2021年04月11日

禁じられた遊び

子どもの頃、ある時私たちは、「仲間はずれごっこ」という遊びを発明した。
これだけ聞くとギョッとするかもしれないけれど、別に誰かを仲間外れにしようとしたわけではなく、むしろ逆だった。

 「〇子ちゃん、なかまは〜ずれ♪
 だって、きょうひとりだけスカートはいてるもん♪」

 「あ、そっかぁ♪」

と、こんな感じで、まず違いを見つけ、それを互いに受け入れあう遊びだったのだ。

楽しく遊んでいたのだが、ある時ひとりの子がうかない顔でやってきて、お母さんから「仲間はずれなんていう悪い遊びはやめなさい!」と禁止されたと言った。

私たちは互いに「そんなんじゃないのにね....」とブツブツ言い合ったが、禁止されてしまったのでそれきりその遊びはしなかった。

いつの時代も、大人というものはしょうがない。
そのお母さんは遊びの中身を見ずに表面の言葉だけを捉えて怒ったのだ。

私の親世代などは、ゲームも精巧なおもちゃもなく、自然の中を駆け回って遊んだ世代のはずなのに、やっぱり想像力に欠ける杓子定規な大人になってしまったのはなぜだろう。

ある程度、天性というものもあるのかも知れない。
自由な想像遊びが好きな子と、決まったルールのある遊びが好きな子はいた。

そして学校というものは、いつの時代にも杓子定規な規則が多かっただろうが、この点では今の学校のほうがむしろブラックではないかと思う時もある。

以前、昔小学校の先生だったというあるおばあちゃんが、「天気のいい日には授業をやめて、みんなで近くの野原へ遊びに行ったりした」という話をしていたことがあった。
何でも“問題”にされてしまう今ならただじゃ済まないかもしれない。

高校の時、近くで野球部(とても弱い...)の試合があり、あるクラスで全員が野球の応援に行ってしまい、先生が授業に行ったら教室がもぬけの殻だった事件があった。

この種の事件(今なら全国ニュースで問題にされるかも知れないものも含めて)はいろいろあったが、笑い話になっても事件扱いにはならなかった。

片目をつぶって出来事を笑う大らかさのようなものが失われて久しい。
ガチガチに締めつけることが子どもの成長に益するとは全く思えない。
いのちは自由で創造的で、笑いが大好きだ。


最近、「コピー転載自由」と書かれていたので、検索ボックスの上に勝手にリンクを貼った『森へ行こう』というブログがある。

子どもと自然の関わり、その中での感覚の発達、そして現代的な課題...等々、毎日更新されているので興味のある方はどうぞ。
と、勝手に宣伝しているけれど、別に回し者ではありません。
  
posted by Sachiko at 21:51 | Comment(4) | 未分類
2021年03月25日

お知らせ

このブログは、何だかこちらがメインのようになっている感もなくはないけれど、一応HP付属のブログということで、HPのほうのお知らせです。

SHOPに新しいポストカードセットを追加しましたので、覗いてみてくださいませ♪

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posted by Sachiko at 21:23 | Comment(0) | 未分類
2021年03月16日

春の夕刻

季節の気分というものが確かにあり、それは季節ごとにはっきりと違う。

特に、夕刻の気分には特別なものがある。
西日がまだ柔らかい春の晴れた夕刻は、なぜか幼い頃の情景を思い起こさせる。


幼い頃、向かいの家に住んでいたひとつ年上のEちゃんは、私がその場所に引っ越してきて最初の友だちだった。
(以前書いた、杏の木のある家の兄妹を最初に紹介してくれたのもEちゃんだ)

西側の部屋で遊ぶとき、日が傾くにつれて光の当たる場所が長くなり、光がここまで来たらこの遊び、もっとここまで来たら別の遊び、などと決めごとをしたりしていた。

あるとき、Eちゃんが「わたしのハートが燃えちゃった♪」と歌いながらぐるぐると走り回りはじめた。
何かの流行歌だったのだろうか。

私は「ハートが燃える」の意味がわからず、「鳩」のことかと思った。
なにか可愛い小動物がもえちゃった歌らしい....
何にしよう....うさぎかな。

それで私は、「わたしのうさぎがもえちゃった♪」と歌いながらいっしょに走り回った。
Eちゃんが何も言わなかったところを見ると、Eちゃんもハートの意味がわかっていなかったのかもしれない。
ふと思いだして「あっ!」と思ったのは、ずっと後のことだ。

私が小学校に入る前に、Eちゃんは遠くの町へ引っ越して行った。私の家でささやかなお別れ会をした時の写真が残っている。

その少し前、Eちゃんといっしょに、切手ほどの小さな花をたくさん並べた絵を色鉛筆で描いて遊んだ。
ある夜、眠る前にその絵のことを思いだした。
Eちゃん、行っちゃうんだ....

とても悲しくなった。
思えばこれが、人生で最初に意識した別れだった。
それから三年ほど手紙のやり取りをしていたが、いつの間にかとだえてしまった。


近年、時間の感覚が変化しているように感じる。
時間は直線的に進んでいるわけではない。
時間はある状態で空間となり、空間内を移動するように、ある時点を訪ねる感じだ。

なぜ夕刻なのだろう。
午前と午後では、陽光のエネルギーの質がまったく違う。

季節の気分、時間帯の気分....それらを感じ取る感覚は、地球に生きていく上でとても大切な能力だと思っている。
  
posted by Sachiko at 22:21 | Comment(2) | 未分類
2020年11月20日

飛行機とお人形

前回宮崎駿氏の話が出たので....
私はジブリ作品には幾つか好きな作品があるけれど、特に熱いジブリファンというわけでもない。

みんな大好き「トトロ」と、個人的には「耳をすませば」が好きだ。
物語の世界を愛する少女とバイオリン職人の少年の組み合わせはかなりツボにはまる。
そして猫のバロンの物語、地球屋のおじいさんとその仲間達...

一方、よほど相性がわるいのか、何度見ても内容が理解できなかった作品もある。
「紅の豚」は、5回くらい見たはずだ。
なぜそんなに見たのかというと、話を把握できなかったからだ。

毎回、今度こそ理解できるようにちゃんと見よう!と思ってテレビの前に座るのだが....
気がつくとエンドロールが流れていて、え...これで終わり?今の何だった...?ということになる。

4回目に見たときに、やっとヒロインの名前を覚えた(ジーナ・・・だったっけ?で、彼女は何者だったかな...)。
いまだに、なぜポルコ・ロッソが豚になったのか、そもそも全体がどんな話だったのかわからない。

ある時その話をしたら、「『紅の豚』は、男の人が好きな作品だよね〜」と言われた。
なるほど....


小さい時、隣の家に同い年の男の子が住んでいて、時々遊びに行った。
ある時いっしょに絵を描いて遊んでいると、その子のお母さんが来て、「やっぱり女の子はお人形さん描くし、男の子は飛行機描くね〜」と言った。

たぶん、誰に教わったわけでもないのにそうなのだ。
子どもがある程度意味のわかるものを描ける年齢になった時、なぜか女の子は「女の子」の絵を描き、男の子は飛行機や車を描く。

小学校の休み時間、ひとりの男の子が戦闘機や戦車や、ミサイルが落ちて火柱が上がっているような絵を描き、他の男の子たちが周りで「かっこいい〜〜!」と騒いでいたのを思い出す。

一方女の子が描く絵の定番といえば、少女が子犬を連れてお花畑を散歩している...という類で、空を飛んでいるものがあるとしたら小鳥かチョウチョだった。
ここには人間と動物と植物がいるけれど、テクノロジーの産物はない。

なんだか、二つの全く性質の違う文明のように見える。

ジブリの、飛行機の話はもうひとつあった。
「風立ちぬ」でも、ヒロイン菜穂子の帽子が飛んだり、丘の上で絵を描いていたり、サナトリウムにいるシーンは憶えているのだけれど、飛行機に関する話は記憶から消えている...

空を飛ぶものが苦手ということではなさそうだ。
「魔女の宅急便」の、キキのほうきのことはよく憶えている。
   
posted by Sachiko at 21:47 | Comment(2) | 未分類
2020年08月17日

“ひとり”は悪か?・3

「己の影を抱きしめて」(清水真砂子インタビュー)より

この中で、魔女狩りの話が出てきた。
魔女とされた人を火あぶりの刑場に追い立てていく群衆の中に、たったひとりでも、足を止めて逆方向に歩きだす人はいなかったのだろうか。
自分は足を止めて逆方向に歩きだせる人間になりたいと思った....というお話だった。


この“ひとり”は命がけだ。
もしその場でそうした人がいたら、おそらく魔女の仲間として捕らえられ、いっしょに刑場送りになったのではないか。
それでも敢えて群衆から離れる勇気があるか?という話だろうが、それは簡単じゃない...

これは現代にも通じる話で、魔女狩りは、ある特定の時代、特定の地域のものではなく、時代を変え場所を変え形を変えて、繰り返し現れる。
大勢に同調しない“ひとり”が、悪と見なされてしまう可能性はいつもある。

学生たちに、ひとりでいることは悪いことだと思い込ませる力は、足を止めて逆方向に歩きだすひとりの人間を存在させないためのものかもしれないと思う。

己の影に怯える人々の恐怖が、狩るべき魔女を必要とする動機になり、そのようなことは現実世界でも頻繁に現れる。

言っていることの内容や主張が真逆に見えても、まるで互いが鏡像のように、放射しているエネルギーの質が同じだということはよくある。

魔女狩りの列に加わらないのは、“己の影を抱きしめる”ことのできる人々だろう。

時代の大きな変わり目に、ほんとうに必要なことだと思うので、以前紹介したアーシュラ・K・ル=グウィンのエッセイの中にあった、ユングの言葉をもう一度...

「自分自身の影をうまく扱うことを学びさえすれば、この世界のためになにか真に役立つことをしたことになる。
その人は今日われわれの抱えている膨大な未解決の社会問題を、ごく微小な部分ではあっても自分の肩に背負うという責をはたしたのである。」

このインタビューはもう少し保存しておくことにした。
   
posted by Sachiko at 22:14 | Comment(2) | 未分類