2021年11月01日

残照、残響

それらがあるとき、元になった本体はすでにない。

太陽は沈み、楽器は鳴りやんでいる。

しばし残る余韻も、ほどなく消え去る。


それらはどこへいったのか。


ほんのかすかなもの、意識を向けていなければ気がつかないほどの、短いあいだに消え去るもの。

なのに、時に本体以上の何かをもたらす。

あまりに慌ただしく出来事の真っ只中にいる時には、気づかずに通り過ぎてしまう。

思い出は、できごとが過ぎ去ったあとの余韻の中で静かに醸される。

いちばん暗い季節だという11月は、消えかかる残照、残響のように、どこか心もとない。

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posted by Sachiko at 22:28 | Comment(0) | 未分類
2021年09月25日

「雨ふり小僧」

今日はちょっと変わったものを。
でもコミックカテゴリは作らない(作ると大変なことになりそうなので)。
手塚治虫の短編で、私が一番好きなのがこの「雨ふり小僧」だ。


山の小さな分教場に通うモウ太はある日、捨てられた古い傘から生まれる妖怪“雨ふり小僧”に出会う。
雨ふり小僧は、モウ太が履いているブーツがほしいという。

雨ふり小僧は大人には見えないらしい。ただ、雨ふり小僧がいるところに降る雨だけは見える。

分教場が火事になり、モウ太は雨降り小僧に雨を降らせてもらい、火事を消したらきっとブーツを持って行くと約束するが...

分教場が廃校になったために町へ引っ越すことになったモウ太は、すっかり約束を忘れたまま村を去ってしまう。
雨ふり小僧は約束の橋の下でずっと待っていた。


大人になったモウ太が小さな娘のブーツを買いに行った時、突然あの約束を思い出し、大慌てでブーツを持って村に向かう。
雨ふり小僧は、約束の場所で待っていた。

「約束のブーツを持って来た!!おまえったら、四十年もここで待ってたのかい!?」

「ウン」

けれどモウ太の目には雨ふり小僧の姿がしだいにぼやけて薄れて見える。

「まにあってよかったどに きっといつか持って来てくれると思っとったどに....」

まだ行かんでくれ!!雨ふり小僧!!とモウ太は叫ぶが.....

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雨ふり小僧は、大人には見えない。
最後にモウ太が会うことができたのは、子ども時代の約束の力が残っていたからなのか。

約束が果たされ、雨ふり小僧は消えていく。
成仏した、とも見える。
傘はもうボロボロになって、とっくに消えていてもおかしくなかった。

四十年も忘れていたモウ太と、四十年も待ち続けた雨ふり小僧。
約束が思い出されてよかった。
約束が果たされないまま消えてしまわなくてよかった。

この小さな物語はピュアで切ない。


これを思い出したのは、全く別のところからだった。
ずっと前に書いた、「自然存在−忘れられた友だちからのメッセージ」という記事の中、長いあいだ人間に忘れられたまま、まだ人間との共働を願い、待ち続けている自然界の精霊たち。

雨ふり小僧は傘の妖怪だから、人間界に近いところにいる。
井戸やかまど等、人工物の背後にも霊的存在がいると知っていた頃の人間は、きっと大人でもそれらの存在を知覚できたのだろう。

ちなみに一番好きな長編は、火の鳥でもブラックジャックでもなく、開拓時代の北海道を舞台にした『シュマリ』だ。
いや...コミックカテゴリは作らないけれど。
  
posted by Sachiko at 22:34 | Comment(2) | 未分類
2021年09月17日

ふたつの力・4

とても重要なふたつの力のことを忘れていた。
内に向かう力と、外に向かう力。

ひとりの中で、これらはバランスを必要とする。
外側の事象に心奪われすぎることと、内にこもって閉じすぎることの間で。


同じエネルギーでも、向きが変わるとまるで違うはたらきや見え方をすることがある。

去年からの世界的騒動の中で、○○警察など、正義感らしきものが元でトラブルを起こす出来事が多かった。

正しさとか正義というものは、本来内側に、自分自身に向けて作用させるものではないだろうか。
その時には、人生を導く信念や指針にもなるだろう。

外側の他人に向けて適用すると、対立と戦い、支配や抑圧、排除や裁きの力になる。
「私は正しい=あなたは間違っている」と。

それぞれが内なる正しさに沿うなら、「私は正しい、あなたも正しい」。
そして自由にそれぞれの道を行けばいい。

ずっと前に、フィンドホーンの唯一のルールとしての「正しさを作らないこと」という話を書いた。
正しさを作ると、必然的に正しくないものも同時に作り出すことになる。

正邪、善悪....それらは同じ平面上で戦う者同士だ。
両方が同時に見える位置から見ると、また違う見え方をする。

正しさという言葉自体がなんだか角張って見えるので、このやさしい詩で終わろうと思う。

 
 ひとは分けることはできない。義人と罪人、善人と悪人とを。

 かれらは皆一様に陽に向かって立っている。

 ちょうど黒糸と白糸が、一緒に織られるように。

 黒糸が切れれば織り手は布の全体を見、織機も調べてみるのです。

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 ほんとうに善い者は裸の者にたずねはしません。

 「君の着物はどこか」などと。

 家なき者にもたずねはしないのです。

 「君の家はどうなったのか」などと。

          (カリール・ジブラン『預言者』より)
   
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(2) | 未分類
2021年09月09日

“四人”の不思議

「ほんとうによい集まりというのは、必然的に少人数に限られる」と言ったのは、『ウォールデン 森の生活』を書いたヘンリー・ソローだったと思う。

ある時、大勢でワイワイするのが一見好きそうに見える友人が、意外にも「集まりは4人が限度だ。みんなで共通の話題で話せるのは4人までで、それ以上になると、みんなで話しているというより隣の人と話している形になるので、大勢いても意味がない」と言ったことがある。

なるほど.....
ぎりぎり5人ではどうかなと思い、観察してみたことがある。
結果、時々はみんなで話せるけれど、気がつけば2人と3人に分かれて別々の話をしていることも多かった。
やはり一度に把握できるのは4人までなのか....

ところで4というのは地上物質界の基本数だそうだ。
春夏秋冬、東西南北、地水火風など。人間の4つの気質というのもある。
4人が収まりがいいのは、そんなところも関係あるのだろうか。


「ナルニア国物語」の4人きょうだいや、古いところでは「若草物語」の4人姉妹、これらが5人だったらどうだろう。
なんだかややこしく感じる。

4というのは地上の数だと書いたが、地上を超えた世界から降ろしてきたメルヒェンや聖書には、3、5、7、12という基本数が繰り返し出てきて、それにも深い意味がある。

何気ない日常の集まりの中にも、意識の上には昇ってこない何かの力がはたらいているらしい。

ソローは森で隠遁生活ができたような人だから、元々少人数が好きだったのだろう。
森の家で火を囲みながらの小さな集まりは心地よさそうだ。

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〈家路〉  https://fairyhillart.net

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posted by Sachiko at 21:57 | Comment(2) | 未分類
2021年08月01日

K子ちゃんの話

時々、長いあいだ忘れていた小さなことを、不意に思いだすことがあるものだ。今日は、小学校の同級生だったK子ちゃんのお話....

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K子ちゃんはクラスでいちばん体が小さく、いちばん勉強が苦手だった。
5年生の新学期が始まった日、今でいう特別支援学級のT先生が教室に来た。

担任が、「K子ちゃん、ランドセルを持ってT先生といっしょに行きなさい」と言うと、K子ちゃんはT先生に手を引かれて教室を出ていった。
みんなは一瞬で状況を理解したが、誰も何も言わなかった。

少し経って一人の子が廊下でK子ちゃんに会った時、K子ちゃんが恥ずかしそうにしたので、「みんな何とも思ってないよ」と伝えたそうだ。

運動会の時には、K子ちゃんは元のクラスに戻って参加した。
誰かが「あんた、一生懸命勉強してまた戻っておいで」と言った。
そんなことは起こらないとみんなわかっていたが。

T先生のクラスには、あまり重度の子はいなかったようだ。
4年生まで普通学級だったK子ちゃんも、普通に話をしている分にはわからないくらい、ごく軽度だったのだと思う。

中学生になった頃、K子ちゃんの近所に住んでいる子から、K子ちゃんは、理由はわからないけれど越境して違う区域の中学校に通っていると聞いた。
K子ちゃんはいつまでも同級生のK子ちゃんだった。


あの頃、みんな優しかったな....たまたまあの場所がそうだったのか、時間が経って記憶が底上げされている部分もあるかもしれないけれど。

けっして全員仲よしなどではなかったが、嫌いな子にも、ことさらいじめようなどとは思わず、子どもなりの礼儀をもって接していた。

なんだか人間の一線を超えてしまったような、ハイテクネット時代の乾いた喧噪の中、良くも悪くも素朴だった子どもたちの姿を思い出すのだ。
  
  
posted by Sachiko at 21:59 | Comment(0) | 未分類