2020年11月29日

アドベント2020

今年のアドベントは今日11月29日から。
いつものように、アドベントキャンドルやアドベントの祭壇を用意して聖夜を待つ。

去年は大晦日に雪がないという前代未聞の事態だったけれど、今年は何とかホワイトクリスマスになりそうだ。
やはりアドベントの景色は真っ白がいい。

地球の季節の気分というものはいつも独特だ。
そしてアドベントの期間の“聖夜の気分”は、いっそう特別だ。
それはほんとうに、この時期にしか感じられない、地球を超えたところからやってくるものだ。

毎年、日本の年末年始は慌ただしくて...と言い訳がましくなるのだが、今年は特に、この時期を聖夜の気分で満たすことは地球にとって重要なのだと思う。

明日30日は、今年3度目の半影月食。
今年の星の位置は特別だと言われているとおり、冬至の頃には木星と土星がみずがめ座で重なる。

地球上の季節から、宇宙的な季節の廻りへ。その変容がますます明らかになってくる今年のアドベント。
  
posted by Sachiko at 22:11 | Comment(2) | クリスマス
2020年11月27日

「1993年のクリスマス」

「1993年のクリスマス」(文 レスリー・ブリカス / 絵 エロール・ル・カイン)

1993.jpg

この本の初版は、まだ1993年がほんの少し未来だった1987年。

・・・はじめのころは、サンタのしごとは楽しかった。
地球上の人の数は少なく、くらしは平和で、せかせかしていなくて、ちょっとのことで満足して、幸福というものをだいじにしていた。

時がたつと、世界は変わった。人間の望みは大きくなるばかり。
サンタのしごとはふえていった。
世界はばかげた規則でいっぱいになり、どこを通るにもたくさんの書類がひつようになった。

1993年、手つだいの小人たちがストライキを起こした。
きらいなおもちゃを作るのがいやになったんだ。
昔からのしきたりをだいじにし、古いものがすきな小人たち。
でも今はなんでもテクノロジーだ。

1993年のクリスマス。
地球には安全なところはないみたいだった。
サンタはハイジャックにあい、テロリストにばくだんを投げられ、麻薬密輸人だとうたがわれ、国家警察に、サンタであることをしょうめいしろといわれたり...

世界じゅう、まともじゃないようだ。
サンタはもう、世界いっしゅうはしないときめた。
クリスマスというものは、おろかでよくばりな人間とはかんけいないものにしなければ。

ほんとうのクリスマスはどうあるべきか、考えてみよう。
さもないと、1994年には、もうクリスマスはなくなってしまうぞ。


その1993年も昔になって、もうすぐ2020年のクリスマス。
世界はますますまともじゃない。

小人たちが好きだった、ほんとうのクリスマス。
静かでおごそかで、子どもたちは素朴なおもちゃに目を輝かせ、ちいさなものを分かちあって幸せになれたクリスマス。
なんだかとても懐かしい.....

ギラギラと明るすぎる光は闇を追い出し、小さな灯火は闇をも照らす。
闇は灯火にかしずくように変容する。
静かな冬の夜の小さな灯りは、ほんとうにあかるく暖かいことを思い出す。
  
posted by Sachiko at 21:40 | Comment(0) | 絵本
2020年11月24日

バラの眠り

今朝はうっすらと雪が積もっていた。
これくらいの雪は、すぐに融けてしまうだろう。
冬囲いを終えて、バラたちは眠りについた。

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これはリルケの墓碑銘になっているという、薔薇の詩。


  薔薇 おお 純粋な矛盾

  よろこびよ
      
  このようにおびただしい瞼の奥で

  なにびとの眠りでもないという            

           (富士川英郎訳)

この詩人はバラのトゲを刺して死んだと言われている。
(実際には、バラのトゲを刺したのが元で破傷風になったとか。)


枝が細目のバラはこうして囲っておくが、何年も経ってがっしりした大株になったものは、雪の重さにも耐えるので冬囲いをしなくても大丈夫だ。

今週の予報は雪だるまマークが並んでいるけれど、まだ根雪にはなりそうもない。
例年ならクリスマス市場が始まる季節、今年はそれも中止になった。

そんな騒ぎなどよりはるかに大きな自然界の法則のもと、バラは眠り、雪は降る。
来週からアドベント♪
  
posted by Sachiko at 22:24 | Comment(0) |
2020年11月22日

さよならセドリック

かつて名作だったものは、いつまで名作なのか。
古い時代に書かれ、あまり一般に読まれなくなったら名作ではなくなるのかというと、そうとも言えない。
最近は本もサイクルが早くて、これは絶版にしてはいけない!と思う本も短期間で絶版になったりする。

判断するのは、やはり読む本人だろう。
本の楽しみというものはまったく個人的な領域なのだから。

宮崎駿氏が選んだ50冊のうち、私も選ぶだろうな、と思った本は10冊ほどだった。この重なり部分は多いのか少ないのか....
自分の好みで選ぶのと、多くの人に紹介するために選ぶのとでは違ってくるだろうけど。


かつての名作、バーネットの「小公子」「小公女」「秘密の花園」....
「小公女セーラ」はアニメで見た。
「秘密の花園」は、これも小学校のときに何度か読みかけて挫折した。

「小公子」は、小さい時にダイジェスト版の絵本を持っていた気がするのだけれどほとんど憶えていない。
大人になってから、ラジオの朗読番組で聴いたことがあるが、もう記憶が薄れている。

ただ一か所、強烈に憶えている場面がある。
セドリック少年が、「ぼくのお母さま」について語るところだ。

「お母さまは『わたくしはいつも、町で貧しい人たちを見かけると、施しをしたくてたまらなくなるのよ。』とおっしゃるんです。これで、ぼくのお母さまがどんなに素晴らしい方かおわかりでしょう!」

な、なんだって?
今どきどこかの上品なマダムがこんなことを言ったら袋叩きに遭うぞ!・・・と、現代人は思った。

セドリックは、大人の目から見た「理想の子ども」なのだ。ここでは自由や個性よりも『規範』が強い。
お手本にするべき『規範』が外側に提示され、それを真似なければならないとしたら、現代の子どもにとってはとんでもなく苦しいことだ。

「よい子主義」は、子どもの本の世界でもずいぶん長いことまかり通っていた。
個人が誰なのかよりも、身分や階級が強い力を持っていた時代があり、個性というものが、矯正しなければならない何かだった時代があった。

リトルミイがそこにいたら、「あんたをお手本にするですって?あたしゃまっぴらだわね、ワハハハ〜」と、銀のお盆に乗ってソリ遊びにでも行ってしまうだろう。

マリア・グリーペの「ヒューゴとジョセフィーン」では、ヒューゴもジョセフィーンも、別に模範的な良い子ではなく、ただヒューゴでありジョセフィーンなのだ。

ヒューゴはヒューゴであり続け、ジョセフィーンはジョセフィーンになるためにいくらか格闘するが、誰も他の誰かのようになる必要はない。


さよなら、美しい天使のようなセドリック。21世紀は、君には生きにくいだろうね。

19世紀の児童文学には、やはり当時の過酷な(現代とは違う形での)時代背景が色濃く映っている。
「小公女セーラ」で、貧しくなったセーラに寄宿学校の下働きをさせたパワハラ全開のミンチン先生など、今なら逮捕されてしまうだろう。

これらの古い物語の寿命は、時代や場所の制約を超えた永遠の領域にどれだけ触れているかによるだろうと思う。
もっと古い神話やメルヒェンの寿命が長いのは、それらが地上で創作されたものではなく、元々上の世界から取って来られたからだ。

いつか人々が、時代の騒がしい流行に飽きて永遠なものを求め始めた時に、“時が移っても変わらない何か”を携えた少年少女たちの誰かが、不意に戻って来ないとも限らない。
   
posted by Sachiko at 21:38 | Comment(0) | 児童文学
2020年11月20日

飛行機とお人形

前回宮崎駿氏の話が出たので....
私はジブリ作品には幾つか好きな作品があるけれど、特に熱いジブリファンというわけでもない。

みんな大好き「トトロ」と、個人的には「耳をすませば」が好きだ。
物語の世界を愛する少女とバイオリン職人の少年の組み合わせはかなりツボにはまる。
そして猫のバロンの物語、地球屋のおじいさんとその仲間達...

一方、よほど相性がわるいのか、何度見ても内容が理解できなかった作品もある。
「紅の豚」は、5回くらい見たはずだ。
なぜそんなに見たのかというと、話を把握できなかったからだ。

毎回、今度こそ理解できるようにちゃんと見よう!と思ってテレビの前に座るのだが....
気がつくとエンドロールが流れていて、え...これで終わり?今の何だった...?ということになる。

4回目に見たときに、やっとヒロインの名前を覚えた(ジーナ・・・だったっけ?で、彼女は何者だったかな...)。
いまだに、なぜポルコ・ロッソが豚になったのか、そもそも全体がどんな話だったのかわからない。

ある時その話をしたら、「『紅の豚』は、男の人が好きな作品だよね〜」と言われた。
なるほど....


小さい時、隣の家に同い年の男の子が住んでいて、時々遊びに行った。
ある時いっしょに絵を描いて遊んでいると、その子のお母さんが来て、「やっぱり女の子はお人形さん描くし、男の子は飛行機描くね〜」と言った。

たぶん、誰に教わったわけでもないのにそうなのだ。
子どもがある程度意味のわかるものを描ける年齢になった時、なぜか女の子は「女の子」の絵を描き、男の子は飛行機や車を描く。

小学校の休み時間、ひとりの男の子が戦闘機や戦車や、ミサイルが落ちて火柱が上がっているような絵を描き、他の男の子たちが周りで「かっこいい〜〜!」と騒いでいたのを思い出す。

一方女の子が描く絵の定番といえば、少女が子犬を連れてお花畑を散歩している...という類で、空を飛んでいるものがあるとしたら小鳥かチョウチョだった。
ここには人間と動物と植物がいるけれど、テクノロジーの産物はない。

なんだか、二つの全く性質の違う文明のように見える。

ジブリの、飛行機の話はもうひとつあった。
「風立ちぬ」でも、ヒロイン菜穂子の帽子が飛んだり、丘の上で絵を描いていたり、サナトリウムにいるシーンは憶えているのだけれど、飛行機に関する話は記憶から消えている...

空を飛ぶものが苦手ということではなさそうだ。
「魔女の宅急便」の、キキのほうきのことはよく憶えている。
   
posted by Sachiko at 21:47 | Comment(2) | 未分類