2022年05月27日

先を行く人

このブログを始めたばかりの頃、ルーマー・ゴッデンの『人形の家』を扱った。
思えばこれは一回でサラっと流してしまうのはもったいない名作だった。

少しおさらいすると、エミリーとシャーロット姉妹と人形たちの物語で、主人公のトチーは古い小さな木の人形だ。
人形たちはプランタガネット家という家族を作って楽しく暮らしている。

そこに、見た目は美しいマーチペーンという人形がやってきて、プランタガネット家に危機が訪れる。
姉のエミリーがすっかりマーチペーンに夢中になり、楽しかった人形たちの世界が台無しになってしまった。
妹のシャーロットは、そんなエミリーのやり方を改めようとしていた。

小さな人形のトチーは言う。

「エミリーは、考えつくほうよ。シャーロットがぼやぼやしている間に、エミリーがいろんなことを考えついて、どしどし実行してしまうのよ。
あの子のように先に立って進む者は、時にはきっと間違うことがあるわ。

後からくる者から見たら、『これは間違いだった、あれは間違いだった。』というのはかんたんでしょう。

あとからくる者には正しい道がわかるのよ。選ぶ必要がないから。
エミリーはよく間違ったものを選ぶわ。」

そして人形たちは、エミリーが間違いに気づくことを願い続ける。
人形たちは、子供たちに遊んでもらわなければ口をきくことも動くこともできない。
人形たちにできるのは、ただ願うことだけ。

そうして人形の家に大きな悲劇が起きたあとで、エミリーは元のエミリーに戻る。
そして、めったに何かを思いつくということのないシャーロットが、マーチペーンを博物館にあげてしまうことを思いついた....


先に立って進む者は間違える。後から行く者は、その間違いがわかる。人形トチーの言葉は深い。

時には先頭を行く間違えた者のあとを、大勢がそのままついて行ってしまうこともある。
エミリーは自分の間違いに気づいた。

自分が間違っていたことに気づいて改める、これは人間にとって難しいことのひとつだ。
特に、集団心理のようなものが暴走する時には。

大人の作品も多く書いているルーマー・ゴッデンは、子供の本を書くときに、特に子供向けに言葉を変えるようなことはしないと言った。
この点は、多くの優れた子どもの本の書き手たちはみんな同じように言っている。

いかにも「子ども向け」という本は私は好きではない。
幼い子どもへの配慮は必要だが、子どもは自分が表現できるレベルの言葉しか理解できないと思い込むのは、子ども時代をすっかり忘れてしまった大人の傲慢というものだ。
    
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2022年05月22日

にもかかわらずの希望・2

ミヒャエル・エンデはよく、「万事休した時に転換が起きる」と言っていた。
万事休した時に起こった転換といえば、『指輪物語』(瀬田貞二訳)のこの場面を思い出す。


フロドとサムが探索の旅を終えたとき、サムが言う。

「旅はおわりました。けど、はるばるここまで来たあとで、まだ諦めたくねえのです。諦めるなんちゅうのは、どういうわけか、おららしくねえのです。」

そしてサムはフロドと共に、せめて火山からもう少し離れようとする。
流れる火が迫ってくる中、もう逃れようもなくなった二人が倒れた瞬間、ガンダルフが遣わしたオオワシたちが二人を掴んで飛び去る。


力みの入らない、サムの純粋な希望。
それはメリーが“踏んでも叩いても壊れない”と言ったピピンの天性の快活さとも違っている。

ガンダルフはフロドについて、やがて澄んだ光を湛えた盃のようなものになると言ったが、サムもまた、何かそれに似たものに上昇していくように見える。

探索の旅はサムがいなければ成就せず、この物語の最後は、すべてを見届けたサムの帰宅で終わる。

さらに、ビルボから受け継いだ冒険の物語をフロドがほとんど書き終えたとき、「最後の何ページかはお前が書くんだよ。」と、本の最後もサムに託されている。


万事休した時の転換は、起こそうとしても起きないだろう。
諦めきってしまっても起きない。

まさに、弓を引きしぼって、矢がひとりでに放たれるのを待つ境地。
そこに超自然的な何かのはたらきが入り込む場ができる。

あの朴訥なサムの中には、そのような力を通す何かがあった気がするのだ。
  
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2022年05月17日

にもかかわらずの希望

1995年に世を去ったミヒャエル・エンデには、もう20年くらい生きていてほしかったと思うが、現在の世界の様相を見たらエンデはどう思うだろう。

「オリーブの森で語りあう」というかなり古い本(ミヒャエル・エンデ、エルンスト・エプラー、ハンネ・テヒルによる会話)がある。
1982年に、世界の今日的課題を中心に語られたものだが、40年経った今でも問題はほとんど変わっていないか、ますますひどくなっているように見える。


その中でエンデは聖フランチェスコ伝説から、よく知られたニンジンのエピソードを持ち出す。

旅人:フランチェスコさま、来週世界が滅びてそのニンジンを食べられなくなるとしたら、どうなさいますか。

フランチェスコ:このまま種をまき続けるさ。

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そもそも希望は、いつも「…にもかかわらず」心にいだかれるものだ。
「…だから」希望がいだかれるわけじゃない。
だから希望というものは「超自然的な徳」なんだ。
ぼくは「われわれの現状が人類の歴史の終着駅となる」なんて信じない。

人間は人間だけですべてをつくる必要はない。世界にはほかにいろんな力がはたらいている。それらが助けの手をさしのべてくれたり、必用な条件をととのえてくれたりするんだ、とね。

こういう確信をぼくは、『モモ』のマイスター・ホラという人物にたくした。

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この「…にもかかわらずの希望」の話は、1991年刊の「エンデの文明砂漠」でも同じように語られている。

・・・「希望」は「ものごとがそうだから」もつものではなく、「物事がそうであるにもかかわらず」もつものなのです。
人類がこの地球上でなすべきことをすでに終了したとは思いません・・・


マイスター・ホラは時間を止める前に、モモに1時間分の時間の花を与える。時間が過ぎるとともに、花びらは散っていく。

奪われた時間貯蔵庫の扉を、モモは花びらで触れて閉め、時間の供給を絶たれた時間泥棒たちが消え去ったあと、残った最後の1枚の花びらで扉を開ける。

小さなモモと最後の1枚の花びらによって為されたことが、どれほど大きなことだったのか、人々は知らない。

人間時間の中ではまばたきするほどのあいだに、超自然的なはたらきが入り込まないともかぎらない。
   
posted by Sachiko at 21:44 | Comment(2) | ファンタジー
2021年12月09日

レンバス

「指輪物語」で、旅の仲間の一行がロリエン(新版ではロリアン)を出発する時、エルフたちが旅に必要な贈り物を持ってやって来る。

食べものは、薄い焼き菓子のかたちをしていて、葉っぱに包んだまま割らないようにしておけば何日もおいしさがかわらず、ひとつ食べれば一日たっぷり歩けるほどの滋養がある。

これがエルフの行糧レンバスで、この旅においては非常食でもあった。

そして実際、モルドールへ向かう途中のフロドとサムにとって、残っている食料はこのレンバスだけになる。

ゴクリ(ゴラム)が二人の後をつけていた。
フロドは過去にガンダルフと話したことを思い出す。

「ゴクリは死んだっていいやつです。」と言うフロドに、ガンダルフは言った。

「・・あんたは死者に命を与えられるか?もしできないのなら、正義の名においてそうせっかちに死の判定を下すものではない。
・・・すぐれた賢者ですら、末の末までは見通せぬものじゃからなあ。」

フロドはゴクリに情けをかけた。モルドールへの案内人にするつもりなのだ。
そして飢えたゴクリにレンバスを与えようとするが、ゴクリはレンバスを包んである葉っぱを「いやなにおいのする葉っぱだ」と嫌悪する。
レンバスを少しかじってみるが、それを埃と灰のように感じて食べることができない。


この様子はまるで、「ナルニア国ものがたり」の、うまやに閉じ込められた小人たちのようだ。

すばらしくおいしいレンバスも、いい香りのする葉っぱも、ゴクリにはそのとおりのものとして感じることができない。
サムがエルフの綱でゴクリを縛ったときも、ゆるく縛ってあるにもかかわらず、ゴクリは綱そのものをひどく痛がった。

エルフのことも、「明るい目をした恐ろしいエルフ」と呼ぶ。
ゴクリには太陽の光も月の光も恐ろしい。
善なるもの美しいものは、耐えがたく不快で恐ろしいのだ。

何かで読んだ天使体験談の中に、こんな話があった。
ある男が天使に向かって、いちど姿を見せてくれるように頼む。
すると、そこには耐えがたいほど強い光があらわれ、彼は怖ろしさのあまり「やめてくれ!」と叫ぶと、光は徐々に弱くなった。

その存在が受け入れることのできる範囲を超えたものは、そのように見えるとすれば、今地上で人間をやっている存在には、人間として耐えられる範囲のものだけが用意されているのだろう。

何を居心地よく感じるかには個人差が大きいだろう。
けれどこんな話も聞いたことがある。

人間の中で最も優れた者と、最も劣悪な者とのあいだには、宇宙的に見ればほとんど差がない。
つまり『人間』という存在自体が、宇宙から見るとそれほどすばらしいのだ、と。

それを人間が心底自覚出来たら、と思う。
   
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2021年12月05日

光が見えない小人たち

ナルニア国ものがたり「さいごの戦い」の中で、一同はカロールメンの兵士たちによってうまやに放り込まれる。その中には小人たちもいた。

ところが、ある声が響きわたるとともに、恐ろしいものは消えうせた。
そして、そこにはナルニアの七人の王たちと女王たちがいた。
今や一同はうまやではなく、青空の広がる草の上に立っていた。

小人たちはぴったりくっついて坐りこんでいた。
彼らは、ここは真っ暗闇で何も見えないという。まだうまやの穴の中にいるつもりなのだ。

「まわりを見て!空や木々や花々が見えないの?」

そう言ってルーシィはいい香りの野スミレを差し出すが、小人たちにはうまやの藁束を突きつけられたようにしか思えない。
ここが暗い穴ではないことも、うそだと言い張り信じようとしないのだ。

ルーシィはアスランに、小人たちに何かしてあげることはできないかとお願いする。
アスランは、「わたしにできることとできないことを、ふたつながら見せてあげよう」と言った。

小人たちの前にすばらしいごちそうの山が現われたが、彼らにはそれが干し草や古くなったカブにしか見えず、上等のブドウ酒も、かいば桶のよごれた水としか思えない。


アスランはこう言った。
「・・・小人たちのとじこめられているところは、ただ小人たちの心の中だけだが、そこにいまだに閉じこもっている。また、だまされるのをおそれているから、助けだされることもない。こもっているから、抜けだせないのだ。」

ナルニアの王や女王たちと同じすばらしい場所にいるにもかかわらず、小人たちには青空も緑の草もスミレの香りも感じることができない。

これもまた人間のひとつの在りようにも似て、物理的に同じ場所を共有していたとしても、それをまったく違ったふうに感じる時、それぞれは自分の心の中の世界を体験している。

「あたらしきナルニア」は天国のようにに見えるけれど、天国も地獄も、そういう“場所”があるわけでなく、可視光線のように波長の違いなのだ。
自分の中に同じ波長のものがなければ、知覚することなく通り過ぎてしまうか、馴染みのない異質なものとして感じるのだという。

うまやの小人たちに似た話は「指輪物語」の中にもある。
それはまた次回に。
   
posted by Sachiko at 22:12 | Comment(2) | ファンタジー