「ムーミン谷の仲間たち」より
ある雨の夕方、トゥティッキがムーミン家を訪ねてきた。
ニンニという名前の少女を連れてきたようなのだが、そこには誰の姿も見えない。
ニンニはおばさんからひどくいじめられすぎて、姿が見えなくなってしまったのだとトゥティッキは言った。
ニンニの首に付けた小さな鈴だけが、少女がそこにいることを知らせていた。
トゥティッキが最初に登場した「ムーミン谷の冬」でも、彼女は、あまりに恥ずかしがり屋のため目に見えなくなったトンガリネズミたちと暮らしていた。
姿が見えなくなったものたちの“存在”が、彼女には見えているようなのだ。
トゥティッキが帰ってしまったあと、ムーミン家の人々は、姿の見えない少女を戸惑いながらも受け入れる。
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ママは階段をおりて自分のへやにいくと、「家庭にかくことのできない常備薬」と書いたおばあさまのふるい手帳をひっぱりだして、目をとおしはじめました。
すると、とうとう手帳のおわりちかくに、ずっとお年よりになってから書かれたものなのでしょう、ふるえぎみの字で、「人々がきりのようになって、すがたが見えなくなってきたときの手あて」としてあって、二、三行書きくわえてあるのをみつけたのです。
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薬が効いてきたのか、ニンニの手足の先が少しずつ見えはじめた。
みんなが寝たあと、ムーミンママはピンクのショールで、ニンニの服とリボンを縫う。翌朝その服を着たニンニは、首のところまで見えるようになった。
ムーミンとミイはニンニを遊びに誘ったが、ニンニは遊びを何一つ知らないようだった。
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「この子はあそぶことができないんだ」
と、ムーミントロールはつぶやきました。
「この人はおこることもできないんだわ」
と、ちびのミイはいいました。
「それがあんたのわるいとこよ。たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」
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ママはおばあちゃんの薬をずっと飲ませていたが、顔が見えるようにはならなかった。
ある日みんなは海岸へ出かけた。
パパは子どもたちを面白がらせるために、桟橋にいるママを突き落とすまねをしようと、後ろから忍びよる。
その時、叫び声を上げて、ニンニが桟橋を走りぬけ、ムーミンパパのしっぽに噛みついた。
「おばさんを、こんな大きいこわい海につきおとしたら、きかないから!」
赤毛の下に、ニンニの怒った顔が現れた。
大好きなママのために怒りを表に出し、顔を取り戻したニンニはもう、遊ぶこともできない怯えた少女ではなかった。
人が「その人である」ことの象徴である「顔」を失うとき、そしてそれを取り戻すとき....
現代社会で、自分のほんとうの顔をはっきりと持っている人はどのくらいいるだろう?と、ふと思う。
何を感じているのか、どうしたいのか、何が好きで何がきらいで何が大切なのか。それらが曖昧になるとき、その人の姿は霧のようにぼやけていく気がする。
見えなくなった少女ニンニの物語は、ムーミンシリーズの中でも深い。
それにしても、「人々がきりのようになって、すがたが見えなくなってきたときの手あて」....と、ムーミンママのおばあさんの処方箋にはこんなことまで書かれているとは。
2020年10月17日
見えなくなった少女
posted by Sachiko at 22:34
| Comment(2)
| ムーミン谷
どうちょうあつりょく
というものによって
かおやりんかくを
うしなっているひとの
なんとおおいことか。
ますくちゃくようりつ
99ぱーせんと。
スナフキンも
ミイも
ますくなどしない
だろうなぁ・・
ムーミンにいたっては
顔の構造上
ますくちゃくように
無理がある。
もう過去のものになっていくでしょう(そうならなくては)。
マスク警察も、マスク反対デモをする人たちも、
過激な両極になるとエネルギーの質が似てくる...
それぞれが我が道をゆくムーミン谷の人々。
風のような自由がいちばん。