2020年03月06日

「トランキラ・トランペルトロイ」

「トランキラ・トランペルトロイ」(ミヒャエル・エンデ)

この物語は「魔法の学校」という短編集に収録されていて、単独で何度か絵本にもなっている。


・・・かめのトランキラ・トランペルトロイは、動物たちの王さま、レオ二十八世の結婚式に、動物たちはみんな招待されているという話を聞きました。

「わたしも行くわ」
トランキラは一歩一歩、ゆっくりと歩きはじめました。

途中、クモやカタツムリが、披露宴までもう日にちがないのだから、行けるはずがない、あきらめなさい、と言いました。
でもトランキラはやさしく言いました。
「わたしの気持ちは、かわらないわ」
そしてまた何日も歩き続けました。

トカゲが言いました。
「まにあうはずがない!結婚式は取りやめになった。レオ二十八世は、戦争におでましになった」
「わたしの気持ちは、かわらないんですもの」
そう言ってかめはまた何日も何日も歩き続けました。

カラスが言いました。
「レオ二十八世はなくなられた。葬儀が終わったばかりなのだ。それでも行こうっていうのか!」

トランキラはそれからも歩き続け、やっと森に着きました。
たくさんの動物が集まって、なにかを楽しみに待っているようでした。

トランキラはたずねました。
「これから、レオ二十八世の結婚式が開かれるんじゃありませんか?」
子猿が言いました。
「きみはよっぽど遠くから来たんだね。きょうは新しいレオ二十九世の結婚式なんだよ」

すばらしい披露宴の中で、トランキラは幸せそうにすわっていました。
「ほらね、ちゃんとまにあうっていったでしょう」

-----------------

トランキラは、我を張り通したというわけではない。
「わたしの気持ちはかわらないわ」と、いつもやさしく言い、ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ歩いた。

これはけっして、「一度決めたことは最後までやれ」とか「一歩一歩着実に」という、昭和のお説教みたいな次元の話ではないのだ。それとは全く別のこと.....

ところでエンデの作品には、亀が何度か出てくる。
「はてしない物語」の、太古の媼モーラや、「モモ」で、モモを時間の国に導いたカシオペイア。
カシオペイアの、「オソイホド、ハヤイ」という言葉を思いだす。

エンデは、「亀は人間の頭蓋が独立して歩いているもののように見える」と言っていた。
古代の宇宙像には、世界が巨大な亀の背中の上に成り立っている、というものがある。これは、現代人にはわからなくなった神話的ビジョンにおいて、真実の一端を表わしているのかもしれないと思う。

モーラやカシオペイアの名前が出てきたので、これはファンタジーのカテゴリに入れておこう...
  
posted by Sachiko at 21:51 | Comment(0) | ファンタジー
2020年02月28日

ロークの魔法学院

アーシュラ・K・ル=グウィン「いまファンタジーにできること」の中に、こんなエピソードがある。

-----------------

ある時期、みんながわたしにしきりにこう言っていた。すばらしい本がある。絶対読むべきだ。魔法使いの学校の話で、すごく独創的だ。こういうのは今までになかった、と。

初めてその言葉を聞いた時は、白状すると、わたし自身が書いた『影との戦い』を読めと言われているのだと思った。この本には魔法使いの学校のことが出てくる。そして、1969年の刊行以来、版を重ねている。

だがそれはおめでたい勘違いで、ハリーについての話を延々と聞かされる羽目になった。

-----------------

ル=グウィンは、ハリーの本を新しくて独創的だと讃えた批評家たちに対して「彼らはこれまでファンタジーを読んでいないか、読み方を知らない」と辛口だ。

私はハリーの本を読んでいないので、あまり何も言えない。
映画のほうは、テレビで繰り返し放映されたのをその度に見たはずなのだが....シリーズの1作目以外はほとんど憶えていない。
(途中で何が何だか、誰と誰が何のために戦っているのかわからなくなってしまったのだ。それに登場人物の長くて聞き慣れない名前を覚えられなかった...)


なので、ホグワーツではなくローク島にある魔法学院のことを書こうと思う。ゲド戦記シリーズの1巻『影との戦い』には、魔法使いを育てる学院が出てくる。
ゲドが学院の門をくぐるには、自らの「真(まこと)の名」を告げなければならなかった。

ゲド戦記の魔法について、敢えてひとことで言えば、私にとっては「腑に落ちる」ということだった。
そこでの魔法は単に、杖を振って呪文を唱えれば何かが起こったり、呪文を間違えるとおかしな結果になる、というだけではない。

「名」そして「言葉」、これらがその本質においてどれほどの力を持っているか、その根源がどこから来ているのか、ということが腑に落ちる形で描かれているからだ。

例えば魔法の術を使って石ころを宝石に見せかけることはできるが、本当の宝石にするためには、それが持っている真の名を変えなければならない。
だがそれは、宇宙そのものを変えて、宇宙の均衡を揺るがすことになる....

魔法修行にも華々しいところはなく、ひたすら“太古の言葉”に由来する、さまざまなものの「真の名」を知っていく。その作業にはきりがなかった。

事物の背後にある揺るがない真実、それがそれ自身であるところの「真の名」、宇宙の均衡....
これらはアースシーというファンタジー世界の姿を借りているが、現実のこの世界の真実そのものに見える。

人類が宇宙の均衡さえも揺るがしかけているこの時代、多くの人が、自分自身の「真の名」を見失い、それを探しあぐねてもがいているのではないか、と思えてくる。
   
posted by Sachiko at 21:49 | Comment(2) | ファンタジー
2020年02月24日

「名前の掟」

「名前の掟」(アーシュラ・K・ル=グウィン)

この短編は、のちの長編「ゲド戦記」の数年前に書かれた、いわば胚芽的な作品とされている。

-----------------

ミスタ・アンダーヒルは、サティンズ島でただ一人の魔法使いだが、魔法の腕はたいしたことはない。

学校では若く美しい先生が「名前の掟」について話していた。
掟はふたつあった。

「ひとに名前を聞いてはならない」
「自分の名前をひとに言ってはならない」

子どもたちが学校を卒業すると、子どもの名前は捨ててほんとうの名前だけを守っていく。
それは尋ねてもならないし言ってもならない。まことの名を口にすれば、そのものを操ることになるからだ。

ある日よその若者が舟で島にやってきた。みんなはすぐに黒ひげという名前をつけてやった。
黒ひげは漁師に、魔法使いのところへ案内してくれるよう頼み、ひとつの話をした。

「多島海のまん中にあるペンダーという島に、ある日、西海から竜がやってきて領主を殺した。人々は舟で逃げ出した。竜は財宝の上を這いまわり、近くの島を襲って若い娘を食った。
多島海の連盟は魔法使いたちとともに財宝を取り返しに向かったが、ペンダーではひとりの魔法使いが竜を打ち負かし、宝を持って逃げたあとだった」

黒ひげは魔法使いであり、ペンダーの領主の末裔で、逃げた魔法使いの居場所を突きとめて来たのだった。

ふたりの魔法使いの闘いがはじまった。そして黒ひげは、ミスタ・アンダーヒルの真の名を知っていた・・・・

-----------------

作者の前書きによれば、胚芽的な短編は、後の長編の舞台を提供してくれた、とある。
「名前の掟」の舞台は後の「ゲド戦記」の舞台となる多島海の島で、魔法使い、竜、そして名前の掟というテーマは、「ゲド戦記」シリーズへ大きく拡がっていった。

久しぶりに「ゲド戦記」の中の多島海の地図を見てみた。
「名前の掟」のサティンズ島は東側にあり、ペンダーは真ん中あたり、西海域には「竜の道」という小さな島々が描かれている。

魔法が生きている多島海の文明では、魔法使いは、あらゆるものの真の名に使われている太古のことばを知らなければならない....


この世界においても、人間が得た「言葉」というもの自体が、根源の魔法そのもののように思える。
古い時代には、言葉ははるかに注意深く扱われなければならなかっただろう。

そして「名前」は、そのもの自身を表わす。
例えばたくさんの俗称や通称を持つ植物でも、学術的な意味での真の名である学名で呼べば、一発でどの植物かがわかる。

日本語には「言霊」という言葉があるように、言葉は霊力だった。
力ある言葉がそのまま「呪文」であり得るなら、そのような文明には常に、魔法使いに相当する賢者も存在したはずだ。

魔法使いが登場するファンタジーが数多くある中、私はル=グウィンが描く魔法には説得力を感じる。この魔法の話はまた別の機会に.....

(※「名前の掟」は、「風の十二方位」というアンソロジーに収録されている。)
   
posted by Sachiko at 22:27 | Comment(0) | ファンタジー
2019年09月22日

高みの星

昨日の続きで、破壊力よりもさらに高い領域というとき、思い起こすのはこの物語だ。

『指輪物語』の中で、滅びの火の山に向かう絶望的な旅の途中、サムは白い星がひとつ雲のあいだから瞬いているのを見る。
その美しさは彼の心を打ち、望みが戻ってきた。

------

・・・結局はかの大いなる影もつかの間の些々たる一事象にすぎないのではないかという考えが、まるで透き通った冷たい一條の光のように彼を貫いたからです。
かの影の達しえぬところに光と高貴な美が永遠に存在しているのです。

------

悪というものは、理由があってこの物質次元でのみそのような姿をしているのであり、別の次元ではまた別様の在り方をしているのだという。

サムは絶望感が極みに達したときにも、最後の瞬間それを希望に転換させる。
指輪が滅びのき裂に投じられたあと、山道を下りていくフロドとサムのほうへ火山から流れる火が迫っていき、まもなくのみ込まれそうになる。
二人が倒れたとき、大鷲がやってきて彼らを運び去った。

サムが目を覚ました時、頭上にはブナの大枝が揺れ、若葉を通して陽の光が射しこみ、大気はかんばしい香りに満ちていた。


黙示録では地上世界は火で滅びることになっているが、結局はこのサムの物語のようなことなのではないか....

滅びの火の上には永遠の星があり、火の中で倒れたはずが、目を覚ましたら美しい緑の野にいるのではないか、と思うのは、希望的観測に過ぎるだろうか。
  
posted by Sachiko at 22:17 | Comment(2) | ファンタジー
2019年09月02日

道路掃除夫ベッポ

ミヒャエル・エンデ「モモ」より。

モモにはふたりの特別な友だちがいる。ひとりは若者で、もうひとりはおじいさんだ。
おじいさんの名前は、道路掃除夫ベッポ(Beppo Straßenkehrer)、道路掃除夫は職業名だが、みんなは苗字代わりにそう呼んでいる。

彼は何かきかれてもすぐには返事をしない。質問をじっくり時間をかけて考え、それから返事をするのだが、そのときには相手は自分が何をきいたか忘れてしまっているので、ベッポは頭がおかしいんじゃないかと思ってしまう。

-----------

・・・でもモモだけはいつまでもベッポの返事を待ちましたし、彼の言うことがよく理解できました。

・・・彼の考えでは、世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている、それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそのせいなのだ、というのです。

-----------

「…世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている」

このベッポの考えを、ふと思いだしたのだ。
もちろんここでいう嘘は、詐欺師のような嘘とは違う。普通の人は、あえて人を騙すために事実でないことを言うようなことはしない。

慣用的な社交辞令など、嘘をつこうとしているわけではないだろうが、真実もこもっていない言葉は「方便」と呼ばれる。
これはこれで大人社会では役に立つし、使いこなせなければいけないのだろう。

私もそれなりに使っていたが、ある時それが耐えがたくなった。
例えば興味のないことに誘われたとき、大した予定もないのに「その日はちょうど予定が入っていて...」などと言って断る方便は、不誠実だし失礼だ。興味がないことをきちんと伝えて、別の共有できることを共有すれば、何の問題もない。

ベッポが質問をじっくり考え、答えたときには、相手は何をきいたのか忘れてしまっている。
「問う」ということについて、エンデとの対談のあとがきだったか、子安美知子氏がこのようなことを言っていた。

「質問に対して、相手がその答えにかけなければならない重さをともに背負う覚悟があるとき、初めて人は、問うことが許されるのではないだろうか」

ところでモモのもうひとりの親友ジジは、ベッポとは真逆のおしゃべりな若者で、あることないこと並べたてて話を作る。
これほど違っているにもかかわらず二人は仲よしで、ジジを軽薄だと非難したことのない唯一の人がベッポで、ベッポを笑いものにしたことのないたったひとりの人がジジだった。

ベッポは言葉に真実をこめて誠実に扱おうとし、ジジは人を楽しませることのできる言葉に心底喜びを感じているのだった。

ベッポじいさんは、その言葉の扱い方のように、丁寧に仕事をする。
目の前の一歩を見て、ひと足、ひと掃き、ひと足、ひと掃き....そうして、長い道路の清掃はいつのまにか終わっている。

またある時ベッポは、世界が透きとおって時間の層が重なっているのを見た。その別の時代に、ふたりの人間がいた。
「わしには、わしらだとわかった-----おまえとわしだ。わしにはわかったんだ!」

モモはベッポの言葉をだいじに心にしまっておいた。
私はこの、モモを相手にベッポが深い静かな話をする場面が好きだ。

盗まれた時間を取り戻したあと、モモが最初に再会したのはベッポで、それはすばらしい喜びのときだった。
   
posted by Sachiko at 21:58 | Comment(2) | ファンタジー