2020年01月30日

クリストフォロスの木

ウルスラ・ブルクハルト「Das Märchen und die Zwölf Sinne des Menschen(メルヒェンと人間の12感覚)」より。

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ノルウェーのおとぎ話に、ある王様が城の樫の木をどこまでも大きく繁らせた話がある。木は窓を覆い、すべての光をさえぎった。
このように自分の自我の木のことだけを考え周りを忘れる者は、じきに暗闇の中に座ることになる。

クリストフォロスは全く違う木を植えた。
巨人の彼は、ある隠者から、献身によって最高の王を見つけることができると聞き、人々を背負って川の向こうへ運ぶ渡し守になった。
彼はそこで最も偉大な王に出会って仕えたいと願っていたのだ。

ある時、渡し守は子どもを背負った。巨人にとってはわけもない軽さのはずだった。
だが子どもがしだいに重くなり、彼を水の下にめり込ませたとき、この王の力と権威を知った。

子どもは幼子イエス・キリストだった。
この後彼は、クリストフォロス−キリストを担う者−という名を与えられた。
幼子イエスは彼に、彼の杖を地面に刺すように言った。杖は花咲く木になった。


その調和のとれた木では、リスが争いの言葉をあちこちに運ぶことはない。それは自我がキリストの担い手になった人の木だ。

すべての人は、自分の自我の木を植え、それをキリストの木に変える可能性を持っている。
創造は七日目に完了したのではない。私たちは新しい未来の創造のために生きている。
そして世界の終わりではなく、世界が新しい地球へと移行することについて語ることができるのだ。

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ユグドラシルについては、Yggは「私」であり、drasilは「担う」という言葉に語源を持つ、と言われていた。

真の「私」である永遠の自我がキリスト意識であるなら、「キリストを担う者」という巨人クリストフォロスの名は、そのまま巨樹ユグドラシルの名だということになる。何だかゾクゾクするような感覚だ。

人間が宇宙的存在としての本来の姿に還る時、それは宇宙樹の姿と重なる。
伝説の深みに降りると、そこにはまだ人類共通の言葉が生きている。
新しい地球への移行を語るには、この共通言語が必要なのだと思う。
  
posted by Sachiko at 22:02 | Comment(0) | ウルスラ・ブルクハルト
2020年01月28日

雪だるまを見なくなった

その後少しばかり雪が降って、20センチのリンゴンベリーは埋まったが、相変わらず雪は少ない。

雪が降るかもしれないというだけでニュースになる地域もある。
1センチの積雪の恐れ、だって?それは積雪とは言わない。
少なくとも5センチ以下は積雪ではなく、単にうっすら白くなったというだけだ。

そうして1センチでも毎年大騒ぎするのに、今年もスリップ事故や転倒事故が多発しているらしい。
夏タイヤや夏靴(この言葉も北国だけ?)では、雪道やアイスバーンはけっして走れないし歩けない(学んでおくれ...)。

それにしても、街角で雪だるまを見かけなくなって久しい。雪で遊ぶ子どもの姿も見ない。
少ないとはいえ、雪だるまを作るくらいの雪はあるのに。


小学校2年の冬、授業で詩を幾つか書くことになった。
多くの子どもが雪や氷のことを書き、それがあまりに多いので、先生はしまいに「雪や氷ではないことを書きなさい」と言いだした。

それほど、雪や氷は子どもたちに親しかった。
雪はタダで無尽蔵にあり、雪だるまでもかまくらでも、お城や落とし穴でも、好きなように作ることができた。

「ムーミン谷の冬」で、初めて雪を見たムーミンに、トゥティッキが雪の話をする。

「…雪って、つめたいと思うでしょ。だけど、雪小屋をこしらえて住むと、ずいぶんあったかいのよ。雪って、白いと思うでしょ。ところが、ときにはピンク色に見えるし、また青い色になるときもあるわ。どんなものよりやわらかいかと思うと、石よりもかたくなるしさ。なにもかも、たしかじゃないのね。」

このようなことを、かつて子どもたちは体験として知っていて、雪や氷のことだけでも、豊かな詩の世界をつくることができた。
光があたって輝くつららのことや、降りしきる雪をじっと見ていると目が回りそうになること、雪や氷は白だけでなく、ピンクや青や緑にも見えることを。

ただでさえ気温が上がって冬が短くなり、家の造りも変わったために、つららを見ることも少なくなったこの頃。
雪や氷と親しまずに子ども時代を終えるのはほんとうにもったいない。
  
posted by Sachiko at 22:13 | Comment(2) | 北海道
2020年01月25日

「ボッラは すごく ごきげんだ」

「ボッラは すごく ごきげんだ」(グニッラ・ベリィストロム)
とても古い絵本で、私が持っているのは何刷目かだけれどこれも古く、今はもう手に入らないかもしれない。

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夜中の2時、すばらしいことがおこりました。
パパとママとビル兄ちゃんのところに、あかちゃんがやってきたのです。

ボッラとよばれるようになった女の子は、はじめはすくすく育ちました。でも・・・

3才になっても、ひとこともしゃべりません。
みんなが呼んでもふりむきません。
音楽がなるとおどりだすので、耳はきこえているはず・・

ある日、やさしい先生がいいました。
---この子は、人一倍、気をつけて、まもってあげないと---

そういうことだったのです。
ボッラは、みんなとちがう。ふつうの子ではないのです。

―ボッラは、わたしたちのようにはなれない...けっして。

みんなは、それぞれ、すみのほうへ行って泣きました。
知ってる人たちもみんな泣きました。

―かわいそうな子....わたしたちのようにはなれないのよ。

長いかなしみのあとで、ビルがさけびました。

―みてごらん!ボッラは、あんなにたのしそうだよ!

わたしたちが泣いていたときには、たのしそうなボッラがみえなかった。

ボッラがたのしんでるんですもの、それでいいじゃない?
これでいいのよ!

わたしたちのようになりなさい、ですって?
でも、ボッラは ボッラでいいんですよ。

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重い自閉症と診断されたボッラのお話は、楽しい絵でコミカルに描かれているが、もちろん現実はたいへんだったにちがいない。
この絵本には続編があり、そこでは周囲の無理解や好奇の目のことも書かれている。
古い本とはいえ、すでに福祉国家として知られていたスウェーデンでも?と、読んだ時は意外に思ったのだった。


近年は、やたら他人に病名をつけたがる人が多いようで、歴史に残るような天才たちでさえ、実はなんとか障害だった、などと言われているらしい。
新しいところではスティーブ・ジョブズから、古くはエジソン、モーツァルト、レオナルド・ダ・ヴィンチまで。

天才に対して、「自分は凡人だ」と言うよりも、「自分は正常だ」と言うほうが気分がいいからか?と思ってしまうが....
それとも、想像力や創造力(それこそ、AIにはない人間らしい能力)を敵視する勢力による陰謀なのか....

ともかく、お話は「これでいいのよ」で終わる。
「これでいいのだ♪」は魔法の言葉だ。
お話のボッラはシュタイナー系の施設でケアされて、その後ゆっくりと少しずつ成長をとげていったという。
  
posted by Sachiko at 21:57 | Comment(2) | 絵本
2020年01月23日

言葉の源泉

ウルスラ・ブルクハルト「Das Märchen und die Zwölf Sinne des Menschen(メルヒェンと人間の12感覚)」より。

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天使からのメッセージを小さくしたものがメルヒェンである。それは天使が与えるもののように大きくないが、その反映である。
それは天使の言葉で語られ、イメージやシンボルの像によって夢のように自らを表現する。

すべての宗教の創始者や人類の偉大な教師はみな、このイメージ言語で語った。その言葉は幼い子どもでも賢い老人でも、誰もが理解することができた。
そのことは古い伝承が語るように、人々の共通の言語を思い起こさせる。

聖書によればこの言語は、人間が傲慢になり、天に届く塔を建てることで神の影響圏に侵入したいと思った時代に使われていた。
その共通言語の崩壊は、分離、誤解、戦いの始まりとなった。

天使の翼が川の架け橋になるように、象徴言語もまた、わかり合うことを望む異なる言語を繋ぐ。

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神話やメルヒェンは、象徴言語で語られている。
多くの民族の神話は似通っており、よく似たおとぎ話が世界中に存在する。それは共通の源から汲まれた言葉だったのだ。

この共通言語は、言葉が単なるコミュニケーションツールと考えられるようになった現代に共通言語と言われているもの(例えば英語)とは意味が違う。
魂のはるかな深奥にある共通の泉にたどり着くなら、そこは分離のない人類のふるさとだとわかるだろう。

古い時代、コミュニティには共同の泉や井戸があった。
そのように、メルヒェンは人類共同の泉の周りで語られた壮大な井戸端会議だと考えると楽しい。
  
posted by Sachiko at 22:08 | Comment(0) | ウルスラ・ブルクハルト
2020年01月21日

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス

ウォーターハウスはラファエル前派の流れを汲むとされているが、正式なメンバーではなかったようだ。

ずっと前に「ヒュラスとニンフたち」というタイトルの絵を紹介したことがある。
この絵はルーシー・M・ボストンの「リビイが見た木の妖精」という美しい短編の中に出てくるもので、どんな絵なのかがわかると作品への思いも増すものだった。
多くの作品が、神話や文学に題材を取っている。

「シャロットの女」
アーサー王伝説に題材をとったテニスンの詩から

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「オフィーリア」
ハムレットのオフィーリア。ラファエル前派の多くの画家が題材にしている。

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「聖カエキリア」
音楽の守護聖人、聖カエキリア(チェチリア)。

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「ジュリエット」
ロミオとジュリエットより、初々しいジュリエット。

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「アポロンとダフネ」
ギリシャ神話より、アポロンに追われて月桂樹に姿を変えるダフネ。

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「エコーとナルキッソス」
ギリシャ神話より。水に映った自分の姿に焦がれるナルキッソスと、彼に恋するエコー。

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ウォーターハウスの作品は昔、北海道に来たことがあるのだが、札幌ではなく帯広美術館だった。たしかポスターの絵が「ヒュラスとニンフたち」だったと思う。

見に行こうかと思い、帯広駅から美術館への行き方を調べたはずなのだが、行かなかった。何かの都合で行けなかったのか、もう覚えていない。日帰りが無理そうだったからかも知れない。

観たいものはその時に観るべきだったなと、今更ながら思う。
やはり私は「リビイ....」の物語と重なるからか、「ヒュラスとニンフたち」が一番好きだ。

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posted by Sachiko at 22:26 | Comment(0) | アート