2020年06月17日

内在する数学

昔、こんなことを聞かれたことがある。
・・絵画の中には、黄金比とか何とか級数とかいう数学が入っているらしいが、絵を描く人はそういう計算をしながら描くのか?

私と、その時いっしょにいた人(絵を描く人)は、同じことを答えた。
・・いや、例えば紙の上に、自分がいちばん美しいと感じる位置に線を引くと、その比率になるのだ....

聞いた人はびっくりしていたが、計算などしない。それに芸術系の人はたいてい数学ができない(もちろん例外はある)。
数学的な計算だけで構図を作るというやり方があったとしても、それでは魂が入らないだろう。


自然界にはさまざまな数式が内在する。
花の構造の中に、銀河の渦に、巻貝のかたちに....
ミツバチの巣、フラクタルな雲、惑星の軌跡....

それらを内的に響かせるのか、抽象思考の学問として取り出すのか...
ヘルマン・ヘッセの『ナルチスとゴルトムント』の中に、こんな会話がある。

ゴルトムント:
「一枚の花びら、あるいは一匹の小さい虫が、図書室全体のすべての本よりはるかに多くを語り含んでいる、とぼくは思います。
時々ぼくはギリシャ文字のどれかを書きます。・・文字は鳥となり、羽毛を逆立て、からだをふくらし、笑い、飛び去ります。
あなたはそういう文字をたいしたものとは思わないでしょうね?でも、そういう文字で神さまは世界をお書きになった、とぼくは思いたいのです」

ナルチス:
「それは魔法の文字で、それによってあらゆる魔精を呼び出すことができる。もちろん、学問をするのにだけは適しない。
オメガという文字がヘビや鳥になることを、精神は容認しない。
精神は、自然に逆らってだけ、自然の反対物としてだけ、生きることができる。
今こそ君はけっして学者にはならないだろうということを信じるね?」


自然の反対物、とナルチスは言った。反対物は表裏一体だ。
例えば変数や記号や何やらのソースが、ウェブ画面上で見ると、構図を持ったかたちや色彩になったりする。#ffffffは白で、#000000は黒だ。

これは宇宙の裏側に似た姿ではないか、と思う。
それが可視的な世界に反映されたとき、葉っぱが巻き上がる螺旋になり、銀河の渦になる。

高校の数学は苦痛以外の何ものでもなかったけれど、試験などがなければそれ自体が嫌いなわけではない。
無味乾燥の裏側に神秘がひそんでいて、花や鳥や銀河になって飛び立つのを見ることができるなら。
  
posted by Sachiko at 22:17 | Comment(2) | 未分類
2020年06月01日

続・ふたつの力

どこかでこんな話を聞いたことがあった。

『この地上の力はすべて“押す”力で、純粋な“引く”力は天上のものである。』

地上物質界では、何かを引くためには、まず押さなければならない。
例えば綱引きなら、綱を手で掴むという形で押してからでなければ引くことができない。
人に何かを押しつけるとか圧力をかけるなども、いかにも地上的な力だ....と。


人が純粋に引き合う時、それは美しい関係になる。
弾圧、制圧など押す力が使われると、関係は良いものにならない。
引く力は、魂や愛の領域のものだ。

重たい押す力が主流だった時代は、もう過ぎて行く。
天上の“引く力”は、ファウストのラストの詩を思い起こさせる。

 なべて移ろいゆくものは、
 比喩にほかならず。
 足らわざることも、
 ここにて高き事実となりぬ。
 名状しがたきもの、
 ここにて成しとげられたり。
 永遠の女性、
 われらを高みへ引きゆく。
    (手塚富雄訳)


 移ろうものはみな、
 たとえにすぎない。
 地上で力およばなかったことが
 この天上でできごととなり、
 名状しがたいものが
 ここに成しとげられた。
 永遠の女性が
 われらを引きあげて行く。
    (高橋健二訳)
   
posted by Sachiko at 22:25 | Comment(2) | 未分類
2020年05月30日

ふたつの力

「そうする」力と、「そうなる」力。

例えば電気ポンプで水を汲み上げる力と、泉の水が湧き出る力。
外から働きかけて動かす力と、ひとりでに生じる力。

長いあいだ、ふたつの力はバランスを欠いていた。

力ずくで何かを動かそうとすると、自然の状態よりもはるかに大きなエネルギーを必要とする。

春になるとひとりでに融ける雪を、冬のあいだに無理やり融かそうとするとき。
土地の有効利用のために川をまっすぐに流そうとするとき。
季節外れの野菜を工場で効率よく栽培しようとするとき。

そのために使う大きなエネルギーは、自然に負荷をかける。


唯物論科学はいまだに、なぜ植物が重力に逆らって上に伸びるのかを説明できないらしい。
成長点で細胞分裂が起きて云々。

細胞分裂で殖えただけでは、自らの重みで倒れるだろう。
でも新芽のごく細い茎は、自分よりも大きな双葉を持ちあげる。時にアスファルトさえ突き破って。


流れる川に向かって「川よ、流れよ」というのが、真の祈りだという。
自分の意志と宇宙の意志とを一致させること。


為さんとせずして為す....

風に沿い、水に沿う...

力ずくで動かす力から、生じる力へ。

時代はそのように変わっていくだろう。
  
posted by Sachiko at 22:06 | Comment(2) | 未分類
2020年04月11日

迷路を歩く・2

昨日の記事の迷路は、原文ではlabyrinthになっている。
これは迷宮ではないかと言われればそうかも知れないが、私はさほどそこが重要とは思っていなかった。

迷路(maze)は、元々は庭園などで植物を刈り込んで道を作ったものを指すらしい。
イメージとしては、建物の中ならlabyrinthで、外ならmazeだろうか。辞書を引いてみたけれど英語でも双方の区別はあいまいなようだ。

混迷した世界の中で道を探りながら、新しい世界価値という出口に向かう旅なら、建物の中に限定されないほうがイメージに近いかと思う。

建物の中か外かという言葉の問題で迷うと、かえって本質である出口から遠ざかる気がするのでこのへんにしておく。

「迷路を歩くことは、世界をその正しい道に戻すことに役立つ」
世界はもう、タイムリミット付きで正しい道に戻りたがっているのだ。
宇宙時間でどのくらいかかるかわからないけれど、先導するのは古い時代にリーダーと呼ばれた人たちではない。

テーセウスの糸玉を持った人々の、出口に向かう静かな列がある。
糸玉の元は、どこから来たのか...
以前紹介した「お姫さまとゴブリンの物語」では、天上世界のような場所から糸が渡された。

「糸がとんでもないところを通っているように見えても、糸をうたがわずについて行くのですよ」

行くも留まるも、それぞれの「ほんとう」だけが道を示す、そんな時が来ている。
それが心もとないクモの糸に見えたとしても、源につながっている糸を離さず行けば、きっと出口にたどり着くだろう。

オマケ:
北海道雨竜町のヒマワリ畑♪ 内部は迷路になっている。

sunflower.jpg
   
posted by Sachiko at 22:02 | Comment(0) | 未分類
2020年04月05日

サリー・ガーデン

このブログに音楽カテゴリがないように、私はふだんは音楽より静寂のほうが好ましいと思っている。
何となく音楽を流しっぱなしにすることはない。

でもごくたまに、この曲を聴きたい!と思うことがある。
今日は久々に、日本ではサリー・ガーデンとして知られるアイルランドの歌「Down By The Sally Gardens」を聴きたくなった。




この曲は、私はライアー演奏によるCDを持っているのだけれど、今日は歌で聴きたかった。
澄んだ美しい歌声が空気を浄化する。

アイルランドの歌姫といえば、昔エンヤが好きで当時はよく聴いていた。こちらも久しぶりに聴いてみようか....

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〈スプリング エフェメラル〉 https://fairyhillart.net

springephemeral1.jpg
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(0) | 未分類