2019年03月22日

春のしらべ

「ムーミン谷の仲間たち」は、「ムーミン谷の冬」の次に刊行されている。「春のしらべ」はその最初の章で、3月の終わり、スナフキンが北のムーミン谷へ向かって旅しているところから始まる。

冬眠から目覚めてそのまま春を迎えたムーミンが、もうすぐ帰ってくるスナフキンを待ちわびている頃だ。

スナフキンは歌を作ろうとしていた。出来あがったら、ムーミン谷の橋に座って歌うのだ。ムーミンのことが浮かんだが、すぐに、今は歌のことだけを考えることにした。

ところが、邪魔が入る。一匹のはい虫(こう訳されているけれどどんな生きものなのかよくわからない)がやってきて、うわさに聞いていたスナフキンに会えてとても嬉しいと、興奮した調子で称えまくる。

「…ぼくは、スナフキンさんの焚火にあたった、はじめてのはい虫になるんです。ぼく、一生そのことを忘れませんよ。」

小さなはい虫には名前がない。そして、憧れのスナフキンに名前をつけてほしいという。
スナフキンは言った。

「だれかを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は得られないんだよ。」

これはこの章の名言だ。
そう言われても、はい虫の態度は相変わらずで、今度はスナフキンの旅のことを聞こうとしてくる。

(どうしてみんな、ぼくの旅のことを、そっとしておいてくれないんだろう?むりに語らせられると、ぺらぺらしゃべったが最後、ばらばらになって消えてしまうんだ。それで、おしまいさ。その旅のことを思いだしたくても、自分のしゃべった声しか聞こえなくなっちまう)

はい虫がとうとう立ち去ろうとしたので、スナフキンは別れ際に名前をつけてやる。

「ティーティー=ウーではどうだい」

はい虫は新しい名前をうっとりと叫ぶと、薮の中に消えていった。

なんだかスナフキンは居心地がわるくなる。春のしらべも消えてしまい、あのはい虫のことしか考えられない。こんな気分になったのは初めてだ。

そして向きを変えてはい虫のいた場所まで戻り、自分が与えた名前を呼び、ティーティー=ウーがみつかるようにと、新月に願掛けまでする。こんなスナフキンは見たことがない。
「ティーティー=ウー、ぼく、おしゃべりをしたくてもどってきたよ。」

ところが姿を現したティーティー=ウーはすっかり別人のようになっていて、自分の家を作ることでいそがしい。

「いまは、ぼく、一個の人格なんです。だから、できごとはすべて、なにかの意味を持つんです。」

なにか歌を聞きたいんじゃないか、お話をしてほしいんじゃないかと、うろたえているようなのはスナフキンのほうだ。
ところが、生きるのをいそがなくちゃいけないと、ティーティー=ウーは行ってしまった。かつての小さなはい虫は、今や自分自身を生きる喜びにあふれて見える。

なんだか立場が逆転してしまったような、この奇妙な展開はユーモラスでもある。

スナフキンは、静かに春の空を眺め、木の梢を眺める。
独りになって歌を作るためにはい虫を追い払おうとしたときとは違い、おだやかな、ひとりでいることの大きな喜びとともに、春のしらべが戻ってきたのだった。
この章は、どこか可笑しくも深い。
 
posted by Sachiko at 22:12 | Comment(2) | ムーミン谷
この記事へのコメント
名付ける
こと。

バスチアン

あのかたを
モンデンキント

名付けましたっけね。

存在には
ほんらい「名」は
ないのだけれど
人はすべてのものを
名付けられずに
いられません。

それは
記号としての名詞
以上の意味が
あるようで。

ゲド戦記
では
真の名

大切な人にしか
明かされません。

それにつけても
・・・
ティーティ=ウー!
めんこいな〜。
Posted by しゅてるん at 2019年03月23日 07:43
ゲド戦記では、真の名はそのものの本性を表すと言ってますね。
シュタイナーは、高次元に上りつめると、宇宙のまことの名が響く、と言っていたような。
「名」は大切。番号に取って代えられるようなものではありませんね。
Posted by Sachiko at 2019年03月23日 21:39
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]