今日は、ケルト暦では初夏の祝祭ベルテーン。
ワルプルギスという呼び名のほうが知られていると思う。
ケルトの祝祭日の日付が表記によって1日ずれていることがあるのは、ケルト文化では一日の始まりが日没からで、日を跨ぐことになるからだ。
夏を迎えるための火の祭りなのだが、今年は雨で寒かった。
別に外でかがり火を焚いて目立つ儀式をしたりはしないので寒くてもかまわないけれど、この連休は場所によっては雪予報が出ている。
サバトの儀式にはケーキとビール(あるいはワイン)が使われる。
ケーキは、今のスポンジケーキのようなものを連想すると、きっと違うのだろう。木の実を使うこともあるらしい。
儀式用のケーキの話は、粉と油で作った菓子として、旧約聖書にも出てくる。
私は読んだことがないが、サマセット・モームの「お菓子とビール(Cakes and Ale)」という小説がある。
このタイトルについて、お菓子とビールとは奇妙な組み合わせだ、お菓子はビールのつまみにはならないだろうに...などと昔思っていた。
サバトの供え物のことなら納得がいく。
タイトルはシェイクスピアの作品からとられたそうで、小説の内容はサバトとは何の関係もなさそうだ。
こういうちょっとした言葉は、文化の背景を知らないとわかりにくい。
「おはぎ」や「ぼたもち」と聞けば日本人はお彼岸を連想するけれど、背景を知らない外国人から見れば単に変わった食べものということになる。
現代では、ほんものの季節の祝祭は失われてしまった。
身近な自然の移り変わりも、注意深く見ていなければ通り過ぎてしまう。
土地に根差した集合的な祭りはもうない。
けれど個人の内的な祝祭というものは、むしろ未来に向けて発展させることができるのではないかと思っている。
季節を祝い、自然とつながって生きる未来を選ぶのなら、古い叡智を自分自身の祭儀として迎え入れるのも道のひとつに思える。
2021年04月30日
ベルテーン
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| ケルト
2021年04月27日
マソム
どこかで、ちょっとしたものを貰うことがある。
旅のお土産に、または何かの折に....
棚の上に、いつの間にかそうしたこまごました物が増えている。
小さなクリスタル、キャンドル、カード...etc.
物としての価値だけを見ようとすると見えなくなるものがある。
何かちいさなものを渡したり受けとったり、そのあいだにある機微は目に見えないので、目に見える小さな何かの上に乗っている。
古いものはやがて壊れたり、失くなってしまったものもある。
それらは人間関係の移り変わりも映していて、何らかの微かな感情を呼び起こす。
ふとマソムという言葉を思い出した。
『指輪物語』の最初のほうで、ホビット文化の話として出てくる。
--------------------
・・・ホビットたちは、今すぐ使うあてはないけれど、捨ててしまう気にはなれないものを、何でもマソムと呼んでいたからである。
かれらの住居はともするとマソムであふれんばかりになり、次から次へと回される贈り物の多くは、つまりマソムの類だった。
--------------------
結婚式の引き出物などはある意味マソムの代表格かもしれない。
特に役には立たないことが多いけれど(私もけっこうバザーに出した^^;)、かと言って省略されるとつまらなく感じたりする。
「あなたを通して回るエネルギーの流れを断ち切らないでください」と、誰かの言葉にあった。
マソムが回っているのは幸せなときだ。
それよりも一握りの米を!と言わなければならなくなったら非常時なのだ。
ホビット庄のことが出てきたがファンタジーのカテゴリに入れるほどの話でもないので、「暮らし」に入れておこう。
なんだかこの記事自体もマソムっぽくなった。
旅のお土産に、または何かの折に....
棚の上に、いつの間にかそうしたこまごました物が増えている。
小さなクリスタル、キャンドル、カード...etc.
物としての価値だけを見ようとすると見えなくなるものがある。
何かちいさなものを渡したり受けとったり、そのあいだにある機微は目に見えないので、目に見える小さな何かの上に乗っている。
古いものはやがて壊れたり、失くなってしまったものもある。
それらは人間関係の移り変わりも映していて、何らかの微かな感情を呼び起こす。
ふとマソムという言葉を思い出した。
『指輪物語』の最初のほうで、ホビット文化の話として出てくる。
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・・・ホビットたちは、今すぐ使うあてはないけれど、捨ててしまう気にはなれないものを、何でもマソムと呼んでいたからである。
かれらの住居はともするとマソムであふれんばかりになり、次から次へと回される贈り物の多くは、つまりマソムの類だった。
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結婚式の引き出物などはある意味マソムの代表格かもしれない。
特に役には立たないことが多いけれど(私もけっこうバザーに出した^^;)、かと言って省略されるとつまらなく感じたりする。
「あなたを通して回るエネルギーの流れを断ち切らないでください」と、誰かの言葉にあった。
マソムが回っているのは幸せなときだ。
それよりも一握りの米を!と言わなければならなくなったら非常時なのだ。
ホビット庄のことが出てきたがファンタジーのカテゴリに入れるほどの話でもないので、「暮らし」に入れておこう。
なんだかこの記事自体もマソムっぽくなった。
posted by Sachiko at 22:50
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| 暮らし
2021年04月24日
パパ・ペッレリンのゆくえ
マリア・グリーペ「森の少女ローエラ」より。
馬車は森の奥へ進む。
キイチゴの繁みを過ぎると、パパ・ペッレリンが両腕をひろげて迎えてくれるはずだ。ところが.....
「おばさん、パパ・ペッレリンがいないわ!」
ローエラは叫ぶが、アディナおばさんのようすが何だかおかしい。
「繁みの中に倒れているようだから見ておいで」と言って、おばさんは双子を連れて急いで家に帰っていった。
繁みに行ってみると、そこにいたのはかかしではなく、知らない男の人だった。そういえばおばさんの手紙に、森の奥のフレドリク=オルソンのところに男の人が住んでいると書いてあった。
とにかく、パパ・ペッレリンを返してもらわなくては。
男はひとりごとのように言う。
「きっと、もう、手遅れだったのだ。古かかしの身代わりにさえなれないなんて....」
・・・
「わたしには娘がひとりいてね。...なんて名前か知りたくないかい?」
「べつに。あたしとは関係ないもの。」
ローエラにとって、こんな話はつらい。今気にしているのは、だいじなパパ・ペッレリンを返してほしいということだけだ。
立ち去ろうとしたローエラの背後から、声が聞こえた。
「わたしの娘はローエラという名前なんだ...ローエラだよ...」
ゆっくりと戻って目を上げると、男はパパ・ペッレリンと同じ格好で両手を広げていた。
ローエラにはまだ事情が飲みこめない。
児童ホームの白昼夢のように、この夢がさめてはならない。
木の葉を引きちぎりながら、ローエラは言う。
「あたしも....ローエラって名前なの。」
森はしずまりかえった。
--------------------
そういえばマリア・グリーペの作品では、「夜のパパ」のぺーテルや、ジョセフィーンのパパなど、「パパ」と呼ばれる存在が強い印象を与える。
ローエラが期待していたのは、森に帰ったら、パパ・ペッレリンが両手を広げて迎えてくれることだった。
森を離れるとき、飛び込みたいのを我慢した、あの両腕。
森から始まった物語は、森で終わる。
でもローエラは町へ行く必要があった。
アグダ・ルンドクヴィストが森の家にやってきてパパの話をするまで、ローエラにとってパパの存在は現実味がなかった。
学校で父の日の絵を描くことになった時から、しだいに町に来た意味はパパに会うことだ、という白日夢が始まったのだ。
絵は、白アネモネの花束を持った少女と男の人が道で出会う絵だった。
ローエラが白日夢の中で繰り返し繰り返し聞いたあの言葉...
それを聞いたのは、町の港でもなく、白日夢の中のような大災害や事故現場でもなかった。
静まり返った森....これ以上の場所はない。
そして今両手を広げているのはかかしではない。
美しい森で、物語はしあわせに終わっていい。
--------------------
ふたりをとりまく森の木々や花、地上の虫、空飛ぶ小鳥-----ありとあらゆるものが、男の言葉を聞いたのだ。
「じゃ、あんたはわたしの娘にちがいない。あんたはたしかに、わたしの娘だ。」
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馬車は森の奥へ進む。
キイチゴの繁みを過ぎると、パパ・ペッレリンが両腕をひろげて迎えてくれるはずだ。ところが.....
「おばさん、パパ・ペッレリンがいないわ!」
ローエラは叫ぶが、アディナおばさんのようすが何だかおかしい。
「繁みの中に倒れているようだから見ておいで」と言って、おばさんは双子を連れて急いで家に帰っていった。
繁みに行ってみると、そこにいたのはかかしではなく、知らない男の人だった。そういえばおばさんの手紙に、森の奥のフレドリク=オルソンのところに男の人が住んでいると書いてあった。
とにかく、パパ・ペッレリンを返してもらわなくては。
男はひとりごとのように言う。
「きっと、もう、手遅れだったのだ。古かかしの身代わりにさえなれないなんて....」
・・・
「わたしには娘がひとりいてね。...なんて名前か知りたくないかい?」
「べつに。あたしとは関係ないもの。」
ローエラにとって、こんな話はつらい。今気にしているのは、だいじなパパ・ペッレリンを返してほしいということだけだ。
立ち去ろうとしたローエラの背後から、声が聞こえた。
「わたしの娘はローエラという名前なんだ...ローエラだよ...」
ゆっくりと戻って目を上げると、男はパパ・ペッレリンと同じ格好で両手を広げていた。
ローエラにはまだ事情が飲みこめない。
児童ホームの白昼夢のように、この夢がさめてはならない。
木の葉を引きちぎりながら、ローエラは言う。
「あたしも....ローエラって名前なの。」
森はしずまりかえった。
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そういえばマリア・グリーペの作品では、「夜のパパ」のぺーテルや、ジョセフィーンのパパなど、「パパ」と呼ばれる存在が強い印象を与える。
ローエラが期待していたのは、森に帰ったら、パパ・ペッレリンが両手を広げて迎えてくれることだった。
森を離れるとき、飛び込みたいのを我慢した、あの両腕。
森から始まった物語は、森で終わる。
でもローエラは町へ行く必要があった。
アグダ・ルンドクヴィストが森の家にやってきてパパの話をするまで、ローエラにとってパパの存在は現実味がなかった。
学校で父の日の絵を描くことになった時から、しだいに町に来た意味はパパに会うことだ、という白日夢が始まったのだ。
絵は、白アネモネの花束を持った少女と男の人が道で出会う絵だった。
ローエラが白日夢の中で繰り返し繰り返し聞いたあの言葉...
それを聞いたのは、町の港でもなく、白日夢の中のような大災害や事故現場でもなかった。
静まり返った森....これ以上の場所はない。
そして今両手を広げているのはかかしではない。
美しい森で、物語はしあわせに終わっていい。
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ふたりをとりまく森の木々や花、地上の虫、空飛ぶ小鳥-----ありとあらゆるものが、男の言葉を聞いたのだ。
「じゃ、あんたはわたしの娘にちがいない。あんたはたしかに、わたしの娘だ。」
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| マリア・グリーペの作品
2021年04月21日
モラーリッシェ・ファンタジー
どうもモヤっとしていた。
昨日の道徳性という言葉が、日本語では誤解を招きやすい気がしたからだ。
それはけっして、道徳の教科書に書かれた「正しさ」を守ることを指してはいないし、品行方正ないい人を指すわけでもない。
モラーリッシェ・ファンタジーという言葉がある。
道徳的ファンタジー...普段は聞き慣れない言葉だと思う。
こういう場合はこうするものだ、という規範ではなく、毎回その出来事そのものに基づいて、直観的に判断し適切な行動をとれる、というようなことだ。
似た出来事に見えても、何が適切な対応なのかはいつも同じではない。それを瞬時に見てとるために、内的なファンタジーの力を発動する。
アーシュラ・K・ル=グウィンの「子どもと影と」というエッセイの中で、おとぎ話の倫理性について書かれている。
魔法使いのおばあさんをかまどに押し込んだグレーテルの行為を、現実世界の道徳基準で判断するのは馬鹿げた、まったくの誤りだ、と。
これは当然で、おばあさんをかまどに押し込んだあげく隠されていた財宝を持って家に帰った話を、これは強盗殺人じゃないか!と叫ぶのはまったくばかげているのだが、こういう人たちによって多くのメルヒェンが非難されたり改ざんされてしまったのだ。
ル=グウィンはこのように言っている。
・・・おとぎ話の世界には別の基準があって、それはおそらく「適切さ」と呼ぶのが最もふさわしいと思われます。
おとぎ話に登場する悪は、善の対極にある何かではなく、陰-陽のシンボルのように善と固く絡みあって離れないものなのです。
善も悪も互いを凌ぐものではないし、理性や道徳の力で二つを切りはなしてどちらかを選ぶこともできません。
主人公はなにをするのが適切かを見抜く者なのであって、それは彼らに善悪のいずれよりも大きな〈全体〉が見えるからなのです。
善悪の二元を超えたこの〈全体性〉が、モラーリッシェ・ファンタジーによる「適切さ」の位置なのだろうと思う。
道徳の教科書的「正しさ」が、往々にして馬鹿げたものになってしまうことは、童話の改変だけでなく、昨今の「○○警察」の類にも見られる。
このような外的規範による「正しさ」への固執を、ミヒャエル・エンデは、道徳的ファンタジーの反対語として「道徳的不毛」と呼んだ。
ファンタジーという言葉はいわゆるファンタジー文学を連想させるかもしれないが、それはファンタジーの表現形態のひとつであって、日常のさなかにファンタジーを発動させる機会はいくらでもある。
ファンタジー文学においても、ほんとうに優れた文学なら、単純な善悪の戦い(このテーマはほんとうに多い)ではなく、それを超えた全体性への道がどこかに「適切に」示されているはずだ。
昨日の道徳性という言葉が、日本語では誤解を招きやすい気がしたからだ。
それはけっして、道徳の教科書に書かれた「正しさ」を守ることを指してはいないし、品行方正ないい人を指すわけでもない。
モラーリッシェ・ファンタジーという言葉がある。
道徳的ファンタジー...普段は聞き慣れない言葉だと思う。
こういう場合はこうするものだ、という規範ではなく、毎回その出来事そのものに基づいて、直観的に判断し適切な行動をとれる、というようなことだ。
似た出来事に見えても、何が適切な対応なのかはいつも同じではない。それを瞬時に見てとるために、内的なファンタジーの力を発動する。
アーシュラ・K・ル=グウィンの「子どもと影と」というエッセイの中で、おとぎ話の倫理性について書かれている。
魔法使いのおばあさんをかまどに押し込んだグレーテルの行為を、現実世界の道徳基準で判断するのは馬鹿げた、まったくの誤りだ、と。
これは当然で、おばあさんをかまどに押し込んだあげく隠されていた財宝を持って家に帰った話を、これは強盗殺人じゃないか!と叫ぶのはまったくばかげているのだが、こういう人たちによって多くのメルヒェンが非難されたり改ざんされてしまったのだ。
ル=グウィンはこのように言っている。
・・・おとぎ話の世界には別の基準があって、それはおそらく「適切さ」と呼ぶのが最もふさわしいと思われます。
おとぎ話に登場する悪は、善の対極にある何かではなく、陰-陽のシンボルのように善と固く絡みあって離れないものなのです。
善も悪も互いを凌ぐものではないし、理性や道徳の力で二つを切りはなしてどちらかを選ぶこともできません。
主人公はなにをするのが適切かを見抜く者なのであって、それは彼らに善悪のいずれよりも大きな〈全体〉が見えるからなのです。
善悪の二元を超えたこの〈全体性〉が、モラーリッシェ・ファンタジーによる「適切さ」の位置なのだろうと思う。
道徳の教科書的「正しさ」が、往々にして馬鹿げたものになってしまうことは、童話の改変だけでなく、昨今の「○○警察」の類にも見られる。
このような外的規範による「正しさ」への固執を、ミヒャエル・エンデは、道徳的ファンタジーの反対語として「道徳的不毛」と呼んだ。
ファンタジーという言葉はいわゆるファンタジー文学を連想させるかもしれないが、それはファンタジーの表現形態のひとつであって、日常のさなかにファンタジーを発動させる機会はいくらでもある。
ファンタジー文学においても、ほんとうに優れた文学なら、単純な善悪の戦い(このテーマはほんとうに多い)ではなく、それを超えた全体性への道がどこかに「適切に」示されているはずだ。
posted by Sachiko at 22:45
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| ファンタジー
2021年04月20日
つぼみの季節
今日は、今年最初のモンシロチョウと、小さなハナアブを見た。
冬のあいだどうしていたのだろう?と思う生きものたちが、春には確実に帰ってくる。
雪の下で眠っていた花たちも新梢を伸ばしはじめる。
新芽がふくらんでからつぼみが付くまではあっという間だ。
チューリップと遅咲きの水仙のつぼみ

ライラックとブラックカラントのつぼみ

ハスカップとグースベリーのつぼみ

あるところにこんな、ある意味怖い話があった。
未来においては、道徳的な人が住んでいる家は生命力が豊かになり、その家にどういう花が咲いているかで、住人の道徳性が見分けられるようになる、と。(◎_◎;
そもそも未来には、その人間のすべては透けて見え、現在のようにごまかしが効かなくなるらしいのだ。
せめてこまめに庭の手入れをすることにしよう(-_-;
フィンドホーンの花や野菜があんなにも大きくて生き生きとしていたのは、未来を先取りしていたのか?
単に土壌の質とかいう話ではないだろう。元々が農業に適さない砂地だったのだから。
開花予想によれば、明日あたり桜が咲くことになっている。
花々がいっせいに咲く少し前のつぼみの季節、これもまた、短くも美しいひとときだ。
冬のあいだどうしていたのだろう?と思う生きものたちが、春には確実に帰ってくる。
雪の下で眠っていた花たちも新梢を伸ばしはじめる。
新芽がふくらんでからつぼみが付くまではあっという間だ。
チューリップと遅咲きの水仙のつぼみ

ライラックとブラックカラントのつぼみ

ハスカップとグースベリーのつぼみ

あるところにこんな、ある意味怖い話があった。
未来においては、道徳的な人が住んでいる家は生命力が豊かになり、その家にどういう花が咲いているかで、住人の道徳性が見分けられるようになる、と。(◎_◎;
そもそも未来には、その人間のすべては透けて見え、現在のようにごまかしが効かなくなるらしいのだ。
せめてこまめに庭の手入れをすることにしよう(-_-;
フィンドホーンの花や野菜があんなにも大きくて生き生きとしていたのは、未来を先取りしていたのか?
単に土壌の質とかいう話ではないだろう。元々が農業に適さない砂地だったのだから。
開花予想によれば、明日あたり桜が咲くことになっている。
花々がいっせいに咲く少し前のつぼみの季節、これもまた、短くも美しいひとときだ。
posted by Sachiko at 22:51
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| 庭