2020年05月28日

聞こえない声

再びミヒャエル・エンデと河合隼雄の対談から。

「体験されるまでは、何ごとも真実にならない」
この言葉を聞いて、なるほど...と思ったのはずいぶん昔のことだったが、対談の中でエンデが同じようなことを言っているのを見つけた。

客観が真実で主観は嘘、という二元論的前提に、エンデは真っ向から反論している。
人間にとって唯一の本当のことは、自分が経験したから本当だ、と言える事柄ではないか、と。


エンデ:
「ある人が、聞こえない声を聞いた、と言う。それに対し心理学者は幻聴扱いする。
自分と違う経験領域を持っている人は、気が狂っているんだ、だから治療が必要なんだ、と片付ける。

真理は統計によって確かめられるものではありません。
たった一人の人だけがある声を聞いた。統計では他の誰もが聞かなかった。だから真実でないと言うのはなぜですか?

二十一世紀に重要になる尺度は叡智です。人間によってその真理が経験された、と言えることが尺度になります。」

河 合:
「賛成です。そういうことを言うために、どれだけ私が苦労していることか(笑)」


客観的=正しい、という観念は世の中に蔓延している。
そして「客観的」であることの証明に、数字という抽象概念を持ち出す。それが客観であると主張する意識は、誰のものか。

皆、自分にしか見えない世界を見ている。
今自分が立っている位置から見える世界を、外的にも内的にも、全く同じように見ている人は誰もいない。
1本の木を見たとき、その木を全く同じように体験する人は誰もいない。

私がそれを体験した。だから真実だ・・・
そのように存在とひとつになった体験の重みの前には、統計が示す客観もどきは、何とも薄っぺらく見える。

体験は独自であり、愛することができるものだ。そのことが、叡智に続く道ではないかと思う。
  
posted by Sachiko at 22:30 | Comment(2) | 言の葉
2020年05月14日

無償の聖性

ミヒャエル・エンデが晩年にこのようなことを語っている。

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私はこの歳になって、人生において大事なことは、みんな無償のことだと、そう信じるようになりました。
それだけが本質的なことなのです。それ以外のものはビジネスにすぎない。
・・・
遊びも無償で、タダであり、徒労です。なんの役にも立たないし、なんの作用もしない。
そもそも本質的なことで、なにか作用するのは、なにも作用しないもの、つまり、無償のものだけではないでしょうか。

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マックス・ピカートの「沈黙の世界」の中にも、これと似たことが書かれている。

「沈黙は今日では『利用価値なき』唯一の現象である。
沈黙は、現代の効用価値の世界にすこしも適合するところがない。
沈黙はただ存在しているだけである。それ以外の目的はなにも持っていないように思われる。だから、人々はそれを搾取することができないのである。」


ピカートは沈黙を「聖なる無用性」と呼んだ。
利用価値がなく、存在するだけのものが、あらゆるものを、破壊的な利用の世界から存在の世界へと奪い返す....と。

もう何十年も前に語られたこれらの言葉が、搾取と利用の世界が大きく揺らぎ始めた今、静かに輝きだすように見える。

役に立つかどうかで量られるとき、人は奴隷になり、搾取と利用の世界に住み始める。そして絶えず自分の有用性を証明しなければならなくなる。

より高価な奴隷であることを証明するあれこれを剥ぎ取ってみたら、どうだろう。現代人にとって、それは恐ろしいだろうか。
利用価値のない、ただの「存在」になることは。

けれど利用世界が崩壊するときには、無償で与えられたこの「存在」に還ること、聖性に届くまで還りきることのほか、なにか本質的なものがあるだろうか...
  
posted by Sachiko at 22:06 | Comment(2) | 言の葉
2020年05月05日

この世の破れ目

以前も書いたことがある、ミヒャエル・エンデのこの言葉....

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美は、他の世界から我々の世界の中に輝き入るいわば光であり、それによってあらゆる事物の意味を変容させます。
美の本質は秘密に満ちた、奇跡的なものです。この世界のありふれたものがその光のなかで別の現実を開示します。

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つまり、美のふるさとはこの世を超えたところにある。
この世の日常次元だけを全てとして生きていると、美は見えなくなる。

厚い雲の切れ間から光が射したとき、灰色に霞んだ世界が鮮やかな色彩を取り戻すのを見るように、ありふれた日常の破綻が、美を招き入れる機会になり得るとしたらどうだろう。

世の中の騒動、破綻にも見えるような出来事は、文字通りブレイクスルーへの扉が大きく開いている時ではないのか。

今の時期、どうやら恐怖に取り憑かれている人々と、新しい時代の予感を喜ばしく感じている人々に分かれているらしい。
せっかく開いている扉を通らない手はない。
閉じられてしまったら、また何千年も待たなければ開かない扉だとしたら...?

この世の破れ目から射す光は、事物の意味を変容させ新しくするだろう。
行く?留まる?お気に召すまま♪

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posted by Sachiko at 22:49 | Comment(2) | 言の葉
2020年01月17日

矢を射るのはだれか・・・

前回の、自分の力ではないものよって事が為されるという話のように、自分を超えたなにものかの働きについて語るとき、ミヒャエル・エンデはよくこの本を引き合いに出していた。

「日本の弓術」(オイゲン・ヘリゲル)

1920年代、日本の大学に勤めることになったオイゲン・ヘリゲルは、日本で弓術を習うことにした。

師からは「弓術はスポーツではない、弓を心で引くことを学ばなければばらない」と言われたが、道のりは容易ではなかった。

「あなたがまったく無になるということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる」

「無になってしまわなければならないと言われるが、それではだれが射るのですか」

「あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠がいらなくなる」

練習用の藁束ではなく的を射ることを許された時、師は言った。

「・・私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心にあることになる。――これをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。

それ故あなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射あてます」

さらに稽古を続けるうちに、彼は無心になれるかどうかということさえ気にかけなくなった。矢はしだいに的に当たるようになったが、それも気にかからなくなった。
5年目のある日、彼は試験に合格し、免状を授けられた。


現代人の意識からは、ただ想像してみるしかないような境地の話だ。
そして、現代の合理的思考というものが、実は何も見えずにいることに気づかないまま、どれほど危うい崖っぷちを歩いているのかを思い知らされる。

それでも、人間がついにその崖を踏み外して落ちる瞬間、見えざる“なにものか”が手を伸ばしてくれるのではないか...などと期待を持つのは、やはり無心からは程遠い考えに違いない。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(0) | 言の葉
2019年12月11日

贈り物・3

「誰かに対して、なにか特別な好意を示してあげたいと思うときにはいつも、わたくしは、ピアノに向かってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのがつねである。」
(エドウィン・フィッシャー『音楽を愛する友へ』より)

そのような個人的な演奏は、録音されることもなく、まさに一期一会で現れ、消えていく。
贈りものというのは、その物ではなく好意を受けとるものだ、という言葉をどこかで目にして、この話を思い出したのだ。

「われわれの芸術においては、すでに地上に束縛されてはいない、およそ考えうるかぎりもっとも物質的要素を離脱した素材が用いられる----すなわち魂の躍動が。」(エドウィン・フィッシャー)

このように音楽はそれ自体物質体を持たないので、もっとも軽やかに好意を乗せることができるのかもしれないな、と思う。
私はピアノなどほとんど触ったことさえないのでこんな軽やかな贈り物はできないが...

ずっと昔、ある人の誕生日に花を贈り、そのときは「ありがとう」と言ってくれたのに、後日他のところで「花なんかもらっても嬉しくねーや」と言っているのを聞いてしまい悲しかったことがある。
花ではなく別のものならよかったのか、という話ではないだろう。受けとってもらえなかったのは好意のほうなのだ。

「こんなもの貰ってもねぇ...」と言うとき、その目は物だけを見ている。誰もきらいな人に贈り物をしないだろうから、そこには好意があったはずなのに、それはどこかにこぼれ落ちてしまう。

霊視者の目でみると、好意は開いた花のかたちをしているという。花が咲いているのを見ると嬉しいのは、それが自然界からの好意いっぱいの贈りものだからだろうか。

エドウィン・フィッシャーの演奏は、私はとても古い録音で幾つか聴いたことがある。
透き通るような珠玉の言葉で書かれた『音楽を愛する友へ』は、新潮文庫から出ていたが今は絶版になってしまった。
  
posted by Sachiko at 21:57 | Comment(0) | 言の葉