2020年07月26日

杏の夏

隣家の杏の木が、今年はたくさんの実をつけた。
隣のおばあちゃんが「採っていいよ」と言ってくれたので、大きめの入れ物を持って採りに行った。

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幼い頃、近所にあった杏の木の下で、KちゃんとJちゃん兄妹と毎日のように遊んだ。杏の木はとても大きく見えていた。

この二人とは、既成の遊びではない創造的な遊びができた。
「ここは海だ!」と言うと、すかさず「よし、船を出そう!」と言ってくれるのだ。そして即興劇はよどみなく続く。

春にはほんのりしたピンクの花びらが地面を覆い、風に舞ってあちこちの道路の縁に吹き溜まっていた。

夏には実をつけたが、実はほとんど虫食いだったらしい。アブラゼミがよくこの木で鳴いていて、抜け殻も見つかった。

秋、掃き集めて積まれていた落ち葉の山を、私たちはまた崩して木の下に敷き詰めた。
金色のじゅうたんの上で、この季節だけの特別な遊びがあった。

その後しばらくして彼らは引っ越して行った。そう遠くではなかったのだが、会うことはなくなった。

ある時、親の用事に伴って二人が来ると言うので、近所の他の子どもたちも集まった。
久しぶりに、以前みんなでよく遊んだ遊びをしようとKちゃんが提案した。

中学生になったKちゃんは、もう子どもの声ではなかった。
6年生の私は、古い子どもの遊びを小さい時のようには楽しみきれず、大きくなった子どもたちが走り回っているようすが、どこか幻影のように見えた。

二人にはそれきり会っていない。
子ども時代の最後の夏、杏の木はまだそこにあった。

周りの家とともに木が切り倒されたのがいつだったのかは知らない。
そのあたりはマンションが建ち並び、今は面影のかけらも残っていない。

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杏はジャムとコンポートになった。
杏のお菓子を作って隣に持っていこうか。
おばあちゃんが「採っていいよ」と言ったことを忘れていなければいいけれど....

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posted by Sachiko at 22:46 | Comment(2) | 暮らし
2020年07月14日

ベリーの夏

向こう一週間ほど、夏らしい晴天が続きそうだ。
北の夏は本来、熱よりも光のエレメントが強い。
そして今年もベリー類は豊作で、ブラックカラントが1kgほど採れた。

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ラズベリーも熟して食べ頃になっているが、グースベリーはまだ少し未熟だ。
少しのベリー類と野草ときれいな湧き水で生きていけたらいいだろうな、と思う。

人間はほんとうに、そんなに“食べる”必要があるのだろうか。
以前ある人にそう言ったら、「何が楽しみで生きているのか?」と言われた....

ここ数年、つきあいで必要な場合以外、昼食というものを食べなくなった。お茶を一杯飲めば十分だ。(痩せないのはなぜだ...)

不食の人たちが言うには、不食に向いているかどうかは、満腹感よりも軽い空腹感のほうを快と感じるかどうかでわかるという。それなら、私はたぶん向いている。

寒冷地体質の私は、南方系のフルーツが体に合わない。
パパイヤ、マンゴーなどの本格的なトロピカルフルーツだけでなく、普通にあるバナナやキウイ、柿さえも、味覚としてはまあおいしいのだけれど、どうも体が喜んでいない。

北方に自生するベリー類は、涼しく透きとおったオーラをまとっている。
夏の光に舞うベリーの精たちの存在が感じられる気がする。
  
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(0) | 暮らし
2020年07月04日

“夏のしあわせ”

いつからか、“夏のしあわせ”と呼んでいる、さくらんぼのクラフティ。

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7月上旬の晴れた昼下がりにこのお菓子を作れたら、この夏も幸せなのだ。

でもここ数年は、どこか薄氷を踏むような感覚がよぎっていた。
さくらんぼのクラフティを作れない夏があるとしたら、世界レベルで何かが起こっている時かもしれない、と。

2020年は世界的に何か起こっていたが、ともかくもさくらんぼは実っていて、お菓子を作ることができた。

さくらんぼの品種では、私は、粒が大きめで真っ赤に色づく「水門」が好きだ。水門は北海道で誕生した品種で、他の地方ではほとんど出回っていないらしい。

今回使った山形産のさくらんぼは、品種名は書いていなかった。たぶん佐藤錦だと思うけれど、小さめだったからか、近くの八百屋さんで格安で売られていた。

世界的な騒動によって、仕事に追われるよりも、もっと暮らしを大切にしたいと考える人が増えてきたらしい。
世界はもう、そのように方向転換していいのだ。

暮らしは芸術だ。季節を感じ、自然を感じて、夏には幸せにさくらんぼのお菓子を食べよう。
   
posted by Sachiko at 22:20 | Comment(2) | 暮らし
2020年06月03日

野菜の種まき

ブログもたくさん書いていると以前に何を書いたか忘れてしまっている。この話は書いたことがあったかどうか....
よくいろいろなところで引き合いに出される、フランチェスコ伝説のひとつ。

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聖フランチェスコが庭にニンジンの種を蒔いていると、旅人が来てこう言った。

旅 人:「フランチェスコさま、もしも来週世界が滅びて、そのニンジンを食べられないとしたらどうなさいますか」

フランチェスコ:「このまま種をまき続けるさ」
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ニンジンは種まきから収穫まで3か月以上かかる。
私はミニサイズのニンジンをプランターで栽培したことがあるが、あまりうまくできずにやめてしまった。

ホームセンターでは春先から野菜苗が売り出されていて、種まきをする必要もないのだけれど、種から育てるという手間のかかることに妙に惹かれてしまうのだ。

今年はすでに15種類の野菜の種を蒔いて、プランターや、花のあいだの小さなスペースに苗を入り込ませている。
たくさん収穫する必要はない、キャベツなら1、2個でもいいのだ。(それならスーパーで買えば種代より安上りなのに....)

あえて面倒な種まきをするのは、そのプロセスの中に、野菜がただの食材ではなく、より大きな宇宙的なものになる何かがあるからだ。
その目に見えない“何ものか”の空気感は、育つ植物の周りを喜ばしく取りまいている

小さな種の中には、野菜の完成形がすでにある。
数か月先の未来がここに存在するのだから、来週世界は滅びない。
  
posted by Sachiko at 22:31 | Comment(2) | 暮らし
2020年05月19日

日常の小さな不思議

とても些細なことだけれど、不思議な出来事があった。

昨日、お気に入りのティーカップのひとつにヒビが入っているのを発見....

仕方がない。使っていないマグカップがあったのを思い出し、それを使うことにした。が....しまってあったはずの場所にはない。
どこに置いたっけ?そのあたりを何度も探したが見つからない。

しばらく経った後、まったく何も考えずボーッとしながらある場所まで歩き、ボーっとしたまま扉を開け、なぜか見やすい手前側ではなくいきなり奥の暗がりを見た。
そこに、マグカップの箱があった。

なぜここに?その場所に入れた記憶が全くない。
「そうだ、ここを探してみよう!」という意図も持たず、なぜそこに歩いていったのかもわからない。

表層の意図が外れたところに、何ものかの作用がはたらく。
小さな日々の暮らしの中にも、何やら深淵に至りそうなことが転がっているものだ。
  
posted by Sachiko at 21:41 | Comment(2) | 暮らし