万事休した時に起こった転換といえば、『指輪物語』(瀬田貞二訳)のこの場面を思い出す。
フロドとサムが探索の旅を終えたとき、サムが言う。
「旅はおわりました。けど、はるばるここまで来たあとで、まだ諦めたくねえのです。諦めるなんちゅうのは、どういうわけか、おららしくねえのです。」
そしてサムはフロドと共に、せめて火山からもう少し離れようとする。
流れる火が迫ってくる中、もう逃れようもなくなった二人が倒れた瞬間、ガンダルフが遣わしたオオワシたちが二人を掴んで飛び去る。
力みの入らない、サムの純粋な希望。
それはメリーが“踏んでも叩いても壊れない”と言ったピピンの天性の快活さとも違っている。
ガンダルフはフロドについて、やがて澄んだ光を湛えた盃のようなものになると言ったが、サムもまた、何かそれに似たものに上昇していくように見える。
探索の旅はサムがいなければ成就せず、この物語の最後は、すべてを見届けたサムの帰宅で終わる。
さらに、ビルボから受け継いだ冒険の物語をフロドがほとんど書き終えたとき、「最後の何ページかはお前が書くんだよ。」と、本の最後もサムに託されている。
万事休した時の転換は、起こそうとしても起きないだろう。
諦めきってしまっても起きない。
まさに、弓を引きしぼって、矢がひとりでに放たれるのを待つ境地。
そこに超自然的な何かのはたらきが入り込む場ができる。
あの朴訥なサムの中には、そのような力を通す何かがあった気がするのだ。
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今を生きる私たちにとって、
サムのあり方は
大きなヒントになりそうですね。
フロドが「図」であれば
サムは「地」。
人は「図」の方に注目してしまいがちだけれど、
実は「地」があってこその「図」。
「地」を感知できる感性。
「地」と思っていたものが
実は「図」であった!
というような
大きな認知の転換。
「地」は地味で
自己主張がなく
見過ごされやすいですが。
地味な日々の生活にこそ
大切なものが隠されていて
そして
そこにこそ希望がある
といような・・。
「図」と「地」は一体で、互いにもう一方がなければ成り立たないのに、
分かれた全くの別物に見えることがある。「ルビンの壺」のように。
その「図」と「地」を同時に見る視点が、
これからの時代には必要なのでしょうね。
いのちのいとなみである日々の暮らしは、
人間が人間である堅固な土台だと思います。
過酷な旅に鍋と塩を持って行ったサムは、
物語の終わりに妻子が待つ「家」に帰り着く...
みごとに「人間」の姿を見せてくれました。