2019年09月15日

夜明けの虹

棚の奥から数年前のメモ書きが出てきた。ある本から抜き書きしたもののようだ。いろいろ書いてある中に、こんなのがあった。

「外に出て、世の中を変えるということは私には向いていません。それは、何かが間違っているので変える必要があるという考えから生まれる行為で、問題に対する批判のエネルギーをますます増大させるだけだからです」

“外に出て世の中を変えるということは私には向いていない”

確かに、そんなことは私にもまったく向いていない。そのことを肯定された気がして書き留めたのだったろうか。
別の人智学系の人だったか、こんなことを言っていた。

「批判というのは過去のものです。自分の正しさのために、自分の優位性のために、何か(誰か)を批判する時代は終わりました。」

その他、私がもはや過去のものだと思うもの:
ピラミッド型組織、比較競争、賛否の議論、党派、宗派、頭だけの知性....etc.

ずいぶん前に、あることに気がついた。
いつからか、何かに対する反対運動などが、そこに注がれるエネルギーに見あう成果を上げなくなったように思える....
世の中の悪事をあばいて非難糾弾する人が、正義の味方に見えなくなった....

もう、次元が変わっている。
何かに対し「断固戦います!」と言うとき、そこには戦いのエネルギーがある。
「拡散希望!」という言葉に、恐怖や怒りのエネルギーが乗っているなら、それらのエネルギーもいっしょに拡散される。

言葉や行為以上に、そこに入っている(動機になっている)エネルギーの質が実現される時代が来ている。


メモ書きした元の本:
「喜びから人生を生きる」(原題:DYING TO BE ME アニータ・ムアジャーニ著)

著者は末期癌による臨死体験の中で、全宇宙との一体感を感じた。身体はなくても、自分の純粋な本質は存在し続けていて、それはすばらしい感覚だった。

この意識状態で肉体に戻れば病気など消えてしまうのではないかと思い、肉体の中で意識が戻った後、実際にすべての癌は消えてしまった。
その後の人生は一変した。時間は直線的なものでなく、あらゆる瞬間は同時に存在する....


このことは先日書いた「モモ」の中の「重なった時間の層」の話にも似ている。
過去は変えられないものではなく、あらゆることがもっと自由で創造的なのだった。

新しい文明の夜明けに、どれだけの時間を要するのかわからない。しばらくのあいだは古いものも同時に存在し続け、最後のあがきとしてますます力を振るうように見えるかもしれない。

変わるものは変わっていくだろう。行くか留まるか、もちろん各自に決める自由がある。

-----------
数日前の、朝焼けの中の虹(見づらいけど...)

yoake.jpg
  
posted by Sachiko at 22:11 | Comment(2) | 言の葉
2019年09月11日

詩人の役割

「文学は何の役に立つのか?」という質問に対して、ミヒャエル・エンデがこう答えている。

「飢えている子がベートーヴェンのコンサートに興味を持つとは思えません。食べ物の方がいいと言うでしょう。
しかし食事を取った後、つまりその基本的な身体的欲求が満たされた時には、人間には内面もあるということを思い出すべきだと思います。」

ものごとを“役に立つかどうか”で見る価値基準はいかにも今日的で、それ以外の基準を思い起こすのが難しいくらい蔓延している。

そうした中で、「飢えた子どもを前にしたとき、詩が何の役に立つのか」という命題は古くからあった。
かつてある日本の詩人が、飢えた子どもたちの上に文学全集を落としてやったところで何になるだろう、と悩んだのちに、こんな答えを見出した。

「詩人がいなければ、飢えた子どもはただの統計数字になってしまう」

無機質な統計数字の中から、詩人は生きた人間を救い出し、いのちをよみがえらせ、存在を立ち上がらせる。
それはまるで、無彩色の世界から固有の色彩が鮮やかに立ち現れるようだ。

数字信仰は、現代の悪と呼ばれるものの中のひとつだ。
何でも、本来数値化できないはずのものさえも、それが真実であるかのように「こういう数字が出ています」と突きつける側は、まるで印籠を出すような態度をとる。

ちなみにその日本の詩人は、故・辻邦生氏だ。

「役に立つかどうか」という目で見たとたん、見えなくなるものがある。
むしろ見えなくなるもののほうが多く、何よりも存在の本質そのものが見えなくなってしまうだろう.....と、この世的にはあまり役に立っていない私は思う。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(2) | 言の葉
2019年07月24日

贈り物・2

「プレゼントされなければ手に入らないものが確かにある。そんなとき、プレゼントされる者は、プレゼントを受けるにふさわしい態度をするだけでいい」(ミヒャエル・エンデ「オリーブの森で語りあう」より)

この話は、人間と高次存在とのあいだの話だ。
人間の力でどうあがいても事態が八方塞がりに見えるとき、不意に、ひとりでに生じたかのように何かが与えられることがある。

そのような贈り物があるのを信頼することは、忘れていた源とのつながりを思い出させる。

贈り物にまつわる、いくらか苦い思い出がひとつある。
昔、当時入院していた年長の知人から、私の誕生日にプレゼントを渡したいので取りに来てほしいと連絡があった。

相手は入院しているのだから、こちらも何か持って行かなくちゃ!と、私もプレゼントを用意したのだが、少々気合を入れすぎたようだ...(持って行ったのは、何組かの手描きのグリーティングカード)

結果、受け取りに行ったはずがなんだかプレゼント交換のようになってしまい、その時、相手がふっと寂しそうな表情になったのに気がついた。
私は完全に受け取らなければいけなかったのだ。

あらゆるものが商品になってしまった時代でも、贈り物を与え、受けとることは、もちろん「取引」とは違う次元にある。

ミヒャエル・エンデは最晩年にこんなことを言っていた。

「最も価値あるものは、すべて無償で与えられている」

大地、水、空気、エネルギー...
生命、存在そのもの、この世界の大いなるすべて....

古く賢い民族のように、感謝と畏敬をもって受けとり、返礼はそれらを祝うこと。そのようにして人類は幸せでいられたのではなかったか、と思う...
  
posted by Sachiko at 22:00 | Comment(2) | 言の葉
2019年07月16日

贈り物

「植物と叡智の守り人」(ロビン・ウォール・キマラー)より。

eichi.jpg

アメリカ先住民の血を引く植物学者の女性によるこの本の中には、くりかえし「贈り物」という言葉が出てくる。
大地からの贈り物、人間同士が贈りあう贈り物....

「贈り物か、商品か....それをあなたがどうやって入手したかによってその性質はすっかり違ったものになる......贈り物の本質とは、それがある関係性を築くということだ。」(本文より)


あるささいなきっかけで、この贈り物の話を思い出したのだ。
時々、誰かにちょっとしたプレゼントを渡したときに、相手が一瞬、困惑した表情を見せるのに気づいてしまうことがある。

こんな例もあった。ある小さな集まりで(特に親しくはない、たまたま集まった人々)、誰かが途中で みんなの分のアイスクリームを買ってきた。ひとりがすぐにその人にアイスの代金を払おうとし、他の人もそれに続こうとした。

買ってきた人は慌てた。「そんなつもりじゃないんです!」。
ほんとに100%そんなつもりではなかっただろう。こうして、贈り物は商品になってしまうところだった。
(お金自体が悪いわけではない。お金が最も適切な贈り物になる場合もある。)

この「受け取り下手」はどういうことなのか?答えになりそうな、ある人の言葉があった。

「私はずっと、与えることは“良いこと、強いこと”で、受けとることは“悪いこと、弱いこと”だと思っていた」

これはたぶん、多かれ少なかれ日本人のDNAに染みついている観念のような気がする。受けとると、相手に対し負債を負うような気分になるのだ。

だから大急ぎでお返しをしたり対価を支払ったりして、負債を帳消しにしなくてはならない。そうでなければ“悪い側、弱い側”になってしまう....

一瞬困惑して受け取れないのも、すぐにお金を払おうとするのも、こういうことなのだろうか...と思う。

「この世界のすべてが商品なのだとしたら、私たちはとても貧しくなる。この世界のすべてが手から手へと移りゆく贈り物なのだとしたら、私たちはどんなに豊かになることか。」(本文より)

実験的に贈与経済のスタイルをとった無料食堂の話がどこかにあった。そこの食事は無料で、それは前の人からの贈り物なのだ。

食事をした人は、自分が食べた分に対してではなく、次に来る人のために支払う。お金があればお金を、なければ、皿洗いとか何かのパフォーマンスとか、別のかたちで何かを贈る。そうして、贈り物は循環していく。


自然界は、受けとろうとするほど豊かな姿で現れる。そのことは、ごく小さな私の庭からさえも感じとれる。
(奪うのではない。奪えば、ほどなく枯渇する。現在の地球に見て取れるように。)

先住民たちは、自然界からの贈り物を、所有して売買しようとは考えなかった。
でも今のこの文明は、理由あって必要だったのだろう。ただし一時的にで、永久にではない。これは永続しない形態だ。

ほんとうの贈り物が手から手へと渡っていく世界は豊かだ。ここから、次の文明のヴィジョンを思う。
  
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(2) | 言の葉
2019年02月12日

北を向く人々

古い東山魁夷全集の、北欧の巻の序文より。

「私は北方を指す磁針を、若い時から心の中に持っていた」

…それは異郷ではなく、心の最も深いところにある親しい風景、郷愁に誘う根源的なものとのめぐり逢いだった...と書かれている。

個人的好みで、私は北欧の巻とドイツ・オーストリアの巻だけを持っている。北の街や自然を描いた作品群は、冷たく澄みわたった空気を呼吸するような気分を呼び起こす。

フィンランドの針葉樹の森と、白夜の光を照り返す湖が連なる作品「白夜光」は、絵の中から「フィンランディア」が響いてくるようだ。

以前、宮澤賢治の北方志向について少し触れたことがあるが、北を指す心の磁針は、どこから来るものなのだろう。

「心の最も深いところにある親しい風景」、私の中にも幼いころからそれはあった。それは実在する場所ではないのかもしれなかったが、遠い北の国は、その風景に重なった。
日本の中では充分北に住んでいるにもかかわらず、磁針はさらに北を向きたがっている。

花や昆虫、鳥などは、南へ行くほど大型化し、色鮮やかで、生命の力が溢れている。
北へ行くほど、存在の物質性が薄らいで霊化していくように感じる。

シュタイナーは、北の人間と南の人間とでは、内面だけでなく人体の組成すら違っていると言っている。太陽の作用の強さと関係があるらしい。

寒い地域では、月の光が、雪の結晶や氷花の形姿を作る作用をするという。月と雪は親しい関係にあったのだ。

月の光に照らされた真っ白な雪原が好きなのは、これも心の奥深いところにある親しい風景のひとつだったからなのか...
  
posted by Sachiko at 22:15 | Comment(2) | 言の葉