2020年05月30日

ふたつの力

「そうする」力と、「そうなる」力。

例えば電気ポンプで水を汲み上げる力と、泉の水が湧き出る力。
外から働きかけて動かす力と、ひとりでに生じる力。

長いあいだ、ふたつの力はバランスを欠いていた。

力ずくで何かを動かそうとすると、自然の状態よりもはるかに大きなエネルギーを必要とする。

春になるとひとりでに融ける雪を、冬のあいだに無理やり融かそうとするとき。
土地の有効利用のために川をまっすぐに流そうとするとき。
季節外れの野菜を工場で効率よく栽培しようとするとき。

そのために使う大きなエネルギーは、自然に負荷をかける。


唯物論科学はいまだに、なぜ植物が重力に逆らって上に伸びるのかを説明できないらしい。
成長点で細胞分裂が起きて云々。

細胞分裂で殖えただけでは、自らの重みで倒れるだろう。
でも新芽のごく細い茎は、自分よりも大きな双葉を持ちあげる。時にアスファルトさえ突き破って。


流れる川に向かって「川よ、流れよ」というのが、真の祈りだという。
自分の意志と宇宙の意志とを一致させること。


為さんとせずして為す....

風に沿い、水に沿う...

力ずくで動かす力から、生じる力へ。

時代はそのように変わっていくだろう。
  
posted by Sachiko at 22:06 | Comment(2) | 未分類
2020年05月28日

聞こえない声

再びミヒャエル・エンデと河合隼雄の対談から。

「体験されるまでは、何ごとも真実にならない」
この言葉を聞いて、なるほど...と思ったのはずいぶん昔のことだったが、対談の中でエンデが同じようなことを言っているのを見つけた。

客観が真実で主観は嘘、という二元論的前提に、エンデは真っ向から反論している。
人間にとって唯一の本当のことは、自分が経験したから本当だ、と言える事柄ではないか、と。


エンデ:
「ある人が、聞こえない声を聞いた、と言う。それに対し心理学者は幻聴扱いする。
自分と違う経験領域を持っている人は、気が狂っているんだ、だから治療が必要なんだ、と片付ける。

真理は統計によって確かめられるものではありません。
たった一人の人だけがある声を聞いた。統計では他の誰もが聞かなかった。だから真実でないと言うのはなぜですか?

二十一世紀に重要になる尺度は叡智です。人間によってその真理が経験された、と言えることが尺度になります。」

河 合:
「賛成です。そういうことを言うために、どれだけ私が苦労していることか(笑)」


客観的=正しい、という観念は世の中に蔓延している。
そして「客観的」であることの証明に、数字という抽象概念を持ち出す。それが客観であると主張する意識は、誰のものか。

皆、自分にしか見えない世界を見ている。
今自分が立っている位置から見える世界を、外的にも内的にも、全く同じように見ている人は誰もいない。
1本の木を見たとき、その木を全く同じように体験する人は誰もいない。

私がそれを体験した。だから真実だ・・・
そのように存在とひとつになった体験の重みの前には、統計が示す客観もどきは、何とも薄っぺらく見える。

体験は独自であり、愛することができるものだ。そのことが、叡智に続く道ではないかと思う。
  
posted by Sachiko at 22:30 | Comment(2) | 言の葉
2020年05月26日

ティル・オイレンシュピーゲル

中世のトリックスターとして知られるティル・オイレンシュピーゲルは、北ドイツの小さな町メルン(Mölln)に実在したとされているが、詳細はよくわからない。

私がこの名を知ったのは、昔読んだ東山魁夷のドイツ・オーストリア紀行『馬車よ、ゆっくり走れ』の中だった。
本のタイトル自体が、ティル・オイレンシュピーゲルの伝説に基づいている。

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馬車でやってきた男がティルに尋ねた。
「次の町まではどのくらいかかるだろうか」
ティルは馬車の様子を見て答えた。
「ゆっくり行けば4、5時間、急いで行ったら一日がかりだ。」
からかわれたと腹を立てた男は馬車を飛ばした。まもなく車輪が壊れて修理しなければならず、結果一日がかりになった....
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先日のカシオペイアの話から、これもまた「オソイホド ハヤイ」物語だと思いだしたのだ。

リヒャルト・シュトラウスの交響詩でも知られる「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」は、翻訳本が出ているが私は読んだことがない。どうもあまり上品な話ではないらしい。

メルンは、北ドイツに行ったら尋ねようと思っていた町のひとつだった。
グリム兄弟の生地ハーナウから北へ向かういわゆるメルヘン街道は、多くの伝説が残る土地だ。

結局北ドイツへ行く機会は作れなかったし、ドイツも近年すっかり様変わりしたという話を聞く。どこもそうなのだろう。

遠い中世ドイツを思うと、幼い頃から親しんだメルヒェンや伝説のイメージからなのか、自分の中にそこへタイムスリップするような不思議な空間があるのを感じる。
  
posted by Sachiko at 22:39 | Comment(2) | ドイツ・オーストリア
2020年05月24日

カシオペイアの叡智

「モモ」(ミヒャエル・エンデ)より。

モモはカメのカシオペイアに導かれて灰色の男たちの追跡から逃げ、マイスター・ホラの時間の国にたどり着く。
カメのあとをゆっくりゆっくり歩いているのに、灰色の男たちはモモに追いつくことができなかった。

カメは追っ手がどこに現れるかを前もって知っているようで、その場所を避けながら歩くことができたのだ。
時間の境界線地区では、カメはもっとゆっくり歩いているのに、自分たちがとても速く前に進むことにモモは驚く。
・・・・
二度目にこの場所に来たとき、モモはカシオペイアに言った。
「もうちょっと早く歩けない?」
「オソイホド ハヤイ」


ミヒャエル・エンデと河合隼雄の対談の中に、「モモ」の時間の話が出てくる。

「時計で測れる外的な時間というのは人間を死なせる。内的な時間は人間を生きさせる。」(エンデ)

灰色の男たちが時間を節約させることで、実は人間の内的な時間が枯渇してしまう。
カシオペイアの背中に出てくる「オソイホド ハヤイ」は、内的時間と外的時間の関係性の話なのだ。

対談の中では、河合隼雄が「遅れの神さま」という不思議で心惹かれる言葉を持ち出す。
元は、大江健三郎の小説に由来して河合隼雄が名付けた言葉のようだ。

「・・・その小説の中で一番大事なところは、智恵おくれの子どもさんが言う言葉なんです。
私はその子の言葉から、現代世界に大切なのは、「遅れの神」ではないか、みんなそれを忘れていると思ったのです。
亀というのはまさに、「遅れの神」のシンボルですね。」


マイスター・ホラの言葉によれば、カメのカシオペイアは時間の圏外で生きていて、自分の中に自分だけの時間を持っている。
大切な、遅れの神の叡智をたずさえて。

できるだけ早く効率的に!という現代世界の狂騒の後を、ゆっくりとニコニコしながら歩いて行く神さまの姿が浮かんだ。
  
posted by Sachiko at 22:27 | Comment(2) | ファンタジー
2020年05月22日

野のすみれ

家の裏にすみれがたくさん咲いている。
種類はわからない。北海道には数十種類の野生のすみれがあるという。
私が植えたのではなく、いつの間にか咲いていた。

veilchen.jpg

花が終わるとたくさんの種を飛ばし、地下茎でも殖える。このすみれはきっと、ここに家が建つ前からあったのだ。
地下茎がほんの少しでも残っていると、そこからまた芽を出し、そうしてそっと生き延びてきたのだろう。

一時、もっと強靭な植物(フキなど)に押されてかなり少なくなってしまったが、また盛り返してきた。
小さく可憐な姿ながら、野生種は力強く清々しい命の香りがする。

すみれを踏みそうになるとき思いだす、ゲーテのバラッド「すみれ(Das Veilchen)」は、小さなすみれの嘆きの歌だ。

羊飼いの娘が野原にやってくるのを見て、ちいさなすみれは憧れる。あのひとがわたしを摘んで胸に押しあててくれたら!
でも娘はすみれに気づかず踏みつけてしまった。
倒れてもすみれは喜んだ。あのひとに踏まれてその足元で死ぬんだもの・・・

この詩にモーツァルトが曲をつけている。
往年の歌姫エリザベート・シュヴァルツコップの歌で。


  
posted by Sachiko at 21:37 | Comment(0) |