一説では「白雪姫」「いばら姫」「赤ずきん」で、また「白雪姫」「いばら姫」「ヘンゼルとグレーテル」だという説もある。
私は「白雪姫」が最高傑作だと思うけれど、いずれにしても「いばら姫」は入っている。
このお話の中で、どうも腑に落ちないところがあった。
姫がつむを指に刺して百年の眠りにつき、同時にお城中のすべてのものが眠ってしまった時、魔女はどうなったのだろう。
自分の魔法にかかっていっしょに眠ってしまったのではあまりにマヌケだし、この魔女についての記述はここで途絶えている。
王子が姫の眠る部屋にやってきた時も、魔女には遭遇していない。
つまり、魔女はもはや、わかり易い魔女の姿では存在していないのだ。
魔女は城を眠りにつかせた魔法のはたらきそのものであって、魔法がとけたときに消えてしまったのではないだろうか....
グリム兄弟はメルヒェンのストーリーそのものには手を加えずに残したが、フランスではかつて多くの作家たちが改変版を作ったと言われている。
シャルル・ペロー版の「眠れる森の美女」は、王子の母親が実は人食い鬼で・・・などというややこしい話になっている。
改変に改変を重ねたディズニー版は、もはや原型をとどめていない。
メルヒェンには著作権がないから何をしてもいいのか?
メルヒェンのように根源(Origin)に根差しているものを恣意的に改変するのは、遺伝子組換に相当する行為のように思える。
ヨハネス・W・シュナイダーの「メルヘンの世界観」では、百年目にやってきた王子について、このように語られている。
「・・お城に入るために、この王子はいったい何を必要としたでしょうか。勇気、決意、あるいは意志の力といったもの以外は必要ではありませんでした。
そして勇気をもっていばらに向かったとき、いばらはしぜんに開いたのです。」
しかし.....この王子の前にも多くの王子たちが勇気と決意と意志を持ってやってきたが、いばらに阻まれて悲惨な最期を遂げたのだ。
最後の王子は何が違ったのか....
百年目の、ちょうど呪いが解ける日にやってきた、ということだけだ。
白雪姫は王子が現われて目を覚ますけれど、いばら姫は、ちょうど目をさます時に王子が現われたのだ。
ちょうどよいタイミング、ここではこれが重要なのかもしれない。
「メルヘンの世界観」の中では、いばら姫の眠りは、知性の抽象思考によって麻痺した状態とされている。つまり現代人はこの状態だ。
このメルヒェンは、根源の世界から離れて、地上で麻痺状態をくぐり抜けたあと、ふたたび本来の人間性を取り戻すという、人類の発達の過程が描かれているという。
解釈はとりあえず脇に置いておくとして、メルヒェンそのものを純粋に響かせてその世界に浸ることが、やはりいちばんの楽しみ方だと思う。
【メルヒェンの最新記事】
知性の抽象的思考によって
麻痺した状態”
おお、なるほど〜!
確かに
現代人は
アタマの中に
自らを閉じ込めている。
直観的知性
とか
禅でいうところの
純粋知性
というものが
真の人間性への扉
なのかもしれませんね。
ほんとうに
分析・解釈よりも
そのものを
感じて楽しむこと♪
AIにかなわなくなるでしょうが、
ハートの叡智、からだの叡智は、
実はアタマよりはるかに賢い。
メルヒェンを降ろしてきたのも、その叡智ですね。