2020年09月30日

中秋の名月

今年の十五夜は10月1日。
当地では明日は曇りらしいので、晴れている今日のうちに月を見ておいた。やはり季節行事というのはいいものだ、と思う。


昔、函館のカトリック教会が運営する老人ホームの園長(確かフランス人の神父さんだった)が、「ホームでは、カトリックのお祭りは全部やる。そして日本のお祭りも全部やる。」と言っていた。

カトリックの行事に加えて、ひな祭りも七夕もお月見もあるのだ。一年中お祭りだらけで楽しそうだな、と思った。


ススキを漢字で書くと、薄(「ススキノ」のススキはこれだ)、あるいは芒。

芒はノギとも読み、イネ科の植物の多くに見られる、実の粒の先に付く針状の突起だ。
イネ科の植物は光と密接な関係があるという。

麦のノギが放射状に伸びている姿は、光を思わせる。
クリスマスに麦の穂を飾るのは、そういうシンボル的な意味もあるらしい。

十五夜にススキを飾ることの意味には諸説あるが、一説では、ススキの穂を稲に見立てて豊穣を祝うものだとされている。

近場にススキが生えている場所がなく、かなり遠くまで採りに行ってもらった。
やはり十五夜にはススキがなくてはいけない。
  
posted by Sachiko at 22:15 | Comment(2) | 季節・行事
2020年09月28日

「 MAJA AUF DER SPUR DER NATUR 」

「 MAJA AUF DER SPUR DER NATUR(自然をたどるマーヤ) 」
(Ulf Svedberg / Lena Anderson)

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マーヤといっしょに自然界の四季をたどる絵本。
「マーヤ」シリーズの中で、他の2冊はレーナ・アンデルソンが絵と文を書いているが、これは絵のみ。

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春には小鳥が歌い、夏にはたくさんの花や虫がやってきます。
マーヤはベリーやキノコや果実をみつけたり、秋には渡り鳥を観察します。木の葉はすばらしい色に変わっていきます。

冬になると色が少なくなって、植物や、暖かい季節が好きな動物たちはあまり心地よくありません。
それでも霜や雪にはすばらしい美しさがあります。


切り株の年輪を見て、方角を知る方法がある。
小鳥のさえずりは、何て美しいの!
花と蜂は、とても仲よし。

刺す生きものもいっぱい。
蚊や蜂、アリ、イラクサの葉も!

野に出て植物を観察しよう。
ハーブにベリーに木の葉っぱ。

川辺にすわって魚つり。
いろいろなトンボも飛んでいる。
クモはどんなふうに糸をかけていくのかしら。

動物たちは冬じたく。
渡り鳥は南へ旅立つ。
雪の上の足あとで、何の動物かがわかる。
枝に残った赤い実を食べにくる小鳥たち。

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このように、マーヤは自然の中で季節の移り変わりを楽しむ。
四季の章の冒頭には、それぞれ4人の詩人による詩が載っている。
春はストリンドベリ、夏はリンドグレーン、秋はメーリケ、冬はモルゲンシュテルン。


  9月の朝

 世界はまだ霧の中にまどろみ
 森も草地も夢みている

 君はじきに見るだろう 
 霧のベールがすべり落ち
 まことの蒼穹が現れるのを
 
 湿気を帯びて秋は深まる
 暖かい金色の流れの中で

   エドゥアルト・メーリケ 


  三羽のスズメ

 裸になったハシバミの枝で
 三羽のスズメが寄りそっている

 右のはエーリヒ、左はフランツ
 真ん中にいるのは生意気ハンス

 みんなしっかり目を閉じて
 上には雪が降っている、ほら!

 みんなでくっつきあったなら
 ハンスは誰より暖かい

 三羽はそれぞれおたがいの
 心臓の音をきいている

 どこかへ飛び去っていないなら
 みんなまだそこにいるよ

   クリスティアン・モルゲンシュテルン


※この本は以前、「マーヤの春夏秋冬」というタイトルで日本語版が出ていたが、中身がほとんど差し替えられていた。
季節の詩はすべて日本の詩人のものに代えられ、内容も、スウェーデンと日本の季節感の違いは何か、というような話になっているので、古本で見つけた時には要注意。

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posted by Sachiko at 21:52 | Comment(0) | 絵本
2020年09月26日

聖なる親密さ

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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我々の文化の中では、つながりということへの関心が過剰に集まっている。人々は何かと言えばつながりについて語る。

それはテレビや映画、その他のメディアにおいてももっぱらのテーマである。テクノロジーとメディアは、世界をひとつに結びつけてはいない。

それらはインターネットサービスによって世界が繋がっているかのように見せかけているが、実のところ、それらが配信しているのは仮想された影の世界なのだ。

ゆえに、それらは人間の世界をますます匿名性がはびこる孤独なものにする。
コンピューターが人間の出会いに取って代わり、心理学が宗教に取って代わる世界では、人々が取りつかれたようにつながりを求めても不思議ではない。

残念ながら、「つながり」は今や、人々の孤独な飢えが、温かさと帰属を漁ろうとしてうろつく空虚な中心となっている。

親密さを語る人々の言葉のほとんどは空疎で、果てしなく繰り返されるそれらの言葉は、親密さの全き欠如を明らかにするだけなのだ。

本物の親密さは、神聖な体験である。

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まさに現代の状況が語られているのだが、この本が書かれた頃には、まだインターネットの一般普及率は低かったはずだ。

つまり、ここで書かれている空疎な状況はさらに増幅しているのだが、同時にそれらに対する幻想も、その幻想へのしがみつきも、メディアに煽られて増幅しているように見える。

時々初対面の人から、「SNS(FBやLINEなど)をやっていたらつながりましょう」と言われることがある(私はLINEはやっていない)。
初対面が悪いわけではない。初対面で強く惹かれることもある。

ただ多くは、別に私とつながりたいわけではなく、友だち登録数を増やしたいだけだということが明らかなのだ。
ZOOMの会合も、遠くにいる人とでも顔を見ながら言葉を交わせるのは便利に違いないが、私は消耗してしまう。

決定的な違いはやはり、生身でそばにいることによる「エーテル的交感」の欠如だ。
たった一度でも生身で会ったことのある人は、まったく違う。私はその人を知っている。

ますます空疎に薄らいでいく幻想世界の中で、心底ではアナム・カラを求めていることさえ、人々は忘れてしまわないだろうか。
か細い蜘蛛の糸に触れるような微かなものだったとしても、深奥の聖性から離れてしまわないように。それが帰り道だ。

もっとも、こんなことを書いてWeb上で公開しているのも、時代の共犯にはちがいない。
  
posted by Sachiko at 22:31 | Comment(6) | ケルト
2020年09月24日

「みずうみにきえた村」

「みずうみにきえた村」
「グレイリング」と同じジェーン・ヨーレンによるお話と、おなじみのバーバラ・クーニーの絵による絵本。

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「6つのころのわたしは、この世にはこわいものなんか、なんにもないとおもっていました...」

お話はこのように始まる。
学校までの道のりには、古い粉ひき場や教会があり、夏の昼下がりには川でマスを釣った。

夏の夜には庭のカエデの木の下で眠ったり、ホタルをつかまえたりした。
冬、パパは湖の氷を切り出し、ママはストーブを燃やしつづけた。
3月にはカエデの幹に取り付けたバケツから、あまい樹液をなめた。


そのうちに、村のようすが変わってきた。
村の人たちは何度も会館に集まり、ボストンから来た人の話を聞いた。

大都会ボストンの人々が、大量の水を必要としているそうだ。
この谷間のきれいな水を、お金と、新しい家と、もっといい暮らしと交換できるのだという。


「・・・ボストンの人たちが水がのめるように、
わたしたちの村を水のそこにしずめることになったのです...」


まずお墓の引っ越しが行われ、次には木という木が切り倒され、家々が壊され、トンネルが掘られ、堤防が造られた。


「しっかりおぼえておおき、サリー・ジェーン」パパはいいました。
「わたしらの村をおぼえておくんだよ」
でも、もうちっともわたしたちの村のようにはみえませんでした。


せき止められていた川の水はゆっくりと流れ込み、小さな町や村を水底に沈め、すっかり沈むまで7年の歳月がかかった。

“わたし”が大きくなったあと、パパとボートで貯水池に漕ぎ出した。
パパは水底を指さした。
教会が建っていた場所、学校、組合会館、粉ひき場....
「・・もう二度とみることはないだろう」

なにもかも、すっかり水の底に消え去ってしまった....


作者による前書きにはこのように書かれている。

・・・おなじようなことが、大量に水を必要とする大都会を近くにかかえた、世界中のあちこちでおこっています。
そういうところにできた貯水池は、取引の結果生まれたものですが、取引の例外にもれず、すんなりと成立したものはひとつもなく、文句なしの条件で成立したものはひとつもありませんでした。

このようなことは、今も起こり続けている。ダムとは限らない。
大都会に大量の電気を送るための取引、その廃棄物を埋めるための取引。
小さな町や村のきれいな水、きれいな土地を、お金やもっといい暮らしと交換するための取引....
取引の例外にもれず、すんなりと成立するものはひとつもないだろう。
  
posted by Sachiko at 21:34 | Comment(0) | 絵本
2020年09月22日

ANAM CARA

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

英語版が届いたので、もう一度仕切りなおして....

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ケルトの伝統においては、愛と友情について美しい理解がなされている。特に感慨深いのは、魂の愛についての理念である。

古いゲール語では、これをアナム・カラという。
アナムはゲール語で魂、カラは友人を意味する言葉だ。
つまりアナム・カラは、ケルト世界で「魂の友」を指す。

元々は、人生に秘められた大切なものごとを打ち明けられる特別な友のことだった。
アナム・カラは、最も真実な内なる自己、その思いと心情とを共に分かちあうことができる相手である。

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その語り口は、1940年代に書かれたマックス・ピカートの「沈黙の世界」にどこか似ている気がする。

「沈黙しあえるだけに愛しあっている友は幸福である」(「沈黙の世界」より)

ピカートはラジオによる騒音の害を説いていたが、現代の騒音はラジオの比ではない。今ではラジオはむしろゆったりとした過去のメディアのように感じられる。
「アナム・カラ」では、コンピュータ時代の人間関係についても触れられている。

折しも世界的騒動によってオンライン○○というものが盛んになっている。
互いのあいだにある空間に耳を傾け沈黙しあうことは、オンラインでは難しい。こんな時代が来ることを想像していたかどうか....

この本はピカートよりずっと新しい1990年代に書かれているのだが、残念ながら著者ジョン・オドノヒューは、2008年に40代で世を去ってしまったそうだ。

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ケルト的理解では、魂に空間と時間の制限を設けない。
魂を閉じこめる檻はない。
魂は友人同士の内に流れ込む神の光である。

アナム・カラの体験は、まさにこの豊かで不透明な内面の風景を認識し探求することによって、神の奥義と慈愛とを照らし出すのである。

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posted by Sachiko at 22:22 | Comment(0) | ケルト