2022年10月06日

「音楽を愛する友へ」

薄い文庫本で、しかもとても古いのでとっくに絶版になっている、エトヴィン・フィッシャーの「音楽を愛する友へ」。

今では音楽よりも自然音のほうが好ましいと思っている私は、到底音楽を愛する人とは言えないのだけれど、美しい文章のこれは別格だ。

モーツァルトの章はこのように始まる。

「誰かに対して、なにか特別の好意を示してあげたいと思うときにはいつも、わたくしは、ピアノに向ってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのがつねである。」


昔ある音楽関係者が、「造形美術では作品が残る。残るっていうのはすごいことだ!」と言ったことがある。
私は、演奏するそばから消えて行く音楽というものが、不思議に純粋な気がしていた。

演奏会なら、たいていは録音されている。でも個人的に贈られた特別な演奏は、記録されることもなく、ただ思い出の中だけで響き続けるのだろう。


特別な演奏といえば、ヘルマン・ヘッセのひとつのエピソードを思い出す。何に載っていたのか憶えていないので、かなりざっくりした話になってしまうが....

ヘッセはスイス(だったかな?)のホテルに滞在中、心身共に消耗した状態だった。
たまたまその時パブロ・カザルスも同じホテルに滞在していて、ヘッセのために一曲演奏することを申し出た。

ヘッセは頭痛がして不調だったのだが、その申し出を受け入れた。
カザルスの演奏はすばらしく、ヘッセの状態を一変させた....
と、このような話だったと思う(記憶あいまい...)。


「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」と言ったのは誰だったか、その本当の意味がどういうことなのかわからないけれど、感覚的に思うのはやはり、物質的な軌跡を残さないということなのだ。

現れた端から消えていく音は、どこへ行くのだろう。
最も物質性から自由な芸術だという音楽は、物質界ではないところからやってきて、つかの間この世界に響いてはまたどこかへ還っていく。

そういえばシュタイナーは、楽器は霊界から取ってこられたものだと言っていた。
私は、人間が作った道具の中で最も美しいものは楽器だと思っている(特にバイオリン属)。あれほど完成された美しいかたちはない。

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宇宙におけるいっさいの現象は変化であり、永遠の生成と消滅とである。
それでも大自然はこの久遠の輪廻の輪からのがれようとするものであるらしく、つねに新たな世代と、より高度に形成された新しい様式とを創造することにより、死を克服しようと努めてやまない。
・・・
魂は、はるかなる失われた故郷へのかすかな追憶を、なおもいだきつづけているかのごとく、精神が起ち上がり、生死の彼方になにものかを求めるのである。(「芸術と人生」の章より)

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フィッシャーの演奏は、昔FMでたまたま流れたのを聴いて、あのエトヴィン・フィッシャーだ!と耳を澄ませたことがある。
中古CDならまだ手に入るかもしれない。
  
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(4) | 未分類
2022年09月03日

土地の記憶

以前、ヨーロッパの古都では層になった時間の重さを感じるというようなことを書いた。
同様のことは日本でもあり、本州へ行くと空気が重く感じる。

単に湿度の高さ(文字通り物理的に空気が重くなる)や、道路が狭く建物が密接している圧迫感だけではなく、やはり歴史の重さというものなのだろう。

北海道には明治以前も先住民族が住んでいたけれど、人口は少なく自然が圧倒的で、「○○の乱」とか「□□の変」という類の、権力争いや人間の念がぶつかり合うような歴史ではなかった。


そこに住む人間がどんな思いを持って生きていたのか、家や土地は記憶している。家の精霊、土地の精霊というものは確かにいるのだ。

この間ふと、そういえば京都は自然災害が少ないな、と思った。
かつて長いあいだ都だった場所だし、昔から治水対策などもされていたのだろうが、それだけではない気がした。

日本でいちばん安全な土地は京都だという説もあるらしく、何か古い呪術的な力が今も働いていて、結界を作っているのかも...?などと考えると物語の世界に入り込んでしまうけれど。


シュタイナーは土地のオーラについても言及していて、商業都市と工業都市とでは違うオーラを持っているというようなことを言っている。
その都市を訪ねてみれば、誰でも感じとることができる。

地球自体が、意識を持った有機体だ。
そして大地は、その上を歩く人の思いを受けとるという。
人々の意識と織り合わされて、それぞれの土地のオーラを形づくる。

人間は大地と離れていない。大地の上に暮らすことは、共同創造だ。
そのことを人間に思い出してほしいと、まさに今、大地は切望しているにちがいないと思う。
  
posted by Sachiko at 22:38 | Comment(2) | 未分類
2022年07月06日

誰のものでもない

かつて、近所の空き地は誰のものでもなかった。少なくとも子どもたちにとっては。

そこに咲いているタンポポもシロツメクサもアカツメクサも、そのほかの名前のわからない草も、誰のものでもなかった。

それで子どもたちは勝手にそこに入って遊び、草花を摘んで冠や首飾りを作ったり昆虫を捕獲したりしたが、誰からも何も言われることはなかった。

明らかに所有者がいる庭でも、中には空き地に似た性質を持っているところもあった。

そこに子どもたちが入り込み、落ちている栗を少しばかり拾ったり、花の蜜を吸ったとしても、誰からも何も言われることはなかった。

それらは日常的な子どもの風景として認知されていた。
子どもたちのうちの誰かが、その家の住人と知り合いででもあればそれでよかった。


いつしか、どんなものにも所有権があり、所有者以外は子どもと言えども触れることができなくなった。
そして他人が所有する土地から木の実ひとつでも持ってこようものなら、窃盗罪に問われる恐れが生じた。


かつて先住民たちは、聖なる大地を所有しようなどとは思いつかなかった。

そこへ所有したり売り買いする人たちがやってきて、住んでいた土地を追われた。土地だけではない。領海とか領空とか、海や空までも誰かのものらしい。

土地を所有し、それを売ったり貸したりして利益を得るのは、霊的に見れば盗みなのだとシュタイナーは言う。
けれど現代人である以上、誰もそこから逃れられない。

本来、誰のものでもなかった地球。
今や、誰のものでもないものはもうほとんど残っていない。


ほおずきの白い花が咲いている。
子どもの頃、ほおずき人形を作ったりして遊んだけれど、あのほおずきはどこから持って来たのだったっけ。

誰のものでもない星の上で、ただそこにある木や草花を楽しみ、生きものと戯れるシンプルさの中に、人間はふたたび到達できないものか。
空き地で遊んだ子どものように。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(2) | 未分類
2022年06月12日

手紙とエーテル

手紙というものを書かなくなって久しい。
今思えば、手紙には単に用件や何かを伝えるという以外の要素が多くあった。

筆跡を通して、その人のエーテル体とつながることができるのだという。
以前「ペン習字のお手本みたいな字の手紙はもらいたくない」と言った人がいた。
美しい文字には違いないけれど、誰だかわからない仮面の人物のような気もしてしまう。
改まった文書ではないのだから達筆である必要はなく、一目で誰だかわかるのがいい。


昔よく学校で友だちと手紙の交換をしていた。
前の日に書いた手紙を、朝渡す。
教室で毎日会っているのに何を書いていたのか、中身はもう全く憶えていない。
時間を割いて、何かの思いを綴る。
簡単便利な今のLINEとは、似ているようで違っていた。

SNSではたくさんの投稿が、毎日あっという間に流れていく時代。
かつてのゆっくりした時間の流れ方は、エーテルの流れでもあったような気がする。

そのエーテル感覚が、近年はとても弱っているように思う。
オンライン何とかというのは、私は苦手だ。
確かにZoomは便利で、遠くまで出向かなくても済むのだが...

現代生活が、文字を書かなくてもすむように、さらにここ2、3年は生身で会わないように方向づけられていたのは、大切なエーテル感覚を希薄にするための策略のように見えてしまう。

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訳あって少々忙しく、あまり頻繁に更新できないかもしれませんが、ゆっくりとおつきあいくださいませ♪
  
posted by Sachiko at 22:33 | Comment(2) | 未分類
2022年03月27日

四つの気質

ここで勝手にリンクを貼っている「森へ行こう」というブログ、コピー転載自由ということなので、3月27日付の記事の一部を転載させていただいた。

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一般的に多血質の人は「色」に敏感です。ですから、多血質の人は色彩豊かな世界に生きています。また「変化」が好きなので、変化するものに引き寄せられます。

憂鬱質の人は「音」に敏感です。ですから、憂鬱質の人は豊かな音の世界に生きています。特に人の声や自然の音には敏感です。色よりも明暗に対する感受性が高いです。
またそのため、「騒がしい音」や「明るすぎる場所」は苦手です。
多血質の人と同じように変化にも敏感ですが、多血質の人が変化を好むのに対して、憂鬱質の人は変化を怖がります。
そして日本人はそのような感性が強い民族です。

粘液質の人は肌に触れてくるものに敏感です。肌に触れる風、肌に触れる光、手をつないだときの手のぬくもり、子どもを抱いているときの柔らかい感触、お風呂のお湯の感覚のようなものが好きで、その感覚に浸っていると幸せを感じます。

胆汁質の人は社会的な活動や意味のある行動に強い関心があります。
そのため「善悪」には興味がありますが、「美醜」には興味がありません。人工的なものには興味がありますが、自然にはあまり興味がありません。目立つものが好きです。自分が目立つのも好きです。
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人間の基本的な四つの気質について普段から意識する人は多くないかもしれない。シュタイナー教育では子供のときから気質について学ぶ。

ひとりの人間の中で四つの気質は入り混じっていて、どれか一つに特化しているわけではなく、どの気質の傾向が強いか、ということなのだ。
あるタイプの人とどうも合わなかったりすることも、気質を理解することによって緩和できたりする。

(ちなみに私はバリバリの胆汁質(特に男性)が苦手だ...などと書いてしまってはマズイかな、と思ったけれど、たぶんバリバリ胆汁質の人は私のブログには来ないだろう。)

同じ気質でも、年齢性別、背景の文化や気候風土などで、色合いのグラデーションのように現れかたが違ってくる。
日本人の憂鬱質と北欧人の憂鬱質はかなり質が違うと思う。

日本人はほんとうに憂鬱質が強いのか、もしそうなら日本の都市はなぜこんなに騒音やギラギラした照明が多いのか?という疑問もある。
元々は「もののあはれ」を感じ取る精妙な感性を持っていたはずが、現代特有の別の要因が入り込んでしまったのだろう。


今日は最初のスノードロップが咲いていた。
その写真を撮りそこなったこともあり、急遽話題を変更した次第。
  
posted by Sachiko at 22:21 | Comment(0) | 未分類