2022年05月31日

異端狩り

SFのひとつのジャンルとして超能力テーマがあるが、異端の超能力者はたいてい迫害される。

例えばヴァン・ヴォクトの古典的名作『スラン』。
ミュータントの種族「スラン」が、人類によって激しい迫害を受けるが、テレパシーなどの超能力によって、隠れている仲間を探し出す。

主人公がスランの少女と通りですれ違い、テレパシーで互いを認識するシーンをなぜかはっきり憶えている。

「この青年はスランだわ」
「この娘はスランなのだ」

この本は昔持っていたけれど、もうSFは読まないだろうと思って手放してしまった。
先日ふと思い出して調べてみたら今は絶版になっていて、古本にとんでもない価格がついている。本はうっかり手放すものじゃない(>_<)。


迫害されるのは超能力者とは限らない。
以前紹介したブラッドベリの『華氏451度』に登場する少女クラリスは、別に超能力者ではない。
ただ雨の感触を楽しみ、月や草の露の美しさを見る。
それが、不都合なのだ。そして事故を装って消されてしまう。


クラリスによく似た少女の話がある。
萩尾望都さんの初期の短編『ポーチで少女が子犬と』。

幼い少女は超能力者でも何でもなく、ただ雨の日にポーチで子犬と遊んでいる。虹を美しいと思い、葉っぱの裏の妖精のことを考える。
それがどうやら不都合なのだ。

「あんなふうにひとりだけ別個の考えを持っていちゃ困るんですよ。雨の日は家の中にいるべきです。」

そして、家族と家政婦と医者は、少女に指先を向ける。
何かの光線でも発射されたのか、少女は一瞬で消滅する。

何がそんなに不都合なのだろう。


異端狩りはいつの時代にもあった。
先住民迫害、魔女狩り、違う宗派、違うイデオロギー....
動機はいつも“恐怖”だ。
自分たちとは違う少数派。少数なのに、なぜそんなに怖い?

自分が迫害されないために多数派に入ろうとした者も少なくなかっただろう。そうすると、敢えてそうしない者が余計に怖く感じるかもしれない。


これも以前書いたミヒャエル・エンデの言葉をもう一度。

「注目できるのは、世界中の独裁者がファンタジー文学や想像力を敵視したという事実です。彼らはファンタジーの中に、何かアナーキーなものが隠れていると感じたんです。こうしたことからもファンタジーは、人間が持っている創造的な力ということができると思います。」

つまりは自由な想像&創造の力「人間であること」の力そのものが、独裁者にとっては不都合なのだ。

どんな異端狩りも狂気じみているけれど、そもそも歴史の中で、人類が集団的狂気に陥っていない時代があっただろうか。
今この時代にも、あの手この手で・・・・
   
posted by Sachiko at 22:34 | Comment(0) | SF
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