2021年01月24日

ひとつの意味

マリア・グリーペ「森の少女ローエラ」より。

ローエラは学校に通うことになった。
村にいた頃は、試験の時にだけ学校に呼び出されたが、教科書はもらっていたので、試験はいつも上出来だった。
ローエラはクラスに編入され、苦もなく授業についていった。

図画の時間、父の日の絵を描くことになった。だが別の絵でもかまわない。ローエラは父の日の絵を描いても、あげる人がいない。

ローエラは、パパがローエラを引き取ることができなくてがっかりしていたという、アグダ・ブルムクヴィストの言葉を思い出した。

ローエラは思う。あたしにはパパがいる。あたしはパパに似ているそうだ。それならパパは必ず帰ってくる、まちがいない....

アディナおばさんがよく、この世のできごとは、みんな何かしら意味がある、と言っていた。
ローエラは町に来た意味を見出した。きっとこの町で、パパに会えるのだ。

パパが迎えに来てくれるなら、父の日の絵だって描ける。
ローエラは、草原の道の手前に男の人を描き、道の向こうから歩いてくる少女を描いた。パパとローエラだ。

「じょうずねえ」というつぶやきがあがる。
先生はその絵を壁に飾ろうとしたが、ローエラは嫌がった。
他人の目にさらしたくない。
見つけだしたひとつの意味を、消えてなくならないように、大事に守らなければならない。

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こうして学校生活が始まったが、村で学校に通っていなかったことについての面白い箇所がある。

“ローエラみたいに、だいじなことをいろいろ考えなければならない立場にあると、学校などかまっていられなくなるというだけだった。”

「ヒューゴとジョセフィーン」シリーズの中に、ヒューゴの似たような言葉があった。

「何よりも大事なことってのが、すごくいっぱいあるんだ。それで、まずいんだよなあ」
「おれはいろんなことが勉強したい。いろんなことが知りたい。けど、いつも学校にじゃまされるんだよなあ。」

学校という枠にはまりきらない、自由で生き生きとした、マリア・グリーペが得意とする子どもたち。
ローエラも、先生が教えるようなことはとっくに知っているはずだ。

校長先生は気さくな人でいつもにこにこしていたが、ローエラはその微笑に応じることができなかった。
町の人たちは互いにあいさつさえしないのに、誰かと知り合った時にはやたら微笑する。

“町の人の微笑は、スイッチをおしただけでつくあかりのようだが、そんな単純なものではないはずだ。
ほのおのないあかりと、理由のないほほえみ --- この二つは、むしょうにローエラの不安感をかきたてた。”


ローエラを不安にするのは二つに共通する“空疎さ”だ。
深い必然性もなく、簡単に現れる。あかりもほほえみも、ほんとうの力を持たなくなっている。

町ではたいくつしないとみんなは言うが、娯楽で時間をつぶすようなことは、ほんものの森の生気を知っているローエラの目にはみじめな生活に映る。

けれど町に来た意味は、ここでパパに会えることだ。
この望みはローエラの中でしだいに大きくなっていく。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(2) | マリア・グリーペの作品
この記事へのコメント
「”野生”の精神から
 飼いならされた思考へ。」
レヴィ・ストロース

ローエラは
野生の精神の持ち主ですね。

野生の精神は
本質から逸れることが
ありません。


Posted by しゅてるん at 2021年01月26日 10:31
野生の精神を持つローエラの目を通して見ると、
都会の生活は、生気を失った自動反応のように
何とも奇妙に映ります。

この物語は半世紀も前に書かれていますが、
今はそれ以上におかしな世界。

でもどこかに潜んでいる野生の精神は
死ぬことはないでしょう。
頭上の星々はまだ輝いていますから...
Posted by Sachiko at 2021年01月26日 22:08
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