優れた児童文学に登場する子供たちは、現実にはめったにないほど賢く描かれていることが多い。(もちろんそうではない場合もある)
そして、子どもたちの周辺にいて彼らを見守る大人たちも、めったにお目にかかれないほど賢い人々だ。(もちろんそうではない人々も登場する)
「グリーン・ノウ物語」の中の子供たちと、オールドノウ夫人。
「飛ぶ教室」の少年たちと、ベク先生や禁煙先生。
「夜のパパ」のユリアと、青年ペーテル。
これはまだ紹介していないけれど「ツバメ号とアマゾン号」の4人きょうだいとその両親など。
優れた作品は賢い大人が書いているので当然そうなり、それが作品の質を高くする。
けれど現実世界でも、表面的には見えない子どもの叡智というものは確かにある。
子供がまだ小さいからわからないだろうなどと思って、そばで大人が良からぬ話をしていたり、嘘をついていたり、両親が険悪になったりしているとき、子供はすべてわかっている。
幼いので大人が使う言葉そのものを、辞書的な意味で理解はしていないかもしれない。でも体の感覚、生命の感覚として、空気の中に満ちているものを感じ取る。
動物はある種の霊視力を持つと言われているが、幼い子供にはそれに似たものがまだある気がする。
こんな話を持ち出したのは、ここでリンクを貼っているブログ(ちなみに書いているのは男性)の中に面白い話を見つけたからだ。
転載自由とされているので書いてしまおう。
「・・・男の子は自分の行為の結果として、痛い目に遭わなければ学習しない生き物だからです。
だから、男の子は何でもかんでも(いいことでも悪いことでも)やってみようとするのです。」
「女の子の方は男の子よりも賢いので、やらなくても先が読めてしまうのです。」
別のところで似たような言葉を見たことがある。
例えば何かの犯罪などを犯してしまい、その行為の結果を引き受けるプロセスの中で学ぶという人生を選ぶ人がいる。
一方、実際にやってみなくても、見るだけで十分な人もいる、と。
女性は本来生命感覚に優れていて、女性の身体は宇宙生命に直結している。
女性は特攻隊などというものは思いつかない。
(近年の、男性そっくりになって男性と同じことをするのが平等だと思い込まされた女性たちはどうかわからない。)
男の子は痛い目に遭わなければ学習しない....男の子が大きくなった、大人の男性はどうだろう。
時々、それなりに地位もキャリアもある大人が、しょうもない犯罪(少額の収賄とか覗きとか)で、人生を棒に振ってしまうケースがある。先が読めなかったのだろうか。
かつてC・G・ユングは、「このまま男性原理の社会が続けば、人類は核兵器によって滅びるだろう」と言っていたそうだ。
少年時代に学習しないまま大人になったような人々が、大きな権力を手にして突き進んだ場合、たいてい結果を引き受けるのはその本人ではなく一般市民なのだ。
2023年02月28日
少年は失敗から学ぶのか...?
posted by Sachiko at 21:48
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2023年02月24日
銀河鉄道・・・
銀河鉄道と聞くと、次に来る言葉は何だろう。
「〜の夜」か「999」か。
昔、松本零士作品が好きで当時の単行本はほとんど持っていたが、今は一冊もない。
家を出るときに置いてきたら、親が近所の子供たちに配ってしまったのだ...( ̄∇ ̄;
私は初期作品を集めた「四次元世界」が好きだった。
以前「昆虫や星のこと」という記事で書いた内容は、たしかこの「四次元世界」のあとがきだったと思う。
「昆虫や星に惹かれる人は、人生の早い時期に、なにかとても悲しいものを見てしまった人だ....」
そのように、宇宙や昆虫の世界、貧しくも純粋な若者の切ない物語などが、何とも言えない透明感と、まだ可愛らしさの残る初期の絵柄で描かれていた。
今調べたらこれもプレミア価格になっている。やっぱり本はうっかり手放すものじゃない。
ある人が、手塚治虫は“太陽型”で、松本零士は“月型”だと言っていた。
そのとおりだと思う。あの情感は、太陽型には描けない。
そして長編型ではなく短編型、ストーリーテラーではなく詩人だ。
ハチャメチャな内容でも、最後のページに出てくる巻物の切れ端みたいな枠の中に詩のような言葉が書かれていると、それですべてが収まってしまうのだ。
ゆえに、エロス系もいやらしくなく、コクピットシリーズなどの戦争モノも、美化しちゃいけないけれどどこか幻影のようだ。
旅立った銀河鉄道はどこの星に向かったのだろう....
「〜の夜」か「999」か。
昔、松本零士作品が好きで当時の単行本はほとんど持っていたが、今は一冊もない。
家を出るときに置いてきたら、親が近所の子供たちに配ってしまったのだ...( ̄∇ ̄;
私は初期作品を集めた「四次元世界」が好きだった。
以前「昆虫や星のこと」という記事で書いた内容は、たしかこの「四次元世界」のあとがきだったと思う。
「昆虫や星に惹かれる人は、人生の早い時期に、なにかとても悲しいものを見てしまった人だ....」
そのように、宇宙や昆虫の世界、貧しくも純粋な若者の切ない物語などが、何とも言えない透明感と、まだ可愛らしさの残る初期の絵柄で描かれていた。
今調べたらこれもプレミア価格になっている。やっぱり本はうっかり手放すものじゃない。
ある人が、手塚治虫は“太陽型”で、松本零士は“月型”だと言っていた。
そのとおりだと思う。あの情感は、太陽型には描けない。
そして長編型ではなく短編型、ストーリーテラーではなく詩人だ。
ハチャメチャな内容でも、最後のページに出てくる巻物の切れ端みたいな枠の中に詩のような言葉が書かれていると、それですべてが収まってしまうのだ。
ゆえに、エロス系もいやらしくなく、コクピットシリーズなどの戦争モノも、美化しちゃいけないけれどどこか幻影のようだ。
旅立った銀河鉄道はどこの星に向かったのだろう....
posted by Sachiko at 22:27
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2023年02月15日
旅芸人の話
前回書いた、『モモ』の登場人物ジジは、観光客相手に面白おかしく話を聞かせ、帽子をさしだしてお金を集める。いわば大道芸人の類だ。
エンデの作品にはよくサーカスや小さな劇団などの芸人たちが描かれている。エンデはこうした芸人たちに、特別な尊敬と愛着を抱いていたらしい。
旅芸人といえば真っ先に、これも以前書いたフェリーニの映画『道』を思い出す。
あとは、『旅芸人の記録』という、4時間近くもあるとんでもなく長いギリシャ映画。
一座は「ゴルフォが来たよ!タソスが来たよ!」というお決まりの呼び声とともに、たったひとつの演目だけを持って旅していく。
この映画は今もたまにリバイバル上映されているようだ。
旅芸人はやはりイタリアなどの南欧が似合う気がする。
仄暗い猥雑さ、体温と血の生暖かさ、横溢する生命の輝き。
ヨーロッパの街でかつて印象的だったのが、メインストリートにたくさんいた大道芸人たちの姿だった。
いつも同じ街にいる人もいれば、旅している人もいた。
ある都市で見かけたグループを、また別の都市で見たことがあり、大道芸の衣裳のまま、小道具を抱えて駅で列車に乗り込むところを見たこともある。映画のワンシーンのように見えた。
思えばまだのんびりした時代だった。
昔、夏ごとにフランス人の大道芸人が来ていてパントマイムなどをやっていた。ある時、市の条例だか何だか知らないが、公道や公園での物販や大道芸が禁止されてしまった。大通公園ぐらい、スペースがあるんだからいいじゃないか。
道端で手作りアクセサリーを売っていた人たちも(たまにあやしげな人も混じっていたらしいが)、どこかで採ってきた山菜を売っていたおじさんおばさんもいなくなった。
旅芸人は、組織化されない人々だ。
システムにあてはまらず、明日どこにいるのかもわからない。
思えば浮浪児という設定のモモ自身がそのような存在、つまりすべてを管理しようとする灰色の男たちにとっては厄介な存在だ。
ミヒャエル・エンデは『ものがたりの余白』の中で、子どもの頃に、近所の家で冬を越すことになったサーカス芸人一座と過ごした思い出を語っている。
サーカス芸人たちは芸術家そのものだとエンデは言う。
「芸術家の存在は、この世に、なんの役にもたたないことをする者がいるためなんです。いわば無償で起きるなにか。なにか有益なことを得ようとしてするのではない。それを人類が失えば、人類はとても大切なポイントを失うことになる、そのようなもの。」
すべてがシステム化されて整い、自分で創意工夫する必要もない便利な都市は、怪しげな翳をも受け入れて消化する包容力を失い、人々は生気を欠いて見える。
人間には清潔な秩序ばかりでなく、幾ばくかのいかがわしさのようなものがまとわりついているほうが人間らしいというものだ。
そうした人間臭い生気が、ある力にとっては邪魔なのだろうけれど、逆に言えば、次の全く新しい文明を創る原動力をどこに見出したらよいかということへの示唆にもなる気がする。
エンデの作品にはよくサーカスや小さな劇団などの芸人たちが描かれている。エンデはこうした芸人たちに、特別な尊敬と愛着を抱いていたらしい。
旅芸人といえば真っ先に、これも以前書いたフェリーニの映画『道』を思い出す。
あとは、『旅芸人の記録』という、4時間近くもあるとんでもなく長いギリシャ映画。
一座は「ゴルフォが来たよ!タソスが来たよ!」というお決まりの呼び声とともに、たったひとつの演目だけを持って旅していく。
この映画は今もたまにリバイバル上映されているようだ。
旅芸人はやはりイタリアなどの南欧が似合う気がする。
仄暗い猥雑さ、体温と血の生暖かさ、横溢する生命の輝き。
ヨーロッパの街でかつて印象的だったのが、メインストリートにたくさんいた大道芸人たちの姿だった。
いつも同じ街にいる人もいれば、旅している人もいた。
ある都市で見かけたグループを、また別の都市で見たことがあり、大道芸の衣裳のまま、小道具を抱えて駅で列車に乗り込むところを見たこともある。映画のワンシーンのように見えた。
思えばまだのんびりした時代だった。
昔、夏ごとにフランス人の大道芸人が来ていてパントマイムなどをやっていた。ある時、市の条例だか何だか知らないが、公道や公園での物販や大道芸が禁止されてしまった。大通公園ぐらい、スペースがあるんだからいいじゃないか。
道端で手作りアクセサリーを売っていた人たちも(たまにあやしげな人も混じっていたらしいが)、どこかで採ってきた山菜を売っていたおじさんおばさんもいなくなった。
旅芸人は、組織化されない人々だ。
システムにあてはまらず、明日どこにいるのかもわからない。
思えば浮浪児という設定のモモ自身がそのような存在、つまりすべてを管理しようとする灰色の男たちにとっては厄介な存在だ。
ミヒャエル・エンデは『ものがたりの余白』の中で、子どもの頃に、近所の家で冬を越すことになったサーカス芸人一座と過ごした思い出を語っている。
サーカス芸人たちは芸術家そのものだとエンデは言う。
「芸術家の存在は、この世に、なんの役にもたたないことをする者がいるためなんです。いわば無償で起きるなにか。なにか有益なことを得ようとしてするのではない。それを人類が失えば、人類はとても大切なポイントを失うことになる、そのようなもの。」
すべてがシステム化されて整い、自分で創意工夫する必要もない便利な都市は、怪しげな翳をも受け入れて消化する包容力を失い、人々は生気を欠いて見える。
人間には清潔な秩序ばかりでなく、幾ばくかのいかがわしさのようなものがまとわりついているほうが人間らしいというものだ。
そうした人間臭い生気が、ある力にとっては邪魔なのだろうけれど、逆に言えば、次の全く新しい文明を創る原動力をどこに見出したらよいかということへの示唆にもなる気がする。
posted by Sachiko at 14:45
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2022年10月06日
「音楽を愛する友へ」
薄い文庫本で、しかもとても古いのでとっくに絶版になっている、エトヴィン・フィッシャーの「音楽を愛する友へ」。
今では音楽よりも自然音のほうが好ましいと思っている私は、到底音楽を愛する人とは言えないのだけれど、美しい文章のこれは別格だ。
モーツァルトの章はこのように始まる。
「誰かに対して、なにか特別の好意を示してあげたいと思うときにはいつも、わたくしは、ピアノに向ってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのがつねである。」
昔ある音楽関係者が、「造形美術では作品が残る。残るっていうのはすごいことだ!」と言ったことがある。
私は、演奏するそばから消えて行く音楽というものが、不思議に純粋な気がしていた。
演奏会なら、たいていは録音されている。でも個人的に贈られた特別な演奏は、記録されることもなく、ただ思い出の中だけで響き続けるのだろう。
特別な演奏といえば、ヘルマン・ヘッセのひとつのエピソードを思い出す。何に載っていたのか憶えていないので、かなりざっくりした話になってしまうが....
ヘッセはスイス(だったかな?)のホテルに滞在中、心身共に消耗した状態だった。
たまたまその時パブロ・カザルスも同じホテルに滞在していて、ヘッセのために一曲演奏することを申し出た。
ヘッセは頭痛がして不調だったのだが、その申し出を受け入れた。
カザルスの演奏はすばらしく、ヘッセの状態を一変させた....
と、このような話だったと思う(記憶あいまい...)。
「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」と言ったのは誰だったか、その本当の意味がどういうことなのかわからないけれど、感覚的に思うのはやはり、物質的な軌跡を残さないということなのだ。
現れた端から消えていく音は、どこへ行くのだろう。
最も物質性から自由な芸術だという音楽は、物質界ではないところからやってきて、つかの間この世界に響いてはまたどこかへ還っていく。
そういえばシュタイナーは、楽器は霊界から取ってこられたものだと言っていた。
私は、人間が作った道具の中で最も美しいものは楽器だと思っている(特にバイオリン属)。あれほど完成された美しいかたちはない。
---------
宇宙におけるいっさいの現象は変化であり、永遠の生成と消滅とである。
それでも大自然はこの久遠の輪廻の輪からのがれようとするものであるらしく、つねに新たな世代と、より高度に形成された新しい様式とを創造することにより、死を克服しようと努めてやまない。
・・・
魂は、はるかなる失われた故郷へのかすかな追憶を、なおもいだきつづけているかのごとく、精神が起ち上がり、生死の彼方になにものかを求めるのである。(「芸術と人生」の章より)
---------
フィッシャーの演奏は、昔FMでたまたま流れたのを聴いて、あのエトヴィン・フィッシャーだ!と耳を澄ませたことがある。
中古CDならまだ手に入るかもしれない。
今では音楽よりも自然音のほうが好ましいと思っている私は、到底音楽を愛する人とは言えないのだけれど、美しい文章のこれは別格だ。
モーツァルトの章はこのように始まる。
「誰かに対して、なにか特別の好意を示してあげたいと思うときにはいつも、わたくしは、ピアノに向ってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのがつねである。」
昔ある音楽関係者が、「造形美術では作品が残る。残るっていうのはすごいことだ!」と言ったことがある。
私は、演奏するそばから消えて行く音楽というものが、不思議に純粋な気がしていた。
演奏会なら、たいていは録音されている。でも個人的に贈られた特別な演奏は、記録されることもなく、ただ思い出の中だけで響き続けるのだろう。
特別な演奏といえば、ヘルマン・ヘッセのひとつのエピソードを思い出す。何に載っていたのか憶えていないので、かなりざっくりした話になってしまうが....
ヘッセはスイス(だったかな?)のホテルに滞在中、心身共に消耗した状態だった。
たまたまその時パブロ・カザルスも同じホテルに滞在していて、ヘッセのために一曲演奏することを申し出た。
ヘッセは頭痛がして不調だったのだが、その申し出を受け入れた。
カザルスの演奏はすばらしく、ヘッセの状態を一変させた....
と、このような話だったと思う(記憶あいまい...)。
「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」と言ったのは誰だったか、その本当の意味がどういうことなのかわからないけれど、感覚的に思うのはやはり、物質的な軌跡を残さないということなのだ。
現れた端から消えていく音は、どこへ行くのだろう。
最も物質性から自由な芸術だという音楽は、物質界ではないところからやってきて、つかの間この世界に響いてはまたどこかへ還っていく。
そういえばシュタイナーは、楽器は霊界から取ってこられたものだと言っていた。
私は、人間が作った道具の中で最も美しいものは楽器だと思っている(特にバイオリン属)。あれほど完成された美しいかたちはない。
---------
宇宙におけるいっさいの現象は変化であり、永遠の生成と消滅とである。
それでも大自然はこの久遠の輪廻の輪からのがれようとするものであるらしく、つねに新たな世代と、より高度に形成された新しい様式とを創造することにより、死を克服しようと努めてやまない。
・・・
魂は、はるかなる失われた故郷へのかすかな追憶を、なおもいだきつづけているかのごとく、精神が起ち上がり、生死の彼方になにものかを求めるのである。(「芸術と人生」の章より)
---------
フィッシャーの演奏は、昔FMでたまたま流れたのを聴いて、あのエトヴィン・フィッシャーだ!と耳を澄ませたことがある。
中古CDならまだ手に入るかもしれない。
posted by Sachiko at 22:23
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2022年09月03日
土地の記憶
以前、ヨーロッパの古都では層になった時間の重さを感じるというようなことを書いた。
同様のことは日本でもあり、本州へ行くと空気が重く感じる。
単に湿度の高さ(文字通り物理的に空気が重くなる)や、道路が狭く建物が密接している圧迫感だけではなく、やはり歴史の重さというものなのだろう。
北海道には明治以前も先住民族が住んでいたけれど、人口は少なく自然が圧倒的で、「○○の乱」とか「□□の変」という類の、権力争いや人間の念がぶつかり合うような歴史ではなかった。
そこに住む人間がどんな思いを持って生きていたのか、家や土地は記憶している。家の精霊、土地の精霊というものは確かにいるのだ。
この間ふと、そういえば京都は自然災害が少ないな、と思った。
かつて長いあいだ都だった場所だし、昔から治水対策などもされていたのだろうが、それだけではない気がした。
日本でいちばん安全な土地は京都だという説もあるらしく、何か古い呪術的な力が今も働いていて、結界を作っているのかも...?などと考えると物語の世界に入り込んでしまうけれど。
シュタイナーは土地のオーラについても言及していて、商業都市と工業都市とでは違うオーラを持っているというようなことを言っている。
その都市を訪ねてみれば、誰でも感じとることができる。
地球自体が、意識を持った有機体だ。
そして大地は、その上を歩く人の思いを受けとるという。
人々の意識と織り合わされて、それぞれの土地のオーラを形づくる。
人間は大地と離れていない。大地の上に暮らすことは、共同創造だ。
そのことを人間に思い出してほしいと、まさに今、大地は切望しているにちがいないと思う。
同様のことは日本でもあり、本州へ行くと空気が重く感じる。
単に湿度の高さ(文字通り物理的に空気が重くなる)や、道路が狭く建物が密接している圧迫感だけではなく、やはり歴史の重さというものなのだろう。
北海道には明治以前も先住民族が住んでいたけれど、人口は少なく自然が圧倒的で、「○○の乱」とか「□□の変」という類の、権力争いや人間の念がぶつかり合うような歴史ではなかった。
そこに住む人間がどんな思いを持って生きていたのか、家や土地は記憶している。家の精霊、土地の精霊というものは確かにいるのだ。
この間ふと、そういえば京都は自然災害が少ないな、と思った。
かつて長いあいだ都だった場所だし、昔から治水対策などもされていたのだろうが、それだけではない気がした。
日本でいちばん安全な土地は京都だという説もあるらしく、何か古い呪術的な力が今も働いていて、結界を作っているのかも...?などと考えると物語の世界に入り込んでしまうけれど。
シュタイナーは土地のオーラについても言及していて、商業都市と工業都市とでは違うオーラを持っているというようなことを言っている。
その都市を訪ねてみれば、誰でも感じとることができる。
地球自体が、意識を持った有機体だ。
そして大地は、その上を歩く人の思いを受けとるという。
人々の意識と織り合わされて、それぞれの土地のオーラを形づくる。
人間は大地と離れていない。大地の上に暮らすことは、共同創造だ。
そのことを人間に思い出してほしいと、まさに今、大地は切望しているにちがいないと思う。
posted by Sachiko at 22:38
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