2021年12月09日

レンバス

「指輪物語」で、旅の仲間の一行がロリエン(新版ではロリアン)を出発する時、エルフたちが旅に必要な贈り物を持ってやって来る。

食べものは、薄い焼き菓子のかたちをしていて、葉っぱに包んだまま割らないようにしておけば何日もおいしさがかわらず、ひとつ食べれば一日たっぷり歩けるほどの滋養がある。

これがエルフの行糧レンバスで、この旅においては非常食でもあった。

そして実際、モルドールへ向かう途中のフロドとサムにとって、残っている食料はこのレンバスだけになる。

ゴクリ(ゴラム)が二人の後をつけていた。
フロドは過去にガンダルフと話したことを思い出す。

「ゴクリは死んだっていいやつです。」と言うフロドに、ガンダルフは言った。

「・・あんたは死者に命を与えられるか?もしできないのなら、正義の名においてそうせっかちに死の判定を下すものではない。
・・・すぐれた賢者ですら、末の末までは見通せぬものじゃからなあ。」

フロドはゴクリに情けをかけた。モルドールへの案内人にするつもりなのだ。
そして飢えたゴクリにレンバスを与えようとするが、ゴクリはレンバスを包んである葉っぱを「いやなにおいのする葉っぱだ」と嫌悪する。
レンバスを少しかじってみるが、それを埃と灰のように感じて食べることができない。


この様子はまるで、「ナルニア国ものがたり」の、うまやに閉じ込められた小人たちのようだ。

すばらしくおいしいレンバスも、いい香りのする葉っぱも、ゴクリにはそのとおりのものとして感じることができない。
サムがエルフの綱でゴクリを縛ったときも、ゆるく縛ってあるにもかかわらず、ゴクリは綱そのものをひどく痛がった。

エルフのことも、「明るい目をした恐ろしいエルフ」と呼ぶ。
ゴクリには太陽の光も月の光も恐ろしい。
善なるもの美しいものは、耐えがたく不快で恐ろしいのだ。

何かで読んだ天使体験談の中に、こんな話があった。
ある男が天使に向かって、いちど姿を見せてくれるように頼む。
すると、そこには耐えがたいほど強い光があらわれ、彼は怖ろしさのあまり「やめてくれ!」と叫ぶと、光は徐々に弱くなった。

その存在が受け入れることのできる範囲を超えたものは、そのように見えるとすれば、今地上で人間をやっている存在には、人間として耐えられる範囲のものだけが用意されているのだろう。

何を居心地よく感じるかには個人差が大きいだろう。
けれどこんな話も聞いたことがある。

人間の中で最も優れた者と、最も劣悪な者とのあいだには、宇宙的に見ればほとんど差がない。
つまり『人間』という存在自体が、宇宙から見るとそれほどすばらしいのだ、と。

それを人間が心底自覚出来たら、と思う。
   
posted by Sachiko at 22:39 | Comment(2) | ファンタジー
2021年12月05日

光が見えない小人たち

ナルニア国ものがたり「さいごの戦い」の中で、一同はカロールメンの兵士たちによってうまやに放り込まれる。その中には小人たちもいた。

ところが、ある声が響きわたるとともに、恐ろしいものは消えうせた。
そして、そこにはナルニアの七人の王たちと女王たちがいた。
今や一同はうまやではなく、青空の広がる草の上に立っていた。

小人たちはぴったりくっついて坐りこんでいた。
彼らは、ここは真っ暗闇で何も見えないという。まだうまやの穴の中にいるつもりなのだ。

「まわりを見て!空や木々や花々が見えないの?」

そう言ってルーシィはいい香りの野スミレを差し出すが、小人たちにはうまやの藁束を突きつけられたようにしか思えない。
ここが暗い穴ではないことも、うそだと言い張り信じようとしないのだ。

ルーシィはアスランに、小人たちに何かしてあげることはできないかとお願いする。
アスランは、「わたしにできることとできないことを、ふたつながら見せてあげよう」と言った。

小人たちの前にすばらしいごちそうの山が現われたが、彼らにはそれが干し草や古くなったカブにしか見えず、上等のブドウ酒も、かいば桶のよごれた水としか思えない。


アスランはこう言った。
「・・・小人たちのとじこめられているところは、ただ小人たちの心の中だけだが、そこにいまだに閉じこもっている。また、だまされるのをおそれているから、助けだされることもない。こもっているから、抜けだせないのだ。」

ナルニアの王や女王たちと同じすばらしい場所にいるにもかかわらず、小人たちには青空も緑の草もスミレの香りも感じることができない。

これもまた人間のひとつの在りようにも似て、物理的に同じ場所を共有していたとしても、それをまったく違ったふうに感じる時、それぞれは自分の心の中の世界を体験している。

「あたらしきナルニア」は天国のようにに見えるけれど、天国も地獄も、そういう“場所”があるわけでなく、可視光線のように波長の違いなのだ。
自分の中に同じ波長のものがなければ、知覚することなく通り過ぎてしまうか、馴染みのない異質なものとして感じるのだという。

うまやの小人たちに似た話は「指輪物語」の中にもある。
それはまた次回に。
   
posted by Sachiko at 22:12 | Comment(2) | ファンタジー
2021年11月22日

天上の果実

『指輪物語』の最初のほう、フロドとサムとピピンがホビット庄から旅立ったばかりの頃、エルフの一行と出会う。

森の中で、エルフたちに言わせれば簡素な、ホビットたちにとっては誕生日のごちそうにも勝るもてなしに、彼らは心奪われる。

 餓える者が白く美しい一山のパンに味わうおいしさよりも
 はるかに勝る風味を持ったパン
 手入れのよい果樹園出来のものよりも味のよい果物
 
サムは言う。
「おらにこんなりんごが育てられたら、おらも自分を庭師と呼びますだ。」


りんごの話といえば、『銀河鉄道の夜』では、列車の中でジョバンニたちが灯台看守からりっぱなりんごをもらう。

「・・・あなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。りんごだってお菓子だって、かすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。」

むいたりんごの皮は、コルク抜きのような形になって床へ落ちるまでの間に灰色に光って蒸発してしまう。


もうひとつ、“ほんとうのナルニア”にある木の実の話。

・・・とれたてのグレープフルーツでも、これにくらべれば味がなく、いちばん汁気のあるオレンジでもかすかす、舌の上でとけるくらいの洋ナシもまだかたくて、すじっぽいといえるし、どれほどあまい野イチゴにせよ、これにくらべたらすっぱいと思われました。


どの物語でも、天上の食物の描写はよく似ている。
天上の果実の輝く美しさ、香り、風味を想像することができるのは、
どこか深い深いところにある思い出の中で、それを知っているからだ。

地上の存在は、花も果実も人間も、天上のそれから見ると影のような写しなのだろう。

天の果実の香りを思い出すことは、地上を影のようにさまよっている現代の人間にとって、自分の出自を思い出すための微かな導きの糸にならないだろうか。
  
posted by Sachiko at 22:25 | Comment(0) | ファンタジー
2021年05月22日

ワードローブの扉

〈ルーシィはそのさきのたんすのうしろがわに、おでこをぶつけないように、手をのばしておきました。
・・・
きっと指さきが、うしろの板じきりにさわる、と思ったのですが.....さわりませんでした。〉


ナルニアへ続くあのワードローブの扉は、どこでもドアではない。
どこでもドアはいつでも使えるが(ドラえもんがそれを出してくれさえすれば)、ナルニアへの通路はいつもそこにあるとは限らない。
戻ってきたルーシィがきょうだいたちを連れて行こうとしたときのように、ワードローブの背板にぶつかるだけのこともある。

ナルニアへの道は、ワードローブだけではなかった。
ある時は部屋の壁にかかった絵だったり、鉄道駅のホームだったりした。

他のファンタジー同様、“ちょうどいいときに”通路は開くのだ。


私が『ナルニア国ものがたり』を最初に読んだのは高校生のときで、こんなすごい物語があったのか!とかなり興奮して読んだのだが、その時はやはり、邪神を信じる砂漠の向こうの国カロールメンの描写が、あからさまにイスラム圏を連想させることが引っかかった。

もし小学生の時に読んでいたら、そんなことは全く考えなかっただろう。物語は、それを読む年代によって、また時代によって、見え方が違ってくるものだ。


かつてナルニアの女王にまでなったスーザンが、後に“ファンタージエンに行けない人”になってしまったことも幾らか腑に落ちないけれど、人はある時期そういうこともある。

人生の半ばは、人間が最も下降して地上的になる時期だという。
スーザンのように口紅やパーティのことではなくても、仕事や教育費やローンやあれやこれや。ファンタージエンからは遥か遠いところにいる。

ナルニアファミリーが全員そろって「新しきナルニア」に行ってめでたしめでたし...ではないことで、むしろ物語は深くなっているのかもしれない。
そうすると、取り残されたスーザンはある役割を担っているようにも見える。


人生の不思議な転機というものは、どこかワードローブの扉に似ている。
それは思いがけないときに不意に開くが、ほとんどの場合、期待したり計画や計算をしない時に、見えない何かの采配によって訪れる。

まさに“ちょうどいいときに”、何の変哲もない場所が、線路のポイントが切り替わるように別の現実へ動いて行ったりするのだ。
だとすれば、地上の人生それ自体も、壮大なファンタジーの法則に沿っているのだろう。
  
posted by Sachiko at 22:43 | Comment(2) | ファンタジー
2021年05月13日

イスカールナリ

ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」より。

これはバスチアンが「変わる家」にたどり着くひとつ前のエピソード。

混乱した「元帝王たちの都」からようやく抜け出し、長い孤独な旅を続けたバスチアンの心に、仲間がほしい、仲間に入れてもらいたい、という新たな望みが生まれた。
そうして着いたところは、霧の海の中にあるイスカールという小さな町だった。

イスカールの人々はけっしてひとりでいることがなく、常にグループになっていて、「イスカールナリ」(いっしょ人)と呼ばれていた。
彼らは思いの力を完全に一致させることで多くのことを動かしていた。

バスチアンはしだいに自分の思いが他の人々の思いと溶けあって一つの力になっていくのを感じ、共同体の一員になったことを実感した。
だがやがて、深いところで別の望みが動きはじめ、それが明らかになる出来事が起きた。

一羽の大霧がらすが現われ、船の上からひとりの男を掴み去ったが、他の人々は悲しみも嘆きもせず、何事もなかったように旅を続けた。
ここではみなそっくり同じで、かけがえのない個人はいないのだった。

バスチアンは、バスチアンというひとりの個人として、欠点もすべて含めて、あるがままに愛されたかった。
イスカールナリには和合はあったが、愛はなかった。

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意見の不一致も対立も起こらず、穏やかで完全に調和したイスカールナリの話は、あとでじわりと怖くなる。

みんな同じで完全一致という共同体を理想とするような力がはたらくことは常にある。
ある種のカルト的集団で、またはもっと大きな規模で、あるいは当たり前の顔をして日常の中に。

こんな話がある。
東洋の文化では、他者や自然界の存在に対して帰依の態度をとるため、対象と自分とがひとつになり、個としての自我の感覚が薄くなる。
それで、集団の中で皆といることに安らぎを感じるようになる。

一方で逆に、大勢の中で集団的な行動をとることを苦しく感じ、皆が右を向いているときにひとりだけ左を向きたくなるような人は、ヨーロッパ的な感性の持ち主である、と。
(高橋巌『千年紀末の神秘学』より)

これは、どちらが良い悪いということではなく、人間の魂はこのふたつの側面を持っている。


宇宙規模での太古の社会は、蟻や蜜蜂のような集合的な叡智によって形成されていたという。
それから気の遠くなるような宇宙時間を経て、人類は「かけがえのないこの私」という自我意識の発達の端緒についたのだ。

効率的なシステム社会なら、蟻や蜂やAIでも作れる。
では“人間であること”は、どこへ向かうのか。

人間は新しいものを創造し、失敗を重ね、狂気の淵を歩き、回り道をし、また別の望みを見出す。バスチアンの旅のように。

バスチアンにとっては、変わる家で見出した「最後の望み」が導きの糸になった。
生命の水の涌きでる泉へ.....この物語は人類史の縮図のようでもある。
  
posted by Sachiko at 21:24 | Comment(4) | ファンタジー