2022年01月16日

短い静けさの日々

古いテレビがついに壊れた。
地デジに移行する前に、地デジ対応のテレビを買っておこうということで買ったもので、10数年経っているはずだ。

私は今度テレビが壊れたらもう買わないつもりだった。

「テレビがないと時間がゆっくり過ぎるね」と言ったら、
「そんなことはない!」と、我が家のテレビ中毒の輩が禁断症状を起こしたので、結局買ってしまった(>_<)。

全くテレビの音がしない静けさがあったのは、三日間だけだった。
確かに空気が違ったと思う。柔らかく、空間が大きくなっていた。
テレビの音にかき消されていた、家の息遣いが感じられる気がした。

またテレビが来て、設定を終えて試しにつけてみた時に流れていたCMソングが、その後しばらく頭の中をグルグルしていた。こういう現象をディラン効果とかいうそうな。
テレビの策略として、CMソングというのは頭に残りやすく作られている。

昔何かの本に書かれていた「黙っていてもうるさい人というのがいる」という一文を思い出した。
テレビはまさにそれだな、と思う。ついていない時でもうるさい。


テレビのない時代は、人は否応なしに静けさと共存しなければならなかった。
古い歌の一節にこんなのがある。

〜ふるさとの冬はさみしい
 せめてラジオ聞かせたい〜

昔の田舎の冬の静けさは、時に耐えがたいほどだっただろうか。
(田舎の親戚の家には、なぜかどこも大画面のテレビがある。)
現代人の静けさへの耐性の無さは、昔の比ではなさそうだ。

こうして私のテレビなしの暮らしは、またおあずけになった。
新しいテレビは、あと10年くらいは持つだろうな....
   
posted by Sachiko at 21:53 | Comment(2) | 暮らし
2021年10月11日

星々の動きと日々の暮らし

私は占星術には疎いし、日頃あまり気にしているわけではないのだけれど、8月以降6つの惑星が逆行していたそうだ。
逆行と言っても、地球から見た時の動きがそう見えるだけだが。

少し前に冥王星、今日で土星の逆行が終わり、次いで木星、水星、天王星の逆行が終わる。
水星逆行の話はよく聞く。情報やコミュニケーショントラブルが起きやすいという。

もっとも私は日頃からなぜか通信トラブルは多い。
メールや郵便物の未着のほか、ネットの買い物で注文とは違う品(色柄や数量など)が届き、ショップに連絡して交換してもらったことも一度や二度ではない。

ある人が、日常の中で繰り返される小さなパターンは、些細ではあるがそれもカルマの現れなのだと言った。
そんなことも星と関係があるのだろうか?


これも些細なカルマだったのかもしれないけれど、昔はよく、街を歩くと必ず人に道を聞かれるということがあった(今はほとんどなくなった)。

そういう人はけっこう多いらしく、友人にも一人いて、旅先でも道を聞かれると言っていた。
周りに人はたくさん歩いているのに、なぜ...?と。

私も外国ですら道を聞かれたことが二度ある。
あるイベント会場から出ると外にフェンスが並んでいて(出口への誘導のためだったのかもしれない)、出口はどこかな...と思っていたら、近くを歩いていたおじさんから「出口はどこかね?」と聞かれた。

周りにはたくさん地元民が歩いているじゃないか!なぜよりによって明らかに外国人とわかる私に聞くんだ?と、まぁ奇妙なこともあった。
丸顔で害のなさそうな人が聞かれやすいとかいろいろな説があるらしいが、実際のところはわからない。


ここ二、三日は、西空で三日月と金星が近くに見えていた。
この組み合わせはほんとうに美しい。

人間は星々のあいだを通って地上に降りてくる。
ミクロとマクロ、日常の些事と壮大な星の世界が不思議な仕方でつながりあっているとしても不思議ではない。
  
むしろ星々とともに暮らしているという感覚があったなら、地上に埋没することなく、世界を違った目で見られる気がする。
   
posted by Sachiko at 21:48 | Comment(0) | 暮らし
2021年04月27日

マソム

どこかで、ちょっとしたものを貰うことがある。
旅のお土産に、または何かの折に....
棚の上に、いつの間にかそうしたこまごました物が増えている。
小さなクリスタル、キャンドル、カード...etc.

物としての価値だけを見ようとすると見えなくなるものがある。
何かちいさなものを渡したり受けとったり、そのあいだにある機微は目に見えないので、目に見える小さな何かの上に乗っている。

古いものはやがて壊れたり、失くなってしまったものもある。
それらは人間関係の移り変わりも映していて、何らかの微かな感情を呼び起こす。


ふとマソムという言葉を思い出した。
『指輪物語』の最初のほうで、ホビット文化の話として出てくる。

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・・・ホビットたちは、今すぐ使うあてはないけれど、捨ててしまう気にはなれないものを、何でもマソムと呼んでいたからである。
かれらの住居はともするとマソムであふれんばかりになり、次から次へと回される贈り物の多くは、つまりマソムの類だった。

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結婚式の引き出物などはある意味マソムの代表格かもしれない。
特に役には立たないことが多いけれど(私もけっこうバザーに出した^^;)、かと言って省略されるとつまらなく感じたりする。

「あなたを通して回るエネルギーの流れを断ち切らないでください」と、誰かの言葉にあった。

マソムが回っているのは幸せなときだ。
それよりも一握りの米を!と言わなければならなくなったら非常時なのだ。

ホビット庄のことが出てきたがファンタジーのカテゴリに入れるほどの話でもないので、「暮らし」に入れておこう。
なんだかこの記事自体もマソムっぽくなった。
  
posted by Sachiko at 22:50 | Comment(2) | 暮らし
2021年03月11日

なんでもない日々の暮らし

このブログでも何度も書いているけれど、暮らしはいのちのいとなみであり、芸術の域に達することができる。
あのターシャ・テューダーはまさにその域にあった。

シュタイナーも、フィンドホーンの創設者アイリーン・キャディも、日常生活をとても大切にしていた。

近年、暮らしはまるで取るに足らない雑用扱いされたりしている。もっと簡単、もっと時短!
何でもそうだが、そのように扱えば、そのような姿にしか見えなくなるだろう。

けれど別様の扱いをすれば、別の次元が見えてくる。
「皿洗いだろうがゴミ出しだろうが、神聖な仕事にすることができる」と、昔誰かが言っていたっけ...

かつて庶民の日常がもっとつつましく、過酷なことも多かった時代には、“ハレ”と“ケ”の境界がはっきりしていた。
地味な日常と、特別な祝祭“ハレ”と。

その何でもない日常が、突然失われることもある。

そうして、些細な日々の暮らしの一片が、いとおしい祝祭だったと気づかされたりする。
暮らしはいのちのいとなみだから、どの瞬間も、祝されていないはずはなかった。

3.11から10年.....
   
posted by Sachiko at 22:29 | Comment(2) | 暮らし
2020年08月09日

グースベリーのパイ

グースベリーのコンポートを、ごくシンプルなパイクラストにのせて、クランブルをかけて焼いたパイ。

goosepie.jpg

いかにもイギリス菓子らしい、手間のかからないシンプルさ。
クランブルは、小麦粉と砂糖と冷やしたバターを混ぜてそぼろ状にしたもので、同じものをドイツではシュトロイゼルという。

多めに作って冷凍しておき、リンゴやサクランボやプルーンなどの果物にかけてオーブンで焼くだけでもいい。
季節ごとに庭で採れる果実で作る、素朴な家庭菓子だ。

パティシエが作るおしゃれなケーキのような見栄えとは程遠い地味さだけれど、飽きの来ないおいしさは、ふだんの暮らしに溶け込んでいる。

夏を感じる、鋭い棘と鋭い酸味のグースベリー、冷蔵庫で保存すると追熟して赤くなる。これはジャムにしよう。

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posted by Sachiko at 22:10 | Comment(2) | 暮らし