-----
シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちの3つの魂の力、すなわち、感情、思考、意志をよりいっそう意識するようになると、多くの繰り返されるパターンが見えてくる。
私たちは、特定の感情を持ち、特定の考えを持ち、特定の方法で行動する傾向があることが明らかになる。
私たちのことを知っている人なら誰でも、そのことを告げてくれる。
心理分析家はそれを研究し、私たちが特定の状況でどのように反応するかを予測することができる。
これが私たちの個性であり、性格なのだ。これらの個人的な傾向は、生涯にわたって発達してきた。
私たちの性格の強さや気質は、私たちの魂の中にある“私であるもの”の影響に直接つながっている。
私たちの最も有意義な活動、それは“私であるもの”が魂の中で考え、“私であるもの”が魂の中にある種の感情を呼び起こし、特定の方法で行動するように動機づけるのも“私であるもの”だということだ。
もしこれらのことを無意識に野放しにするなら、私たちはもはや、外部の力によって動かされるだけの操り人形のようになってしまう。
自由もなければ、自分の人生の出来事を理解することもできない。
さらに、ある状況下では、好ましくない反応をしてしまうこともある。
私たちに起こる個々の出来事はすべて、私たち自身が過去の人生で行ったことに起因する。
今、私たちは、自分が作り出した原因の影響を引き受けている。
これはかなり破壊的なものに思えるかもしれないが、実のところ全く逆である。
私たちが為してきたすべてのことは、“私”という存在に気づくためのものだったのだ。
私たちの歩く道は、"キリストを受けた者 "であるイエスの人生で辿ったように、痛みと悲しみの道である。
私たちは、この地上の道を完全に歩んだ偉大な“私”であるイエスの足跡を辿る。
彼は私たちに道を示す。自分の行為の結果に対し、痛みに苦しむか、自分の目的を果たしていることを自覚して得られる喜びを味わうのか...どのように受け入れるかは、私たちの選択なのだ。
-----
12夜の旅も折り返し地点になった。
そして...この旅は手厳しくも深い。
人を操り人形にしようとする力が跋扈している現代、人間であることのすべて---何を意図し、感じ、考え、行うのかは、“私”にかかかっている。
「日々自分の十字架を背負って私について来なさい」(ルカ9-23)というのは、こういうことなのだろう。
“私”を生きるのか、周りの動向や損得や外部からの力など“私”ではないものを動機にするのかで、これからの時代は道が分かれて行くだろう。
何が起こったとしても、生きていてよかった、と思えるなら、カルマを正しく歩んでいるのだそうだ。
2021年12月31日
7月に向けて---第七夜
posted by Sachiko at 11:46
| Comment(0)
| クリスマス
2021年12月30日
6月に向けて---第六夜
-----
シュタイナーが伝えた12夜の話から
魂の3つの力の中で、意志は最も神秘的である。
私たちの生活の中で、私たちは2種類の意志を扱う。
1つは自然と、分解や破壊の力と関わり、もう1つは霊性と、地球の建設的な力と関わる。
消化器系の働きや、他の体の動きの中に地上の意志は見出される。
私たちはそれを意識することも干渉することもできないが、それには為すべき仕事がある。
私たちが剣のように振るうことができるのは霊的な意志である。
その剣は私たちの道徳的衝動によって導かれ、私たちをこの世界を創造する原因と結果の不可欠な部分にする。
私たちは自分自身の意志をコントロールすることで大きな責任を負っている。
キリストが”私”という存在を個人的なものとして人間に与えるために地上に降りたとき、私たちはこの責任を与えられた。
では、道徳性とは何か?
それは大いに誤解されていて、私たちが何をするかではなく、どのようにするかに関わっている。
私たちの行為は、自分の幸せが他人の犠牲の上に成り立つのではない場合にのみ道徳的になり得る。
つまり、労働者が酷い扱いを受けている工場で作られた新しい贈物を喜んで受け取ったり、酷い扱いを受けている動物によって生産された安価な食品を喜んで買ったりすると、私たちは不道徳の網に巻き込まれる。
道徳の行為は、私たちの行為が他の人々への関心に由来するときに起こる。
したがって道徳は、他者への愛、最も純粋で最高の愛と敬意から生まれる。
-----
簡単に手に入れることのできる安価な品物、衣服、食品など、どこでどのように作られているかを意識するのは、心地よくはない。できれば見ないふりをしていたいかも知れない。
フェアトレード製品や、よい環境で育てられた動物に由来するミルクや卵などは、そうでないものよりも高価だ。
誰をも不当に抑圧しないで作られたものだけを買って暮らそうとすれば今より貧しくなってしまうと感じるなら、普段はその貧しさをどこか遠くの他人に押しつけているということだ。
でも仕方がない、世界はそういうシステムになっているのだし....と思いたくなるけれど、それが不道徳の網で、誰もそこから逃れていない。
現代人は、特にいくらか豊かに暮らせている人々は皆、同じ網のムジナということだ。
「私たちの行為は、自分の幸せが他人の犠牲の上に成り立つのではない場合にのみ道徳的になり得る。」
これはまさに、宮沢賢治のこの言葉だ。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
これもまた誤解されやすい言葉で、みんなが幸せになるまで、自分はじっと不幸の中に留まるべきだ、などという意味ではない。
「この私」は、他者から見れば「世界全体」の一部なのだから。
「私」という意識が神から与えられたものならば、深いところにおいて人間は、他者を犠牲にしては心底の幸せを感じることができないように創られているのではないだろうか。
シュタイナーが伝えた12夜の話から
魂の3つの力の中で、意志は最も神秘的である。
私たちの生活の中で、私たちは2種類の意志を扱う。
1つは自然と、分解や破壊の力と関わり、もう1つは霊性と、地球の建設的な力と関わる。
消化器系の働きや、他の体の動きの中に地上の意志は見出される。
私たちはそれを意識することも干渉することもできないが、それには為すべき仕事がある。
私たちが剣のように振るうことができるのは霊的な意志である。
その剣は私たちの道徳的衝動によって導かれ、私たちをこの世界を創造する原因と結果の不可欠な部分にする。
私たちは自分自身の意志をコントロールすることで大きな責任を負っている。
キリストが”私”という存在を個人的なものとして人間に与えるために地上に降りたとき、私たちはこの責任を与えられた。
では、道徳性とは何か?
それは大いに誤解されていて、私たちが何をするかではなく、どのようにするかに関わっている。
私たちの行為は、自分の幸せが他人の犠牲の上に成り立つのではない場合にのみ道徳的になり得る。
つまり、労働者が酷い扱いを受けている工場で作られた新しい贈物を喜んで受け取ったり、酷い扱いを受けている動物によって生産された安価な食品を喜んで買ったりすると、私たちは不道徳の網に巻き込まれる。
道徳の行為は、私たちの行為が他の人々への関心に由来するときに起こる。
したがって道徳は、他者への愛、最も純粋で最高の愛と敬意から生まれる。
-----
簡単に手に入れることのできる安価な品物、衣服、食品など、どこでどのように作られているかを意識するのは、心地よくはない。できれば見ないふりをしていたいかも知れない。
フェアトレード製品や、よい環境で育てられた動物に由来するミルクや卵などは、そうでないものよりも高価だ。
誰をも不当に抑圧しないで作られたものだけを買って暮らそうとすれば今より貧しくなってしまうと感じるなら、普段はその貧しさをどこか遠くの他人に押しつけているということだ。
でも仕方がない、世界はそういうシステムになっているのだし....と思いたくなるけれど、それが不道徳の網で、誰もそこから逃れていない。
現代人は、特にいくらか豊かに暮らせている人々は皆、同じ網のムジナということだ。
「私たちの行為は、自分の幸せが他人の犠牲の上に成り立つのではない場合にのみ道徳的になり得る。」
これはまさに、宮沢賢治のこの言葉だ。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
これもまた誤解されやすい言葉で、みんなが幸せになるまで、自分はじっと不幸の中に留まるべきだ、などという意味ではない。
「この私」は、他者から見れば「世界全体」の一部なのだから。
「私」という意識が神から与えられたものならば、深いところにおいて人間は、他者を犠牲にしては心底の幸せを感じることができないように創られているのではないだろうか。
posted by Sachiko at 21:02
| Comment(0)
| クリスマス
2021年12月29日
5月に向けて---第五夜
-----
シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちは思考するとき、過去に考えだされた概念を結びつけることで現在を理解する。
このことは脳内で行われるのではない。
私たちの脳は、魂によって形作られた思考を見ることができる鏡のようなものだ。私たちの思考を体に送るのは魂なのだ。
これが、私たちが眠っているとき魂−アストラル存在−が退いてしまっていると考えることができない理由である。
しかし私たちの脳はまだベッドの中にいる。そして科学者たちは、なぜ脳が夜に働かないのかについて、種々雑多な考え(正しいもの以外の)を抱いている。
これらの思考をどれだけコントロールできるかと言うなら、100%である。私たちの集中力を研ぎ澄ますことが、必用なすべてなのだ。
もし私たちが思考に集中することができれば、それとともに私たちは変容する。
私たちは思考を、霊感の息吹のごとく体験し、わかりきった退屈な道から解き放たれて自由になったと感じるだろう。
私たちは思考を、感情によって暖め、意思によって生き生きとさせるために、直接的にコントロールする力を得る。
このことは私たちに、いつも容易に見出せるとは限らない真我の直接体験をもたらすだろう。
------
現代科学はいまだ脳を絶対視していて、魂について語るのはタブーのようだ。
人間の中では頭(脳)が一番賢いと信じられているけれど、現実をよく観察すると、頭がどれほど騙されやすく錯覚しやすいかがわかる。
無意識的な日常の中では、思考はほとんどコントロールされない。
頭の中はすぐに、次々と現れては消えて行く混乱した思考のおしゃべりでいっぱいになる。
思考を観察しようと立ち止まって静かになるとき、初めて“意識”が立ち現れる。
思考しようと意図したことだけを思考できるようになるべきだとシュタイナーは言ったが、現段階の人間にとってはまだ難しい。
つまり、考えたことがすぐに現象化しないのは、今の段階では恩寵なのだ。
未来、人間が進化していつか文字通りの創造者になるために、思考のコントロールという修練の途上にある。
毎年の12夜の旅は、宇宙的な旅の小さな模像を描く。
シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちは思考するとき、過去に考えだされた概念を結びつけることで現在を理解する。
このことは脳内で行われるのではない。
私たちの脳は、魂によって形作られた思考を見ることができる鏡のようなものだ。私たちの思考を体に送るのは魂なのだ。
これが、私たちが眠っているとき魂−アストラル存在−が退いてしまっていると考えることができない理由である。
しかし私たちの脳はまだベッドの中にいる。そして科学者たちは、なぜ脳が夜に働かないのかについて、種々雑多な考え(正しいもの以外の)を抱いている。
これらの思考をどれだけコントロールできるかと言うなら、100%である。私たちの集中力を研ぎ澄ますことが、必用なすべてなのだ。
もし私たちが思考に集中することができれば、それとともに私たちは変容する。
私たちは思考を、霊感の息吹のごとく体験し、わかりきった退屈な道から解き放たれて自由になったと感じるだろう。
私たちは思考を、感情によって暖め、意思によって生き生きとさせるために、直接的にコントロールする力を得る。
このことは私たちに、いつも容易に見出せるとは限らない真我の直接体験をもたらすだろう。
------
現代科学はいまだ脳を絶対視していて、魂について語るのはタブーのようだ。
人間の中では頭(脳)が一番賢いと信じられているけれど、現実をよく観察すると、頭がどれほど騙されやすく錯覚しやすいかがわかる。
無意識的な日常の中では、思考はほとんどコントロールされない。
頭の中はすぐに、次々と現れては消えて行く混乱した思考のおしゃべりでいっぱいになる。
思考を観察しようと立ち止まって静かになるとき、初めて“意識”が立ち現れる。
思考しようと意図したことだけを思考できるようになるべきだとシュタイナーは言ったが、現段階の人間にとってはまだ難しい。
つまり、考えたことがすぐに現象化しないのは、今の段階では恩寵なのだ。
未来、人間が進化していつか文字通りの創造者になるために、思考のコントロールという修練の途上にある。
毎年の12夜の旅は、宇宙的な旅の小さな模像を描く。
posted by Sachiko at 15:18
| Comment(0)
| クリスマス
2021年12月28日
4月に向けて---第四夜
もう第4夜か....と、年末にやらなければならないことのリストを見ると思ってしまうのだけれど、静けさにフォーカスするということを毎日意識するだけでも、内側に空間が開ける気がする。
-------
シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちには3つの魂の力、感情、思考、意志があるが、私たちの全体としての魂の気分は私たちの感情のはたらきに集約される。
私たちの魂の中で感じる基本的な体験は、私たちが好むものや嫌うもの、共感と反感、または愛と憎しみに引き寄せられる。
自分の性向を考えた場合、何を受け入れ、何を拒否し、何に惹かれ、何に反発するかを観察すれば、自分自身をはっきりと理解することができる。
これは私たちの今生の生い立ちに影響されていると言う人もいるが、本質的には私たちのカルマと過去生からの体験に直接関連している可能性がある。
私たちは私たちを喜ばせるものすべてに惹かれ、他のすべてを無視する。
これは、この世界の大部分が、まるで存在しないかのように、気づかれずに私たちを通り過ぎてしまうことを意味する。
このことは私たちに有害な影響を及ぼし、私たちが自らの高次の自己と関わり、私たちの内にキリスト存在を目覚めさせることを妨げる。
--------
12聖夜のような特別な時間にこれらのことを考えると、日常の中では人間はまるで眠っているかのように見える。
けれど魂の共感と反感は、まさに日常生活のあれこれの出来事によって引き起こされる。
それらに飲まれ翻弄されるのか、一段高い立ち位置から観察するのかによって、道をもう一歩進めるのか同じところを回りながら留まるのかの違いが出てくるだろう。
12夜は、人間が日常の外に引き上げられて、ある種の“機会”が与えられる(それを望むなら)、恩寵のような領域にも思える。
-------
シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちには3つの魂の力、感情、思考、意志があるが、私たちの全体としての魂の気分は私たちの感情のはたらきに集約される。
私たちの魂の中で感じる基本的な体験は、私たちが好むものや嫌うもの、共感と反感、または愛と憎しみに引き寄せられる。
自分の性向を考えた場合、何を受け入れ、何を拒否し、何に惹かれ、何に反発するかを観察すれば、自分自身をはっきりと理解することができる。
これは私たちの今生の生い立ちに影響されていると言う人もいるが、本質的には私たちのカルマと過去生からの体験に直接関連している可能性がある。
私たちは私たちを喜ばせるものすべてに惹かれ、他のすべてを無視する。
これは、この世界の大部分が、まるで存在しないかのように、気づかれずに私たちを通り過ぎてしまうことを意味する。
このことは私たちに有害な影響を及ぼし、私たちが自らの高次の自己と関わり、私たちの内にキリスト存在を目覚めさせることを妨げる。
--------
12聖夜のような特別な時間にこれらのことを考えると、日常の中では人間はまるで眠っているかのように見える。
けれど魂の共感と反感は、まさに日常生活のあれこれの出来事によって引き起こされる。
それらに飲まれ翻弄されるのか、一段高い立ち位置から観察するのかによって、道をもう一歩進めるのか同じところを回りながら留まるのかの違いが出てくるだろう。
12夜は、人間が日常の外に引き上げられて、ある種の“機会”が与えられる(それを望むなら)、恩寵のような領域にも思える。
posted by Sachiko at 13:58
| Comment(0)
| クリスマス
2021年12月27日
3月に向けて---第三夜
---------
シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちが霊的な洞察を持つなら、私たちはほんとうに、全体の一部であることがわかる。
そのとき私たちは、その為すことにかかわらず、自分たちを全体の一部として見ることを欲するようになる。
この選択は、私たちが旅の途上にあり、いつかそこにたどり着くというある種の信仰を持っていることを意味する。
しかし、私たちが運ぶ荷物を見るためにこの霊的な洞察も用いる必要があり、そうでなければ霊的能力を誤って使うことになる。
その荷物とは何だろう?
恨み、許しの欠如、恐れ、愛の欠如、自分の意見、一方的態度、嫉妬、自分への過小評価、自分への過大評価、さらに多くのあれこれが続く。
この荷物は、これらによって自身を肥大させる下位の自我に属している。
私たちが高次の自己、いのちのパンである真の自分自身に達するところまで来た今、私たちはもはやこれらのものにかまけることはできない。
他者をそのままで愛することは、誰を愛し、誰を愛さないかを決めるよりもはるかに容易である。
他人を赦すことはすぐさま満足をもたらすことはないが、赦せば世界が変わる。
-------
いつもながら、12夜が要求する課題は簡単ではない。
個々の人間が全体の一部であること、より高次の存在に進化する旅の途上にあること、愛することと赦すこと.....
たぶん、言葉としては何度も聞いたことがあり知っているのだ。
けれどまさに個々の人間として分かれていることが、それを難しくしている。
そこで、書かれているような霊的洞察というものを使う必要があり、12夜というこの特別な期間には、その洞察を幾らかでも強めてくれる力がはたらいているのではないかと思う。
毎年の12夜を適切に過ごすことが遠い未来につながっているという認識を持って受けとる力は、旅の糧となるのだろう。
シュタイナーが伝えた12夜の話から
私たちが霊的な洞察を持つなら、私たちはほんとうに、全体の一部であることがわかる。
そのとき私たちは、その為すことにかかわらず、自分たちを全体の一部として見ることを欲するようになる。
この選択は、私たちが旅の途上にあり、いつかそこにたどり着くというある種の信仰を持っていることを意味する。
しかし、私たちが運ぶ荷物を見るためにこの霊的な洞察も用いる必要があり、そうでなければ霊的能力を誤って使うことになる。
その荷物とは何だろう?
恨み、許しの欠如、恐れ、愛の欠如、自分の意見、一方的態度、嫉妬、自分への過小評価、自分への過大評価、さらに多くのあれこれが続く。
この荷物は、これらによって自身を肥大させる下位の自我に属している。
私たちが高次の自己、いのちのパンである真の自分自身に達するところまで来た今、私たちはもはやこれらのものにかまけることはできない。
他者をそのままで愛することは、誰を愛し、誰を愛さないかを決めるよりもはるかに容易である。
他人を赦すことはすぐさま満足をもたらすことはないが、赦せば世界が変わる。
-------
いつもながら、12夜が要求する課題は簡単ではない。
個々の人間が全体の一部であること、より高次の存在に進化する旅の途上にあること、愛することと赦すこと.....
たぶん、言葉としては何度も聞いたことがあり知っているのだ。
けれどまさに個々の人間として分かれていることが、それを難しくしている。
そこで、書かれているような霊的洞察というものを使う必要があり、12夜というこの特別な期間には、その洞察を幾らかでも強めてくれる力がはたらいているのではないかと思う。
毎年の12夜を適切に過ごすことが遠い未来につながっているという認識を持って受けとる力は、旅の糧となるのだろう。
posted by Sachiko at 16:19
| Comment(0)
| クリスマス