2019年11月13日

アクア・アルタ

ヴェネツィアが高潮(アクア・アルタ)で水没しかけているというニュースを聞いた。冬場の高潮は毎年のことだと思うが、今回は特に大きいらしい。

アドリア海に浮かぶ美しい都市の水没の危機についてはずいぶん昔から言われていた。

迷路どころではないほど入り組んだ街並みは、角ごとに『サンマルコ広場⇒』というように、目的地と矢印が書かれたプレートが付いているので何とか歩くことができる。

地図を持っていても全く役に立たないし、私などはあのプレートがなければ、迷い込んだら一生出られないかもしれない....

今は観光都市になっているが、最初から観光目的でできたわけではなかったはずだ。
そのあたりの話は塩野七生さんの本などに詳しく書かれているのだろうが、私は読んだことがない。

ヴェネツィアに限らず、美しい古い都市は、現代とは全く違った有機的な土壌から生えてきたもののように感じる。


アクア・アルタと聞いて真っ先に思い出すのは、実は別のことだ。
モーリス・ベジャールの短いバレエ作品「アクア・アルタ」でジョルジュ・ドンが踊る姿は、「ベジャール・インプレッションズ」というDVDの中にほんの一部分が収録されているのだが、フルバージョンがあった。




これは1970年代の作品で、1960年代から70年代にかけては、二十世紀バレエ団の活気ある隆盛期だったのだろうと思う。

私がその舞台を観るようになったのはずっと後で、バレエ団はローザンヌに移り、名前も変わっていた。
ある時期からは頻繁に日本公演があり、ジョルジュ・ドンの「アダージェット」や「ボレロ」などを生で観ることができたのはラッキーだった。

ある年の札幌公演が、彼の日本での最後の舞台になった。またすぐ来るのだろうと思っていたら、翌年逝ってしまったのだ。

あれほどの天才はもう現れないだろうと思い、私はしだいに他の舞台も観なくなったまま時が経って今に至る。
今日は少しいつもと違う話になった。

venezia.jpg
   
posted by Sachiko at 22:40 | Comment(0) | 未分類
2019年11月12日

それは本心か?

かなり昔に読んだ北杜夫のエッセイに、子どもの頃の作文について書かれていた。自由題の作文はまだよかったが、テーマを決められると苦手だったという話だ。

私は読書感想文が苦手だった。得意だった人はいるのだろうか。あまり意味のある課題だとも思えなかった。

小学校2年くらいだったか、読書週間とやらでみんなで感想文を書かされた。その後の全校集会の場で、ひとりの先生がそのことを話題にしてこう言った。

-----------------

『...主人公はりっぱだとおもいました』『....かわいそうだとおもいました』『...えらいなあとかんしんしました』『わたしもみならおうとおもいました』

・・・こんな作文が山ほど集まった。ところで君たち、これはほんとうに本心からそう思ったのか?

-----------------

ギクリ!
いや、心からそう思ってなどいない。感想文というものはこんなふうに書いておけばいいだろうと思っただけだ。少なくとも私はそうだった。

学校は杓子定規で決まりや枠組みが大好きで、ほとんどの先生は頭が固い。
それに、ほんとうに魂が震えるような本に出合ったときは、子どもの語彙や表現力では到底書き表せるものではない。
無理に作文にして提出することで、何かが損なわれるような気がした。

それで、感想文用の本も、ほんとうに好きなものではなく当たり障りのないものを選んだりした。
そんなことをするのは私だけかと思ったらそうでもなかったようで、中学生の時友だちが、感想文用の三種の神器の話を持ち出した。
「困った時の赤毛のアン、若草物語、アンネの日記、このどれかで何とかする」と。

子どもたちは学校(先生)が何を気に入り何を気に入らないかは知っていた。たとえば当時子どもたちは「学校の歌」と「ふだんの歌」を分けていた。

学校の歌は、音楽の教科書に載っている“まじめな”歌で、ふだんの歌は、テレビで流れていたりヒットチャートに上っている歌だ。
時は流れ、当時のふだんの歌の幾つかは、やがて教科書に載って学校の歌になっているらしい。


「それは本心か?」と言った先生は私の担任ではなく、全く接点はなかった。
数年後の春、私は他の2、3人といっしょに、6年生が卒業したあとの教室の掃除当番に行くことになった。

それはあの先生のクラスで、なぜか先生はそこにいて、まだ壁に貼られたままだったたくさんの絵を私たちに説明しながら見せてくれた。

絵は普通の写生や学校行事を描いたのではなく、イマジネーション豊かな心象の世界を描いたものだった。
タイトルも独創的で、どれもすごい!と思い、何点かを今でも憶えている。
それらは本心からでなければ描けなかったのではないかと思う。
   
posted by Sachiko at 22:33 | Comment(0) | 未分類
2019年09月23日

オセロ

ある時、オセロ(ゲーム)のコマは一種類しかないということにふと気づいて、あらためてすごい発見をしたような気がした。

チェスや囲碁は、駒(石)が最初から白黒二種類に分かれている。
…が、オセロは白黒が表裏一体、同じものなのだ。

つまり、同じもの同士が互いに自分が隠した裏側と戦っている。
オセロで遊んでいる時にそんなことは考えないだろうが、まるでこの二元世界の仕組みのようで、なんだかとても深くないか...?と思ったのだ。

今日は秋分の日、昼と夜がちょうど半分ずつ。
昼と夜も、分かれた別物ではない。宇宙空間から地球を見れば、昼と夜は表裏一体、同じ地球の上を交代しながら回っている。
そして太陽は天秤座に入る。これもバランスの星座だ。

-----------------

〈水辺の9月〉 https://fairyhillart.net

september1.jpg
  
posted by Sachiko at 22:03 | Comment(2) | 未分類
2019年09月06日

暗闇と沈黙と

地震とブラックアウトからちょうど1年ということで、ローカルメディアは数日前からいろいろ特集を組んでいる。

結局一番私の印象に残っているのは満天の星空だったりするのだが....
あの時星空を見上げた人は多かった。
これほどの星が見られるなら、たまに街の電気を消してみるのもいいのではないか、と言った人もいた。

濃い暗闇は、かすかな光を見えるようにする。深い沈黙は、かすかな音を聞こえるようにする。

それらは、ふだんの都会の溢れかえる光や音の中ではかき消されてしまっているものだ。

真っ暗闇になった時に、星があるのはいいことだ。


暗闇の中の美の話として、ヴィクトル・フランクルの「夜と霧---ドイツ強制収容所の体験記録」の中のこんなエピソードがある。

想像を絶する過酷な収容所生活、極限状態の中で、一日の労働を終えた囚人たちが夕焼け空に目をうばわれ、「世界は何て美しいんだ!」と感嘆したという話だ。

どんな状況であれ、それよりも遥か高い次元に美がある。それを知るのはいいことだ。
  
posted by Sachiko at 21:03 | Comment(2) | 未分類
2019年08月30日

ブラックな話

今日は新月。一か月に二度新月がある場合、二度目をブラックムーンというそうな。

二度目の満月をブルームーンというのは聞くが、ブラックムーンは初めて知った。昔から言われていたのか最近できた言葉なのかはわからない。
いずれにしても占星術などの世界で使われる言葉で、天文学用語ではないようだ。

昨日はブラックベリーの話だったし、ブラックつながりというわけではないけれど、最近のブラック校則は昔よりひどくなっているという話を聞いた。

かつて、がんじがらめな校則に順応した子供たちは、自分たちが大人になったときにはもっとひどい管理社会を作り出すだろう、という警告が新聞に載っていたことがあったのを、なぜか憶えている。

思えば私はブラック校則には遭遇したことがない。
高校の生徒手帳1ページの半分くらいに数行何か書いてあったような気がするが、「〜〜は自由とする」とか「〜〜についてはこれを認める」とかいうもので、禁止事項はひとつもなく、他校の友達に見せたら驚かれたが、今はどうなったことか。

こと細かな規則を決めて従わせ、そこから外れたら罰するようなことを「きちんとした良いこと」と信じている人もまだ多いのだろうか。

シュタイナーの、悪の二面性の話がある。
きちんとしているのは良いことだが、どうでもいいような細かいことにこだわる杓子定規になれば、悪のはたらきになる。

その逆の、いい加減さやだらしなさも悪といえるが、おおらかさ、鷹揚さになると、よいはたらきになる。
現代の悪についての話は、長くなるのでまた別の機会に譲ろう。

おおらかさ、鷹揚さ、機転とユーモア....
それで思い起こすのはやはりムーミンママだ。なんと絶妙なバランスの持ち主だろうとあらためて思う。

ブラックといえば、あの地震によるブラックアウトから、もうすぐ1年が経つ。真っ暗になった空一面の星は美しかった。
  
posted by Sachiko at 21:43 | Comment(2) | 未分類