2019年09月23日

オセロ

ある時、オセロ(ゲーム)のコマは一種類しかないということにふと気づいて、あらためてすごい発見をしたような気がした。

チェスや囲碁は、駒(石)が最初から白黒二種類に分かれている。
…が、オセロは白黒が表裏一体、同じものなのだ。

つまり、同じもの同士が互いに自分が隠した裏側と戦っている。
オセロで遊んでいる時にそんなことは考えないだろうが、まるでこの二元世界の仕組みのようで、なんだかとても深くないか...?と思ったのだ。

今日は秋分の日、昼と夜がちょうど半分ずつ。
昼と夜も、分かれた別物ではない。宇宙空間から地球を見れば、昼と夜は表裏一体、同じ地球の上を交代しながら回っている。
そして太陽は天秤座に入る。これもバランスの星座だ。

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〈水辺の9月〉 https://fairyhillart.net

september1.jpg
  
posted by Sachiko at 22:03 | Comment(2) | 未分類
2019年09月06日

暗闇と沈黙と

地震とブラックアウトからちょうど1年ということで、ローカルメディアは数日前からいろいろ特集を組んでいる。

結局一番私の印象に残っているのは満天の星空だったりするのだが....
あの時星空を見上げた人は多かった。
これほどの星が見られるなら、たまに街の電気を消してみるのもいいのではないか、と言った人もいた。

濃い暗闇は、かすかな光を見えるようにする。深い沈黙は、かすかな音を聞こえるようにする。

それらは、ふだんの都会の溢れかえる光や音の中ではかき消されてしまっているものだ。

真っ暗闇になった時に、星があるのはいいことだ。


暗闇の中の美の話として、ヴィクトル・フランクルの「夜と霧---ドイツ強制収容所の体験記録」の中のこんなエピソードがある。

想像を絶する過酷な収容所生活、極限状態の中で、一日の労働を終えた囚人たちが夕焼け空に目をうばわれ、「世界は何て美しいんだ!」と感嘆したという話だ。

どんな状況であれ、それよりも遥か高い次元に美がある。それを知るのはいいことだ。
  
posted by Sachiko at 21:03 | Comment(2) | 未分類
2019年08月30日

ブラックな話

今日は新月。一か月に二度新月がある場合、二度目をブラックムーンというそうな。

二度目の満月をブルームーンというのは聞くが、ブラックムーンは初めて知った。昔から言われていたのか最近できた言葉なのかはわからない。
いずれにしても占星術などの世界で使われる言葉で、天文学用語ではないようだ。

昨日はブラックベリーの話だったし、ブラックつながりというわけではないけれど、最近のブラック校則は昔よりひどくなっているという話を聞いた。

かつて、がんじがらめな校則に順応した子供たちは、自分たちが大人になったときにはもっとひどい管理社会を作り出すだろう、という警告が新聞に載っていたことがあったのを、なぜか憶えている。

思えば私はブラック校則には遭遇したことがない。
高校の生徒手帳1ページの半分くらいに数行何か書いてあったような気がするが、「〜〜は自由とする」とか「〜〜についてはこれを認める」とかいうもので、禁止事項はひとつもなく、他校の友達に見せたら驚かれたが、今はどうなったことか。

こと細かな規則を決めて従わせ、そこから外れたら罰するようなことを「きちんとした良いこと」と信じている人もまだ多いのだろうか。

シュタイナーの、悪の二面性の話がある。
きちんとしているのは良いことだが、どうでもいいような細かいことにこだわる杓子定規になれば、悪のはたらきになる。

その逆の、いい加減さやだらしなさも悪といえるが、おおらかさ、鷹揚さになると、よいはたらきになる。
現代の悪についての話は、長くなるのでまた別の機会に譲ろう。

おおらかさ、鷹揚さ、機転とユーモア....
それで思い起こすのはやはりムーミンママだ。なんと絶妙なバランスの持ち主だろうとあらためて思う。

ブラックといえば、あの地震によるブラックアウトから、もうすぐ1年が経つ。真っ暗になった空一面の星は美しかった。
  
posted by Sachiko at 21:43 | Comment(2) | 未分類
2019年08月28日

夢の中の時間

「《まるい時間》を生きる女、《まっすぐな時間》を生きる男」(ジェイ・グリフィス著)という本を読んでいる。

この日本語版タイトルは見事で、テーマの本質を突いている。
原題は「PIP PIP」という。これは原子時計が秒を刻むピッピッという音のことらしい。

中に、子どもの時間についての記述がある。

「子供たちは“いま”という時間、野生の時間、永遠に対する天性の鋭敏な感覚に恵まれているため、おとなたちはそれを飼いならす必要がある」


昔、友達とこんな話をしたことがあった。
たまに、子どもの頃の友だちが夢に出てくることがあるが、夢の中の彼らは子どもの姿のままだ...
すると、こう訊かれた。
「で、自分は?」

え?自分はどうだろう。
「そういえば…自分はわからない」と答えた。
その夢の中で、私も昔の姿なのか、大人の私がそこにいるのか...

夢の中では時間が交錯している。
以前ある作家が、いまだに学生時代の試験で苦しんでいる夢を見ると言っていた。
そして、そこでは学生の自分と、すでに作家になっている自分がごっちゃになっていて、「大変だ、この試験落としたら、また小説書いて学費稼がなきゃ」と思っている...という話だった。

私もよく、出席時間が足りなくて単位がとれずこのままでは留年!という夢に悩まされたが、さすがに最近は見なくなった。

夢の時間はきっと、まるい時間だろう。
時間ではあるが、同時にすべての時間がそこに並んでいる空間でもあるように感じる。


著者はこう言う。
「…子供たちはつねにわれわれとともにあり、前産業革命時代のなかに生き、そのさまざまな果実のまじった時間、遠まわりの時間、遊び時間、タンポポの時間を生きているからだ。…子供たちは頑丈な多年草であり、それよりもっとはるかに価値があり、はるかに楽しいなにものか、遊びという革命の時間をしっかり守っているからだ。」

だがタンポポの時間を生きている子供たちは今も健在なのか、残念ながらわからない。この本の初版は1999年、前世紀だ
長時間学校に拘束されたあげく、さらに塾やら学童デイサービスやらに捕まって飼いならされていないか?

近年はますます、女性も子どももまっすぐな時間を生きるように強いられている気がする。まるでそれだけが正当な時間であるかのように。

本はまだ読みかけなので、今後また時間の話は続くと思う。
もちろんどちらか一方が正しいわけではない。円と直線が融合すると、聖なる螺旋形になる。
そのためには今、生き生きとしたまるい時間が息を吹き返さなければ。
  
posted by Sachiko at 22:27 | Comment(2) | 未分類
2019年05月15日

一周年

HP開設に伴いこのブログも始めてちょうど1年、停電とお正月を除き、ほぼ日刊で書いてきたけれど、これは月1ペースで更新のブログなら30年分だな...と思い、無理せずこの辺で少しペースダウンしようと思います。
少しばかりゆっくりおつきあいください。

今日はこれだけではつまらないので、以下、ウルスラ・ブルクハルトの別の本「Elementarwesen Bild und Wirklichkeit(元素霊 イメージと現実)」の冒頭に載っている短い詩を...
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光小人の歌

光のともった
ランプは小さく
暗闇は濃い
我らはまだ
天使のように
大きく輝けない

ともった光は
つつましやかに
地球の中に
軌跡を描く

小さな明かりしか
ともせなくても
我らはすでに、光
やがて暗い時を超え
地平から昇る
太陽のように
  
posted by Sachiko at 22:00 | Comment(2) | 未分類