この世的な見方をすれば、ハンスはずいぶんばかな取引を繰り返したように見える。家で、母親は何と言うだろう。
「ハンス、7年も奉公したあげく手ぶらで帰ってくるなんて、お給金はどうしたんだい。
(理由を聞く)
なんだって?頭ほどの金の塊があったというのに、何てことを!このバカ息子が!!」
・・・と、こうなることもあり得る。
私は、ハンスが奉公を終えて帰りたいと言った故郷の家は、この世の家ではないような気がした。
奉公(この世の人生)を終えたばかりの頭は地上的な価値でいっぱいになっている。
帰り道を歩きはじめると、それは重荷に変わる。
道の途上で、地上の価値はしだいに小さくなっていき、その度にしあわせ感は増えていく。
最後の重荷が落ちてしまい、すっかり浄化されてしあわせに満ちた魂は、かつてそこにいた天の故郷の家に帰り着く。
そこでハンスは喜んで迎え入れられるにちがいない。
・・・というのはあくまで私見であり、毎度のことながらメルヒェンに解釈は不要だ。
「メルヘンの世界観」では、また別のことが書かれている。
メルヒェンの中の「家」は人間の肉体を表わし、家を離れるということはしばしば、肉体を離れることを意味する、とある。
そうすると、家に帰ることは、ふたたび地上に受肉するということになる。
そのように見ればこの話の流れは逆になる。
家(肉体)を離れて別の世界でしばらく奉公し、ふたたび家に帰りたいと願う。
このあたりは、家を離れてホレおばさんの元で奉公し、やがて家に帰りたいと願った娘に似ている。
でも『ホレおばさん』では、娘は黄金を浴びて地上世界に戻ってくるのに、ハンスはすべてを手放して何も持たずに家に帰るのだ。
メルヒェンの中では、同じモチーフが出て来てもいつも同じものを意味するとは限らないとも言われているので、やはり解釈の深入りはやめておこう。
シュナイダーは、『しあわせハンス』は『星の銀貨』の物語が始まるところで終わっているという。
星の銀貨の少女は、はじめから貧しく、善良な心という宝物だけを持っている。
ハンスは物質的財産をすべてなくして、幸せな心という宝ものだけが残った。
少女の上には最後に星が降ってきて銀貨に変わる。
そして『星の銀貨』が終わるところから、ふたたび『しあわせハンス』の物語が始まる、と。
人間の運命は、地上の生と向こう側での生を通して廻っていく。
その両方の流れを見通すところから、メルヒェンは降りてきた。
解釈は不要だとしても、メルヒェンはそのようにして人類とともにあり、時代を超えて特別な力で働きかけてくると感じさせるのだ。
2022年01月23日
「しあわせハンス」・2
posted by Sachiko at 22:19
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