2022年05月13日

「内と外」

ヘルマン・ヘッセのあまり知られていない短編「内と外(Innen und Aussen)」。

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論理学と科学を愛する主人公フリードリヒは、神秘主義的なものは迷信や魔術と呼んで忌み嫌っていた。
ある日久しぶりに旧友エルヴィーンの家を訪ねると、壁に留められた紙に書かれた言葉が目に入った。

「何ものも外になく、何ものも内になし。外にあるものは内にあればなり。」

これこそフリードリヒが嫌う神秘主義、魔術の世界であり、この旧友とは絶縁するしかないと考え、別れの言葉を告げた。

エルヴィーンは、「これが君の外ではなく内にあるようになったらまたやって来たまえ」と、小さな粘土の像をフリードリヒに渡し、その像がいつまでも外にあり続けたら、その時が別れだと言った。

フリードリヒはその像が気に入らなかった。像の存在はしだいに彼の生活を不快にした。
ある日小旅行から帰って来ると、像がなくなっていた。女中が壊してしまったのだ。
これで落ち着けるだろうと思ったが、今度はそれがないことが彼を悩ませはじめた。

彼は像がないのを苦痛に思い、それを悲しむのは無意味だと明らかにするために、像を詳細に思い浮かべてみた。
そうして眠れなくなった夜、ひとつの言葉が意識に入り込んできた。
「そうだ、今おまえは私の中にいる」という言葉だった。
像はもう外にはなく、内にあった。

彼はエルヴィーンの家に駆けつけた。
「どうしたらあの偶像がまた僕の中から出ていくだろうか。」
エルヴィーンは言った。
「あれを愛することを学びたまえ。あれは君自身なのだ。」

「・・・君は外が内になり得ることを体験した。君は対立の組み合わせの彼岸に達したのだ。

それが魔術なんだ。外と内を、自由に自ら欲して取りかえることが。
君は今日まで君の内心の奴隷だった。その主人になることを学びたまえ。
それが魔術だ。」

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書かれたのは1920年で、第一次大戦後の多産な時期であり、1919年に書かれた『デミアン』にも通じるテーマに見える。

内と外がまるで別物であり、人間は大きな外側の世界に無力な小さな存在として置かれているだけだと考えるようになったのはいつからだろう。

ミヒャエル・エンデは、創世記の「初めに神は天と地をつくられた」という部分を、「初めに神は内と外をつくられた」と訳すべきだったと言っていた。

シュタイナーは、人間は死後、内界と外界が逆転すると言っている。
生前の自分の内面を、外側に拡がる世界として体験するわけだ。
何も外になく、何も内にない.....

内と外が別物だと思っていると、都合の悪いものは外側に投影しやすい。
悪いものは常に外側、他人の側にある・・・ユング的に言えば“シャドウ”だ。
そうして投影した外界も、結局はやがて自分で回収しなければならない。

ヘッセとユングの関係についてはよく知られている。
ヘッセとシュタイナーについては特に文献等で触れられていないけれど、実際にはかなり親しかったそうだ。
   
posted by Sachiko at 22:18 | Comment(4) | ヘルマン・ヘッセ