2020年07月30日

難民と世捨て人

グリーン・ノウ物語第3巻「グリーン・ノウの川」より。

グリーン・ノウの川はけっこう大きな川なのか、幾つもの島があり、支流がある。ある朝子どもたちはカヌーに乗って、家の裏側にある川を漕いでいった。

人目につかず、草が生い茂り、倒木が川をせき止めている場所を超えてカヌーを進めた先で・・・
腰に粗布を巻いただけのやせた男が釣りをしていた。
この世でたったひとりで生きている人間の、不思議な表情を浮かべて。

「魔法使いだよ。」ピンがそっと言った。
「あの人、逃げてきた難民だよ。」オスカーが言った。

オスカーはたびたび難民という言葉を口にした。
1羽だけはぐれてしまった白鳥のヒナを、難民ひな鳥と呼んだ。
そしてこの場所に来る前、ツタに覆われた廃屋を見つけて、アイダが悪魔の隠れ家だと言ったときもオスカーは、「悪魔の難民だね」と、夢でも見ているような声で言った。

子どもが難民になるというのがどういうことかは想像を超える。
彼らは家族を失い、外国にいて、母国語ではない言葉を話している。

ピンがあいさつすると、男は振り返った。
「どなただな?」
「ぼくたちも難民なんです。」オスカーが言った。

アイダが差し出したキャンデーを味わうと、彼は少しずつ過去を思い出し始めたようだ。
「・・・朝めしにはベーコン・エッグ!あったっけ、ベーコンってのが!」

男の気持ちがわかった難民のオスカーとは違い、アイダは途方に暮れてこんなことをきいた。
「ベーコンを、切らしてたんですか?」

「・・おじさん、食べものを十分食べてないんじゃない?お店でベーコンを売ってないんですか?」
「店だって?」男は軽蔑したように言った。

「お金を持ってないの?」
「持ってないし、ほしくもないさ。わしがここに来たのは、お金の話にあきあきしたからだよ。
だれもかもが、それを手に入れるために生涯はたらきつづけ、だれもかもが、くる日もくる日も、しょっちゅう、それがたりないと言っている・・・」

彼は、元はロンドンのバス運転手だったと言った。
人間というものがいやになり、ある日、ここに来たのだという。

子どもたちは木の上の小屋に案内された。
小屋には蓄えた木の実や草の実、川で拾ったという生活道具があり、きれいに整えられて、片隅にはバス運転手用の服がぶら下がっていた。
彼は誰にも気づかれずにここにいる。

「ぼくたち、けっしてだれにも言いやしないよ。ぼくたちも難民なんだもの。」オスカーが言った。

ふいに男は、子どもたちがカヌーの跡を残したかどうかを気にしはじめた。誰かが気づいてここに来ては困るのだ。

「さあ、行きな。もうここへくるんじゃないぞ。
・・・わしはきみたちの夢を見た。きみたちはわしの夢を見た、な?」

黙ってカヌーを漕いでそこを去った子どもたちだったが、去る前にアイダはブリキ缶にキャンデーを入れ、ピンは枕の下にナイフを置き、オスカーは運転手の服のポケットに釣り糸を入れてきたことがわかり、みんなは幾らか気がらくになった。

家に帰るとミス・シビラがすばらしい朝食を用意してくれていた。
つまり、悪魔が棲んでいそうな廃屋の冒険も、世捨て人に会ったのも、朝食前の出来事だったのだ....

子どもの時間と空間は、大人のそれとは違っている。特に夏休みには。
好んで隠遁生活に入った川の世捨て人は、難民だろうか。
ふつうの人々のふつうの時間から抜け出さざるを得なくなったのだから、ある意味難民かもしれない。

時計もカレンダーも持たない彼の時間は、どこか子どもの時間に似ているようで、やはり全く違う。

「みんなでまた、あの人に何かおいしい食べものを持っていってあげたいわ」とアイダは言った。
アイダは難民ではない幸せな子どもだということも浮かび上がってくる。
  
posted by Sachiko at 21:49 | Comment(2) | ルーシー・M・ボストン
2020年07月28日

ネオワイズ彗星

今月前半は、ネオワイズ彗星がかなり明るく見えていたはずなのだが、曇りの日が多く見ることができなかった。

10日ほど前だったか、夜まで晴れていた日があったので外に出て見た。まだ3等級の明るさを保っているはずだった。

が、やはり都会の夜は明るすぎる。
しかも最近、近くの街灯が全部、ギラギラするLEDに替えられてしまった。

3等級なら何とか見えるだろうかと目を凝らして見た。
北斗七星のひしゃく型の下方だ。
彗星は普通の恒星と違ってぼんやりとぼやけた姿で見えるのだが、この空の状態では普通の星もぼんやりとしか見えない。

位置を定めて、そのあたりにかすかに見える幾つかの星たちを目で追って行った。特定できないけれど、この中のどれか一つがそうかもしれない....

後日、私が見たのと同じ日に札幌郊外で撮影された彗星の画像をネット上で見つけた。やはり北斗七星のひしゃくの真下だった。

今は、位置的には見やすい高さにあるが、もう肉眼で見える明るさではなくなっている。

たくさんの星たちの中のどれかひとつ....
こんな話がどこかにあったな、と思った。

「・・・きみは、ぼくの星を、星のうちの、どれか一つだと思ってながめるからね。すると、きみは、どの星も、ながめるのがすきになるよ・・」

『星の王子さま』より。
この本を手に取ったのは何年ぶりだろう。何年どころではないかもしれない。
このまま読みふけってしまいそうになったので、栞代わりに幻の星をそっと挟んで本を閉じた。
  
posted by Sachiko at 22:08 | Comment(2) | 宇宙
2020年07月26日

杏の夏

隣家の杏の木が、今年はたくさんの実をつけた。
隣のおばあちゃんが「採っていいよ」と言ってくれたので、大きめの入れ物を持って採りに行った。

apricot2.jpg

-----

幼い頃、近所にあった杏の木の下で、KちゃんとJちゃん兄妹と毎日のように遊んだ。杏の木はとても大きく見えていた。

この二人とは、既成の遊びではない創造的な遊びができた。
「ここは海だ!」と言うと、すかさず「よし、船を出そう!」と言ってくれるのだ。そして即興劇はよどみなく続く。

春にはほんのりしたピンクの花びらが地面を覆い、風に舞ってあちこちの道路の縁に吹き溜まっていた。

夏には実をつけたが、実はほとんど虫食いだったらしい。アブラゼミがよくこの木で鳴いていて、抜け殻も見つかった。

秋、掃き集めて積まれていた落ち葉の山を、私たちはまた崩して木の下に敷き詰めた。
金色のじゅうたんの上で、この季節だけの特別な遊びがあった。

その後しばらくして彼らは引っ越して行った。そう遠くではなかったのだが、会うことはなくなった。

ある時、親の用事に伴って二人が来ると言うので、近所の他の子どもたちも集まった。
久しぶりに、以前みんなでよく遊んだ遊びをしようとKちゃんが提案した。

中学生になったKちゃんは、もう子どもの声ではなかった。
6年生の私は、古い子どもの遊びを小さい時のようには楽しみきれず、大きくなった子どもたちが走り回っているようすが、どこか幻影のように見えた。

二人にはそれきり会っていない。
子ども時代の最後の夏、杏の木はまだそこにあった。

周りの家とともに木が切り倒されたのがいつだったのかは知らない。
そのあたりはマンションが建ち並び、今は面影のかけらも残っていない。

-----

杏はジャムとコンポートになった。
杏のお菓子を作って隣に持っていこうか。
おばあちゃんが「採っていいよ」と言ったことを忘れていなければいいけれど....

apricotjam.jpg
  
posted by Sachiko at 22:46 | Comment(2) | 暮らし
2020年07月24日

“ひとり”は悪か?

しばらく前に録画しておいた「こころの時代セレクション・己の影を抱きしめて」を、やっと観た。
ゲド戦記の翻訳者、清水真砂子さんへのインタビューだ。

興味深い内容の中に、教えていた短大の学生たちとのこんなエピソードがあった。

ひとりでいてはいけないと思っている学生が圧倒的に多い。
いつも友だちと一緒にいなければいけないと思っているらしい。

そこで「とにかくひとりでいる時間をたっぷりと持ちなさい」と言うと、「先生、ほんとうにひとりでいてもいいんですね?」と聞いてくる学生が毎年必ずいた、という話だ。

ひとりでいることはいけないことだ、友だちといないのは恥ずかしいことだと思い込まされている子がこんなにいる...と。

ひとりのたっぷりした時間は私にはライフラインなので、「とにかくひとりでいる時間をたっぷりと持ちなさい」などと言われたら、「はーい♪」と喜ぶところなのだが。

以前どこかでこんな薄ら寒い話を読んだことがある。
「私の大勢の友だちは、私が友だちの多い良い人に見えるための道具だった....」

人を「数」として扱うのは失礼な話だ。
選挙の票とでも見るならとにかく人数を集めなくてはならないだろうが、人間の尊厳の基本は「ひとり」だ。

“出会い”と“つきあい”は違う。
つきあいは、そうしようと思えば外側でいくらでも広げていくことができるが、“出会い”は、それが人でも芸術でも花でも、内奥のひとりの場所を通り抜けた先に待っている。

「己の影を抱きしめて」の話はもう少し続けようと思う。
己の影を抱きしめる場所も、ひとりでたどり着く深みの場所だ。
  
posted by Sachiko at 21:41 | Comment(2) | 未分類
2020年07月22日

探検のはじまり

グリーン・ノウ物語第3巻「グリーン・ノウの川」より。

うたう魚かもしれないとみんなが耳を澄ました口笛のような音は、白鳥のヒナたちだった。

別の家族に迷い込んでしまった1羽のひな鳥を助けて元の家族に返したり、川に潜って水門の鍵を見つけたり、アーサー王がかぶるようなヘルメットを拾ったり、盛りだくさんの探検のもうひとりの主人公は、この川そのものだ。

三人の子どもたちによって次々と明らかにされていく川の魅力に、このあたりの住人たちは気づいていないだろう。

---------------

子どもたちは、けっしておしゃべり三人組ではなかった。
アイダとオスカーは、ほとんどひとめ見ただけで親友になった。そしてふたりともピンを愛した。
(ちなみに、アイダとオスカーは11歳、ピンは9歳)

---------------

女主人が彼らに命じた規則らしいものは、食事に遅れないことだけだった。
ミス・シビラはたくさんの料理を作って、子どもたちがそれを次々と平らげるところを見るのを無上の楽しみにしている。

時間など気にしないオスカーやアイダに、食事時間を守らせるのはピンだった。
けれどピンは少食なために、ついにミス・シビラのお気に入りになることができなかった。


子どもの頃の長い一日、朝早くから遊べる夏休みの一日は、特に長かった。
大人の目には取るに足らないものに見える宝物、あるいは大人になると見えなくなるあれこれ。
一瞬限りでとっておくことのできない音や色や香りや手触り。

それらを余すところなく味わう三人の子どもたちは、グリーン・ノウにふさわしかった。
彼らをここに呼び集めたのは、グリーン・ノウそのものだったように思える。

この夏、グリーン・ノウの川は、子どもたちにゆったりと寄り添いながらその秘密を明かしていく。
  
posted by Sachiko at 21:45 | Comment(2) | ルーシー・M・ボストン