2020年11月20日

飛行機とお人形

前回宮崎駿氏の話が出たので....
私はジブリ作品には幾つか好きな作品があるけれど、特に熱いジブリファンというわけでもない。

みんな大好き「トトロ」と、個人的には「耳をすませば」が好きだ。
物語の世界を愛する少女とバイオリン職人の少年の組み合わせはかなりツボにはまる。
そして猫のバロンの物語、地球屋のおじいさんとその仲間達...

一方、よほど相性がわるいのか、何度見ても内容が理解できなかった作品もある。
「紅の豚」は、5回くらい見たはずだ。
なぜそんなに見たのかというと、話を把握できなかったからだ。

毎回、今度こそ理解できるようにちゃんと見よう!と思ってテレビの前に座るのだが....
気がつくとエンドロールが流れていて、え...これで終わり?今の何だった...?ということになる。

4回目に見たときに、やっとヒロインの名前を覚えた(ジーナ・・・だったっけ?で、彼女は何者だったかな...)。
いまだに、なぜポルコ・ロッソが豚になったのか、そもそも全体がどんな話だったのかわからない。

ある時その話をしたら、「『紅の豚』は、男の人が好きな作品だよね〜」と言われた。
なるほど....


小さい時、隣の家に同い年の男の子が住んでいて、時々遊びに行った。
ある時いっしょに絵を描いて遊んでいると、その子のお母さんが来て、「やっぱり女の子はお人形さん描くし、男の子は飛行機描くね〜」と言った。

たぶん、誰に教わったわけでもないのにそうなのだ。
子どもがある程度意味のわかるものを描ける年齢になった時、なぜか女の子は「女の子」の絵を描き、男の子は飛行機や車を描く。

小学校の休み時間、ひとりの男の子が戦闘機や戦車や、ミサイルが落ちて火柱が上がっているような絵を描き、他の男の子たちが周りで「かっこいい〜〜!」と騒いでいたのを思い出す。

一方女の子が描く絵の定番といえば、少女が子犬を連れてお花畑を散歩している...という類で、空を飛んでいるものがあるとしたら小鳥かチョウチョだった。
ここには人間と動物と植物がいるけれど、テクノロジーの産物はない。

なんだか、二つの全く性質の違う文明のように見える。

ジブリの、飛行機の話はもうひとつあった。
「風立ちぬ」でも、ヒロイン菜穂子の帽子が飛んだり、丘の上で絵を描いていたり、サナトリウムにいるシーンは憶えているのだけれど、飛行機に関する話は記憶から消えている...

空を飛ぶものが苦手ということではなさそうだ。
「魔女の宅急便」の、キキのほうきのことはよく憶えている。
   
posted by Sachiko at 21:47 | Comment(2) | 未分類
2020年08月17日

“ひとり”は悪か?・3

「己の影を抱きしめて」(清水真砂子インタビュー)より

この中で、魔女狩りの話が出てきた。
魔女とされた人を火あぶりの刑場に追い立てていく群衆の中に、たったひとりでも、足を止めて逆方向に歩きだす人はいなかったのだろうか。
自分は足を止めて逆方向に歩きだせる人間になりたいと思った....というお話だった。


この“ひとり”は命がけだ。
もしその場でそうした人がいたら、おそらく魔女の仲間として捕らえられ、いっしょに刑場送りになったのではないか。
それでも敢えて群衆から離れる勇気があるか?という話だろうが、それは簡単じゃない...

これは現代にも通じる話で、魔女狩りは、ある特定の時代、特定の地域のものではなく、時代を変え場所を変え形を変えて、繰り返し現れる。
大勢に同調しない“ひとり”が、悪と見なされてしまう可能性はいつもある。

学生たちに、ひとりでいることは悪いことだと思い込ませる力は、足を止めて逆方向に歩きだすひとりの人間を存在させないためのものかもしれないと思う。

己の影に怯える人々の恐怖が、狩るべき魔女を必要とする動機になり、そのようなことは現実世界でも頻繁に現れる。

言っていることの内容や主張が真逆に見えても、まるで互いが鏡像のように、放射しているエネルギーの質が同じだということはよくある。

魔女狩りの列に加わらないのは、“己の影を抱きしめる”ことのできる人々だろう。

時代の大きな変わり目に、ほんとうに必要なことだと思うので、以前紹介したアーシュラ・K・ル=グウィンのエッセイの中にあった、ユングの言葉をもう一度...

「自分自身の影をうまく扱うことを学びさえすれば、この世界のためになにか真に役立つことをしたことになる。
その人は今日われわれの抱えている膨大な未解決の社会問題を、ごく微小な部分ではあっても自分の肩に背負うという責をはたしたのである。」

このインタビューはもう少し保存しておくことにした。
   
posted by Sachiko at 22:14 | Comment(2) | 未分類
2020年08月15日

一番の思い出は

「己の影を抱きしめて」(清水真砂子インタビュー)より

清水さんが学生たちに、子ども時代の一番の思い出を書くようにと課題を出したら、そのほとんどが、「どこかに連れていってもらった話」と「何かを買ってもらった話」だった、というエピソードがあった。


振り返ると私の場合、イベントはなぜかほとんど憶えていない。そのことを昔から不思議に思っていた。

確かに子どもの日には必ずどこかに連れていってもらった。
毎年新しい場所を探して計画してくれていた父には申し訳ないが、これもあまり記憶には残っていない。
写真があるので「行ったんだな...」と思うだけだ。

「これは思い出になるからね」と先生が言っていた、運動会や遠足、大イベントだったはずの修学旅行や卒業式さえ、ほとんど印象に残っていない。

それよりも、なぜこんなことを憶えているのか?と思うような、何ということのない日常の断片が、妙に鮮やかに記憶されていたりする。

ある時、理科でジャガイモを植えた。
何日か経って、数人の男の子たちが、ジャガイモが芽を出したかどうか確かめに行くというので、ついて行って土をそっと掘った。

「あっ、芽らしいもの発見!」
「おお!」

誰かがその様子を見ていたらしい。
帰りの会で先生が、「ジャガイモ畑を掘り返しに行った連中がいるようだが、そういうことはしないように」と言った。
別にこんなしょうもないことが一番の思い出というわけではないが....

記憶の海からキラリと泡のように浮かび上がってくるものは、誰かとの些細な会話だったり、それ自体「できごと」ですらない情景の一片だったりする。
あの杏の木の下の空気感のように、それらが織り合わされて思い出をかたち作る。


・・・清水さんは質問の仕方を変え、「イベントと買い物の話は除く」としたら、おもしろい話が次々と出てきたという。
そしてやはり、それ自体が出来事とも言えないようなことが、学生のその後の人生にずっと寄り添っていたりするのだ。

子ども時代の特別な感覚は、大人が「良かれ」と思って用意してくれたあれこれをすり抜けて、思いもよらないものを拾い上げていくようだ。
子どもの「宝もの」が、大人のそれとは異なるように。
  
posted by Sachiko at 21:48 | Comment(2) | 未分類
2020年08月05日

ふたつの力・3

若くして高みに達し、早々に世を去ってしまった天才たちがいた。
ノヴァーリス29歳、モーツァルト35歳、ラファエロ37歳....

こういう人々は、その創造の力を青春の力から汲んで来たのだという。そしてそのことが、肉体の死を早めることになったのだ。

一方、人生の後半から輝きを増す場合もある。
例えばフランシスコ・デ・ゴヤは、40歳を過ぎてから画家としての地位を確立し、当時としてはかなり長命の、82歳の最晩年に至るまで精力的に創作を続けた。

こういう人々は、創造の力を死の力の中から汲むのだという。そしてこの二つは全く別のことなのだ、と。

これは不思議なパラドックスのようだ。
青春から汲まれた創造の力は早い死をもたらし、死から汲まれた創造の力は晩年まで力強い。

ゴヤ最晩年の作で、絶筆と言われている「ミルク売りの娘」。

milk.jpg

かなりおどろおどろしい絵を多く描いたゴヤは、個人的には特に好きな画家ではなかったけれど、最後に描かれた、青春が匂い立つようなバラ色の頬をした少女の姿は、胸に沁みるものがある。


ところで女性の更年期というのは、それまで出産に備えて保たれていた宇宙的な力が解放されて、今度は創造の力に変容させて使えるようになる時期なのだそうだ。

それは可能性であり、どう使うかあるいは使わないのかは、個人に委ねられている。これはやはり使った方がいい。

「私の若さの源泉は、想像力。みなさんも、想像力を枯らさないで!」(by ターシャ・テューダー)
  
posted by Sachiko at 21:47 | Comment(2) | 未分類
2020年08月01日

“ひとり”は悪か?・2

「己の影を抱きしめて」(清水真砂子インタビューより)

前回、ひとりでいることはいけないことだと思い込まされている学生たちの話を書いた。
ではどんな力が、なぜ、そう思い込ませているのだろう。

何かで読んだ、恐怖政治のコミュニティの物語があった。
恐怖政治というと、常に背中に銃を突きつけられているようなイメージが浮かんだが、そうではなかった。


そのコミュニティでは、すべてが十分にある。
衣食住は満たされ、仕事もある。
ただし、仕事はひとりで行なってはならず、必ず二人以上でなければならない。

夕食後にはレクリエーションの時間があり、そこでもあらゆる娯楽設備が用意されている。
このレクリエーションには、“必ず”参加しなければならない。
つまり、常に誰かに監視されていて、けっして人をひとりにしておかない....


「人はひとりでいる時が一番賢い」と言ったのは誰だったか。
集団、群衆、衆愚...と、大勢の塊(mass)になるほど愚かになる、と。

このことにも二面性がある。
人が集まることが難しくなった昨今の世界的騒動は、人を分断する力に見える。
同時に、ひとりでいる機会が増えて、自分の内側を見つめることが多くなったという人々もいる。

孤立ではない、ひとりの在り方。
群衆ではない、人々のつながり方。

ひとりひとりの内なる深みに在る「私であるもの」。
『ゲド戦記』は、他の多くのファンタジー作品とは違い、外的な善玉と悪玉の闘いではなく、自分自身の影を統合して真の英雄になる物語だ。

清水さんが「とにかくひとりでいる時間をたっぷりと持ちなさい」と言ったのは、そういうことなのだと思う。
ひとりの深みで、自分自身と世界の真の姿に向かう。
自由な人間を怖れる得体の知れない輩に力を与えないためにも。
   
posted by Sachiko at 22:06 | Comment(2) | 未分類