逢いだった...と書かれている。

個人的好みで、私は北欧の巻とドイツ・オーストリアの巻だけを持っている。北の街や自然を描いた作品群は、冷たく澄みわたった空気を呼吸するような気分を呼び起こす。

フィンランドの針葉樹の森と、白夜の光を照り返す湖が連なる作品「白夜光」は、絵の中から「フィンランディア」が響いてくるようだ。

以前、宮澤賢治の北方志向について少し触れたことがあるが、北を指す心の磁針は、どこから来るものなのだろう。

「心の最も深いところにある親しい風景」、私の中にも幼いころからそれはあった。それは実在する場所ではないのかもしれなかったが、遠い北の国は、その風景に重なった。
日本の中では充分北に住んでいるにもかかわらず、磁針はさらに北を向きたがっている。

花や昆虫、鳥などは、南へ行くほど大型化し、色鮮やかで、生命の力が溢れている。
北へ行くほど、存在の物質性が薄らいで霊化していくように感じる。

シュタイナーは、北の人間と南の人間とでは、内面だけでなく人体の組成すら違っていると言っている。太陽の作用の強さと関係があるらしい。

寒い地域では、月の光が、雪の結晶や氷花の形姿を作る作用をするという。月と雪は親しい関係にあったのだ。

月の光に照らされた真っ白な雪原が好きなのは、これも心の奥深いところにある親しい風景のひとつだったからなのか...
  
posted by Sachiko at 22:15 | Comment(2) | 言の葉
2019年01月23日

1冊の本を2人の人が読むと...

1冊の同じ本を2人の人が読むと、それは違う本になる。
2冊の違う本を同じ人が読むと、それらは同じ本になる。(ミヒャエル・エンデ)


これはほんとうにそのとおりなので、私は人に本を薦めることはしなくなった。高校生の頃など、自分が強い印象を受けた本を友だちに薦めまくっていたけれど、こちらが期待するような反応が返ってこなかったことは当然ながら今ではわかる。

このブログでもいろいろな本を紹介しているけれど、「だからぜひ読んでみて!」などとは言わない
他の人の手に渡ったとたん、それは違う本になってしまうからだ。

「おすすめは?」ときかれた時も、逆に何かの本を強く薦められた時も、まず冒頭に書いたエンデの言葉を先に伝えることにしている。


…という前置きのもとで、「鳴りひびく鐘の時代に」の中で、アルヴィドがエリシフについて言った言葉「…あの子はのんびりと日をすごし、踊るついでに深淵まで飛び越えてしまう。」
この言葉が私の中でまったく別の本を思い起こさせた。

トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」で、トニオが「金髪のハンス」「金髪のインゲ」と呼ぶ、この世の明るさの中に生きている人々、“ものごとが不思議に物悲しくなりはじめるところまでは、けっして見ることのない人々”。

少年時代のトニオがハンスに、シラーの本のすばらしさについて熱く語った時も、ハンスに興味があるのはせいぜい馬の本だった。
かすかな軽蔑をも含んだ激しい憧れから、トニオはこう言う。
「たとえ世界が滅びようと、君たちは光の中で笑っていていいのだ!」
アルヴィドには、光の中の人々に対するこんな憧れはなさそうだけれど。

さらに連想は別の本の別の人物に飛んでいく。
「指輪物語」のファラミア卿だ。
いかにも武人の兄ボロミアと違い、武技にも秀でて勇敢ではあるが、元々はむしろ伝承や詩を愛する穏やかな人柄であったため、父デネソール侯からは兄のような寵愛を受けることができなかった。

物語の中でも、どうも文人は分が悪いようだ。
およそ関係なさそうな複数の物語がこんなつながり方をするのは、私においてであって、別の人はまた別のつながりを持つだろう。

つながりついでにもうひとつ。
エンデの「はてしない物語」で、古本屋のコリアンダー氏はこう語る。
「ほんとうの物語は、みんなそれぞれはてしない物語なんだ。」
そして、はてしない物語は人によって違う。同じ本でも、読む人によって違う本になるのだ。
 
posted by Sachiko at 21:42 | Comment(2) | 言の葉
2018年11月26日

愛と力

鈴木大拙「禅」から...

 愛は物を人に変える〈ちから〉であり、
 力は人を物に変える〈ちから〉である。

「禅」が出版されたのは1965年で、その最後に「愛と力」という章がある。
現代文明、現代社会がどれほど荒廃してしまったかということが嘆かれていて、精神的価値、何よりも“愛”が切望されている、と書かれている。
この本から半世紀以上が過ぎて、ますます「力」が暴走している様相に見える。

アボリジニの古い伝承にこんな話があるらしい。
「宇宙の初めにはすべてが人間だった。その後いろいろなことが起きて、植物や動物が人間から分かれていった....」

この話は、シュタイナーの宇宙論によく似ている。
宇宙進化の過程で、植物や動物は、人間を先へ進化させるために、あえて自分たちは進化を断念し低い次元に留まった...というのだ。
だから人間は、植物界や動物界の存在たちに対し、「あなたがたのおかげで私たちは今のように在ることができる」と、深く頭を垂れるべきである、と。

メルヒェンには、悪い魔法によって人間が石に変えられてしまう話がよくある。現代人はまさに石に変えられているので、他の存在たちを物質としてしか認識できずにいる。

メルヒェンのように、“愛”によって魔法を解くことができたら、石(物質)になっていたあらゆる存在が「人」に戻ることができるだろうか。
人間を進化させるための植物や動物の宇宙的な犠牲が無駄にならないように.....
 
posted by Sachiko at 22:01 | Comment(2) | 言の葉
2018年09月05日

あるモノローグ

以前にも紹介した、マックス・ピカートの「沈黙の世界」から、心に残っているエピソードをひとつ。

ある名もない労働者のモノローグとして書かれているものだ。

「誰もおれを尊敬するものはいない。
 だからおれはおれ自身で
 おれを尊敬するのだ。
 たったひとりで、だ。」

この言葉を読んだときに、何か不思議な感じとともに浮かんできたのは、この、誰からも尊敬されないという名もない労働者への尊敬の念だった。

ああ、そういうことか....と思った。
彼が名もない労働者か、名のある社長かはどちらでもいいことだった。

彼が自分で自分を尊敬するのだと静かに宣言したとき、どこか高い頂にひとり立っているような、何か目に見えない、犯しがたいものをまとったような気がしたのだ。

マックス・ピカートの言葉を用いると、それが「沈黙の相」ということだろうか。
沈黙の相は語る。その聖域をまとった人間を、傷つけることはできないのだ、と。

 わたしは、わたし自身で
 わたしを尊敬するのだ
 たったひとりで

沈黙をまとってそう言えたなら、外側の誰かから何か貰おうとする必要はなくなる。
それは静かな希望であり、安堵でもあったのだ。
 
posted by Sachiko at 21:26 | Comment(2) | 言の葉