2021年12月30日

6月に向けて---第六夜

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シュタイナーが伝えた12夜の話から

魂の3つの力の中で、意志は最も神秘的である。
私たちの生活の中で、私たちは2種類の意志を扱う。

1つは自然と、分解や破壊の力と関わり、もう1つは霊性と、地球の建設的な力と関わる。

消化器系の働きや、他の体の動きの中に地上の意志は見出される。
私たちはそれを意識することも干渉することもできないが、それには為すべき仕事がある。

私たちが剣のように振るうことができるのは霊的な意志である。
その剣は私たちの道徳的衝動によって導かれ、私たちをこの世界を創造する原因と結果の不可欠な部分にする。
私たちは自分自身の意志をコントロールすることで大きな責任を負っている。

キリストが”私”という存在を個人的なものとして人間に与えるために地上に降りたとき、私たちはこの責任を与えられた。

では、道徳性とは何か?
それは大いに誤解されていて、私たちが何をするかではなく、どのようにするかに関わっている。

私たちの行為は、自分の幸せが他人の犠牲の上に成り立つのではない場合にのみ道徳的になり得る。

つまり、労働者が酷い扱いを受けている工場で作られた新しい贈物を喜んで受け取ったり、酷い扱いを受けている動物によって生産された安価な食品を喜んで買ったりすると、私たちは不道徳の網に巻き込まれる。

道徳の行為は、私たちの行為が他の人々への関心に由来するときに起こる。
したがって道徳は、他者への愛、最も純粋で最高の愛と敬意から生まれる。

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簡単に手に入れることのできる安価な品物、衣服、食品など、どこでどのように作られているかを意識するのは、心地よくはない。できれば見ないふりをしていたいかも知れない。

フェアトレード製品や、よい環境で育てられた動物に由来するミルクや卵などは、そうでないものよりも高価だ。
誰をも不当に抑圧しないで作られたものだけを買って暮らそうとすれば今より貧しくなってしまうと感じるなら、普段はその貧しさをどこか遠くの他人に押しつけているということだ。


でも仕方がない、世界はそういうシステムになっているのだし....と思いたくなるけれど、それが不道徳の網で、誰もそこから逃れていない。
現代人は、特にいくらか豊かに暮らせている人々は皆、同じ網のムジナということだ。


「私たちの行為は、自分の幸せが他人の犠牲の上に成り立つのではない場合にのみ道徳的になり得る。」

これはまさに、宮沢賢治のこの言葉だ。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

これもまた誤解されやすい言葉で、みんなが幸せになるまで、自分はじっと不幸の中に留まるべきだ、などという意味ではない。
「この私」は、他者から見れば「世界全体」の一部なのだから。

「私」という意識が神から与えられたものならば、深いところにおいて人間は、他者を犠牲にしては心底の幸せを感じることができないように創られているのではないだろうか。
  
posted by Sachiko at 21:02 | Comment(0) | クリスマス
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