2022年06月29日

「生活維持省」

星新一のショートショート「生活維持省」は「ボッコちゃん」という短編集に入っていて、中でも印象的な話だった。
読んだのは高校生の頃で、本も今は手元にないが、大筋はこんな話だ。

戦争も犯罪も公害もない、豊かで平和な世界というユートピアの仮面をかぶったディストピアの物語。

その平和な世界を維持しているのは、“人口調整”のシステムだった。
システムを遂行する生活維持省の職員は、毎日コンピュータで無作為に選ばれた人間を殺す役割を持っている。

ある日職員の男は、アリサという少女の家に行く。
彼女は留守で、出てきた母親は彼の身分を知ると、「死神...」とつぶやく。

「なにもアリサを、これまで育ってきたかわいいアリサを!」
抗議する母親に対し、このシステムをやめればまた昔のような混乱した世の中になってしまう、決定には従うしかない、と諭す。

森で木いちごを摘み、歌いながら帰ってきたアリサは、何も知らないまま光線銃で射ち殺される。

次の行先を訪ねる同僚に、男は「さっき通った小川のほとりがいいな」と答える。

「いいなって何だい、休むつもりかい」

男は次の名前のリストを見せる。そこには彼自身の名前が書かれていた...


書かれたのは1960年で、もう60年以上も前のことだ。
にもかかわらず、妙に今日的に見える。

かつての世界の混乱は、人口過剰が原因だった。
“安心安全”で平和な世界を実現するために作られた、政府による人口削減システム....

毎日一定数の人々が突然、“消されて”いく。
アリサの母親のように、理不尽に愛する者を失う人々もまた日々増えていくはずだが、いつかシステムに抗議して立ちあがる人々が現われることはないのだろうか。

それとも、かつての混乱した世界に戻るより、このロシアンルーレットを受け入れる方がまだましだと思うのか...

あるいは、物語には書かれていないが、身近な人たちからは、その人が存在したという記憶すら消されてしまうということは?
それなら抗議集団が現われることはないだろうけれど....

リストに自分の名前を見出した男は、この平和な世界にこれだけ生きられて楽しかったと、すべてを受け入れているように見える。


物語の中では戦争も犯罪も貧困も過去のもので、生活維持省職員の車は、豊かで平和な美しい街並をゆく。

選ばれた少女が帰宅する様子も、いかにも穏やかで幸福そうな雰囲気の中にある。
その明るい空気感の描写が、じわりと怖い。
  
posted by Sachiko at 22:02 | Comment(0) | SF
2022年06月21日

夏至の蝶たち

連日、姫リンゴの木からエゾシロチョウが羽化している。
しばらくは枝に止まったまま翅を乾かし。やがて飛び立っていく。

去年エゾシロチョウのことを書いたのは、やはりこの時期だった。
バラ科の果樹が食草で、近所の杏の木やサクランボの木のそばでもたくさん舞っている。

成虫になるともう命は短い。卵を産んでまた次のサイクルへ。

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蝶の完全変態は、本来異なる次元を通過しながら起こる変容が、すべて物質次元の中で起こっているのだそうだ。

人間は肉体という殻を脱ぎ捨てると魂は別次元に移行する。
蝶を魂のシンボルと見た古代の人々は、まだ直観力に優れていた。


季節の節目がすべてそうであるように、夏至にも特別な気分がある。
光に貫かれたような6月の空気の中、最盛期を前にして花たちも輝きを増す。

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posted by Sachiko at 21:52 | Comment(2) | 自然
2022年06月12日

手紙とエーテル

手紙というものを書かなくなって久しい。
今思えば、手紙には単に用件や何かを伝えるという以外の要素が多くあった。

筆跡を通して、その人のエーテル体とつながることができるのだという。
以前「ペン習字のお手本みたいな字の手紙はもらいたくない」と言った人がいた。
美しい文字には違いないけれど、誰だかわからない仮面の人物のような気もしてしまう。
改まった文書ではないのだから達筆である必要はなく、一目で誰だかわかるのがいい。


昔よく学校で友だちと手紙の交換をしていた。
前の日に書いた手紙を、朝渡す。
教室で毎日会っているのに何を書いていたのか、中身はもう全く憶えていない。
時間を割いて、何かの思いを綴る。
簡単便利な今のLINEとは、似ているようで違っていた。

SNSではたくさんの投稿が、毎日あっという間に流れていく時代。
かつてのゆっくりした時間の流れ方は、エーテルの流れでもあったような気がする。

そのエーテル感覚が、近年はとても弱っているように思う。
オンライン何とかというのは、私は苦手だ。
確かにZoomは便利で、遠くまで出向かなくても済むのだが...

現代生活が、文字を書かなくてもすむように、さらにここ2、3年は生身で会わないように方向づけられていたのは、大切なエーテル感覚を希薄にするための策略のように見えてしまう。

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訳あって少々忙しく、あまり頻繁に更新できないかもしれませんが、ゆっくりとおつきあいくださいませ♪
  
posted by Sachiko at 22:33 | Comment(2) | 未分類
2022年06月07日

「わたしが 山おくに すんでいたころ」

「わたしが 山おくに すんでいたころ」(シンシア・ライラント文/ダイアン・ウッド絵)

作者がアパラチアの山奥に住んでいた子ども時代の暮らしを綴った絵本。

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夕方、石炭の粉で真っ黒になって帰ってくるおじいちゃん。
おばあちゃんが作る温かい料理の数々。

池で泳いだ帰り道、お店に寄ってバターを買う。

井戸からバケツに何杯も水を汲み、お湯を沸かして、たらいのお風呂に入る。

夕暮れにはカエルの歌、朝は牛の鈴の音が聞こえる。

夕ごはんがすむと、ポーチのブランコに座った。
足元には犬、頭上には星、森の中でウズラが鳴いた。

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 わたしは 海を 見たいとは おもわなかった。

 砂漠に 行ってみたいとも おもわなかった。

 ほかの ところに 行きたいと おもったことは

 いちども なかった。

 なぜって わたしは 山おくに すんでいて、

 それだけで いつも みちたりていたから。

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作者は子どものころ、両親が離婚したために、4年間山奥の祖父母のもとに預けられた。電気も水道もなく、裕福ではなかったが、温かな人々に囲まれて幸せに暮らした。

これはあのターシャ・テューダーの子どもの頃の話に似ている。
ターシャは両親が離婚したために、自由で楽しい雰囲気の知人家族のところに預けられたが、あんなすばらしい体験は後にも先にもなかったと語っている。


満ち足りるために、さまざまな大道具小道具は必要ではなかった。
現代生活のように、いつも足りないと思い込まされ、欠けた思いを動機に多くの物を得ても、もっともっとと煽られるばかりで満たされることはない。

すでに満ち足りている心は、今あるもののすばらしさを余すところなく味わい、それによってまた満ち足りることができるのだろう。

作者はそのような思い出が、創作の源になっているという。
私はやはりこういう「暮らし」の息づかいを感じられる作品が好きだ。
古い写真のようなセピア色の絵も、物語に合っていて美しい。

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posted by Sachiko at 21:59 | Comment(2) | 絵本