2021年04月21日

モラーリッシェ・ファンタジー

どうもモヤっとしていた。
昨日の道徳性という言葉が、日本語では誤解を招きやすい気がしたからだ。
それはけっして、道徳の教科書に書かれた「正しさ」を守ることを指してはいないし、品行方正ないい人を指すわけでもない。

モラーリッシェ・ファンタジーという言葉がある。
道徳的ファンタジー...普段は聞き慣れない言葉だと思う。

こういう場合はこうするものだ、という規範ではなく、毎回その出来事そのものに基づいて、直観的に判断し適切な行動をとれる、というようなことだ。

似た出来事に見えても、何が適切な対応なのかはいつも同じではない。それを瞬時に見てとるために、内的なファンタジーの力を発動する。


アーシュラ・K・ル=グウィンの「子どもと影と」というエッセイの中で、おとぎ話の倫理性について書かれている。

魔法使いのおばあさんをかまどに押し込んだグレーテルの行為を、現実世界の道徳基準で判断するのは馬鹿げた、まったくの誤りだ、と。

これは当然で、おばあさんをかまどに押し込んだあげく隠されていた財宝を持って家に帰った話を、これは強盗殺人じゃないか!と叫ぶのはまったくばかげているのだが、こういう人たちによって多くのメルヒェンが非難されたり改ざんされてしまったのだ。


ル=グウィンはこのように言っている。

・・・おとぎ話の世界には別の基準があって、それはおそらく「適切さ」と呼ぶのが最もふさわしいと思われます。

おとぎ話に登場する悪は、善の対極にある何かではなく、陰-陽のシンボルのように善と固く絡みあって離れないものなのです。

善も悪も互いを凌ぐものではないし、理性や道徳の力で二つを切りはなしてどちらかを選ぶこともできません。
主人公はなにをするのが適切かを見抜く者なのであって、それは彼らに善悪のいずれよりも大きな〈全体〉が見えるからなのです。


善悪の二元を超えたこの〈全体性〉が、モラーリッシェ・ファンタジーによる「適切さ」の位置なのだろうと思う。

道徳の教科書的「正しさ」が、往々にして馬鹿げたものになってしまうことは、童話の改変だけでなく、昨今の「○○警察」の類にも見られる。
このような外的規範による「正しさ」への固執を、ミヒャエル・エンデは、道徳的ファンタジーの反対語として「道徳的不毛」と呼んだ。


ファンタジーという言葉はいわゆるファンタジー文学を連想させるかもしれないが、それはファンタジーの表現形態のひとつであって、日常のさなかにファンタジーを発動させる機会はいくらでもある。

ファンタジー文学においても、ほんとうに優れた文学なら、単純な善悪の戦い(このテーマはほんとうに多い)ではなく、それを超えた全体性への道がどこかに「適切に」示されているはずだ。
   
posted by Sachiko at 22:45 | Comment(0) | ファンタジー
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