2022年04月19日

花を聴く

ようやく花の季節になり、いつの間にか殖えたチオノドクサやシラー・シビリカなどの小さな球根花が輝いている。

先日、花屋さんで買ったチューリップをしばらく見ているうちに、ふと不思議な感覚になった。

“見る”よりもさらに奥、“聴く”という言葉がふさわしい気がしたのだ。

日本の香道では“香を聴く”という表現をする。

内的に深く知覚するという意味だと思うが、感覚の中で、聴覚がもっとも物質界を離れて超感覚世界まで入り込める感覚だからか。
死者がその肉体を離れたあとも、聴覚だけは最後まで残っているという。


感覚はそれぞれバラバラではなく連動していて、深く降りるほど、それらは繋がりあう。
“音色”は、単なる音よりも深いところにある。言葉は絶妙だ。

深奥ではすべての感覚がひとつになって響き合うに違いない。
混然一体になるのではなく、感覚がそれぞれ違った楽器としてハーモニーを奏でるような感じだ。

花の色、かたち、香り....
それらすべての奥にある、花という存在の本質を知覚する。

ひょっとしたら“聴く”は、“愛する”に近い言葉ではないだろうかと思う。
  
posted by Sachiko at 22:16 | Comment(2) | 言の葉
2022年02月28日

尊さの扉・2

恐れのない「ほんとうのナルニア」も、罪やかなしみさえも聖く輝くイーハトヴも、内なる尊さの扉を通った先の世界にある。

宮澤賢治の『注文の多い料理店』広告文に書かれている一文、まさにこれだ。
「…それはどんなに馬鹿げていても難解でも、必ず心の深部に於て万人の共通である。」

心の深部において万人に共通の場、一枚の草の葉やそこに結ぶ露さえも、かぎりなく尊いものとして輝いている場所。


かつてミヒャエル・エンデが、現代ほど人類が外向的になった時代はない、と言っていた。
目に見え計測できる世界だけが全世界。けれどその世界で何を得ても、どこまで行っても、人はほんとうに望むものを得られずにいるらしい。

外界の花も葉っぱも石ころも、よく観察すれば宇宙叡智を映した驚くばかりの姿をしていて、そこにも扉は開いている。


「ぼくたちは自分の人格の限界をいつもあまりに狭く限りすぎる。
個人的に区別され異なっていると認めるものだけを、ぼくたちは常に自分の個人的存在の勘定に入れる。
ところが、ぼくたちは、ぼくたちのだれもが、世界に存在するすべてのものから成り立っている。」
(ヘルマン・ヘッセ『デミアン』より)

誰もが、全世界のすべてのものから成り立っている。
そのすべてのものをどのように“知覚”しているか、それが各々の個性を表わす。

心の深部に、万人に共通の場がある。
扉を通ってそこへ旅することは、ほんとうの家に帰るような気分なのだ。
  
posted by Sachiko at 21:50 | Comment(0) | 言の葉
2022年02月19日

尊さの扉

この本はもう、帯に書かれているこの一言だけで価値があるかもしれないと思った。

 「どんな存在も尊い」

『シュタイナーの人生論』(高橋巌 著)の中で、今の(と言っても100年前だ)様相が続いて行ったら、地球が滅亡するまであまり時間がないとシュタイナーは考えていたらしい、とある。

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どんな石っころも、どんな草花も、ものすごく尊いもので、それを見るだけで世界が輝くくらい、楽園に今自分たちが生きているのだということを自覚しないと、未来は見えてこない

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道端の雑草も、落ちてくる葉っぱも、根源の宇宙叡智として今自分のほうにやってきている、と思えるかどうか、だという。

宇宙叡智の現れとしての一枚の葉っぱか、ただの落ち葉か....
価値というものは、それを意識しなければ見えてこない。



「どんな存在も尊い」
日本人はとかく「いいえ、私なんてとてもそんな...」と思いがちだけれど、時代遅れの謙譲の美徳もどきは捨てて、本質に還ろう。
(尊いのは本質であって、表面のエゴではない。むしろ本質の尊さを見失ったためにエゴが暴走する。)

自分の中の深奥にある尊さという扉を通ると、すべての存在が一堂に会する宇宙に至る。そこでは、すべての人も石ころも花も葉っぱも、輝くばかりの姿でそこに在る。

河合隼雄が昔似たようなことを言っていた。
コップを手に持って、「このコップも、実はこの背後にはとてつもなく大きなものがあってその一部なのではないか」と。


無限に大きな宇宙叡智の、ごく小さな一部分が見えるかたちをとって世界に顕現している。
その小さなかたちが、葉っぱであったり花であったり、私であったりあなたであったりする。

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時代が今のようになればなるほど、宇宙と人間の関係とか、イノチとカタチとの関係が改めて問われているのではないか

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そうしたことは、知的な思考ではなくハートの思考で見たり考えたりしなくてはならないと、ここでは言われている。

知的な思考はハートの思考よりも上だという考えは長いあいだ支配的だったけれど、まさにその知的、論理的、分析的思考が、この世界を切り刻み破滅の淵に追いやってしまった。

世界を生まれ変わらせる尊さの扉は、ハートの奥にある。
  
posted by Sachiko at 23:01 | Comment(0) | 言の葉
2021年07月13日

サン=テグジュペリの言葉

前回少し触れたサン=テグジュペリの言葉については、以前に書いたことがあったかどうか....

ずいぶん昔に(学生時代だったか)読んだので、「真人間」の話がどの作品に入っていたのかは忘れてしまった。
「人間の土地」だと思っていたが見当たらないので、「戦う操縦士」か「夜間飛行」だったかもしれない。


正確な言葉ではないけれど、このような話だった。

...落盤事故が起きた際、取り残されたひとりの坑夫を助けるために、100人の坑夫が危険を冒して坑道を戻っていくのはなぜか。
彼らはひとりの凡庸な坑夫ではなく、彼の中にいる「真人間」を助けに行くのだ。


ひとりの坑夫の中の「真人間」を助けようとするのもまた、100人の坑夫の中にいる「真人間」であるはずだ。
これはさまざまな状況下でそうなのだ。自然災害でもビルの崩落でも、最後のひとりまで探し続けようとするとき、そこに「真人間」の姿が立ち上がる。


もしもそうでなかったらどうだろう。
助ける価値があるかどうか、条件を付けられたとしたら?
賢いかそうでないか、地位や名声や財力があるかどうか....

「真人間」にはそのような条件はつかない。それは時に小さなろうそくの灯のように心細くも見える、内なる神性だ。

もしもその灯をかき消すような条件付けがまかり通る社会だったとしたら、その社会は地獄に似て見える気がする。
  
posted by Sachiko at 22:24 | Comment(2) | 言の葉
2021年05月29日

深淵を覗き込む者は

先日、こんな言葉が飛びこんできた。

 怪物と闘う者は、自らも怪物と化さぬように心せよ
 おまえが深淵を覗くとき、深淵もまたおまえを覗いている
 (ニーチェ『善悪の彼岸』より)

一瞬ある映像が浮かんだ。
ロード・オブ・ザ・リングで、指輪をはめたフロドが幽界のような場所で冥王サウロンの目に捉えられるシーンだ。


「悪と戦うにはまず相手を知らなければならない、そのために悪の研究をする必要がある。」
そのようなことを言ってミイラ取りがミイラになった例は少なくない。
『指輪物語』の、白のサルーマン(サルマン)のように。

※私が持っている指輪物語は旧版なので、幾つかの地名や人名の表記が新版と違っている。
 サルーマン(サルマン)
 ロリエン(ロリアン)
 イセンガルド(アイゼンガルド)など。


「正義感をふりかざして何かを非難糾弾する時、その人は悪魔に魂を売っている」
「自分こそは正しい善人でありたいという欲求が、最も利己的な欲求である。」
(R・シュタイナー)

最初はビックリする過激な言葉だと思ったけれど、これらもまた怪物と闘おうとする人への警告でもあるのだと思う。
現代人である以上、悪と無縁な人はいないと、シュタイナーは繰り返し言った。

たとえ無意識でいても、あるいは善き意図を持っていたとしても、人は確実に、見るもの触れるものの影響を受ける。
自分は正しい側で大丈夫という慢心は、防護服なしに放射能汚染区域に入り込むようなことに見える。

肉体にとっての防護服に相当するものを、霊的魂的にもまとう。
ガラドリエルの玻璃瓶や、天上の星を見上げる心が、モルドールの闇の中でサムを護ったように。

深淵を見つめなければならないなら(つまりは内なる深淵だ)、同時に、花を見て日の光を浴び、魂の薬である美の中を歩こう。

先のニーチェの言葉は、まさにこの時代に必要な認識だと思える。

今日は夕方に大きな虹が架かった。
  
posted by Sachiko at 22:24 | Comment(2) | 言の葉