2022年02月01日

永遠への窓

「Beauty」(John O'Donohue)より。

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ケルト民族の想像力に基づく文化では、体験は生産されたり所有されたりするものではなく、究極的な何かの一部として焦点が当てられていた。

それは、個人が永遠なるものに触れる神聖な場であり、体験は啓示的な事象を意味した。

そのような世界では、体験は常に精神によって光を当てられていた。
心は、個人的な印象を「処理」する閉じた場所ではなく、心には常に、永遠に面している少なくとも一つの窓があったのだ。

この窓を通して、不思議さと美とが射しこみ、神秘を垣間見ることのできる静かな一隅を照らし出した。
体験によって明らかにされる人間の本質は、神からの贈り物が届く場所でもあった。

体験は個人の私的な産物や所有物以上のものであると理解されていた。
そこには、個人の人生が、他者の愛や自然の生命の中に深く織り合わされているという感覚があった。
個人は、世の中から一定の評価を得ようとしてあがいている孤立した労働者ではない。

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前にも書いたように、ケルト文化の特質は「境界」の中にあると、ジョン・オドノヒューは繰り返し語っている。

この世とあの世、生と死、見えるものと見えないもの....それらははっきりとは分かたれていない。
「美」もまた、向こう側にあるのでもなくこちら側にあるのでもなく、その“あいだ”にある、境界上の事象である。


W・B・イエイツの「ケルトの薄明」の、最後の詩から。

  ・・・・・
 来い、心よ、丘が丘に重なるところへ
 そこには、虚ろな森と、丘をなす森の
 神秘的な兄弟たちがいる、
 そこでは変わっていく月がその意思を遂げ、
 神は佇んで寂しい角笛を吹き、
 「時」と「この世」とはいつも飛びさり、
 愛よりも灰色の薄明が優しく
 希望よりも朝の露が親しいところなのだ。(井村君江訳)

これは詩の後半部分だけれど、この薄明の気分こそケルトの特質なのだろう。

そして、薄明として表される“あいだ”が要なのだ。
“あいだ”を知覚できなければ、ふたつのものは分かれたままで、常に対立と戦いの緊張が生まれる。
元はひとつながりの全体だったというのに。


“個人の人生が、他者の愛や自然の生命の中に深く織り合わされているという感覚”

かつて日本の感性はまさに、この繊細な“あいだ”とともにあったはずだ。
西洋的二元論をこれほど急速に取り込んでしまった結果の、出口を見失ったような昨今の混乱。

永遠に向かって開いている心の窓・・・「窓」はまさに内でも外でもない、その境界だ。
この窓を自覚できたなら、窓の向こう側と自分自身が離れていないことがわかる。

日本でのケルトブームが表面的なブームで終わらず、その深奥---かつてよく知っていたはずの源への道を見出すためにも、ジョン・オドノヒューの著作は日本でもっと知られていいと思っている。
  
posted by Sachiko at 22:42 | Comment(0) | ケルト
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