2019年09月22日

高みの星

昨日の続きで、破壊力よりもさらに高い領域というとき、思い起こすのはこの物語だ。

『指輪物語』の中で、滅びの火の山に向かう絶望的な旅の途中、サムは白い星がひとつ雲のあいだから瞬いているのを見る。
その美しさは彼の心を打ち、望みが戻ってきた。

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・・・結局はかの大いなる影もつかの間の些々たる一事象にすぎないのではないかという考えが、まるで透き通った冷たい一條の光のように彼を貫いたからです。
かの影の達しえぬところに光と高貴な美が永遠に存在しているのです。

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悪というものは、理由があってこの物質次元でのみそのような姿をしているのであり、別の次元ではまた別様の在り方をしているのだという。

サムは絶望感が極みに達したときにも、最後の瞬間それを希望に転換させる。
指輪が滅びのき裂に投じられたあと、山道を下りていくフロドとサムのほうへ火山から流れる火が迫っていき、まもなくのみ込まれそうになる。
二人が倒れたとき、大鷲がやってきて彼らを運び去った。

サムが目を覚ました時、頭上にはブナの大枝が揺れ、若葉を通して陽の光が射しこみ、大気はかんばしい香りに満ちていた。


黙示録では地上世界は火で滅びることになっているが、結局はこのサムの物語のようなことなのではないか....

滅びの火の上には永遠の星があり、火の中で倒れたはずが、目を覚ましたら美しい緑の野にいるのではないか、と思うのは、希望的観測に過ぎるだろうか。
  
posted by Sachiko at 22:17 | Comment(2) | ファンタジー
2019年09月02日

道路掃除夫ベッポ

ミヒャエル・エンデ「モモ」より。

モモにはふたりの特別な友だちがいる。ひとりは若者で、もうひとりはおじいさんだ。
おじいさんの名前は、道路掃除夫ベッポ(Beppo Straßenkehrer)、道路掃除夫は職業名だが、みんなは苗字代わりにそう呼んでいる。

彼は何かきかれてもすぐには返事をしない。質問をじっくり時間をかけて考え、それから返事をするのだが、そのときには相手は自分が何をきいたか忘れてしまっているので、ベッポは頭がおかしいんじゃないかと思ってしまう。

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・・・でもモモだけはいつまでもベッポの返事を待ちましたし、彼の言うことがよく理解できました。

・・・彼の考えでは、世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている、それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそのせいなのだ、というのです。

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「…世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている」

このベッポの考えを、ふと思いだしたのだ。
もちろんここでいう嘘は、詐欺師のような嘘とは違う。普通の人は、あえて人を騙すために事実でないことを言うようなことはしない。

慣用的な社交辞令など、嘘をつこうとしているわけではないだろうが、真実もこもっていない言葉は「方便」と呼ばれる。
これはこれで大人社会では役に立つし、使いこなせなければいけないのだろう。

私もそれなりに使っていたが、ある時それが耐えがたくなった。
例えば興味のないことに誘われたとき、大した予定もないのに「その日はちょうど予定が入っていて...」などと言って断る方便は、不誠実だし失礼だ。興味がないことをきちんと伝えて、別の共有できることを共有すれば、何の問題もない。

ベッポが質問をじっくり考え、答えたときには、相手は何をきいたのか忘れてしまっている。
「問う」ということについて、エンデとの対談のあとがきだったか、子安美知子氏がこのようなことを言っていた。

「質問に対して、相手がその答えにかけなければならない重さをともに背負う覚悟があるとき、初めて人は、問うことが許されるのではないだろうか」

ところでモモのもうひとりの親友ジジは、ベッポとは真逆のおしゃべりな若者で、あることないこと並べたてて話を作る。
これほど違っているにもかかわらず二人は仲よしで、ジジを軽薄だと非難したことのない唯一の人がベッポで、ベッポを笑いものにしたことのないたったひとりの人がジジだった。

ベッポは言葉に真実をこめて誠実に扱おうとし、ジジは人を楽しませることのできる言葉に心底喜びを感じているのだった。

ベッポじいさんは、その言葉の扱い方のように、丁寧に仕事をする。
目の前の一歩を見て、ひと足、ひと掃き、ひと足、ひと掃き....そうして、長い道路の清掃はいつのまにか終わっている。

またある時ベッポは、世界が透きとおって時間の層が重なっているのを見た。その別の時代に、ふたりの人間がいた。
「わしには、わしらだとわかった-----おまえとわしだ。わしにはわかったんだ!」

モモはベッポの言葉をだいじに心にしまっておいた。
私はこの、モモを相手にベッポが深い静かな話をする場面が好きだ。

盗まれた時間を取り戻したあと、モモが最初に再会したのはベッポで、それはすばらしい喜びのときだった。
   
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2019年03月07日

うちがわはそとがわより大きい

「うちがわはそとがわより大きい」

記憶の片隅にあったこの言葉は誰のものだっただろう、昔の賢者だったかな...と思っていたら、ナルニア国物語の中にあった。フォーンのタムナスさんの言葉だった。

新しいナルニアで、タムナスさんはルーシィに言った。

「あなたが、さらに高く、さらに奥へはいっていくにつれて、なにもかもずっと大きくなるのです。うちがわはそとがわよりも大きいものですよ。」

ルーシィには新しいことが起こっていた。ここでは、目を向けたものが、はっきりと近くに見える。
そうして兄たちも呼んで見たものは、イギリスで彼らの冒険が始まった、とっくに壊されたはずの屋敷だった。

タムナスさんはこう言う。
「あなたがたの見ていらっしゃるのは、イギリスのうちがわのイギリス、まことのナルニアと同じまことのイギリスなのですよ。そしてあのうちがわのイギリスでは、よいものが滅びることは、ないんです。」

イギリスにかぎらず、このまことの国をさらに高く、さらに奥へ歩いていくと、すべてがいっしょになるという。
内がわの国では、世界のどこにあったものでも、よいものが滅びることはないのなら、ほんとうは何を怖れることもないのだろう。
この新しい国ではルーシィたちは、怖がろうと思っても怖く思えないことに気づくのだ。


現代について、ミヒャエル・エンデが「人類がこれほど外向的になった時代はない」と言っていた。
外側を全世界として、はるかに大きな内側を失くしてしまったということか。それもまた転換しようとしているけれど。

ところでフォーンというのは牧神パンと同じものかと思っていたら、どうも違うみたいで、牧神族にもいろいろ種類があるらしい。
 
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2019年03月06日

続・スーザン・ペベンシーの話

「…あの人はいま、ナイロンとか口紅とかパーティとかのほかは興味ないんです。」

「…あの人の思うことといったら、できるだけ早く、一生のうちのいちばんばかな年ごろになりたがって、できるだけ長くその年ごろにとどまりたいということなのよ。」

と言われていたスーザン。

スーザンとはまた違うかたちで(私は口紅やパーティにはさほど興味がなかった)、経験的にいちばんばかな年頃だったと思うのは、18〜19歳くらいの頃だ。
自分がもう何でもわかっているひとかどの者だと勘違いして傲慢に陥りやすい学生時代。
ナルニアと同じ頃読んだ別の本にも似たような言葉があった。

「17歳のときには何でもわかっているものなのよ。37歳になっても何でもわかっていたら、まだ17歳のままなんだわ。」

こういう言葉が印象に残っているのは、いちばんばかな年頃にさしかかろうとしている当時の私への警告だったのか...

人間の小さな頭による知性はしれたものだ。
若い時に“知”を増やす喜び以上に、大人には、“未知”に対して開いていく、安らいだ喜びというものもある気がする。


さて、最後にペベンシー兄妹の他の3人と彼らの両親は、この世界で列車事故に遭い、「ほんとうのナルニア」へ行ってしまう。

「まことの国」では、ナルニアゆかりのすべての者が集まっている。
ポリーとディゴリー、ユースチスとジル、ペベンシー家のピーター、エドマンド、ルーシィ、歴代の王、ネズミのリーピチープに、フォーンのタムナスさん...

たったひとり残されたスーザンがどうしたのかは書かれていないが、この大きな打撃はスーザンを目覚めさせることになったのだろうか。ナルニアの思い出がよみがえって、導く糸になるといいけれど。
 
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2019年03月05日

スーザン・ペベンシーの話

私が「ナルニア国ものがたり」の本編を読む前に、何かの雑誌にこの物語のほんの一部分の言葉が載っていたのを見たことがあった。

「あの人は、いまの年ぐらいに早くなりたがって、学校に通っているころを台なしにしてしまったし、また、いまの年のままでいたくて、これからさきの一生を台なしにしてしまうでしょうよ。」(「ナルニア国ものがたり」より)

と、このように書かれていて、前後の話はまったくわからなかったが、これが妙に印象に残っていた。

私が「ナルニア国ものがたり」を読んだのは高校2年か3年のときで、ようやく最後の巻でこの場面が出てきて、これがスーザンのことだとわかった。

ナルニアへ行った歴代の子どもたち(今は大人になっている人々もいる)が、ナルニア最後の王チリアンに、スーザンのことを尋ねられたときのこと....

「スーザンにはほんとうにおとなになってもらいたいものね。あの人は、いまの年ぐらいに早くなりたがって、学校に通っているころを台なしにしてしまったし、また、いまの年のままでいたくて、これからさきの一生を台なしにしてしまうでしょうよ。あの人の思うことといったら、できるだけ早く、一生のうちのいちばんばかな年ごろになりたがって、できるだけ長くその年ごろにとどまりたいということなのよ。」

ワードローブを通ってナルニアへ行ったペベンシー家の4人兄妹のひとりで、ナルニアの女王にもなったスーザンが、なぜこんなことに?

どうやらスーザンは今、ファッションやパーティのことにしか興味がなく、それが大人になることだと思いこんでいるようで、ナルニアのことも「子どものころのおかしな遊びごと」として記憶のかなたに霞んでしまっているらしかった。

このときのスーザンが何歳なのかは書かれていないが、昔の話なので16、7歳くらいかと想像した。「ナルニア国ものがたり」を最初に読んだ当時の私と同じくらいだ....
 
 
posted by Sachiko at 21:04 | Comment(2) | ファンタジー