2019年08月07日

木の名前

「NATURE BEINGS」(Margot Ruis著)から。
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アルゼンチンの詩人であり歌手であるアタウアルパ・ユパンキの「フアン(Juan)」という歌がある。
それは、今日の木材伐採組合とはまったく異なる自然とのつながり方をしている、フアンと呼ばれる農夫のことを歌っている。


  私は木を伐る前に
  木に赦しを請う

  ある日、木は私に言った
  私の名前もフアンだ....


過去には、伐採する前に木に名前を付けて話しかけることも農民の間で習慣であったと言われている。

このような例がある:
農夫は頑強なトウヒの幹を撫でてこう言う。
「なあ、セプル、じきおまえの番だよ。新しい柵のために木材が必要なんだ。」

たとえ農夫が木のディーバのことを知らなかったとしても、生きた存在である木を尊重し、それと関わりをもっていたのだ。
もちろん、工業用木材の産出においてはもはやそのようなことはない。

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別の話だが、かつてミヒャエル・エンデがこのようなことを言っていた。
今日では、本来人間に対して使うべきでない言葉がたくさん人間に対し使われている。
「役に立つ・立たない」「使い物になる・ならない」...
これらは物に対してのみ使われるはずの言葉だ。「人材」などもそうだ....

これらの言葉はあまりに当たり前になりすぎて、言われなければ気がつかない。
「材」には能力という意味もあるが(「逸材」など)、やはりどこか違和感を感じる。

人を「人材」と呼ぶとき、また木を「木材」と呼ぶとき、人であり木であるときとは違った意味合いに感じる。
名前を持つ個であり、内的な関わりのある相手を「材」とは呼ばないだろう。会社の部下は人材かもしれないが、家族や友だちを人材とは言わない。

この歌のように、木が自分と同じ名前を持っていたらどうだろう。
木だけでなく、すべての存在が“私”の名を名乗り、「私も、あなたである」と言ったら....
これは深い真実の一端を覗き見るようでもある。
  
posted by Sachiko at 21:53 | Comment(2) | 妖精
この記事へのコメント
「ほら、この小麦女は
 団子になってもらうとぞ」

「ほら、この豆は
 団子のあんこになって
 もらうとぞ。
 ねずみ女どもには
 やるまいぞ。」

石牟礼道子さんの母
ハルノさんは
こんなふうに歌いながら
小麦や豆に話しかけて
いたのだそうです。

彼女にとっては
小麦もねずみも人間も
同族であり
万物と交歓する
前近代の民であったのです。

このような
やさしく
かしこい
心性は
近代の資本主義という
ブルドーザーによって
なぎ倒されてしまいましたが

まだそのかけらを
ひろいあつめて
再生することは
不可能ではないと
思うのです。

幼い子どもたちは
いわゆるアニミズムの心性を
失っていないし

老いた母も
旧知の友だちにそうするように
花や木に話しかけます。

Posted by しゅてるん at 2019年08月08日 07:36
日本語の子ども言葉には、
アニミズムの心がありますね。

お日さま、お月さま、お星さま...

天から降りてきて間もない人たちと
天に帰るときが近くなった人たちは、
知的になりすぎて賢さを失った人々には見えないものが、
見えるのですね。
Posted by Sachiko at 2019年08月08日 20:58
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