2022年06月07日

「わたしが 山おくに すんでいたころ」

「わたしが 山おくに すんでいたころ」(シンシア・ライラント文/ダイアン・ウッド絵)

作者がアパラチアの山奥に住んでいた子ども時代の暮らしを綴った絵本。

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夕方、石炭の粉で真っ黒になって帰ってくるおじいちゃん。
おばあちゃんが作る温かい料理の数々。

池で泳いだ帰り道、お店に寄ってバターを買う。

井戸からバケツに何杯も水を汲み、お湯を沸かして、たらいのお風呂に入る。

夕暮れにはカエルの歌、朝は牛の鈴の音が聞こえる。

夕ごはんがすむと、ポーチのブランコに座った。
足元には犬、頭上には星、森の中でウズラが鳴いた。

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 わたしは 海を 見たいとは おもわなかった。

 砂漠に 行ってみたいとも おもわなかった。

 ほかの ところに 行きたいと おもったことは

 いちども なかった。

 なぜって わたしは 山おくに すんでいて、

 それだけで いつも みちたりていたから。

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作者は子どものころ、両親が離婚したために、4年間山奥の祖父母のもとに預けられた。電気も水道もなく、裕福ではなかったが、温かな人々に囲まれて幸せに暮らした。

これはあのターシャ・テューダーの子どもの頃の話に似ている。
ターシャは両親が離婚したために、自由で楽しい雰囲気の知人家族のところに預けられたが、あんなすばらしい体験は後にも先にもなかったと語っている。


満ち足りるために、さまざまな大道具小道具は必要ではなかった。
現代生活のように、いつも足りないと思い込まされ、欠けた思いを動機に多くの物を得ても、もっともっとと煽られるばかりで満たされることはない。

すでに満ち足りている心は、今あるもののすばらしさを余すところなく味わい、それによってまた満ち足りることができるのだろう。

作者はそのような思い出が、創作の源になっているという。
私はやはりこういう「暮らし」の息づかいを感じられる作品が好きだ。
古い写真のようなセピア色の絵も、物語に合っていて美しい。

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posted by Sachiko at 21:59 | Comment(2) | 絵本
2022年05月07日

「グリーングリーンの国から」

「グリーングリーンの国から」
(ケビン・クロスリー-ホランド作 / アラン・マークス絵)

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ある日、洞穴に逃げ込んだ仔羊を追っていた姉弟が、自分の国から遠く離れたところへさまよい出た。
そこで会った子供たちは顔も手足もグリーンではなく、森の鳥も野イチゴもグリーンではなかった。

言葉の通じない子どもたちに屋敷へ案内されたが、そこのお母さんもグリーンではない。
食べものも口に合わず、食べることができたのは、若者が持ってきたグリーンの豆だけ。

ふたりは家に帰ろうとしたが、帰り道は消え洞穴もなくなっていて、屋敷で過ごすほかなくなった。お母さんはふたりに彼らの言葉を教えようとした。

7日後、弟は病気になり、9日目に死んでしまった。
姉は屋敷に住み、言葉を覚えた。ガイという名の若者が毎朝グリーンの豆を持ってやってきた。

お母さんがごちそうを作ってみんなを招いた日、姉は自分のことを話しはじめる。

地面の下に在るグリーンの国から来たこと、そこでは誰もが、何もかもが、グリーン色をしていること。川の向こうの光りかがやく国では、弟が待っていること....

帰り道がみつからないまま時は流れた。
ガイは町のお祭りに少女を誘うが、グリーンの姿を見た人々は大騒ぎ。

その場から逃げ出した少女をガイが探しに来て、グリーンの国もここも、君の家は君の心の中にある、ここでいっしょに暮らしてほしいと言う。
屋敷ではみんながふたりを待っていた.....

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グリーンの子どもたちの話は、イギリスに古くから言い伝えられている伝説だそうだ。

12世紀のサフォーク地方の出来事を、13世紀初めにコギシャルのラルフとニューバラのウィリアムという二人の修道士が、それぞれの年代記に記録したことから今に伝えられたという。


妖精研究の第一人者であるキャサリン・ブリッグズの「イギリスの妖精」の中でもこの話に触れられている。

・・・サフォークで薄緑の肌をしたふたりの子どもが発見された。
男の子は死んでしまったが、女の子は生きのび、緑色の肌はしだいに色褪せた。

ふたりは薄明りに包まれた地下世界に住んでいて、ある日洞穴に迷い込み、太陽の光の中に出て気を失っていたところをつかまったという。
女の子は成人してから土地の男と結婚した・・・

ケルト文化では、緑色は死者の色で豆は死者の食物とされていたことから、地下の緑の国は死後の世界とも考えられる。


伝説が生まれた古い時代は、この世と異界との壁が薄く、それらは時折交じり合っていた。
近年、壁はふたたび薄くなってきているというが、一方で古い言い伝えや物語は急速に姿を消しつつある。

時代を超えて語り継がれる物語は、暮らしの伝承とともに、文化にとっての血液のようなものではないかと思う。
それは温度を持ち、文字通り人間の血肉となるのだ。
   
posted by Sachiko at 22:41 | Comment(2) | 絵本
2021年12月13日

「アンナの赤いオーバー」

「アンナの赤いオーバー」(ハリエット・ジィーフェルト 文/アニータ・ローベル 絵)

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この絵本の展開は、エルサ・ベスコフの「ペレのあたらしいふく」に似ている。
違っているのは時代背景で、戦争が終わった頃のことだ。
そしてこのお話は事実に基づいているらしい。


「戦争がおわったら、あたらしいオーバーを買ってあげようね」

お母さんがそう言ったのは去年の冬のことだ。
アンナのオーバーはすり切れて小さくなっている。
でも戦争が終わっても店はからっぽ、物もなくお金もない。

アンナの家にもお金はないけれど、すてきな物がいろいろある。
お母さんは、お百姓さんのところへ行って、おじいさんの金時計を羊の毛と取りかえてもらうことにした。羊の毛を刈る春まで待たなくてはいけないけれど。

春、お母さんは糸紡ぎのおばあさんに、ランプと引き換えに羊毛を紡いでくれるようにたのんだ。
夏、お母さんは森でコケモモを摘んで毛糸を赤く染めた。
そして機屋さんのところへ行き、ガーネットのネックレスと引き換えに布地を織ってくれるようにたのんだ。

次にお母さんは布地を持って仕立て屋さんに行き、ティーポットと引き換えにオーバーを縫ってくれるよう頼んだ。
そして、すてきなオーバーが出来あがった。

ふたりはオーバーを作ってくれた人たちみんなを招いてクリスマスのお祝いをすることにした。


すてきで高価な品物がたくさんあるアンナの家は、元々かなり裕福だったらしい。
でも戦争が終わった今はお金がないし、売っている店も品物もない。
(お父さんはどうしたのだろう)

日本でも戦争中は、高価な着物を持って田舎へ行き、お米などと交換したという話がある。

仕立て屋さんの一週間分の仕事に匹敵するティーポット!?と、少し驚きだけれど、誰もが大変だった時代、ひょっとしたらみんなは、可愛いアンナのために大サービスしてくれたのかもしれないとも思う。

最初のページには、壊れた町のようすが描かれている。
けれど全体の雰囲気は静かで優しい。
そしてすてきなクリスマスパーティが催される。

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ところで、羊を飼って毛刈りをするのは無理だけれど、羊毛を紡いで染めて織って、コートを仕立ててみようと考えたことがある。
どうなったのか......羊毛はまだ羊毛のままだ(-_-;
   
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(2) | 絵本
2021年11月30日

「ノーナさまのクリスマス」

「ノーナさまのクリスマス」(トミー・デ・パオラ)

「まほうつかいのノナばあさん」の続編で、「まほうつかいのノーナさま」シリーズの中の一冊。
手伝いの若者、のっぽのアンソニーもまた登場する。

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イタリアのカラブリアにある小さな町では、魔法使いのノーナさまが毎年クリスマスイブに町じゅうの人を招いてパーティをすることになっている。

手伝いのアンソニーも、次々と用事を言いつけられて大忙し。
魔法を使えばいいのに、と言うが、ノーナさまはクリスマスには魔法を使わないことになっているのだ。
クリスマスの頃には自然と、魔法がはたらくものだからね、とノーナさまは言う。

忙しく日は過ぎて、とうとうクリスマスイブの朝になり、アンソニーはまたたくさんの買い物を言いつけられた。
ノーナさまは家を飾りつけて待っていたが、アンソニーは戻ってこない。

日が沈むころ、何も持たないでアンソニーが帰ってきた。
町の広場で人形劇を見ていたアンソニーは、買い物をすっかり忘れていたという。

ノーナさまは、今夜のパーティは取りやめだと町の人たちに伝えるために、アンソニーを使いに出した。

真夜中のミサを知らせる鐘が鳴り、ノーナさまは寂しい気もちで丘を下りて教会へ行った。
中では、パーティがないことにがっかりしている人々のささやきが聞こえた。

教会の隅に飾られた生誕の人形たちを見ながら、ノーナさまはつぶやいた。
「イエスさま、あなたがお生まれになった夜は、ほんとはこんなににぎやかじゃなかった。おかあさまとおとうさまだけの、さびしいお誕生日だったのですね....」

ノーナさまは教会を出て、丘の家に帰っていった。
ドアを開けたとたん・・・・

「メリークリスマス、ノーナさま!」

そこには町じゅうの人たちが、パーティのごちそうを用意して待っていた。
アンソニーが計画したことだったのだ。
「クリスマスのころには、しぜんとまほうがはたらくものですからね」

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クリスマスの頃にはしぜんと魔法がはたらくものだから、魔法使いも魔法を使わない・・・・なんと素敵な考えだ。

賑やかなクリスマスも、静かなクリスマスも、クリスマスには魔法さえも超えた特別なちからがはたらく。
なんだかとても大きく、天と地とすべての人を包み込むようだ。

今年もアドベントに入り、この季節だけの聖夜の気分に静かに耳を澄ませば、もう魔法ははたらいている。
  
posted by Sachiko at 22:40 | Comment(0) | 絵本
2021年08月20日

「まほうつかいのノナばあさん」

「まほうつかいのノナばあさん」(文/絵 トミー・デ・パオラ)

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イタリアに古くから伝わる話をトミー・デ・パオラが再話した作品。

町の人々は、困ったことがおきるとストレガ・ノナ(“魔法使いのおばあさん”という意味)のところへ出かけていきました。

やがて年をとってきたストレガ・ノナは、家のことや畑しごとを手伝ってくれる人がほしくなりました。
やってきたのはノッポのアンソニイという若者でした。

ストレガ・ノナはアンソニイにたくさんの仕事をたのみましたが、たったひとつだけ「スパゲッティをゆでるかまには、けっしてさわってはいけないよ」と言い聞かせました。

ある日アンソニイは、ストレガ・ノナがかまのそばでおまじないの歌を歌うとかまがスパゲッティでいっぱいになるのを見てびっくり仰天。
あくる日町へでかけて、魔法のかまのことをしゃべりまくりましたが、だれも信じてくれません。

ストレガ・ノナが出かけた日、アンソニイがかまに向かっておまじないの歌を歌うと、かまはスパゲッティでいっぱいになりました。
アンソニイは町じゅうの人にスパゲッティをふるまいましたが、かまのスパゲッティはあふれるばかり。

町がスパゲッティの洪水になったとき、ストレガ・ノナが帰ってきて歌を歌い、かまにおまじないをキスをすると、やっとスパゲッティはとまりました......


このお話は、グリム童話の「おいしいおかゆ」によく似ている。
母親とふたり暮らしの貧しい少女が、森で知らないおばあさんから鍋をもらう。

「おなべや、ぐつぐつ!」と言うと、鍋はおかゆを作り、「おなべや、おしまい!」と言うとやめる。

ある日少女の留守に母親が「「おなべや、ぐつぐつ!」と言っておかゆを作るが、おなかいっぱいになっても鍋を止める言葉がわからず、おかゆが道にあふれだしたところで少女が帰ってくる...というお話だ。

この他にも多くの昔話が、少しずつ形を変えて、ヨーロッパ全域に広まっていたのだろう。
例えばイギリスの昔話「トム・ティット・トット」は、名前が違うだけで中身はグリムの「ルンペルシュティルツヒェン」とほぼ同じだ。


魔法の呪文が出てくる話は多い。「ことば」や「名前」というものは、古い時代にさかのぼるほど、それ自体が呪術的な力を持つものだった。

語り伝えられてきた古い物語には、まだことばが魔法を帯びていた時代のかすかな残照が感じられる気がする。
  
posted by Sachiko at 22:10 | Comment(4) | 絵本