2022年08月16日

「この本をかくして」

「この本をかくして」
(マーガレット・ワイルド文/フレヤ・ブラックウッド絵)

以前紹介した「図書館にいたユニコーン」という物語と少し似ている。
戦争で図書館に爆弾が落ちて・・・

konohon.jpg

図書館の本はみんな木端微塵になり、ピーターのお父さんが借りていた一冊だけが残った。
敵軍がやってきてみんなに町から出て行くよう命令したとき、お父さんは鉄の箱に本を入れた。

「ぼくらにつながる、むかしの人たちの話が、ここにかいてある。
おばあさんのおばあさんのこと、おじいさんのおじいさんのまえのことまでわかるんだ。
ぼくらがどこからきたか、それは金や銀より、もちろん宝石よりもだいじだ。」

人々は町から追い出され、みんなの家には火が放たれた。みんなは何週間も歩き続けた。ある夜、お父さんはピーターに宝物を託し、夜が明けるころに息が止まった。

みんなはお墓を掘り、ピーターには鉄の箱を持って行くのをあきらめるように言った。まだ長い旅が続くのだ。

ピーターは山を越える手前の村で、大きな木の下に宝物を埋めた。ここに爆弾が落とされることはないだろう。

ピーターは山を越えて、港から船に乗って海も超えた。
新しい国で、ピーターは青年になった。

戦争が終わって、ピーターは再び海を越え、あの村まで行き、大きな木の下にいた女の子に話しかけた。

「ここに宝物がうまってるはずだよ」

女の子は地面を掘るのを手伝った。そうして鉄の箱の中から本が取り出された。

「ぼくらにつながるむかしの人たちのことが、ここにかいてある。
ぼくらがどこからきたか、それは金や銀よりもだいじ」

ふるさとの町の図書館は新しく建て替わっていた。
ピーターは本を図書館に持っていった.....

--------

連綿と続く人々の暮らしの中で、大切なものが継承され、文化を作る。
それまでの暮らしを奪った戦争は、少年が青年になるほどの時間続いた。

今も爆弾が落ちてくる国があり、落ちてこないまでも、大人も子供もスマホばかりいじっているうちに「目に見えない大切なもの」が破壊され続けている国もある。

本は、考えたり想像したり、共感し魂を揺さぶられたりする人間らしい力を呼び起こす。そうした人間らしいいとなみが文化であり、破壊者たちにとっては都合の悪いものなのだ。
爆弾とは別の方法で、人間らしい力は今も巧妙に奪い取られている。

-----
戦争がほんとうに破壊するものは何か、ということについて、ここでリンクを貼っている「森へ行こう」というブログに書かれているので、その記事を紹介しておきます。
https://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/202208160000/
  
posted by Sachiko at 22:11 | Comment(2) | 絵本
2022年07月16日

「かぜは どこへいくの」

「かぜは どこへいくの」
(シャーロット・ゾロトウ作/ハワード・ノッツ絵)

これももう古典の域に近くなっている絵本。

wind.jpg


小さな男の子が楽しい一日を過ごしたあと、寝る前にお母さんにたずねる。

「どうして ひるは おしまいになって しまうの?」

「よるが はじめられるようによ。」

お母さんは答える。


ひとつのことの終わりは、別のことの始まり。

「かぜは やんだら どこへ いくの?」

「とおくへ ふいていって 
 どこかで また 木を ゆらすのよ。」


男の子は、次々とたずねる。

たんぽぽのふわふわはどこへいくの、
ずっと向こうの道の終わりはどこへいくの

雨はどこへいくの
雲はどこへいくの
落ちた葉っぱはどこへいくの

秋の終わりは、冬のはじまり。
冬の終わりは、春のはじまり。
どんなものも、次の何かへ続いていく。

「おしまいに なっちゃうものは、 なんにも ないんだね。」


「きょうは、いってしまった。
 さ、いまは ねるじかん。 そして、あした あさが きたら
 お月さまは、どこか とおいところへ いって、
 そこではよるが はじまるし、お日さまは ここへ きて
 あたらしい一日を はじめるのよ。」


まだこの世界にやってきて間もない小さな子どもには、風も、雨も、昼も、夜も、あたりまえではなく、不思議なこと。

ひとつひとつの質問に、お母さんは丁寧に答える。
お母さんは、この世界の不思議を知っているひとだ。

特別なできごとは起きないけれど、いつもそこにあるように見えるもの、大人になると気にも留めなくなるすべてのことが、しずかに尊く輝きはじめる。
どの瞬間も、ほんとうは特別なのだ、と。
   
  
posted by Sachiko at 20:49 | Comment(2) | 絵本
2022年06月07日

「わたしが 山おくに すんでいたころ」

「わたしが 山おくに すんでいたころ」(シンシア・ライラント文/ダイアン・ウッド絵)

作者がアパラチアの山奥に住んでいた子ども時代の暮らしを綴った絵本。

yamaoku.jpg

夕方、石炭の粉で真っ黒になって帰ってくるおじいちゃん。
おばあちゃんが作る温かい料理の数々。

池で泳いだ帰り道、お店に寄ってバターを買う。

井戸からバケツに何杯も水を汲み、お湯を沸かして、たらいのお風呂に入る。

夕暮れにはカエルの歌、朝は牛の鈴の音が聞こえる。

夕ごはんがすむと、ポーチのブランコに座った。
足元には犬、頭上には星、森の中でウズラが鳴いた。

--------

 わたしは 海を 見たいとは おもわなかった。

 砂漠に 行ってみたいとも おもわなかった。

 ほかの ところに 行きたいと おもったことは

 いちども なかった。

 なぜって わたしは 山おくに すんでいて、

 それだけで いつも みちたりていたから。

--------


作者は子どものころ、両親が離婚したために、4年間山奥の祖父母のもとに預けられた。電気も水道もなく、裕福ではなかったが、温かな人々に囲まれて幸せに暮らした。

これはあのターシャ・テューダーの子どもの頃の話に似ている。
ターシャは両親が離婚したために、自由で楽しい雰囲気の知人家族のところに預けられたが、あんなすばらしい体験は後にも先にもなかったと語っている。


満ち足りるために、さまざまな大道具小道具は必要ではなかった。
現代生活のように、いつも足りないと思い込まされ、欠けた思いを動機に多くの物を得ても、もっともっとと煽られるばかりで満たされることはない。

すでに満ち足りている心は、今あるもののすばらしさを余すところなく味わい、それによってまた満ち足りることができるのだろう。

作者はそのような思い出が、創作の源になっているという。
私はやはりこういう「暮らし」の息づかいを感じられる作品が好きだ。
古い写真のようなセピア色の絵も、物語に合っていて美しい。

yamaoku2.jpg
   
  
posted by Sachiko at 21:59 | Comment(2) | 絵本
2022年05月07日

「グリーングリーンの国から」

「グリーングリーンの国から」
(ケビン・クロスリー-ホランド作 / アラン・マークス絵)

greengreen.jpg


ある日、洞穴に逃げ込んだ仔羊を追っていた姉弟が、自分の国から遠く離れたところへさまよい出た。
そこで会った子供たちは顔も手足もグリーンではなく、森の鳥も野イチゴもグリーンではなかった。

言葉の通じない子どもたちに屋敷へ案内されたが、そこのお母さんもグリーンではない。
食べものも口に合わず、食べることができたのは、若者が持ってきたグリーンの豆だけ。

ふたりは家に帰ろうとしたが、帰り道は消え洞穴もなくなっていて、屋敷で過ごすほかなくなった。お母さんはふたりに彼らの言葉を教えようとした。

7日後、弟は病気になり、9日目に死んでしまった。
姉は屋敷に住み、言葉を覚えた。ガイという名の若者が毎朝グリーンの豆を持ってやってきた。

お母さんがごちそうを作ってみんなを招いた日、姉は自分のことを話しはじめる。

地面の下に在るグリーンの国から来たこと、そこでは誰もが、何もかもが、グリーン色をしていること。川の向こうの光りかがやく国では、弟が待っていること....

帰り道がみつからないまま時は流れた。
ガイは町のお祭りに少女を誘うが、グリーンの姿を見た人々は大騒ぎ。

その場から逃げ出した少女をガイが探しに来て、グリーンの国もここも、君の家は君の心の中にある、ここでいっしょに暮らしてほしいと言う。
屋敷ではみんながふたりを待っていた.....

----------

グリーンの子どもたちの話は、イギリスに古くから言い伝えられている伝説だそうだ。

12世紀のサフォーク地方の出来事を、13世紀初めにコギシャルのラルフとニューバラのウィリアムという二人の修道士が、それぞれの年代記に記録したことから今に伝えられたという。


妖精研究の第一人者であるキャサリン・ブリッグズの「イギリスの妖精」の中でもこの話に触れられている。

・・・サフォークで薄緑の肌をしたふたりの子どもが発見された。
男の子は死んでしまったが、女の子は生きのび、緑色の肌はしだいに色褪せた。

ふたりは薄明りに包まれた地下世界に住んでいて、ある日洞穴に迷い込み、太陽の光の中に出て気を失っていたところをつかまったという。
女の子は成人してから土地の男と結婚した・・・

ケルト文化では、緑色は死者の色で豆は死者の食物とされていたことから、地下の緑の国は死後の世界とも考えられる。


伝説が生まれた古い時代は、この世と異界との壁が薄く、それらは時折交じり合っていた。
近年、壁はふたたび薄くなってきているというが、一方で古い言い伝えや物語は急速に姿を消しつつある。

時代を超えて語り継がれる物語は、暮らしの伝承とともに、文化にとっての血液のようなものではないかと思う。
それは温度を持ち、文字通り人間の血肉となるのだ。
   
posted by Sachiko at 22:41 | Comment(2) | 絵本
2021年12月13日

「アンナの赤いオーバー」

「アンナの赤いオーバー」(ハリエット・ジィーフェルト 文/アニータ・ローベル 絵)

anna.jpg

この絵本の展開は、エルサ・ベスコフの「ペレのあたらしいふく」に似ている。
違っているのは時代背景で、戦争が終わった頃のことだ。
そしてこのお話は事実に基づいているらしい。


「戦争がおわったら、あたらしいオーバーを買ってあげようね」

お母さんがそう言ったのは去年の冬のことだ。
アンナのオーバーはすり切れて小さくなっている。
でも戦争が終わっても店はからっぽ、物もなくお金もない。

アンナの家にもお金はないけれど、すてきな物がいろいろある。
お母さんは、お百姓さんのところへ行って、おじいさんの金時計を羊の毛と取りかえてもらうことにした。羊の毛を刈る春まで待たなくてはいけないけれど。

春、お母さんは糸紡ぎのおばあさんに、ランプと引き換えに羊毛を紡いでくれるようにたのんだ。
夏、お母さんは森でコケモモを摘んで毛糸を赤く染めた。
そして機屋さんのところへ行き、ガーネットのネックレスと引き換えに布地を織ってくれるようにたのんだ。

次にお母さんは布地を持って仕立て屋さんに行き、ティーポットと引き換えにオーバーを縫ってくれるよう頼んだ。
そして、すてきなオーバーが出来あがった。

ふたりはオーバーを作ってくれた人たちみんなを招いてクリスマスのお祝いをすることにした。


すてきで高価な品物がたくさんあるアンナの家は、元々かなり裕福だったらしい。
でも戦争が終わった今はお金がないし、売っている店も品物もない。
(お父さんはどうしたのだろう)

日本でも戦争中は、高価な着物を持って田舎へ行き、お米などと交換したという話がある。

仕立て屋さんの一週間分の仕事に匹敵するティーポット!?と、少し驚きだけれど、誰もが大変だった時代、ひょっとしたらみんなは、可愛いアンナのために大サービスしてくれたのかもしれないとも思う。

最初のページには、壊れた町のようすが描かれている。
けれど全体の雰囲気は静かで優しい。
そしてすてきなクリスマスパーティが催される。

----

ところで、羊を飼って毛刈りをするのは無理だけれど、羊毛を紡いで染めて織って、コートを仕立ててみようと考えたことがある。
どうなったのか......羊毛はまだ羊毛のままだ(-_-;
   
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(2) | 絵本