2020年11月11日

聖マルティン伝説

11月11日は聖マルティン祭。
ドイツではこの日の夜、子どもたちがランタンを持って歌いながら歩くという話は以前書いたが、では聖マルティンとはどんな人物なのか....

ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」の中で、ほんの少し触れられている箇所がある。

メルヒェン「星の銀貨」の少女のように、持っているすべてを他者に差しだしてしまうことは、地上における現実の生活にふさわしいこととは言えない....
現実世界では、豊かな人が貧しい人に持っているすべてを与えてしまったとしたら、単に立場が入れ替わるだけなのだ。

このような場合の、現実に適った対処のしかたを描いたものとして、聖マルティンの伝説が紹介されている。

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その伝説では、聖マルティンという英雄が馬に乗って進んで行く途中で、ある乞食に出会います。その乞食は、寒さで凍えそうです。

そこで聖マルティンは、自分の着ていたマントを半分に裂き、その片方を乞食に与えるのです。

もし、一方の人間がより多くを持っており、他方の人間が貧しい状態にあるなら、ふたりはお互いに分かちあうことが必要になります。それが地上の現実なのです。

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この本に書かれている聖マルティン伝説についての話はこれだけなのだが、別のところでこの続きを見つけた。
次の夜、マルティンの夢の中にキリストが現われ、半分のマントを着ていた、というものだ。

どこかで聞いたような話.....
以前紹介した絵本「靴屋のマルティン」に似ている。

靴屋のマルティンがその日、親切にして必要なものを与えた人々――凍えていた道路掃除夫や、赤ん坊を抱えた貧しい婦人、リンゴを盗んだ少年を罰するおばあさん。

夜、幻のように現れたその人たちを見て、マルティンはそれがイエスさまだったと知った.....

あの「靴屋のマルティン」は、聖マルティン伝説が土台になっていたのだ。

ドイツではハロウィンがあまり盛んではない代わりに、秋のお祭りといえばこの聖マルティン祭だ。
日が短くなった11月に灯るランタンは、魂の奥に暖かく懐かしい思いを呼び起こすことだろう。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(2) | 神話・伝説
2020年01月14日

「ともしび」

セルマ・ラーゲルレーヴ「キリスト伝説集」より。

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ラニエロは、フィレンツェで名のしれた乱暴者。その妻フランチェスカは町の有力者の娘だった。
結婚してもラニエロの粗暴さは変わらず、フランチェスカは自分の愛が壊れてしまうことを怖れ、父の家に帰って暮らす決心をした。

ラニエロは十字軍に加わった。武勲によって妻の心を取り戻すつもりだった。
エルサレムで取った一番の貴重品は、聖墳墓教会でともしてきたあかりだった。こればかりは到底フィレンツェに持ち帰るのは無理だと言われたラニエロは、自分が持ち帰って見せると公言する。

その時から、あかりはラニエロが守るべきただひとつの大切なものになった。道中、雨風から守り、盗賊から守り、片時も気の休まることがなかった。

ラニエロはフランチェスカのことを思いだした。フランチェスカが守ろうとしていた愛は、このともしびのようなもので、ラニエロによって消されることを怖れていたのだ。

嵐の中、吹雪の中、彼はともしびを守りつづけた。もうフィレンツェが近かった。
ラニエロは、自分がもうエルサレムを発った時と同じ人間ではないことを悟った。この旅は彼を、穏やかで思慮あるものを愛し、血なまぐさいものを厭う人間に変えていた。

復活祭の日に、ラニエロは、フィレンツェの町に入った。
人々は彼をからかい、何とかしてその火を消そうとして大騒ぎになった。

本聖堂に向かう道すがら、気がつけばフランチェスカが静かに傍らを歩いていた。
聖堂に入ると、ひとりの男が、これがエルサレムでともされた火だという証しを示すように言った。多くの者たちも、証しがたつまでは祭壇にその火をともさせてはならぬと言った。

証人などいるはずがない。ラニエロがあきらめかけた時、扉から小鳥が飛び込んできて、ろうそくに当たり、火を消してしまった。
ラニエロは思った。人間どもの手にかかるより、このほうがましだ。

そのとき、叫び声がした。鳥が燃えてる!
そして.....

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全く違う話なのに、この物語のラストは『指輪物語』のクライマックスを思い起こさせる。

長い苦難の旅の果て、最後の最後で絶望的な事態が起こる。
が....次の瞬間、思いもよらない方法で使命は果たされるのだが、それは本人の力によるものではなかった。

人類の旅もこのようなことなのだろうか、と思うのだが、それもあくまで「ともしび」を消さずに保ちつづけた後のことだろう。
万事休したと思った瞬間、最後に転換は起こるのかもしれない。それも自分の力ではなく。
  
posted by Sachiko at 21:30 | Comment(2) | 神話・伝説
2019年09月05日

苔の伝説

少し前に苔のことを書いたが、ドイツ伝説集の中に、苔小人の話が入っているのを見つけた。

苔女の話は、1635年頃と、年代まで特定されている。
ザールフェルトの近くに住む農夫が木を伐っていると、苔女がやってきて、最後の木を倒したら十字を三つ幹に刻むように、きっと良いことがあるから、と告げた。

農夫はそれを信じなかったが、翌日また苔女が現われて、「狩魔王から逃れたければ、十字を三つ彫った木の幹に腰を下ろすしか手がない」と言った。

それでも農夫が十字を彫ろうとしなかったので、苔女は農夫に飛びかかって押さえつけたため、農夫は息も絶え絶えになった。
それ以来農夫は苔女のいうことを聞いて十字を彫るのを忘れず、痛い目に遭うこともなくなった。


緑の苔の衣で覆われた苔族の小人はよく知られていて、木工や陶工はこれを人形にして売っている。狩魔王はとりわけこの苔小人を追い回しているという。

緑の苔の衣を着た小人の姿は、いかにもドイツの絵本や工芸品にありそうだ。
ウルスラ・ブルクハルトの「カルリク」の中にも、ノームともエルフともつかない仲間として苔小人の存在が書かれている。

苔女の話は17世紀だから、もう中世を過ぎている。人々の意識が明るくなり始めた時代だが、森には自然霊たちが満ちていて、そこで働く素朴な農夫たちはまだ小人を知覚する能力を保っていたのだろう。

絵になりそうな苔小人、視る能力さえあれば、深い森の苔むした巨樹の根元などに、彼らはまだ棲んでいる気がする。
  
posted by Sachiko at 22:05 | Comment(0) | 神話・伝説
2019年07月30日

水妖伝説・2

水の精に捕まって引きずり込まれたいような暑い日々、「ドイツ伝説集」から、水の精の伝説を幾つか拾ってみる。


水の精と農夫

水の精の外見は普通の人と変わらないが、歯をむき出すと緑色の歯が見えるところが違っている(※)。
水の精はある農夫と親しくしていて、ある時、下のほうにある自分の家に来るように誘った。水の底に着いてみると、飾り立てられた豪奢な宮殿があった。

ある小部屋にさかさに並んでいる壺を見て、農夫はこれは何かと訊くと、水の精は「溺れて死んだ者たちの魂です」と答えた。

その後農夫は水の精の留守をうかがって水底の邸に入り、壺を全部ひっくり返すと溺死者の霊魂が上のほうにゆらゆらと昇り、ついに水から出て救いを得た。

(※)女の水の精は美しいが、男は尖った緑色の歯をしている。それで女の水妖は美しい人間の漁師に恋して水の中に引き込もうとする、という伝説は各地にある。


水妖と粉屋の小僧

粉屋の小僧が二人、川のふちを歩いていた。ひとりが川を見ると、女の水妖が水の上に座って髪を梳いていた。小僧が鉄砲で狙いを定めた瞬間、女は川に飛び込んで、何かの合図をしたかと思うとそのまま消えた。先を歩いていた小僧は何も知らず、後から来た仲間から聞いて知った。それから三日のち、始めの小僧は水浴びしようと川に入って溺死した。


川への生贄

ライプツィヒの近郊、エルスター河がプライセ河に注ぐあたりの水流は油断がならない。河は毎年、人身御供を一人ずつ要求する。事実、夏になると決まって人が一人溺れ死ぬが、これは水妖が水底へ引き込むと信じられている。誰かが溺死する前には必ず水妖たちが水の上で踊るという。


エルベの乙女

乙女は普通の娘と変わらなく見えたが、白い前掛けの端がいつも濡れていて、水から上がってきたことを示していた。
肉屋の若者が乙女に恋をして、あるとき一緒に水の中へ入っていった。恋仲の二人に手を差し伸べる漁夫がいて、岸で見張りをしていた。

乙女は水に入る前に漁夫に言った。
「リンゴがのったお皿が水の底から上がってきたらうまくいった徴です。その他のものだったら駄目だったと思ってください。」

やがて水の底から一条の赤い光が射した。それは花婿が乙女の縁者のめがねに適わなくて殺されてしまった徴であった。


このような伝説の多くからは、かつて信じられ、語り伝えられ、畏れられていたものが持つ不思議な重みを感じる。
古い伝説やメルヒェンから受ける、深い独特の気分を表わす適切な言葉がみつからない。これもまた、現代では失われてしまった言葉なのかと思う。
  
posted by Sachiko at 21:34 | Comment(2) | 神話・伝説
2019年03月10日

牧神の系譜

フォーンのタムナスさんつながりだが、牧神の仲間については手元の資料が少ない。

岩波版のギリシャ神話によれば、パンは森林、山野、家畜と牧人の守護神で、サテュロスも森林山野の神である。
どちらも剛毛に覆われ、頭には短い角があり、山羊のような足をしている。

ローマ神話のファウヌスは、サトゥルヌスの孫であるという。サトゥルヌスは英語表記にするとサターン(Saturn)で、土星の名前にもなっている。

このファウヌスは、田野と牧人などの神だ。
フォーン(Faun)はどう見ても、単純にファウヌスの英語表記に見えるのだが.....

…Wikiに少し違うことが書かれているのを発見。
フォーンは、ギリシャのパンやサテュロスよりも、はるかに美しく気品があり、おとなしい性質の平和主義者だという。
Wikiの情報は必ずしも当てにならないかもしれないと思うけれど、この話は気に入った。タムナスさんにぴったり♪

ギリシャ神話に戻ると、牧神パンの名は「汎」の意味であり、万有と自然の人格的象徴だそうだ。
パン、サテュロス、ファウヌスは、ほとんど同じ性格のものに違う名前がついているだけだともいわれている。

「パニック」の語源は牧神パンの名前だと聞いたことがある。
パンは夜に森を通る人々から怖れられていて、何もなくてもそういう場所で恐怖を感じるのはパンの神のしわざとされて、Panic terrorと呼ばれたのが元だとか。

牧神の話はあのフィンドホーンとも関わりがあるのだが、農業に適さない北の砂地が楽園のようになったのは、やはり自然をつかさどる神的なはたらきなしにはありえなかったと思う。
 
posted by Sachiko at 21:45 | Comment(2) | 神話・伝説