2020年01月17日

矢を射るのはだれか・・・

前回の、自分の力ではないものよって事が為されるという話のように、自分を超えたなにものかの働きについて語るとき、ミヒャエル・エンデはよくこの本を引き合いに出していた。

「日本の弓術」(オイゲン・ヘリゲル)

1920年代、日本の大学に勤めることになったオイゲン・ヘリゲルは、日本で弓術を習うことにした。

師からは「弓術はスポーツではない、弓を心で引くことを学ばなければばらない」と言われたが、道のりは容易ではなかった。

「あなたがまったく無になるということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる」

「無になってしまわなければならないと言われるが、それではだれが射るのですか」

「あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠がいらなくなる」

練習用の藁束ではなく的を射ることを許された時、師は言った。

「・・私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心にあることになる。――これをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。

それ故あなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射あてます」

さらに稽古を続けるうちに、彼は無心になれるかどうかということさえ気にかけなくなった。矢はしだいに的に当たるようになったが、それも気にかからなくなった。
5年目のある日、彼は試験に合格し、免状を授けられた。


現代人の意識からは、ただ想像してみるしかないような境地の話だ。
そして、現代の合理的思考というものが、実は何も見えずにいることに気づかないまま、どれほど危うい崖っぷちを歩いているのかを思い知らされる。

それでも、人間がついにその崖を踏み外して落ちる瞬間、見えざる“なにものか”が手を伸ばしてくれるのではないか...などと期待を持つのは、やはり無心からは程遠い考えに違いない。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(0) | 言の葉
2019年12月11日

贈り物・3

「誰かに対して、なにか特別な好意を示してあげたいと思うときにはいつも、わたくしは、ピアノに向かってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのがつねである。」
(エドウィン・フィッシャー『音楽を愛する友へ』より)

そのような個人的な演奏は、録音されることもなく、まさに一期一会で現れ、消えていく。
贈りものというのは、その物ではなく好意を受けとるものだ、という言葉をどこかで目にして、この話を思い出したのだ。

「われわれの芸術においては、すでに地上に束縛されてはいない、およそ考えうるかぎりもっとも物質的要素を離脱した素材が用いられる----すなわち魂の躍動が。」(エドウィン・フィッシャー)

このように音楽はそれ自体物質体を持たないので、もっとも軽やかに好意を乗せることができるのかもしれないな、と思う。
私はピアノなどほとんど触ったことさえないのでこんな軽やかな贈り物はできないが...

ずっと昔、ある人の誕生日に花を贈り、そのときは「ありがとう」と言ってくれたのに、後日他のところで「花なんかもらっても嬉しくねーや」と言っているのを聞いてしまい悲しかったことがある。
花ではなく別のものならよかったのか、という話ではないだろう。受けとってもらえなかったのは好意のほうなのだ。

「こんなもの貰ってもねぇ...」と言うとき、その目は物だけを見ている。誰もきらいな人に贈り物をしないだろうから、そこには好意があったはずなのに、それはどこかにこぼれ落ちてしまう。

霊視者の目でみると、好意は開いた花のかたちをしているという。花が咲いているのを見ると嬉しいのは、それが自然界からの好意いっぱいの贈りものだからだろうか。

エドウィン・フィッシャーの演奏は、私はとても古い録音で幾つか聴いたことがある。
透き通るような珠玉の言葉で書かれた『音楽を愛する友へ』は、新潮文庫から出ていたが今は絶版になってしまった。
  
posted by Sachiko at 21:57 | Comment(0) | 言の葉
2019年11月10日

美しきもの見し人は

 美しきもの見し人は
 はや死の手にぞわたされつ
 世のいそしみにかなわねば
 されど死を見てふるうべし
 美しきもの見し人は

文語体訳のイメージからか、なぜかずっとフランス詩だと思っていたのだが、プラーテンの詩の一節だと判明した。
最初の2行が記憶の隅から時折浮かび上がってくることがあった。


「芸術とは彼岸にもなければ、此岸にもない。その中間にあるのだ。」(ミヒャエル・エンデ)

「美は、他の世界から我々の世界の中に輝き入るいわば光であり、それによってあらゆる事物の意味を変容させる。美の本質は秘密に満ちた、奇跡的なものだ。この世界のありふれたものがその光のなかで別の現実を開示する。」(ミヒャエル・エンデ)

この一文が見事に語るように、この世界のありふれたものや小さなもの --- 葉っぱ一枚、水の一滴さえも、美という光を通ってまさしくこの世を超えた姿に変容する。見る側がその光を捉えることができれば....

美を見る者は、彼岸と此岸のあいだに架かる橋の上に立つ。どちらにも属さない危うい橋は、この世で安泰に暮らしたければ渡らないほうがいいかもしれない橋。
けれど彼岸と此岸は一対のもので、もうひとつの世界から輝き入る光なしには、此岸は片目が知覚する世界のように平板なものにしか見えないだろう。


一年で最も暗い11月は、死者の月と呼ばれる。
北欧ではこの時期に鬱の発症率が高くなると言われているように、高緯度地域の11月は暗い。彼岸へ誘う力がはたらく季節だ。

日照時間がさらに短くなるはずの12月に入ると、雪があるためかクリスマスの気分のためか、突如不思議な明るさが戻ってくる。
あと3週間でアドベントが始まる。
  
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(2) | 言の葉
2019年09月15日

夜明けの虹

棚の奥から数年前のメモ書きが出てきた。ある本から抜き書きしたもののようだ。いろいろ書いてある中に、こんなのがあった。

「外に出て、世の中を変えるということは私には向いていません。それは、何かが間違っているので変える必要があるという考えから生まれる行為で、問題に対する批判のエネルギーをますます増大させるだけだからです」

“外に出て世の中を変えるということは私には向いていない”

確かに、そんなことは私にもまったく向いていない。そのことを肯定された気がして書き留めたのだったろうか。
別の人智学系の人だったか、こんなことを言っていた。

「批判というのは過去のものです。自分の正しさのために、自分の優位性のために、何か(誰か)を批判する時代は終わりました。」

その他、私がもはや過去のものだと思うもの:
ピラミッド型組織、比較競争、賛否の議論、党派、宗派、頭だけの知性....etc.

ずいぶん前に、あることに気がついた。
いつからか、何かに対する反対運動などが、そこに注がれるエネルギーに見あう成果を上げなくなったように思える....
世の中の悪事をあばいて非難糾弾する人が、正義の味方に見えなくなった....

もう、次元が変わっている。
何かに対し「断固戦います!」と言うとき、そこには戦いのエネルギーがある。
「拡散希望!」という言葉に、恐怖や怒りのエネルギーが乗っているなら、それらのエネルギーもいっしょに拡散される。

言葉や行為以上に、そこに入っている(動機になっている)エネルギーの質が実現される時代が来ている。


メモ書きした元の本:
「喜びから人生を生きる」(原題:DYING TO BE ME アニータ・ムアジャーニ著)

著者は末期癌による臨死体験の中で、全宇宙との一体感を感じた。身体はなくても、自分の純粋な本質は存在し続けていて、それはすばらしい感覚だった。

この意識状態で肉体に戻れば病気など消えてしまうのではないかと思い、肉体の中で意識が戻った後、実際にすべての癌は消えてしまった。
その後の人生は一変した。時間は直線的なものでなく、あらゆる瞬間は同時に存在する....


このことは先日書いた「モモ」の中の「重なった時間の層」の話にも似ている。
過去は変えられないものではなく、あらゆることがもっと自由で創造的なのだった。

新しい文明の夜明けに、どれだけの時間を要するのかわからない。しばらくのあいだは古いものも同時に存在し続け、最後のあがきとしてますます力を振るうように見えるかもしれない。

変わるものは変わっていくだろう。行くか留まるか、もちろん各自に決める自由がある。

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数日前の、朝焼けの中の虹(見づらいけど...)

yoake.jpg
  
posted by Sachiko at 22:11 | Comment(2) | 言の葉
2019年09月11日

詩人の役割

「文学は何の役に立つのか?」という質問に対して、ミヒャエル・エンデがこう答えている。

「飢えている子がベートーヴェンのコンサートに興味を持つとは思えません。食べ物の方がいいと言うでしょう。
しかし食事を取った後、つまりその基本的な身体的欲求が満たされた時には、人間には内面もあるということを思い出すべきだと思います。」

ものごとを“役に立つかどうか”で見る価値基準はいかにも今日的で、それ以外の基準を思い起こすのが難しいくらい蔓延している。

そうした中で、「飢えた子どもを前にしたとき、詩が何の役に立つのか」という命題は古くからあった。
かつてある日本の詩人が、飢えた子どもたちの上に文学全集を落としてやったところで何になるだろう、と悩んだのちに、こんな答えを見出した。

「詩人がいなければ、飢えた子どもはただの統計数字になってしまう」

無機質な統計数字の中から、詩人は生きた人間を救い出し、いのちをよみがえらせ、存在を立ち上がらせる。
それはまるで、無彩色の世界から固有の色彩が鮮やかに立ち現れるようだ。

数字信仰は、現代の悪と呼ばれるものの中のひとつだ。
何でも、本来数値化できないはずのものさえも、それが真実であるかのように「こういう数字が出ています」と突きつける側は、まるで印籠を出すような態度をとる。

ちなみにその日本の詩人は、故・辻邦生氏だ。

「役に立つかどうか」という目で見たとたん、見えなくなるものがある。
むしろ見えなくなるもののほうが多く、何よりも存在の本質そのものが見えなくなってしまうだろう.....と、この世的にはあまり役に立っていない私は思う。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(2) | 言の葉