2022年09月27日

絵のある物語

物語と挿絵が緊密に結びついている場合がある。
例えば『不思議の国のアリス』のジョン・テニエルの挿絵。

alice1.jpg

アリスと言えばこの絵、というくらいおなじみなのだが、私は子供の頃この絵はどこか怖くて苦手だった。

『不思議の国のアリス』の物語そのものは大好きだった。当時は挿絵はさほど気にしていなかった。

アリスにはアーサー・ラッカムも挿絵を描いている。
アリスに触発された画家は多く、物語全編の挿絵ではなくても、単品で描かれているものは多数ある。

alice2.jpg


「素人の絵にはかなわない」と言ったのは、故・安野光雅氏だったと思う。
この場合の素人はほんとのド素人ではなく、例えばトールキンの絵、手元にはないがゲーテの絵、ミヒャエル・エンデの『モモ』も、作家本人が絵も描いている。(ちなみにミヒャエルの父エトガー・エンデは画家だった)

本業が画家ではないけれど、本業の人にはない“何か”があって、それは本業の人がどうやっても敵わないものだ、と。


中でも、一見素人の絵に見えるのにほんとうに誰も敵わないケースとして、『星の王子さま』の絵が挙げられている。
あの“ウワバミに呑まれた象”の絵など、誰があれ以上のものを描けるだろう。

アリスをテーマにした絵はたくさん描かれていて、それらはほとんどの場合原作を損なうことはない。

でも星の王子さまの絵を新しく描き直そうというのは、物語を半分書き換えるようなものだ。
絵と物語が不可分の一体になっている幸せなケースなのだ。

「大人のひとたちは、外がわをかこうと、内がわをかこうと、ウワバミの絵なんかはやめにして、地理と歴史と算数と文法に精をだしなさい、といいました。
ぼくが、六つのときに、絵かきになることを思いきったのは、そういうわけからでした。」

・・・と、思わず読みふけってしまいそうになった。
サン=テグジュペリが絵描きをあきらめて飛行機乗りになったおかげで、この物語は生まれた。
そして、この絵にはやっぱり誰もかなわない。

prince.jpg
   
  
posted by Sachiko at 22:40 | Comment(2) | アート
2022年09月17日

秋の灯

「ムーミンパパ海へ行く」より。

北国ではもう秋の気配がする8月末の夕暮れ時、パパは水晶玉をのぞき込む。パパの水晶玉は、庭の中心であり、ムーミン谷の中心であり、全世界の中心なのだ。

水晶玉の深い深い内側に、家族の姿が映りはじめる。
それは小さく、頼りなく見えて、守ってやらなければならないとパパは思う。

夏と秋の“あいだ”、昼と夜の“あいだ”。
どこか心もとない季節の、揺らいでいる時間。

しだいに闇が濃くなってくる。
ママがランプを灯したことで、水晶玉の中に見えるものはランプの光だけになった。


-----
ランプは、すべてのものを身近に、安全に感じさせ、小さな家族のみんなを、おたがいによく知りあい、信じあうようにさせます。
光の輪の外は、知らない、こわいものだらけで、暗やみは高く高く、遠く遠く世界の終わりまでもとどいているように思われました。
-----


こうした翳る気分を象徴するように、暗い存在、モランがやってくる。
モランがすわっていた場所は凍りついている。
ランプの近くまでやってくると、火は消えてしまう。

これは、ムーミン一家が島に移り住む少し前のことだ。
短い章の中に、島暮らしで家族それぞれに起こる危うい変化を予感させる。

---------

9月の夕刻、まだあまり暗くなりすぎない頃にろうそくに火を灯すと、この季節だけの独特の気分が満ちる。
言葉でうまく表せないけれど、灯火とそれを囲む薄闇が、たしかにある意識を持った空間を創りだしているようなのだ。

日が沈んだあとの少しの時間、外の空気は青インクを溶かし込んだような色に染まる。

やがて暗闇の中心、深い内側で灯火だけが輝きはじめる。
ムーミンパパの水晶玉の中のように。
  
posted by Sachiko at 22:28 | Comment(2) | ムーミン谷
2022年09月08日

秋の蝶

おなじみのウラギンスジヒョウモン、今年も来てくれた。
絶滅危惧U類なので、姿を見るとホッとする。

uragin2022.jpg

秋に見かける蝶は、翅が傷んでいることが多い。
鳥にでも突つかれたのか、、翅が大きく破損している。

自然界の、知られない出来事の痕跡。
先日見たアゲハもこのとおりだった。

uragin2022-2.jpg

ageha2022.jpg

秋は、衰微していく季節だ。
日が短くなり、目に見える世界は枯れはじめる。
いのちは内へ向かい、花から実へと、次のサイクルを用意する。

ブドウが色づきはじめた。

grape2022.jpg
  
posted by Sachiko at 22:08 | Comment(2) | 自然
2022年09月03日

土地の記憶

以前、ヨーロッパの古都では層になった時間の重さを感じるというようなことを書いた。
同様のことは日本でもあり、本州へ行くと空気が重く感じる。

単に湿度の高さ(文字通り物理的に空気が重くなる)や、道路が狭く建物が密接している圧迫感だけではなく、やはり歴史の重さというものなのだろう。

北海道には明治以前も先住民族が住んでいたけれど、人口は少なく自然が圧倒的で、「○○の乱」とか「□□の変」という類の、権力争いや人間の念がぶつかり合うような歴史ではなかった。


そこに住む人間がどんな思いを持って生きていたのか、家や土地は記憶している。家の精霊、土地の精霊というものは確かにいるのだ。

この間ふと、そういえば京都は自然災害が少ないな、と思った。
かつて長いあいだ都だった場所だし、昔から治水対策などもされていたのだろうが、それだけではない気がした。

日本でいちばん安全な土地は京都だという説もあるらしく、何か古い呪術的な力が今も働いていて、結界を作っているのかも...?などと考えると物語の世界に入り込んでしまうけれど。


シュタイナーは土地のオーラについても言及していて、商業都市と工業都市とでは違うオーラを持っているというようなことを言っている。
その都市を訪ねてみれば、誰でも感じとることができる。

地球自体が、意識を持った有機体だ。
そして大地は、その上を歩く人の思いを受けとるという。
人々の意識と織り合わされて、それぞれの土地のオーラを形づくる。

人間は大地と離れていない。大地の上に暮らすことは、共同創造だ。
そのことを人間に思い出してほしいと、まさに今、大地は切望しているにちがいないと思う。
  
posted by Sachiko at 22:38 | Comment(2) | 未分類