前回の『しあわせハンス』のメルヒェンについて、「 THE HEALING POWER of PLANETARY METALS 」という本の中にも記述があるのを見つけた。
幾つかのメルヒェンと、それに関わる惑星と金属について語られている。
メルヒェンはやはり宇宙領域から取ってこられた話だったのだ。
「しあわせハンス」の物語は、金のプロセスの太陽的な性質が見られ、軽快な印象を与える。ハンスを追っていくうちに「太陽型」のイメージが形成されていくという。
人間は「太陽型」と「月型」に分かれるという話は以前どこかで書いた。
太陽型は、オープンハート、信頼感、自然、寛大、自信を表わす。
ハンスはまさにこのようで、不運さえもポジティブに捉え、人生を楽観視する太陽のような性格だ。
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物語のすべての行程は昼間である。陽射しが強く、暑いほどだ。
ハンスはしばらくの間、木も茂みもなく日陰もほとんどない荒地を旅する。
のどの渇きに悩まされるものの、本当に脅威となる悪の力には遭遇しない。登場するのはハンスの帰路のみである。
他のメルヒェンのようにまず広い世界に出て行くのではなく、最初から帰路しかないのだ。
ハンスは光と暖かさに溢れた景色の中を家路につく。
「母のもとへ帰る」途上であるということは、彼は自分自身への道を進んでいるのだ。そして自分自身への道は放棄の道だ。
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・・・なるほど。
ここでは「メルヒェンの世界観」とはまた違った見方がされているが、ここで「メルヒェンの世界観」の中で『しあわせハンス』」と『星の銀貨』が繋がった輪のような関係になっているという話が浮かび上がってくる。
ハンスは太陽の照りつける昼間の道を行くが、星の銀貨の少女はまず森へ入って行き、物語はすべて寒い夜の森で起こる。
惑星と金属の話では『星の銀貨』については書かれていないが、この対照性には興味深いものがある。
類話が世界中にあるという『しあわせハンス』に似た話が、「幼い子の文学(瀬田貞二)」の中で紹介されているのを見つけた。
あるおばあさんが帰り道で黄金の詰まったつぼを見つけ、黄金の使い道を想像しながらつぼを引っ張って歩いていく。
しばらくして振り返ってみると、黄金のつぼは銀の塊に変わっていた。
おばあさんはその銀の使い道を想像しながら満足して歩き、また振り返ると、銀は鉄の塊に変わっていた。
鉄ならドアの押さえ石にでも使えるだろうと思って家に帰ると、鉄は怪物に変わって逃げてしまった。
何もかもなくなってしまったが、おばあさんは、今日は面白い見ものを見たと満足して眠りについた、というお話。
これもやはり「帰路」で、プロセスはハンスの話にそっくりだ。
メルヒェンや各地の古いおとぎ話からは、人類普遍の大きな世界とつながる安堵感のようなものを感じ、明らかに恣意的に作られた物語とは違う力がある。
2022年01月28日
太陽と黄金の物語
posted by Sachiko at 22:44
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| メルヒェン
2022年01月23日
「しあわせハンス」・2
この世的な見方をすれば、ハンスはずいぶんばかな取引を繰り返したように見える。家で、母親は何と言うだろう。
「ハンス、7年も奉公したあげく手ぶらで帰ってくるなんて、お給金はどうしたんだい。
(理由を聞く)
なんだって?頭ほどの金の塊があったというのに、何てことを!このバカ息子が!!」
・・・と、こうなることもあり得る。
私は、ハンスが奉公を終えて帰りたいと言った故郷の家は、この世の家ではないような気がした。
奉公(この世の人生)を終えたばかりの頭は地上的な価値でいっぱいになっている。
帰り道を歩きはじめると、それは重荷に変わる。
道の途上で、地上の価値はしだいに小さくなっていき、その度にしあわせ感は増えていく。
最後の重荷が落ちてしまい、すっかり浄化されてしあわせに満ちた魂は、かつてそこにいた天の故郷の家に帰り着く。
そこでハンスは喜んで迎え入れられるにちがいない。
・・・というのはあくまで私見であり、毎度のことながらメルヒェンに解釈は不要だ。
「メルヘンの世界観」では、また別のことが書かれている。
メルヒェンの中の「家」は人間の肉体を表わし、家を離れるということはしばしば、肉体を離れることを意味する、とある。
そうすると、家に帰ることは、ふたたび地上に受肉するということになる。
そのように見ればこの話の流れは逆になる。
家(肉体)を離れて別の世界でしばらく奉公し、ふたたび家に帰りたいと願う。
このあたりは、家を離れてホレおばさんの元で奉公し、やがて家に帰りたいと願った娘に似ている。
でも『ホレおばさん』では、娘は黄金を浴びて地上世界に戻ってくるのに、ハンスはすべてを手放して何も持たずに家に帰るのだ。
メルヒェンの中では、同じモチーフが出て来てもいつも同じものを意味するとは限らないとも言われているので、やはり解釈の深入りはやめておこう。
シュナイダーは、『しあわせハンス』は『星の銀貨』の物語が始まるところで終わっているという。
星の銀貨の少女は、はじめから貧しく、善良な心という宝物だけを持っている。
ハンスは物質的財産をすべてなくして、幸せな心という宝ものだけが残った。
少女の上には最後に星が降ってきて銀貨に変わる。
そして『星の銀貨』が終わるところから、ふたたび『しあわせハンス』の物語が始まる、と。
人間の運命は、地上の生と向こう側での生を通して廻っていく。
その両方の流れを見通すところから、メルヒェンは降りてきた。
解釈は不要だとしても、メルヒェンはそのようにして人類とともにあり、時代を超えて特別な力で働きかけてくると感じさせるのだ。
「ハンス、7年も奉公したあげく手ぶらで帰ってくるなんて、お給金はどうしたんだい。
(理由を聞く)
なんだって?頭ほどの金の塊があったというのに、何てことを!このバカ息子が!!」
・・・と、こうなることもあり得る。
私は、ハンスが奉公を終えて帰りたいと言った故郷の家は、この世の家ではないような気がした。
奉公(この世の人生)を終えたばかりの頭は地上的な価値でいっぱいになっている。
帰り道を歩きはじめると、それは重荷に変わる。
道の途上で、地上の価値はしだいに小さくなっていき、その度にしあわせ感は増えていく。
最後の重荷が落ちてしまい、すっかり浄化されてしあわせに満ちた魂は、かつてそこにいた天の故郷の家に帰り着く。
そこでハンスは喜んで迎え入れられるにちがいない。
・・・というのはあくまで私見であり、毎度のことながらメルヒェンに解釈は不要だ。
「メルヘンの世界観」では、また別のことが書かれている。
メルヒェンの中の「家」は人間の肉体を表わし、家を離れるということはしばしば、肉体を離れることを意味する、とある。
そうすると、家に帰ることは、ふたたび地上に受肉するということになる。
そのように見ればこの話の流れは逆になる。
家(肉体)を離れて別の世界でしばらく奉公し、ふたたび家に帰りたいと願う。
このあたりは、家を離れてホレおばさんの元で奉公し、やがて家に帰りたいと願った娘に似ている。
でも『ホレおばさん』では、娘は黄金を浴びて地上世界に戻ってくるのに、ハンスはすべてを手放して何も持たずに家に帰るのだ。
メルヒェンの中では、同じモチーフが出て来てもいつも同じものを意味するとは限らないとも言われているので、やはり解釈の深入りはやめておこう。
シュナイダーは、『しあわせハンス』は『星の銀貨』の物語が始まるところで終わっているという。
星の銀貨の少女は、はじめから貧しく、善良な心という宝物だけを持っている。
ハンスは物質的財産をすべてなくして、幸せな心という宝ものだけが残った。
少女の上には最後に星が降ってきて銀貨に変わる。
そして『星の銀貨』が終わるところから、ふたたび『しあわせハンス』の物語が始まる、と。
人間の運命は、地上の生と向こう側での生を通して廻っていく。
その両方の流れを見通すところから、メルヒェンは降りてきた。
解釈は不要だとしても、メルヒェンはそのようにして人類とともにあり、時代を超えて特別な力で働きかけてくると感じさせるのだ。
posted by Sachiko at 22:19
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| メルヒェン
2022年01月20日
「しあわせハンス」
グリムのメルヒェンとしては、日本ではあまりなじみのない話かも知れないけれど、類話は世界中にたくさんある。
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7年間の奉公の年季が明けたハンスは親方に、故郷の母親のもとへ帰りたいと申し出る。親方はよい奉公の給金として、ハンスの頭ほどもある金塊を与えた。
ハンスはそれを布に包んで歩き出すが、金塊が重くてしかたがない。そこへ通りかかった馬に乗った人の言うまま、金塊を馬と取りかえる。
嬉しくなったハンスは馬を速駆けさせて振り落とされてしまう。そこへ牝牛を追うお百姓が通りかかり、馬と牝牛を取りかえようと言う。
ハンスはこれで毎日乳やバターやチーズが手に入ると喜ぶ。ところが曠野の暑さの中、乳を絞ろうとしても牛は乳を出さないばかりか、ハンスの頭を蹴飛ばした。
そこへ屠殺人が手押し車に子豚を乗せて通りかかり、牝牛と子豚を取りかえる。ハンスは何もかも望み通りに行くものだと喜ぶ。
次に、ガチョウを抱えた若い男が道連れになり、ハンスの子豚は近くの村で盗まれたものかもしれないと言う。
若い男は助けてやると言い、ハンスは豚をガチョウと取りかえる。
ハンスは喜んで最後の村を通り抜けると、はさみ砥ぎ屋が立っていた。
砥ぎ屋はこれまでのいきさつを聞くと、幸運のてっぺんにたどり着くには砥ぎ屋にならなくてはいけないと言い、ハンスはガチョウを砥石と取りかえる。
砥ぎ屋はもうひとつおまけだと言って、そこに転がっていた重たい石ころも渡した。
ハンスは石を担いで喜んで歩き出すが、その石の重たいこと!
ハンスが少しやすんで泉で水を飲もうとすると、石は水の中に転げ落ちた。ハンスは邪魔な重たい石がなくなったので嬉しさに躍り上がって神さまにお礼を言った。
何一つ重荷のなくなったハンスは、自分ほどのしあわせ者はいないと思い、踊る足どりで郷里の家に帰り着いた。
----------
ハンスは持っている物を次々と、より物質的な価値の低いものへと交換していく。この道筋は日本の「わらしべ長者」の逆だ。
そしてその度にハンスの幸福感は高まっていく。
ハンスという名は、日本で言えば「太郎」のように、メルヒェンによく出てくる典型的な名前だ。
そして「まぬけのハンス」などの呼ばれ方をすることが多い。
この『しあわせハンス』(Hans im Glück)のハンスには、妙好人の趣きがある。
ヨハネス・W・シュナイダーの「メルヘンの世界観」の中で、人間の運命を現した三つのメルヘンが挙げられている。
『ホレおばさん』『星の銀貨』、そしてもうひとつがこの『しあわせハンス』だ。
以前にも書いたがシュナイダーは、メルヒェンに出てくる黄金には、世界のはじまりから存在していた黄金と、地上生活を通して新たに紡ぎ出された黄金の二種類あると言っている。
ハンスが奉公の報酬として受け取った金塊は、新しい黄金だ。ハンスはそれを、頭ほどの大きさのあるものとして受け取る。
「頭」には特別な意味があり、頭には前世における行いが現われているのだという。
私は個人的には、この物語に別のイメージを抱いた。
それはまた次回に。
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7年間の奉公の年季が明けたハンスは親方に、故郷の母親のもとへ帰りたいと申し出る。親方はよい奉公の給金として、ハンスの頭ほどもある金塊を与えた。
ハンスはそれを布に包んで歩き出すが、金塊が重くてしかたがない。そこへ通りかかった馬に乗った人の言うまま、金塊を馬と取りかえる。
嬉しくなったハンスは馬を速駆けさせて振り落とされてしまう。そこへ牝牛を追うお百姓が通りかかり、馬と牝牛を取りかえようと言う。
ハンスはこれで毎日乳やバターやチーズが手に入ると喜ぶ。ところが曠野の暑さの中、乳を絞ろうとしても牛は乳を出さないばかりか、ハンスの頭を蹴飛ばした。
そこへ屠殺人が手押し車に子豚を乗せて通りかかり、牝牛と子豚を取りかえる。ハンスは何もかも望み通りに行くものだと喜ぶ。
次に、ガチョウを抱えた若い男が道連れになり、ハンスの子豚は近くの村で盗まれたものかもしれないと言う。
若い男は助けてやると言い、ハンスは豚をガチョウと取りかえる。
ハンスは喜んで最後の村を通り抜けると、はさみ砥ぎ屋が立っていた。
砥ぎ屋はこれまでのいきさつを聞くと、幸運のてっぺんにたどり着くには砥ぎ屋にならなくてはいけないと言い、ハンスはガチョウを砥石と取りかえる。
砥ぎ屋はもうひとつおまけだと言って、そこに転がっていた重たい石ころも渡した。
ハンスは石を担いで喜んで歩き出すが、その石の重たいこと!
ハンスが少しやすんで泉で水を飲もうとすると、石は水の中に転げ落ちた。ハンスは邪魔な重たい石がなくなったので嬉しさに躍り上がって神さまにお礼を言った。
何一つ重荷のなくなったハンスは、自分ほどのしあわせ者はいないと思い、踊る足どりで郷里の家に帰り着いた。
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ハンスは持っている物を次々と、より物質的な価値の低いものへと交換していく。この道筋は日本の「わらしべ長者」の逆だ。
そしてその度にハンスの幸福感は高まっていく。
ハンスという名は、日本で言えば「太郎」のように、メルヒェンによく出てくる典型的な名前だ。
そして「まぬけのハンス」などの呼ばれ方をすることが多い。
この『しあわせハンス』(Hans im Glück)のハンスには、妙好人の趣きがある。
ヨハネス・W・シュナイダーの「メルヘンの世界観」の中で、人間の運命を現した三つのメルヘンが挙げられている。
『ホレおばさん』『星の銀貨』、そしてもうひとつがこの『しあわせハンス』だ。
以前にも書いたがシュナイダーは、メルヒェンに出てくる黄金には、世界のはじまりから存在していた黄金と、地上生活を通して新たに紡ぎ出された黄金の二種類あると言っている。
ハンスが奉公の報酬として受け取った金塊は、新しい黄金だ。ハンスはそれを、頭ほどの大きさのあるものとして受け取る。
「頭」には特別な意味があり、頭には前世における行いが現われているのだという。
私は個人的には、この物語に別のイメージを抱いた。
それはまた次回に。
posted by Sachiko at 22:30
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| メルヒェン
2022年01月16日
短い静けさの日々
古いテレビがついに壊れた。
地デジに移行する前に、地デジ対応のテレビを買っておこうということで買ったもので、10数年経っているはずだ。
私は今度テレビが壊れたらもう買わないつもりだった。
「テレビがないと時間がゆっくり過ぎるね」と言ったら、
「そんなことはない!」と、我が家のテレビ中毒の輩が禁断症状を起こしたので、結局買ってしまった(>_<)。
全くテレビの音がしない静けさがあったのは、三日間だけだった。
確かに空気が違ったと思う。柔らかく、空間が大きくなっていた。
テレビの音にかき消されていた、家の息遣いが感じられる気がした。
またテレビが来て、設定を終えて試しにつけてみた時に流れていたCMソングが、その後しばらく頭の中をグルグルしていた。こういう現象をディラン効果とかいうそうな。
テレビの策略として、CMソングというのは頭に残りやすく作られている。
昔何かの本に書かれていた「黙っていてもうるさい人というのがいる」という一文を思い出した。
テレビはまさにそれだな、と思う。ついていない時でもうるさい。
テレビのない時代は、人は否応なしに静けさと共存しなければならなかった。
古い歌の一節にこんなのがある。
〜ふるさとの冬はさみしい
せめてラジオ聞かせたい〜
昔の田舎の冬の静けさは、時に耐えがたいほどだっただろうか。
(田舎の親戚の家には、なぜかどこも大画面のテレビがある。)
現代人の静けさへの耐性の無さは、昔の比ではなさそうだ。
こうして私のテレビなしの暮らしは、またおあずけになった。
新しいテレビは、あと10年くらいは持つだろうな....
地デジに移行する前に、地デジ対応のテレビを買っておこうということで買ったもので、10数年経っているはずだ。
私は今度テレビが壊れたらもう買わないつもりだった。
「テレビがないと時間がゆっくり過ぎるね」と言ったら、
「そんなことはない!」と、我が家のテレビ中毒の輩が禁断症状を起こしたので、結局買ってしまった(>_<)。
全くテレビの音がしない静けさがあったのは、三日間だけだった。
確かに空気が違ったと思う。柔らかく、空間が大きくなっていた。
テレビの音にかき消されていた、家の息遣いが感じられる気がした。
またテレビが来て、設定を終えて試しにつけてみた時に流れていたCMソングが、その後しばらく頭の中をグルグルしていた。こういう現象をディラン効果とかいうそうな。
テレビの策略として、CMソングというのは頭に残りやすく作られている。
昔何かの本に書かれていた「黙っていてもうるさい人というのがいる」という一文を思い出した。
テレビはまさにそれだな、と思う。ついていない時でもうるさい。
テレビのない時代は、人は否応なしに静けさと共存しなければならなかった。
古い歌の一節にこんなのがある。
〜ふるさとの冬はさみしい
せめてラジオ聞かせたい〜
昔の田舎の冬の静けさは、時に耐えがたいほどだっただろうか。
(田舎の親戚の家には、なぜかどこも大画面のテレビがある。)
現代人の静けさへの耐性の無さは、昔の比ではなさそうだ。
こうして私のテレビなしの暮らしは、またおあずけになった。
新しいテレビは、あと10年くらいは持つだろうな....
posted by Sachiko at 21:53
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| 暮らし
2022年01月12日
「かえるの王さま」
魔法で動物の姿に変えられてしまった王子についての話を以前書いた。
「かえるの王さま」の王子はその代表格だ。
KHM(Kinder-und Hausmärchen グリム兄弟の蒐集による「子供と家庭のための童話集」の通し番号)の1番が、この「かえるの王さま」で、番号はほぼ採話順になっている。
悪い魔女によって動物に変えられた王子は、そもそもなぜ、どのようにして魔法にかかってしまったのかは、どの物語でも説明されていない。
ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」の中では、姿を変えるという魔法は、悪の力から来るものだと言っている。
動物に変えられた姿は、人間が本来あるべき姿から外れてしまったことを示していて、、現代人はこの状態で、それは悪の力という魔法にかけられてしまったためだ。
けれどその力によって姿を変えられたカエルは、それによって善をもたらす行為を成し遂げることができるという。
「悪を統合した人間には威厳がある」というように、悪をくぐり抜けた善には、そうでない場合よりもはるかに力強さを感じる。
いったいここを無事にくぐり抜けられるのか?と思うような時代も、全体を見通している高次元の目から見れば必然的なプロセスで、人間がより強くなって本来の姿に還る未来が見えているのだろう。
それまで金のまりで遊んでいた、子どもと思われる王女が、カエルが王子になったことで結婚に至るほど成熟する。
このパターンは、「雪白とバラ紅」で、熊が王子にもどった時の状況に似ている。
このあたりにも、メルヒェン特有の深い叡智が透けて見える。
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HPに「グリム童話の世界」を追加しました。
https://fairyhillart.net/grimm1.html

「かえるの王さま」の王子はその代表格だ。
KHM(Kinder-und Hausmärchen グリム兄弟の蒐集による「子供と家庭のための童話集」の通し番号)の1番が、この「かえるの王さま」で、番号はほぼ採話順になっている。
悪い魔女によって動物に変えられた王子は、そもそもなぜ、どのようにして魔法にかかってしまったのかは、どの物語でも説明されていない。
ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」の中では、姿を変えるという魔法は、悪の力から来るものだと言っている。
動物に変えられた姿は、人間が本来あるべき姿から外れてしまったことを示していて、、現代人はこの状態で、それは悪の力という魔法にかけられてしまったためだ。
けれどその力によって姿を変えられたカエルは、それによって善をもたらす行為を成し遂げることができるという。
「悪を統合した人間には威厳がある」というように、悪をくぐり抜けた善には、そうでない場合よりもはるかに力強さを感じる。
いったいここを無事にくぐり抜けられるのか?と思うような時代も、全体を見通している高次元の目から見れば必然的なプロセスで、人間がより強くなって本来の姿に還る未来が見えているのだろう。
それまで金のまりで遊んでいた、子どもと思われる王女が、カエルが王子になったことで結婚に至るほど成熟する。
このパターンは、「雪白とバラ紅」で、熊が王子にもどった時の状況に似ている。
このあたりにも、メルヒェン特有の深い叡智が透けて見える。
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HPに「グリム童話の世界」を追加しました。
https://fairyhillart.net/grimm1.html

posted by Sachiko at 22:34
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| メルヒェン