2020年02月29日

木の影

雪の上の、木の影....

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葉っぱが落ちて、裸の木そのままの影は、何の変哲もなさそうでいて、注意を向けて見ることはあまりない。

下に草や落ち葉があるときは、影はこのようにはっきりとは見えず、真冬は晴れる日が少ない。

地面に雪があり、日差しが強くなった春先の今頃にだけ、この影は不意に目を惹く。

木の周りをゆっくりと廻る影は、こんなに美しいのだ、と思う。

今日は一日中氷点下だったけれど、雪があっても氷点下でも、季節はもう冬ではない。
   
posted by Sachiko at 21:30 | Comment(0) | 自然
2020年02月28日

ロークの魔法学院

アーシュラ・K・ル=グウィン「いまファンタジーにできること」の中に、こんなエピソードがある。

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ある時期、みんながわたしにしきりにこう言っていた。すばらしい本がある。絶対読むべきだ。魔法使いの学校の話で、すごく独創的だ。こういうのは今までになかった、と。

初めてその言葉を聞いた時は、白状すると、わたし自身が書いた『影との戦い』を読めと言われているのだと思った。この本には魔法使いの学校のことが出てくる。そして、1969年の刊行以来、版を重ねている。

だがそれはおめでたい勘違いで、ハリーについての話を延々と聞かされる羽目になった。

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ル=グウィンは、ハリーの本を新しくて独創的だと讃えた批評家たちに対して「彼らはこれまでファンタジーを読んでいないか、読み方を知らない」と辛口だ。

私はハリーの本を読んでいないので、あまり何も言えない。
映画のほうは、テレビで繰り返し放映されたのをその度に見たはずなのだが....シリーズの1作目以外はほとんど憶えていない。
(途中で何が何だか、誰と誰が何のために戦っているのかわからなくなってしまったのだ。それに登場人物の長くて聞き慣れない名前を覚えられなかった...)


なので、ホグワーツではなくローク島にある魔法学院のことを書こうと思う。ゲド戦記シリーズの1巻『影との戦い』には、魔法使いを育てる学院が出てくる。
ゲドが学院の門をくぐるには、自らの「真(まこと)の名」を告げなければならなかった。

ゲド戦記の魔法について、敢えてひとことで言えば、私にとっては「腑に落ちる」ということだった。
そこでの魔法は単に、杖を振って呪文を唱えれば何かが起こったり、呪文を間違えるとおかしな結果になる、というだけではない。

「名」そして「言葉」、これらがその本質においてどれほどの力を持っているか、その根源がどこから来ているのか、ということが腑に落ちる形で描かれているからだ。

例えば魔法の術を使って石ころを宝石に見せかけることはできるが、本当の宝石にするためには、それが持っている真の名を変えなければならない。
だがそれは、宇宙そのものを変えて、宇宙の均衡を揺るがすことになる....

魔法修行にも華々しいところはなく、ひたすら“太古の言葉”に由来する、さまざまなものの「真の名」を知っていく。その作業にはきりがなかった。

事物の背後にある揺るがない真実、それがそれ自身であるところの「真の名」、宇宙の均衡....
これらはアースシーというファンタジー世界の姿を借りているが、現実のこの世界の真実そのものに見える。

人類が宇宙の均衡さえも揺るがしかけているこの時代、多くの人が、自分自身の「真の名」を見失い、それを探しあぐねてもがいているのではないか、と思えてくる。
   
posted by Sachiko at 21:49 | Comment(2) | ファンタジー
2020年02月26日

「かぜさん」

「かぜさん(Windchen)」(ジビュレ・フォン・オルファース)

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かぜさんが一休みしているので、男の子がうかべた小舟はうごきません。
かぜさんが遊びにやってくると、小舟は走りだしました。

かぜさんと男の子は、手をとりあって野原や丘を走ります。
くだもの畑でかぜさんは、りんごの木をゆすって実を落としてくれました。

ふたりが跳ねまわると、色づいた葉っぱのこどもたちも、はらはらと舞いおりてきました。

かぜさんと男の子は、降りてきた雲にのって空をかけまわります。
男の子の家で降りたら、かぜさんはもう行かなければなりません。

かぜさんは、いいます。
「あすも、あそびましょうね」
男の子は、いいます。
「あすも、あそぼうね」

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ジビュレ・フォン・オルファースは、教師などを経て24歳で修道女になったあと、8冊の絵本を出し、34歳の若さで世を去った。

「かぜさん」の初出は、まだ大きな戦争が起こる前の1910年。時間は今よりもはるかにゆっくりと流れていたことだろう。

子どもの時間も素朴でおだやか、風や草木と友だちになれた時代。
オルファースのやさしい絵本にはいつも、そんなしあわせな子どもの姿が描かれていて、100年以上経った今も静かに読みつがれている。
  
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(0) | 絵本
2020年02月24日

「名前の掟」

「名前の掟」(アーシュラ・K・ル=グウィン)

この短編は、のちの長編「ゲド戦記」の数年前に書かれた、いわば胚芽的な作品とされている。

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ミスタ・アンダーヒルは、サティンズ島でただ一人の魔法使いだが、魔法の腕はたいしたことはない。

学校では若く美しい先生が「名前の掟」について話していた。
掟はふたつあった。

「ひとに名前を聞いてはならない」
「自分の名前をひとに言ってはならない」

子どもたちが学校を卒業すると、子どもの名前は捨ててほんとうの名前だけを守っていく。
それは尋ねてもならないし言ってもならない。まことの名を口にすれば、そのものを操ることになるからだ。

ある日よその若者が舟で島にやってきた。みんなはすぐに黒ひげという名前をつけてやった。
黒ひげは漁師に、魔法使いのところへ案内してくれるよう頼み、ひとつの話をした。

「多島海のまん中にあるペンダーという島に、ある日、西海から竜がやってきて領主を殺した。人々は舟で逃げ出した。竜は財宝の上を這いまわり、近くの島を襲って若い娘を食った。
多島海の連盟は魔法使いたちとともに財宝を取り返しに向かったが、ペンダーではひとりの魔法使いが竜を打ち負かし、宝を持って逃げたあとだった」

黒ひげは魔法使いであり、ペンダーの領主の末裔で、逃げた魔法使いの居場所を突きとめて来たのだった。

ふたりの魔法使いの闘いがはじまった。そして黒ひげは、ミスタ・アンダーヒルの真の名を知っていた・・・・

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作者の前書きによれば、胚芽的な短編は、後の長編の舞台を提供してくれた、とある。
「名前の掟」の舞台は後の「ゲド戦記」の舞台となる多島海の島で、魔法使い、竜、そして名前の掟というテーマは、「ゲド戦記」シリーズへ大きく拡がっていった。

久しぶりに「ゲド戦記」の中の多島海の地図を見てみた。
「名前の掟」のサティンズ島は東側にあり、ペンダーは真ん中あたり、西海域には「竜の道」という小さな島々が描かれている。

魔法が生きている多島海の文明では、魔法使いは、あらゆるものの真の名に使われている太古のことばを知らなければならない....


この世界においても、人間が得た「言葉」というもの自体が、根源の魔法そのもののように思える。
古い時代には、言葉ははるかに注意深く扱われなければならなかっただろう。

そして「名前」は、そのもの自身を表わす。
例えばたくさんの俗称や通称を持つ植物でも、学術的な意味での真の名である学名で呼べば、一発でどの植物かがわかる。

日本語には「言霊」という言葉があるように、言葉は霊力だった。
力ある言葉がそのまま「呪文」であり得るなら、そのような文明には常に、魔法使いに相当する賢者も存在したはずだ。

魔法使いが登場するファンタジーが数多くある中、私はル=グウィンが描く魔法には説得力を感じる。この魔法の話はまた別の機会に.....

(※「名前の掟」は、「風の十二方位」というアンソロジーに収録されている。)
   
posted by Sachiko at 22:27 | Comment(0) | ファンタジー
2020年02月22日

「ルンペルシュティルツヒェン」・2

・・・三日のあいだに自分の名前を言い当てたら、子どもを取らずにおこう、と小人は言った。

お妃は、聞いたことのある名前をすべて思いだし、他の名前があるなら国じゅうを回って聞き出してくるようにと使者を送った。

あくる日小人がやってきたとき、お妃は知っている名前すべてを並べ立てたが、小人はそんな名前ではないと言う。

二日目には、めったにないおかしな名前を並べてみたが、小人はそんな名前ではないと言った。

三日目に使者が戻って来てこう報告した。
「森の中で、小人がひとり、焚火のまわりを飛び跳ねながら

 今日はパン焼き
 明日は酒づくり
 あさってにはお妃の子ども
 うれしいことに誰も知らない
 おれの名がルンペルシュティルツヒェンだということを

と、歌っておりました」

お妃が大喜びしていると、まもなく小人が入ってきた。

「さあ、おれの名前はなんというんだ?」
「ルンペルシュティルツヒェンとでもいうの?」

お妃が名前を言い当てると、小人は腹立ちまぎれにわめき、自分で自分のからだを引き裂いてしまった。

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ヨハネス・W・シュナイダー著「メルヘンの世界観より。

焚火の周りで踊る小人は、名前が事物に力を与えることができるような太古の意識の中にいる。
太古の魔術的文化のように、強い意志のはたらきを通して何の変哲もないものを金に変えることができる。言うなれば意思を思考のはたらきに変える。

メルヒェンに子どもが出てくるとき、それは必ず未来を意味している。
この場合は、お妃が小人の名前を言い当てる(太古の文化の本質を探り出す)ことによって、人間の未来が守られる、ということになる。

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名前を知ることでその相手に対して力を持つという話は、現代作品では「ゲド戦記」を思い出す。
太古には名前が呪術的な力を持っていたと言われる。
現代において多くのことが混乱しているのは、人間が事物の正しい名前や、名前というものの扱い方を忘れてしまったからではないか、という気がする。
人間の未来のためには、太古の力を持つ小人の名前を言い当てることが必要なのだ。

ルンペルシュティルツヒェンという、いかにもドイツ語らしい響きが私は好きだが、以前グリム童話集の中にこの物語を探そうとしたとき、なぜか見つからなかった。
岩波版のグリム童話集は全訳なので、ないはずはない。
しばらく探して「がたがたの竹馬こぞう」という訳になっているのを見つけた.....
  
posted by Sachiko at 22:15 | Comment(2) | メルヒェン