2020年01月21日

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス

ウォーターハウスはラファエル前派の流れを汲むとされているが、正式なメンバーではなかったようだ。

ずっと前に「ヒュラスとニンフたち」というタイトルの絵を紹介したことがある。
この絵はルーシー・M・ボストンの「リビイが見た木の妖精」という美しい短編の中に出てくるもので、どんな絵なのかがわかると作品への思いも増すものだった。
多くの作品が、神話や文学に題材を取っている。

「シャロットの女」
アーサー王伝説に題材をとったテニスンの詩から

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「オフィーリア」
ハムレットのオフィーリア。ラファエル前派の多くの画家が題材にしている。

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「聖カエキリア」
音楽の守護聖人、聖カエキリア(チェチリア)。

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「ジュリエット」
ロミオとジュリエットより、初々しいジュリエット。

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「アポロンとダフネ」
ギリシャ神話より、アポロンに追われて月桂樹に姿を変えるダフネ。

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「エコーとナルキッソス」
ギリシャ神話より。水に映った自分の姿に焦がれるナルキッソスと、彼に恋するエコー。

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ウォーターハウスの作品は昔、北海道に来たことがあるのだが、札幌ではなく帯広美術館だった。たしかポスターの絵が「ヒュラスとニンフたち」だったと思う。

見に行こうかと思い、帯広駅から美術館への行き方を調べたはずなのだが、行かなかった。何かの都合で行けなかったのか、もう覚えていない。日帰りが無理そうだったからかも知れない。

観たいものはその時に観るべきだったなと、今更ながら思う。
やはり私は「リビイ....」の物語と重なるからか、「ヒュラスとニンフたち」が一番好きだ。

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posted by Sachiko at 22:26 | Comment(0) | アート
2020年01月19日

橋を架ける話

ウルスラ・ブルクハルトの「Das Märchen und die Zwölf Sinne des Menschen(メルヒェンと人間の12感覚)」の中で、このような中東のおとぎ話について紹介されている。

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「・・新しく創造された地球の上で、人々は川と渓谷によって分断されていることに苦しんでいました。

人々は互いに知り合い理解しあうために集まりたかったのですが、その方法を知りませんでした。

そこに大きな天使が現われて片方の翼を川の上に置き、橋が何であるかをイメージで示しました。」

天使は人間に「橋を造れ」と指示することができなかった。誰も橋とは何かを知らなかったから。
天使は彼らにイメージ像の中で新しい考えを与え、それは人々にとって内なる考えとなった。

その考えから彼らは最初の橋を造ることができた。人々はイメージを理解し、それを行為によって現実のものとした。

天使は天の使い、人類の教師で、夢や物語を通して、彼らは捜し求めている人々に答えと洞察をもたらした。
天使たちは、別々に分かれた世界、天と地、神と人間、人間の中の意識と無意識を結びつけ、人類の善のために働く。

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以前から、着想というものはどこから来るのか?と思っていたが、この話はそこに光を当ててくれるようだ。
人間の内なる考えに先立って、高次存在からイメージ像がやってくる。人間が地上で現実化したものは、すでに別次元にイメージとして存在した。

天使が翼を川の上に置く、このイメージはとても美しい。
古いメルヒェンはこのようなイメージ言語で語られていて、人々がイメージ像をそのまま内なる考えとして理解することができた時代があった。

幾つものメルヒェンや伝説の中で繰り返し現れる象徴がある。
森の中で道に迷う、三つの宝、たくさんの男の子のあとに生まれる女の子、賢い末っ子、魔法にかけられて動物の姿になる、雪の上に落ちた三滴の赤い血.....etc.

現代人はもうこれらのイメージ像をそのままでは理解できない。幼い子どもはできるらしいが、現代の子どもたちの環境は、イメージを内的に体験する間もなく、大人社会の「現実」への適応を強要されているように思える。

こうして分断は続く。だが“イメージ”は今も、あちらとこちらを繋ぐ橋なのだ。
橋を架ける場所は、各自の内側深いところにある。それが天使の翼なら、安心して渡れる気がする。
   
posted by Sachiko at 22:08 | Comment(0) | ウルスラ・ブルクハルト
2020年01月17日

矢を射るのはだれか・・・

前回の、自分の力ではないものよって事が為されるという話のように、自分を超えたなにものかの働きについて語るとき、ミヒャエル・エンデはよくこの本を引き合いに出していた。

「日本の弓術」(オイゲン・ヘリゲル)

1920年代、日本の大学に勤めることになったオイゲン・ヘリゲルは、日本で弓術を習うことにした。

師からは「弓術はスポーツではない、弓を心で引くことを学ばなければばらない」と言われたが、道のりは容易ではなかった。

「あなたがまったく無になるということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる」

「無になってしまわなければならないと言われるが、それではだれが射るのですか」

「あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠がいらなくなる」

練習用の藁束ではなく的を射ることを許された時、師は言った。

「・・私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心にあることになる。――これをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。

それ故あなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射あてます」

さらに稽古を続けるうちに、彼は無心になれるかどうかということさえ気にかけなくなった。矢はしだいに的に当たるようになったが、それも気にかからなくなった。
5年目のある日、彼は試験に合格し、免状を授けられた。


現代人の意識からは、ただ想像してみるしかないような境地の話だ。
そして、現代の合理的思考というものが、実は何も見えずにいることに気づかないまま、どれほど危うい崖っぷちを歩いているのかを思い知らされる。

それでも、人間がついにその崖を踏み外して落ちる瞬間、見えざる“なにものか”が手を伸ばしてくれるのではないか...などと期待を持つのは、やはり無心からは程遠い考えに違いない。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(0) | 言の葉
2020年01月14日

「ともしび」

セルマ・ラーゲルレーヴ「キリスト伝説集」より。

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ラニエロは、フィレンツェで名のしれた乱暴者。その妻フランチェスカは町の有力者の娘だった。
結婚してもラニエロの粗暴さは変わらず、フランチェスカは自分の愛が壊れてしまうことを怖れ、父の家に帰って暮らす決心をした。

ラニエロは十字軍に加わった。武勲によって妻の心を取り戻すつもりだった。
エルサレムで取った一番の貴重品は、聖墳墓教会でともしてきたあかりだった。こればかりは到底フィレンツェに持ち帰るのは無理だと言われたラニエロは、自分が持ち帰って見せると公言する。

その時から、あかりはラニエロが守るべきただひとつの大切なものになった。道中、雨風から守り、盗賊から守り、片時も気の休まることがなかった。

ラニエロはフランチェスカのことを思いだした。フランチェスカが守ろうとしていた愛は、このともしびのようなもので、ラニエロによって消されることを怖れていたのだ。

嵐の中、吹雪の中、彼はともしびを守りつづけた。もうフィレンツェが近かった。
ラニエロは、自分がもうエルサレムを発った時と同じ人間ではないことを悟った。この旅は彼を、穏やかで思慮あるものを愛し、血なまぐさいものを厭う人間に変えていた。

復活祭の日に、ラニエロは、フィレンツェの町に入った。
人々は彼をからかい、何とかしてその火を消そうとして大騒ぎになった。

本聖堂に向かう道すがら、気がつけばフランチェスカが静かに傍らを歩いていた。
聖堂に入ると、ひとりの男が、これがエルサレムでともされた火だという証しを示すように言った。多くの者たちも、証しがたつまでは祭壇にその火をともさせてはならぬと言った。

証人などいるはずがない。ラニエロがあきらめかけた時、扉から小鳥が飛び込んできて、ろうそくに当たり、火を消してしまった。
ラニエロは思った。人間どもの手にかかるより、このほうがましだ。

そのとき、叫び声がした。鳥が燃えてる!
そして.....

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全く違う話なのに、この物語のラストは『指輪物語』のクライマックスを思い起こさせる。

長い苦難の旅の果て、最後の最後で絶望的な事態が起こる。
が....次の瞬間、思いもよらない方法で使命は果たされるのだが、それは本人の力によるものではなかった。

人類の旅もこのようなことなのだろうか、と思うのだが、それもあくまで「ともしび」を消さずに保ちつづけた後のことだろう。
万事休したと思った瞬間、最後に転換は起こるのかもしれない。それも自分の力ではなく。
  
posted by Sachiko at 21:30 | Comment(2) | 神話・伝説
2020年01月12日

根っこ小人の冬の歌

ウルスラ・ブルクハルト「Elementarwesen - Bild und Wirklichkeit(元素霊 ― イメージと現実)」より。

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 根っこ小人の冬の歌(Winterlied der Wurzelmännchen)

 太陽のはたらきのもと
 ひそやかに そっと
 大地の下にはもう
 あたらしい春のすがたが

 我らはゆるやかに
 拡げ 解きはなち
 芽吹きの時をととのえ
 まことの音色に聴き入る

 星々の響きとともに
 我らがかたち作る力は
 正しい道をもたらす
 神の永遠の玉座から

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ウルスラ・ブルクハルトの「元素霊―イメージと現実」の各章のあいだには短い詩が挿まれている。これはそのひとつ。

「根っこ」は北海道弁かも知れないと思ったけれど、このほうが「根小人」より語呂がいいので....

根を司るのはノームの仲間たちだ。
何もかも眠ってしまったような冬のあいだも、大地の下では次の春が用意されている。

寒冷地では、冬に地上部が枯れてしまい、根だけになって越冬する植物が多い。そうして幾つもの冬を超えて生き続ける。
種を更新する前に雪が降ってしまったり、積雪によって春の発芽が遅れるような地域では効率的な方法だ。

深く積もった雪と、空には煌めく冬の星々。その下でそっと働いている根のノームたちに思いを馳せたかったのだが、今年の大地は眠りが浅い....
  
posted by Sachiko at 22:27 | Comment(2) | ウルスラ・ブルクハルト