2021年07月13日

サン=テグジュペリの言葉

前回少し触れたサン=テグジュペリの言葉については、以前に書いたことがあったかどうか....

ずいぶん昔に(学生時代だったか)読んだので、「真人間」の話がどの作品に入っていたのかは忘れてしまった。
「人間の土地」だと思っていたが見当たらないので、「戦う操縦士」か「夜間飛行」だったかもしれない。


正確な言葉ではないけれど、このような話だった。

...落盤事故が起きた際、取り残されたひとりの坑夫を助けるために、100人の坑夫が危険を冒して坑道を戻っていくのはなぜか。
彼らはひとりの凡庸な坑夫ではなく、彼の中にいる「真人間」を助けに行くのだ。


ひとりの坑夫の中の「真人間」を助けようとするのもまた、100人の坑夫の中にいる「真人間」であるはずだ。
これはさまざまな状況下でそうなのだ。自然災害でもビルの崩落でも、最後のひとりまで探し続けようとするとき、そこに「真人間」の姿が立ち上がる。


もしもそうでなかったらどうだろう。
助ける価値があるかどうか、条件を付けられたとしたら?
賢いかそうでないか、地位や名声や財力があるかどうか....

「真人間」にはそのような条件はつかない。それは時に小さなろうそくの灯のように心細くも見える、内なる神性だ。

もしもその灯をかき消すような条件付けがまかり通る社会だったとしたら、その社会は地獄に似て見える気がする。
  
posted by Sachiko at 22:24 | Comment(2) | 言の葉
2021年05月29日

深淵を覗き込む者は

先日、こんな言葉が飛びこんできた。

 怪物と闘う者は、自らも怪物と化さぬように心せよ
 おまえが深淵を覗くとき、深淵もまたおまえを覗いている
 (ニーチェ『善悪の彼岸』より)

一瞬ある映像が浮かんだ。
ロード・オブ・ザ・リングで、指輪をはめたフロドが幽界のような場所で冥王サウロンの目に捉えられるシーンだ。


「悪と戦うにはまず相手を知らなければならない、そのために悪の研究をする必要がある。」
そのようなことを言ってミイラ取りがミイラになった例は少なくない。
『指輪物語』の、白のサルーマン(サルマン)のように。

※私が持っている指輪物語は旧版なので、幾つかの地名や人名の表記が新版と違っている。
 サルーマン(サルマン)
 ロリエン(ロリアン)
 イセンガルド(アイゼンガルド)など。


「正義感をふりかざして何かを非難糾弾する時、その人は悪魔に魂を売っている」
「自分こそは正しい善人でありたいという欲求が、最も利己的な欲求である。」
(R・シュタイナー)

最初はビックリする過激な言葉だと思ったけれど、これらもまた怪物と闘おうとする人への警告でもあるのだと思う。
現代人である以上、悪と無縁な人はいないと、シュタイナーは繰り返し言った。

たとえ無意識でいても、あるいは善き意図を持っていたとしても、人は確実に、見るもの触れるものの影響を受ける。
自分は正しい側で大丈夫という慢心は、防護服なしに放射能汚染区域に入り込むようなことに見える。

肉体にとっての防護服に相当するものを、霊的魂的にもまとう。
ガラドリエルの玻璃瓶や、天上の星を見上げる心が、モルドールの闇の中でサムを護ったように。

深淵を見つめなければならないなら(つまりは内なる深淵だ)、同時に、花を見て日の光を浴び、魂の薬である美の中を歩こう。

先のニーチェの言葉は、まさにこの時代に必要な認識だと思える。

今日は夕方に大きな虹が架かった。
  
posted by Sachiko at 22:24 | Comment(2) | 言の葉
2021年02月21日

聴く器官

耳は完全に受容的な器官だと言われている。

目や口のように、自ら外に向かって働きかけることができない。
また、目や口のように、自ら閉ざすこともできない。

では鼻はどうだろう。
鼻で笑うとか鼻であしらうという言葉があるので、これも外側への働きかけができるが、あまりいいイメージではない。

耳はそれ自体は沈黙している。
日本語の妙で、香道では香りを嗅ぐのではなく“香りを聴く”という。
ここに聴覚の言葉が使われている。

表層ではなく、その深い本質を体験するとき、やはり“聴く”という言葉がふさわしい。

人間の感覚の中で、聴覚は最後まで残るという。
肉体が死を告げられたあとも、しばらくのあいだ聴覚は残っているらしい。
これは実際、父が亡くなった時に病院の先生からこう言われた。
「耳は、最後まで聴こえていますからね。」

聴くという感覚が、この世を超えたところまで拡がっているとしたら、事物の内的な深みに降りるときには“聴くこと”が確かな道案内になるのだろう。


そういうことについて書かれた本があった。
『世界は音---ナーダ・ブラフマー』(J・E・ベーレント)

私はこの本をずっと昔に持っていて、手放してしまったのだが、長い時を経て戻ってきた。
もちろん手放したその同じ本が戻って来たわけではなく、古本で買い直したのだ。

ほとんど傷も汚れもなく、手放したものより状態のいい本が来た。
今見ると、なぜこれを手放したのだろう、と思う。
たぶん、当時は早すぎたのだ。

人間の感覚を鈍らせる力が、ますます騒がしく世の中に渦巻いているこの時代。
耳を澄ませて何かを“聴くこと”は、それ自らが渦に巻き込まれない静かな“場”を創り出し、道を切り開くように思う。
  
posted by Sachiko at 22:20 | Comment(10) | 言の葉
2020年05月28日

聞こえない声

再びミヒャエル・エンデと河合隼雄の対談から。

「体験されるまでは、何ごとも真実にならない」
この言葉を聞いて、なるほど...と思ったのはずいぶん昔のことだったが、対談の中でエンデが同じようなことを言っているのを見つけた。

客観が真実で主観は嘘、という二元論的前提に、エンデは真っ向から反論している。
人間にとって唯一の本当のことは、自分が経験したから本当だ、と言える事柄ではないか、と。


エンデ:
「ある人が、聞こえない声を聞いた、と言う。それに対し心理学者は幻聴扱いする。
自分と違う経験領域を持っている人は、気が狂っているんだ、だから治療が必要なんだ、と片付ける。

真理は統計によって確かめられるものではありません。
たった一人の人だけがある声を聞いた。統計では他の誰もが聞かなかった。だから真実でないと言うのはなぜですか?

二十一世紀に重要になる尺度は叡智です。人間によってその真理が経験された、と言えることが尺度になります。」

河 合:
「賛成です。そういうことを言うために、どれだけ私が苦労していることか(笑)」


客観的=正しい、という観念は世の中に蔓延している。
そして「客観的」であることの証明に、数字という抽象概念を持ち出す。それが客観であると主張する意識は、誰のものか。

皆、自分にしか見えない世界を見ている。
今自分が立っている位置から見える世界を、外的にも内的にも、全く同じように見ている人は誰もいない。
1本の木を見たとき、その木を全く同じように体験する人は誰もいない。

私がそれを体験した。だから真実だ・・・
そのように存在とひとつになった体験の重みの前には、統計が示す客観もどきは、何とも薄っぺらく見える。

体験は独自であり、愛することができるものだ。そのことが、叡智に続く道ではないかと思う。
  
posted by Sachiko at 22:30 | Comment(2) | 言の葉
2020年05月14日

無償の聖性

ミヒャエル・エンデが晩年にこのようなことを語っている。

-----------------

私はこの歳になって、人生において大事なことは、みんな無償のことだと、そう信じるようになりました。
それだけが本質的なことなのです。それ以外のものはビジネスにすぎない。
・・・
遊びも無償で、タダであり、徒労です。なんの役にも立たないし、なんの作用もしない。
そもそも本質的なことで、なにか作用するのは、なにも作用しないもの、つまり、無償のものだけではないでしょうか。

-----------------

マックス・ピカートの「沈黙の世界」の中にも、これと似たことが書かれている。

「沈黙は今日では『利用価値なき』唯一の現象である。
沈黙は、現代の効用価値の世界にすこしも適合するところがない。
沈黙はただ存在しているだけである。それ以外の目的はなにも持っていないように思われる。だから、人々はそれを搾取することができないのである。」


ピカートは沈黙を「聖なる無用性」と呼んだ。
利用価値がなく、存在するだけのものが、あらゆるものを、破壊的な利用の世界から存在の世界へと奪い返す....と。

もう何十年も前に語られたこれらの言葉が、搾取と利用の世界が大きく揺らぎ始めた今、静かに輝きだすように見える。

役に立つかどうかで量られるとき、人は奴隷になり、搾取と利用の世界に住み始める。そして絶えず自分の有用性を証明しなければならなくなる。

より高価な奴隷であることを証明するあれこれを剥ぎ取ってみたら、どうだろう。現代人にとって、それは恐ろしいだろうか。
利用価値のない、ただの「存在」になることは。

けれど利用世界が崩壊するときには、無償で与えられたこの「存在」に還ること、聖性に届くまで還りきることのほか、なにか本質的なものがあるだろうか...
  
posted by Sachiko at 22:06 | Comment(2) | 言の葉