2020年11月22日

さよならセドリック

かつて名作だったものは、いつまで名作なのか。
古い時代に書かれ、あまり一般に読まれなくなったら名作ではなくなるのかというと、そうとも言えない。
最近は本もサイクルが早くて、これは絶版にしてはいけない!と思う本も短期間で絶版になったりする。

判断するのは、やはり読む本人だろう。
本の楽しみというものはまったく個人的な領域なのだから。

宮崎駿氏が選んだ50冊のうち、私も選ぶだろうな、と思った本は10冊ほどだった。この重なり部分は多いのか少ないのか....
自分の好みで選ぶのと、多くの人に紹介するために選ぶのとでは違ってくるだろうけど。


かつての名作、バーネットの「小公子」「小公女」「秘密の花園」....
「小公女セーラ」はアニメで見た。
「秘密の花園」は、これも小学校のときに何度か読みかけて挫折した。

「小公子」は、小さい時にダイジェスト版の絵本を持っていた気がするのだけれどほとんど憶えていない。
大人になってから、ラジオの朗読番組で聴いたことがあるが、もう記憶が薄れている。

ただ一か所、強烈に憶えている場面がある。
セドリック少年が、「ぼくのお母さま」について語るところだ。

「お母さまは『わたくしはいつも、町で貧しい人たちを見かけると、施しをしたくてたまらなくなるのよ。』とおっしゃるんです。これで、ぼくのお母さまがどんなに素晴らしい方かおわかりでしょう!」

な、なんだって?
今どきどこかの上品なマダムがこんなことを言ったら袋叩きに遭うぞ!・・・と、現代人は思った。

セドリックは、大人の目から見た「理想の子ども」なのだ。ここでは自由や個性よりも『規範』が強い。
お手本にするべき『規範』が外側に提示され、それを真似なければならないとしたら、現代の子どもにとってはとんでもなく苦しいことだ。

「よい子主義」は、子どもの本の世界でもずいぶん長いことまかり通っていた。
個人が誰なのかよりも、身分や階級が強い力を持っていた時代があり、個性というものが、矯正しなければならない何かだった時代があった。

リトルミイがそこにいたら、「あんたをお手本にするですって?あたしゃまっぴらだわね、ワハハハ〜」と、銀のお盆に乗ってソリ遊びにでも行ってしまうだろう。

マリア・グリーペの「ヒューゴとジョセフィーン」では、ヒューゴもジョセフィーンも、別に模範的な良い子ではなく、ただヒューゴでありジョセフィーンなのだ。

ヒューゴはヒューゴであり続け、ジョセフィーンはジョセフィーンになるためにいくらか格闘するが、誰も他の誰かのようになる必要はない。


さよなら、美しい天使のようなセドリック。21世紀は、君には生きにくいだろうね。

19世紀の児童文学には、やはり当時の過酷な(現代とは違う形での)時代背景が色濃く映っている。
「小公女セーラ」で、貧しくなったセーラに寄宿学校の下働きをさせたパワハラ全開のミンチン先生など、今なら逮捕されてしまうだろう。

これらの古い物語の寿命は、時代や場所の制約を超えた永遠の領域にどれだけ触れているかによるだろうと思う。
もっと古い神話やメルヒェンの寿命が長いのは、それらが地上で創作されたものではなく、元々上の世界から取って来られたからだ。

いつか人々が、時代の騒がしい流行に飽きて永遠なものを求め始めた時に、“時が移っても変わらない何か”を携えた少年少女たちの誰かが、不意に戻って来ないとも限らない。
   
posted by Sachiko at 21:38 | Comment(0) | 児童文学
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