2019年02月10日

アドレッセンス中葉

この言葉は、宮澤賢治の『注文の多い料理店』広告文の後半に出てくる。

・・・・・・
そこでは、あらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいに輝いている。

深い椈の森や、風や影、肉之草や、不思議な都会ベーリング市まで続く電柱の列、それはまことにあやしくも楽しい国土である。
この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。それは少年少女期の終り頃からアドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとっている。


「少年少女期の終り頃からアドレッセンス中葉に対する一つの文学として」....
つまり思春期から青年期の中頃までを主な対象とした文学ということだ。
宮澤賢治の作品は小学校の教科書にも幾つか載っていたのだが、あまり深い印象は残っていない。
「銀河鉄道の夜」は、図書室で何度も背表紙のタイトルを目にして気になってはいたが、当時はなぜか手に取らなかった。

私が手に取ったのは、高校生になってからだった。これは正解だったと思う。
小学生の時に読んでいたら、「子どもの頃読んだことがあるな...」と言って通り過ぎてしまったかもしれない。
やはり、アドレッセンス中葉という時期まで待つことが必要だったのだ。

罪や、かなしみでさえ聖くきれいに輝いている場所は、賢治の理想郷イーハトヴだ。
罪や悲しみが初めからなかったのではなく、排除したのでもなく、浄化され昇華されて、やがて聖くきれいに輝くようになったところ。今はただ心象としてある場所。

この序文には続きがある。以下、その一部分。

「…それはどんなに馬鹿げていても難解でも、必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解なだけである。」

心の深部において万人に共通・・・
この深みに至る作品は、古いメルヒェンをのぞいては他にほとんどないのでは、と思う。
そして賢治の時代にもやはり、心の深みに降りたことがないまま、その作品を不可解と感じる、卑怯な成人たちと呼ばれてしまう人々がいた。

心象スケッチと呼ばれる作品群が提供する「すきとおったほんとうのたべもの」は、若い魂にとって、やがて罪や悲しみをも昇華させる糧になるだろう。

肉体を養う食べ物は、たえず食べ続けなければならないが、魂のたべものは、たとえ一度でもほんものを食べたことがあるなら、生涯その魂を養い続ける力を持つ気がする。
 
posted by Sachiko at 22:05 | Comment(2) | 宮澤賢治
この記事へのコメント
こんなふうに
寒い日が続くと
ベーリング市へ通じる
道がどこかに
あらわれているのでは
ないかと
想いを馳せます。

賢治が見据えていたのは
霊的な世界だったので
しょうね。

シュタイナー同様
魂の熟成なしには
賢治の言葉は
心に響かないことで
しょうね。

悲しみや罪を
体験して
そしてそれを
昇華させていく
こと。

畢竟、
生きる
ということは
本当の意味では
そういうことで
しょうね。

ベーリング市行きの
切符が手に入ったなら
Sachikoさんと
ご一緒したいもの
です。
パンフレットによれば
電子機器などは
まったく役に立たない
という注意書きが
ありました。
やっぱりね。
Posted by しゅてるん at 2019年02月11日 07:45
ベーリング市への道は、空気が凍って澄みわたる日にあらわれるのですね。
ほんとうに、賢治が見ていたのはこの世を超えて、個々の分離も超えた根源の世界だったのでしょう。
いつか万人が到達するところを早々と見てしまった、時代に早すぎた人だったと思います。
それでも、日本にこの人がいてほんとうによかったです。
ベーリング行きの切符は、ネット予約は受け付けていないのですね、やっぱり。
Posted by Sachiko at 2019年02月11日 22:11
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