2019年10月03日

スティルウォーター教

これなら信者になってもいいかな、と思う「スティルウォーター教」は、以前少しだけ触れたことがあるが、ターシャ・テューダーが家族とお遊びで作った宗教だ。

静かな水のように心穏やかに暮らすこと、大きな波に流されず自分の速さで進むこと、を信条とする。

「スティルウォーター教徒は生活を楽しみます。重荷にしてはいけません。」(ターシャ・テューダー)


時代はますますそれとは真逆の方へ煽ってくるように見えても、それが自分の心に沿わないなら、ほうっておけばいい。

私はルンバよりもほうきが好きだ。
それは1分間に何グラムのホコリを除去するか、という計測とは別の次元のことだ。
その別次元の感覚を何と呼ぶのか、言葉ではうまく表せないけれど。
(もちろん掃除機も使う。ある時代で時間を止めたいわけではない。ターシャも、掃除機も冷蔵庫も使っていた。)

昔、ガスコンロの上にのせて使うタイプの古いオーブンが家にあった。温度設定もアナログだったが、コツを掴めば何の不自由もなくパイも焼けた。
電気を使わない古い道具には、使う人の「手になじむ」という感覚がある。そうして道具はその人の暮らしになじんでいくのだ。

ターシャは短いスカートが流行しても、「わたしはこれが好き」と長いドレスを作って着続けた。
最新流行のものは、いちばん先に古びてしまうものでもある。半年前の流行など、もう誰も憶えていないだろう。

自分自身の「好き」にほんとうに従うときは他人の動向は気にならないし、外側の何かの力に煽られることもない。

効率を追い、無駄だと言って切り捨てた時間の中にあったものが、実は人生そのものだったとしたらどうだろう。
「価値のある良いことは、時間も手間もかかるもの」(ターシャ・テューダー)
  
posted by Sachiko at 21:36 | Comment(2) | 暮らし
2019年01月08日

時間の“質”の話

日本で昭和20年代の初め頃まで使われていたらしい「数え年」についての、興味深い話を思い出した。

数え年は、生まれたら1歳、次のお正月が来たら歳がひとつ増えて2歳...というものだ。
昔はお正月にはみんなで一斉にひとつ歳をとるのがよかった、と言っていた古い世代の人たちももう少なくなった。

仮に、2018年の12月31日に生まれたらその時点で1歳、翌2019年の1月1日になると、生後2日目で2歳になってしまうわけだが、これについて、なるほど...と思った話がある。

つまり、たった1日でも2018年という「質」を体験しているので1歳、翌日には2019年という「質」を体験したので2歳、ということだ。

単純に時計で計測できる時間のことではないのだった。
とはいえ、社会的便宜としては不都合なことが多いため廃止になった。

この「質」が適用されるのが、イエスが十字架にかけられて3日目に復活する話だ。
磔刑が金曜日の夕方で、復活が日曜日の朝。

金曜日という「質」、土曜日という「質」、日曜日という「質」を体験したから3日であって、24時間×3という意味ではないそうだ。

ではそうした時間、〇年とか〇曜日の「質」とはいったい何だ?
計測できないもの、理論で説明しにくいもの、現代の数量思考からこぼれてしまう、「質」....

時間に限らず、日々の暮らしの中で「質」というものの体験は、実はとても大切なのではないかと思う。
 
posted by Sachiko at 21:15 | Comment(4) | 暮らし
2018年11月05日

大根の種

種を取るために1本だけ残しておいた大根....しかし完熟したサヤは虫に食われ、ほとんど採種できず(>_<)。
大根の種を食べる虫がいるとは知らなかった。無農薬=放ったらかしではいけないのだと、改めて思い知る。

緑色のは未熟なサヤで、枯れたサヤから種がとれる。
わずかばかりだけど、来年蒔いてみよう。

daikon.jpg

種蒔きの時期にもよるのだろうが、毎年サヤが完熟する前に雪が降ってしまい、ほとんど種は採れない。白くかわいい大根の花が種をつけ、その種が完熟するまでにはかなりの時間がかかるのだ。

あまり表には出てこないが、種に対する攻撃はもうずいぶん前から始まっている。そうした反生命的な力は、逆に言えば種がどれほどすばらしい根源的なものかを知っているからこそ、そこを攻撃するのだろう。
根源・・・origin. 原種は失われたらもう作ることはできない。

私が植えているのは江戸時代から作られていたという大根で、小さくて辛みが強い。もちろん固定種だ。
スペースがないので野菜は少ししか作れない。今年種を蒔いたのは、大根、トマト、ビーツ、キュウリ、レタス類と、数種類のハーブだけ。
小さな種を土にまくと、作物が育つ。あたりまえと思いがちだけれど、これは驚異だ。

育つプロセスを見ることができて、食べる直前に収穫する野菜は、遠くから複雑な流通経路を通って店に並んでいるのを買ってくるのとは生命力が違うはずだ。
たとえわずかでも、こうして種から育てた野菜を食卓にのせたいと思っている。
 
posted by Sachiko at 21:04 | Comment(2) | 暮らし
2018年10月25日

スペルト小麦

古代からある原種といわれるスペルト小麦(厳密には“小麦”ではないらしいのだが)、近年すこしずつ認知されるようになり、10年くらい前から国産も栽培されている。

私がスペルト小麦のことを知ったのは、中世ドイツの聖女、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンのレシピからだった。
サラダやスープ、パン、クッキーなどに使われていて、昔は薬用でもあったらしい。

数年前、サラダやスープ用として売られていたホールのスペルト小麦を、試しに土に埋めてみたら芽を出した。そのまま育てていたら実ったのだが、脱穀と製粉の手段がなかったので食べられず....(-_-;
その後も、放っておいたらこぼれ種から毎年1〜2本生えてくる。

殻が硬く、粉にするのに手間がかかるなどでしだいに作られなくなり、収量の多い改良種の小麦に取って代わられたようだ。
丈夫な原種で、農薬などを使わなくても育つということでも、安全志向の強まった今、ふたたび注目されている。

“原種”という言葉には強く惹かれる。
今出回っている野菜も穀物も、改良に改良を重ねたものがほとんどで、そのおかげでおいしい北海道米も食べられるのだけど、野菜などはほとんどがF1だ。
F1野菜を食べ続けてほんとうに大丈夫なのかどうかは、ずっと何世代もあとにならなければわからないのだ。

原種の力強さ、数千年の時を生き延びてきた生命力。
薬として使われたというのもわかる気がする。きっといのちを強めてくれるのだろう。

難を言えばまだとても高価なのだが、ひ弱な野菜を食べて病気になって化学合成薬を飲むより、古代麦の生命力をいただいて元気でいるほうがいいんじゃないかと思う。スペルトが手に入ると嬉しくなって、心も元気になるのだ^^

特に全粒粉が独特の香り高い風味でおいしい。
最近は北海道でも作られはじめていて、今回その北海道産のが手に入った。久しぶりにヒルデガルトのレシピでクッキーを作ってみよう♪
  
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(4) | 暮らし
2018年10月20日

味噌づくり

久しぶりの味噌づくり、北海道産の無農薬無肥料大豆を使用。大豆も自家栽培できればいいのだけどね。
去年の夏に仕込んだほうを味見してみたら、だいぶ熟成しておいしくなっていた。

面倒そうにみえるけれど、豆を水に浸して吸水させる時間と豆を煮る(あるいは蒸す)時間は、付いて見ていなくてもいいので、作るのにはそれほど時間がかかるわけではない。ただ、重い腰を上げる気になりさえすればいいのだ....(~_~;
豆を潰すにはフードプロセッサーを使うと簡単。さすがに今はこれなしではムリがある。(私だって文明の利器も使うのだ。)

開拓時代風の暮らしを楽しんだあのターシャ・テューダーの家にも電気は通っていたし、家電もあった。
ターシャは別に時代に抵抗していたのではなく、ただ自分の好きな暮らし方で自由に暮らしていただけなのだと思う。時代の傾向というものを基準に見てはいないのだから、抵抗ではないだろう。

味噌をどこの家庭でも作っていた時代は、もうかなり昔だろうか。
私はそんな手触りのある暮らしが好きだ。「暮らし」=「いのち」なのだから....

----------------------------
余談:
「水に浸して吸水させる」
これは北海道弁では「うるかす」という。
「うるかす」を使うのは、米、豆、昆布などで、ただ水に浸すのではなく、吸水してふっくらした状態にすることを指す。
 
posted by Sachiko at 22:37 | Comment(4) | 暮らし